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2009年4月

2009年4月30日 (木)

「曇天」までのいくつかの詩<17>初恋集ほか

Glass_2

 

大岡昇平が
この時期は盛んな「在りし日」の氾濫があったらしい。
と、「在りし日の歌」(1966年)で記した、
1934年(昭和9年)の
「月下の告白」「秋岸清凉居士」から
「曇天」が書かれた1936年(昭和11年)の間の作品を
引き続き、読んでいきます。

 

大岡が、列挙しているのは、

 

「別離」○
「初恋集」
「雲」
「青い瞳」○
「坊や」○
「童女」○
「山上のひととき」○
「むなしさ」○
「冬の夜」○
「寒い!」
「我がヂレンマ」
「春と赤ン坊」○
「白夜とポプラ」
「幻影」○

 

です。

 

○ は、「曇天」までのいくつかの詩
として既に読んだ作品です。

 

赤ん坊・子どもを歌った歌では、
「誘蛾燈詠歌」    
「大島行葵丸にて」
「夜半の嵐」などと、
大岡があげなかった作品や
「曇天」以降と推定される作品も
読んできました。

 

長男・文也が
1934年(昭和9年)に誕生して、
赤ん坊や子どもを歌った歌を
中原中也は多く制作したのですが、
大岡昇平の作品評は厳しく、
「この時期は、盛んな在りし日の氾濫があったらしい。」と記した後、
次のような評言を加えています。
(*引用は、改行、行空きなどで、分かりやすくしてあります。編者)

 

「別離」(十一月十三日)「初恋集」(十年一月十一日)「雲」などの感傷詩では、
幼年時のはかない恋情に意味がつけられ、

 

「青い瞳」(「四季」昭和十年十二月号)のようなメロドラマが工夫される。

 

「山に清水が流れるやうに泣く」(「坊や」)
「眠れよ、眠れ、よい心、飛行機虫の夢を見よ」(「童女」)
「いとしい者の上に風が吹き」(「山上のひととき」)のような
文也を歌った詩で、
僅かに現実とのつながりがたしかめられるだけである。

 

こういう詩学はあまり健康ではないから、
豊かな創造を許すものではない。

 

この頃彼が雑誌に発表するのは
「むなしさ」「冬の夜」のような旧作でなければ、

 

「寒い!」「我がヂレンマ」のような、
詩人の心境を、あまり巧みではなく告白した詩である。

 

その間「春と赤ン坊」のような童謡的発想で、
愛唱詩人として、
点をかせいでいるにすぎない。

 

では、
「初恋集」を読んでみることにします。

 

(つづく)

 

 *
 初恋集

 

 すずえ

 

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

 

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

 

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

 

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

 

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた

 

 むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

 

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、暫く遊んでゐました

 

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれはあつた。
         (一九三五・一・一一)

 

 終歌

 

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐き出してやれ。
吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?
噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
     (一九三五・一・一一)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年4月28日 (火)

「曇天」までのいくつかの詩<16>夜半の嵐

Le_chat

 

長男の文也が
死ぬ前に書かれた歌で
子どもを歌った歌に
「夜半の嵐」という
草稿作品があります。

 

「草稿詩篇」(1933年~1936年)の
「曇つた秋」(1935年10月5日制作)の次にあり
「雲」の前に置かれているので、
誕生から2年近くの日が
経っていることが推測されます。

 

つまり、文也の死の
直前の作品ということになります。
「童女」の 制作が1936年ですが、
これより前の制作か後の制作かは
わかりません。

 

中原中也が初めて吐血したのは
いつ頃のことなのでしょうか
長門峡へ遊んだ帰途に、
吐血したことは
知られたことですが、
この頃から、
結核性の病気を患っていたのでしょうか

 

最終連の

 

喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし

 

は、詩人は、痰を吐いて、
(その後)、床に入った、
というのですから
詩人の身体は
尋常ではない状態を表しています。
ヘビースモーキングによる
喀痰ではないような
重苦しさがあります。

 

死の期(とき)もかからまし、と
死ぬときのイメージが浮かんできても
不自然ではなかったのかもしれません

 

