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2009年4月22日 (水)

「曇天」までのいくつかの詩<14>大島行葵丸にて

Apres

 

 

 

「誘蛾燈詠歌」から
4、5か月後に書かれたのが
「大島行葵丸にて」と「吾子よ吾子」です。

 

どちらも
「坊や」や「山上のひととき」などが
赤ん坊の至近距離にいて
赤ん坊の呼吸を聞いている状態で
歌ったのとは違って、
赤ん坊から離れて
思い出したり、夢に見ている歌です。

 

「春と赤ン坊」や「雲雀」のように、
詩人と赤ん坊が、
中間距離で離れていたのとも違います。
「大島行葵丸にて」と「吾子よ吾子」は、
旅先など、赤ん坊から遠く離れた場所で、
赤ん坊が見えていないところで
歌っている歌なのです。

 

夜中の甲板に立ち
海にツバを吐いたら
ポイっと音がして飛んでいった
この情景が何とも言えず
おかしみのある詩情を漂わせます。

 

ポイっとツバを海に吐く
若き詩人がいることに
親しみを覚えさせられるのは
なぜでしょうか。

 

僕、を、ぼか、と読ませたい詩人は、
まるで、昭和の加山雄三を
予見しているかのようです。

 

その甲板で、
観音岬の燈台の光が
クルリクルリと回っているのを見ていると
遊園地でも連想したのでしょうか
子どものことを思い出し、
今ごろ、何事もなく過ごしているだろうか
と、世間一般の親のように
心配する心を露出します

 

無事でいるだろう
無事でいるだろう、と
理性的であることの限りを尽くして
理性的に判断しても
無事でいるだろう、と
思ったのだけれど
それでも、気になって仕方がない

 

と、なんらの含みも二心もなく
親の子を思う気持ちを
ストレートに吐露(とろ)するだけです。

 

1か月後に書かれた
「吾子よ吾子」も

 

育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、めぐしき吾子よ、

 

の、2行が、
狂おしいほどに
子を思う親の気持ちを
歌っていて、変わりありません。

 


 大島行葵丸にて
     夜十時の出帆

 

夜の海より僕(ぼか)唾(つば)吐いた
ポイ と音して唾とんでつた
瞬間(しばし)浪間に唾白かつたが
ぢきに忽(たちま)ち見えなくなつた

 

観音岬に燈台はひかり
ぐるりぐるりと射光(ひかり)は廻つた
僕はゆるりと星空見上げた
急に吾子(こども)が思ひ出された

 

さだめし無事には暮らしちやゐようが
凡(およ)そ理性の判ずる限りで
無事でゐるとは思つたけれど
それでゐてさへ気になつた
   (一九三五・四・二四)

 

 * 
 吾子よ吾子

 

ゆめに、うつつに、まぼろしに……
見ゆるは、何ぞ、いつもいつも
心に纏(まと)ひて離れざるは、
いかなる愛(なさけ)、いかなる夢ぞ、

 

思ひ出でては懐かしく
心に沁みて懐かしく
磯辺の雨や風や嵐が
にくらしうなる心は何ぞ

 

雨に、風に、嵐にあてず、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、あゝいかにせん

 

思ひ出でては懐かしく、
心に沁みて懐かしく、
吾子わが夢に入るほどは
いつもわが身のいたまるゝ
   (一九三五・六・六)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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