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2009年4月25日 (土)

毎日新聞4月24日付「余録」への疑問

昨24日付け毎日新聞第1面「余録」は、
タレント草彅剛の裸騒動を批判し、
中原中也を引き合いにしています。

 

これを読んで
びっくりしたり、
腹が立ったり、
笑っちゃったり、
諦めちゃったり、
情けなくなったり、
笑止千万! 
噴飯もの!
……。
いろいろな思いを
抱いた人がいるでしょう。

 

いてもたってもいられなくて
ここに、まずは、
疑問を投げかけておきます。

 

なんの関係があって
中原中也が
2009年現在のタレントの裸騒動に
結びつけられたのでしょうか。
記事の中にも
その理由を見つけることができません。

 

騒ぎとまったくつながることのない中原中也を
嵐山光三郎の著作「文人悪食」から、
「(略)腕力はなく結局たたきのめされるのは中也だった」
と記して締め括るまでを引用したのはまだよいのですが、
その嵐山の本意を通り過ぎて、
「中也の美しい詩の背後には、彼にからまれた太宰治や小林秀雄や檀一雄らそうそ
うたる文人のしかめ顔が潜んでいたわけだ。」
と、中也を主格にして書いている嵐山の文章を
その背後で被害をこうむった文人たちの
「しかめ顔」を主格に変えてしまい、
こんどは、「ならば」と、
突然、「草彅剛の屈託」とを比較するのです。

 

ここに、「中也の屈託」が隠されているのですが、
「文人たちのしかめ顔」が前面に出ているために、
「文人たちのしかめ顔」と「草彅剛の屈託」が比較されます。

 

「文人たちのしかめ顔」と「草彅剛の屈託」は
比較対照され得ないものですが
それを、「ならば」と結びつける
強引さはどこからやってくるのでしょうか。

 

 

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