我が子の成長を祈る父親が
喀痰する父親であり、
乱酔する父親であり、
その父親が聞く松風……

 

寒い夜に、
松に吹く風の
悲しい響き……

 

「死」が
子どもを歌った詩の中に
入り込んでいます。

 

この頃、
文也の死を
詩人は夢にも考えたことはありません。

 

 

 

 *
 夜半の嵐

 

松吹く風よ、寒い夜(よ)の
われや憂き世にながらへて
あどけなき、吾子(あこ)をしみればせぐくまる
おもひをするよ、今日このごろ。

 

人のなさけの冷たくて、
真(しん)はまことに響きなく……
松吹く風よ、寒い夜(よ)の
汝(なれ)より悲しきものはなし。

 

酔覚めの、寝覚めかなしくまづきこゆ
汝(なれ)より悲しきものはなし。
口渇くとて起出でて
水をのみ、渇きとまるとみるほどに
吹き寄する風よ、寒い夜の

 

喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年4月26日 (日)

毎日新聞4月24日付「余録」への疑問2

誤解を避けるために
もう一つのことを付け加えておきます。

 

4月24日付け毎日新聞第1面「余録」は、 
タレント草彅剛の側から読んでも、
違和感のある記事になっているのではないでしょうか。
 
草彅剛の失態(ここでは「犯罪」と呼びません)が、
中原中也の「狼藉」の数々と結び付られて、
変だなと感じているのではないでしょうか。
同じ土俵で論じられることの
無理を感じているのではないでしょうか?

 

草彅剛のファンは、
今度の失敗が、
なぜ中原中也という詩人の
およそ80年前の「乱暴」につながるのか
キョトン、
唖然、
えっ?
変だな!
困惑、
ミスリード!
……。
いろいろな違和感を抱いているに違いありません。

2009年4月25日 (土)

中也関連の新刊情報

いのちのうた あいのうた いのちのうた あいのうた

著者:宮沢賢治,中原中也,高村光太郎
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136ページ(単行本)
発売日: 2009/5/1

内容紹介:人生の希望をうたい、ささやかな生活をよろこぶことば 40編
美しいビジュアルとともに、なんども読みたい名詩をセレクトしました。      
(Amazon.co.jpより転載)

毎日新聞4月24日付「余録」への疑問

昨24日付け毎日新聞第1面「余録」は、
タレント草彅剛の裸騒動を批判し、
中原中也を引き合いにしています。

 

これを読んで
びっくりしたり、
腹が立ったり、
笑っちゃったり、
諦めちゃったり、
情けなくなったり、
笑止千万! 
噴飯もの!
……。
いろいろな思いを
抱いた人がいるでしょう。

 

いてもたってもいられなくて
ここに、まずは、
疑問を投げかけておきます。

 

なんの関係があって
中原中也が
2009年現在のタレントの裸騒動に
結びつけられたのでしょうか。
記事の中にも
その理由を見つけることができません。

 

騒ぎとまったくつながることのない中原中也を
嵐山光三郎の著作「文人悪食」から、
「(略)腕力はなく結局たたきのめされるのは中也だった」
と記して締め括るまでを引用したのはまだよいのですが、
その嵐山の本意を通り過ぎて、
「中也の美しい詩の背後には、彼にからまれた太宰治や小林秀雄や檀一雄らそうそ
うたる文人のしかめ顔が潜んでいたわけだ。」
と、中也を主格にして書いている嵐山の文章を
その背後で被害をこうむった文人たちの
「しかめ顔」を主格に変えてしまい、
こんどは、「ならば」と、
突然、「草彅剛の屈託」とを比較するのです。

 

ここに、「中也の屈託」が隠されているのですが、
「文人たちのしかめ顔」が前面に出ているために、
「文人たちのしかめ顔」と「草彅剛の屈託」が比較されます。

 

「文人たちのしかめ顔」と「草彅剛の屈託」は
比較対照され得ないものですが
それを、「ならば」と結びつける
強引さはどこからやってくるのでしょうか。

 

 

2009年4月24日 (金)

「曇天」までのいくつかの詩<15>吾子よ吾子

Hat

 

 

 

夢に、現に、幻に……
ゆめに、うつつに、まぼろしに……
見えてくるのは、何だろう
いつもいつも
心にまといついて、
離れないこの気持ちは、
どんな愛、どんな夢……
といったらよいのだろうか

 

思い出せばなつかしく
心の中に染み入るようななつかしさで、
海伝いの雨や風や嵐が
憎らしくなってくるこの気持ちは何だろう

 

雨に遭わないように
風に遭わないように
嵐に遭わないように
育ってほしい
愛(め)ぐしき
我が子よ
ああ、健やかに
育ってほしい
どうしても
育ってほしい
と思う、この気持ちを
どうしたらいいものか

 

めぐしき、は、
万葉集などによく使われている
古い言葉で、
愛でる、の、め、
と同じく「愛」を当てるようになったのは
明治以降か。

 

七五調を基本に
七七、七六、五七も混ざるが
定型への意思のある作品です。

 

離れていれば
思い出し
思い出せば懐かしく
心に染みて懐かしく
夢にも出てこようものなら
ズキズキ心が痛みます……

 

 

 

 * 
 吾子よ吾子

 

ゆめに、うつつに、まぼろしに……
見ゆるは、何ぞ、いつもいつも
心に纏(まと)ひて離れざるは、
いかなる愛(なさけ)、いかなる夢ぞ、

 

思ひ出でては懐かしく
心に沁みて懐かしく
磯辺の雨や風や嵐が
にくらしうなる心は何ぞ

 

雨に、風に、嵐にあてず、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、あゝいかにせん

 

思ひ出でては懐かしく、
心に沁みて懐かしく、
吾子わが夢に入るほどは
いつもわが身のいたまるゝ
   (一九三五・六・六)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年4月22日 (水)

「曇天」までのいくつかの詩<14>大島行葵丸にて

Apres

 

 

 

「誘蛾燈詠歌」から
4、5か月後に書かれたのが
「大島行葵丸にて」と「吾子よ吾子」です。

 

どちらも
「坊や」や「山上のひととき」などが
赤ん坊の至近距離にいて
赤ん坊の呼吸を聞いている状態で
歌ったのとは違って、
赤ん坊から離れて
思い出したり、夢に見ている歌です。

 

「春と赤ン坊」や「雲雀」のように、
詩人と赤ん坊が、
中間距離で離れていたのとも違います。
「大島行葵丸にて」と「吾子よ吾子」は、
旅先など、赤ん坊から遠く離れた場所で、
赤ん坊が見えていないところで
歌っている歌なのです。

 

夜中の甲板に立ち
海にツバを吐いたら
ポイっと音がして飛んでいった
この情景が何とも言えず
おかしみのある詩情を漂わせます。

 

ポイっとツバを海に吐く
若き詩人がいることに
親しみを覚えさせられるのは
なぜでしょうか。

 

僕、を、ぼか、と読ませたい詩人は、
まるで、昭和の加山雄三を
予見しているかのようです。

 

その甲板で、
観音岬の燈台の光が
クルリクルリと回っているのを見ていると
遊園地でも連想したのでしょうか
子どものことを思い出し、
今ごろ、何事もなく過ごしているだろうか
と、世間一般の親のように
心配する心を露出します

 

無事でいるだろう
無事でいるだろう、と
理性的であることの限りを尽くして
理性的に判断しても
無事でいるだろう、と
思ったのだけれど
それでも、気になって仕方がない

 

と、なんらの含みも二心もなく
親の子を思う気持ちを
ストレートに吐露(とろ)するだけです。

 

1か月後に書かれた
「吾子よ吾子」も

 

育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、めぐしき吾子よ、

 

の、2行が、
狂おしいほどに
子を思う親の気持ちを
歌っていて、変わりありません。

 


 大島行葵丸にて
     夜十時の出帆

 

夜の海より僕(ぼか)唾(つば)吐いた
ポイ と音して唾とんでつた
瞬間(しばし)浪間に唾白かつたが
ぢきに忽(たちま)ち見えなくなつた

 

観音岬に燈台はひかり
ぐるりぐるりと射光(ひかり)は廻つた
僕はゆるりと星空見上げた
急に吾子(こども)が思ひ出された

 

さだめし無事には暮らしちやゐようが
凡(およ)そ理性の判ずる限りで
無事でゐるとは思つたけれど
それでゐてさへ気になつた
   (一九三五・四・二四)

 

 * 
 吾子よ吾子

 

ゆめに、うつつに、まぼろしに……
見ゆるは、何ぞ、いつもいつも
心に纏(まと)ひて離れざるは、
いかなる愛(なさけ)、いかなる夢ぞ、

 

思ひ出でては懐かしく
心に沁みて懐かしく
磯辺の雨や風や嵐が
にくらしうなる心は何ぞ

 

雨に、風に、嵐にあてず、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、あゝいかにせん

 

思ひ出でては懐かしく、
心に沁みて懐かしく、
吾子わが夢に入るほどは
いつもわが身のいたまるゝ
   (一九三五・六・六)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年4月20日 (月)

「曇天」までのいくつかの詩<13>誘蛾燈詠歌-4

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです

 

この1行の読みを
どうするか、が、
「誘蛾燈詠歌」の読みを左右します。

 

あたかも、
死の讃歌であるかに誤解する向きが
生じないともいえない
この1行は,
この1行を単独で解釈しようとするときに
陥りやすいワナですが、

 

第1章、第2章と、
分かちがたく連続している
作品というものの全体性から
視点を外さない限り、
間違えることはないでしょう。

 

暗い荒野に
(誘蛾灯を灯すように)
娑婆の暮らしが営まれるのは、
義理堅く、刹那的とさえいえるのですが、
その暮らしの中には
皮肉もあれば、意地悪もあり
虚栄もあれば、衒いもあり、
義理あり、人情あり、心労あり、希望あり、
ありとあらゆる善悪あり、
なんでもあるのです。

 

同列に置きがたいことを
同列に置くところが
面白いところというか、
中也一流でして、
なんでもが行われるところが娑婆だ、
という表現なのですが、
中に、希望が入っていることに
注目したいですね。

 

おほけなき、は
大胆である、という原義から、
器が大きいとか、
容量が大きい、とか
なんでもあるのです、といった
意味が込められています。

 

子どもを育てるというのも
この娑婆の中でのことで
考えれば考え尽きないのですが、
通りから青年団のラッパの音などが聞こえてくると、
銀河(=死の世界)のことを思っているだけで
胸がいっぱいになっているのに、
その上に、
国を守る義務
村を守る義務だなんて聞こえてくると
驚くばかりです。

 

詩人には、
青年団のラッパに、
戦争の足音が
聞こえています。
反戦の意思を
中原中也は、
このように表現するのです。
このようにしか表現しないのです。

 

この詩が、完成すれば
「春日狂想」にも並ぶ大作に
なったかもしれません。
完成間近でありながら
おおよその構想は
感じ取ることができる
スケールの大きい作品です。

 

 *
 誘蛾燈詠歌

 

   1

 

ほのかにほのかに、ともつてゐるのは
これは一つの誘蛾燈、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともつてゐるのは
誘蛾燈、ひときは明るみひときはくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともつてゐるのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともつてゐるのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときは明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一夜、此処にともるは誘蛾燈

 

   2

 

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆しゃば)だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいへるし刹那的(せつなてき)とも考へられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)ひ気もあるといふのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるといふのだからおほけなきものです
もともとはといへば終局の所は、案じあぐむでも分らない所から
此処は此処だけで一心にならうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いから可愛がる、従つて
その子はまたその子の子を可愛がるといふふうになるうちに
入籍だの誕生の祝ひだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であらうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆といふものは
なにや分らずたゞいぢらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還に流れ消えてゆくを
銀河思ひ合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だの云はれてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考へてのやうやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活といふことしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思ひそぞろになりながら
而も(しかも)義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびつくりしてゐる

 

   3

 

          あをによし奈良の都の

 

それではもう、僕は青とともに心中しませうわい
くれなゐだのイエローなどと、こちや知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなほ淡(あは)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きてゐたいが業(ごふ)のはじまり、かにかくにちよつぴりと働いては
酒を飲み、何やらかなしく、これこのやうにぬけぬけと
まだ生きてをりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)うて、耳ゴーと鳴つて口きけませんだぢやい

 

   4

 

          やまとやまと、やまとはくにのまほろば…………  

 

何云ひなはるか、え?あんまり責めんといてくれやす
責めはつたかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)ひますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどつしやろ、しかし柳腰もええもんですえ?

 

     (あゝ、そやないかァ)
     (あゝ、そやないかァ)

 

   5 メルヘン

 

寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前と金時は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかへられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしてをりました

 

   *

 

或るおぼろぬくい春の夜でありました
平の忠度(ただのり)は木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗ひました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
        (一九三四・一二・一六)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年4月17日 (金)

「曇天」までのいくつかの詩<12>誘蛾燈詠歌-3

秋の夜長にしては
虫の音が聞こえてこない
静かな世界が広がっています
真っ暗の静寂(しじま)に
誘蛾灯のところだけが明るい。
その光景を包んで
銀河が流れている

 

この光景の全体を
俯瞰している眼差しが
詩人の眼差しです。

 

銀河の果てには
宇宙の果てには
遠い遠い空の
奥の奥には……
広大な死の世界が広がっているように
詩人には見えたのでしょうか

 

万物の行き着く果て
だれしもが行き着くところ
眼前の光景は
宇宙の真理を
人の世の摂理を
明確に示しています。

 

そうです。
行き着くところは
畢竟(ひっきょう)、
死の世界です。
死は、
解決でもあるのです。

 

それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆しゃば)だけを一心に相手とするのです

 

この、
それなのに、には、
それだから、というニュアンスが
含まれていることでしょう

 

人は、死すべき存在です、
ゆえに、人は、子どもを作り、子どもを育て、
娑婆に生きるのです、
と、詩人は、
生存へのウィ(Yes)を記します。
死ぬことを知っているから
人は一生懸命生きるのですが……。

 

「誘蛾燈詠歌」は、
未完成の草稿ですが、
草稿というよりも、
タイトルが詩人によって
考えられた、
完成間近の作品とも
みなすことができます。

 

(つづく)

 

 *
 誘蛾燈詠歌

 

   1

 

ほのかにほのかに、ともつてゐるのは
これは一つの誘蛾燈、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともつてゐるのは
誘蛾燈、ひときは明るみひときはくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともつてゐるのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともつてゐるのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときは明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一夜、此処にともるは誘蛾燈

 

   2

 

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆しゃば)だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいへるし刹那的(せつなてき)とも考へられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)ひ気もあるといふのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるといふのだからおほけなきものです
もともとはといへば終局の所は、案じあぐむでも分らない所から
此処は此処だけで一心にならうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いから可愛がる、従つて
その子はまたその子の子を可愛がるといふふうになるうちに
入籍だの誕生の祝ひだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であらうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆といふものは
なにや分らずたゞいぢらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還に流れ消えてゆくを
銀河思ひ合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だの云はれてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考へてのやうやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活といふことしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思ひそぞろになりながら
而も(しかも)義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびつくりしてゐる

 

   3

 

          あをによし奈良の都の

 

それではもう、僕は青とともに心中しませうわい
くれなゐだのイエローなどと、こちや知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなほ淡(あは)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きてゐたいが業(ごふ)のはじまり、かにかくにちよつぴりと働いては
酒を飲み、何やらかなしく、これこのやうにぬけぬけと
まだ生きてをりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)うて、耳ゴーと鳴つて口きけませんだぢやい

 

   4

 

          やまとやまと、やまとはくにのまほろば…………  

 

何云ひなはるか、え?あんまり責めんといてくれやす
責めはつたかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)ひますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどつしやろ、しかし柳腰もええもんですえ?

 

     (あゝ、そやないかァ)
     (あゝ、そやないかァ)

 

   5 メルヘン

 

寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前と金時は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかへられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしてをりました

 

   *

 

或るおぼろぬくい春の夜でありました
平の忠度(ただのり)は木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗ひました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
        (一九三四・一二・一六)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年4月16日 (木)

「曇天」までのいくつかの詩<11>誘蛾燈詠歌-2

「誘蛾燈詠歌」の1で
歌われている誘蛾灯は、
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
と、あるように、
手運びのできる、
木製の装置であったようです。
農薬の普及する前は
ほとんどの米作り農家が使い、
害虫対策の道具にしていたそうです。

 

光源は
電気だったのでしょうか
火だったのでしょうか

 

稲田にあり、
秋の夜長の一夜、
銀河の見える澄んだ夜空、
真っ暗闇に、皓々と、そこだけ明るい
誘蛾灯の灯が灯(とも)っているのです。

 

灯りに誘われて
集まってくる
虫たちの、
賑やかながら
はなかい乱舞……。
祭のようでもあり、
まるで、人生がここにある、とでも
詩人は感じ取ったのでしょうか。

 

生命・生存の秘密とかを
感じ取ったのでしょうか。
生のうらはらにある死を
感じ取ったのでしょうか。

 

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです

 

の、と、とは、
というように、とか
いま見てきたように、とかの意味で、
前を受けていることは
明らかです。

 

詩人は
銀河を背景にして誘蛾灯の灯る光景に
生と死のメタファーを
見たのです。
生(死)のシンボル
といってもいいかもしれません。

 

それは
世の中の人々が
なんの疑念を抱くこともなく
行っている日々の暮らしの
その1断面であり、
その全体でもあります。

 

誘蛾灯は
人の営みそのものであり
そこには、
人の生と死のすべてが
凝縮されてあります。

 

(つづく)

 

 *
 誘蛾燈詠歌

 

   1

 

ほのかにほのかに、ともつてゐるのは
これは一つの誘蛾燈、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともつてゐるのは
誘蛾燈、ひときは明るみひときはくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともつてゐるのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともつてゐるのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときは明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一夜、此処にともるは誘蛾燈

 

   2

 

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆しゃば)だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいへるし刹那的(せつなてき)とも考へられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)ひ気もあるといふのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるといふのだからおほけなきものです
もともとはといへば終局の所は、案じあぐむでも分らない所から
此処は此処だけで一心にならうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いから可愛がる、従つて
その子はまたその子の子を可愛がるといふふうになるうちに
入籍だの誕生の祝ひだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であらうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆といふものは
なにや分らずたゞいぢらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還に流れ消えてゆくを
銀河思ひ合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だの云はれてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考へてのやうやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活といふことしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思ひそぞろになりながら
而も(しかも)義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびつくりしてゐる

 

   3

 

          あをによし奈良の都の

 

それではもう、僕は青とともに心中しませうわい
くれなゐだのイエローなどと、こちや知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなほ淡(あは)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きてゐたいが業(ごふ)のはじまり、かにかくにちよつぴりと働いては
酒を飲み、何やらかなしく、これこのやうにぬけぬけと
まだ生きてをりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)うて、耳ゴーと鳴つて口きけませんだぢやい

 

   4

 

          やまとやまと、やまとはくにのまほろば…………  

 

何云ひなはるか、え?あんまり責めんといてくれやす
責めはつたかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)ひますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどつしやろ、しかし柳腰もええもんですえ?

 

     (あゝ、そやないかァ)
     (あゝ、そやないかァ)

 

   5 メルヘン

 

寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前と金時は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかへられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしてをりました

 

   *

 

或るおぼろぬくい春の夜でありました
平の忠度(ただのり)は木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗ひました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
        (一九三四・一二・一六)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年4月15日 (水)

「曇天」までのいくつかの詩<10>誘蛾燈詠歌-1

(一九三四・一二・一六)の日付を持つ
「誘蛾燈詠歌」(ゆうがとうえいか)は、
長男・文也誕生の直後の作品です。

 

文也の誕生は、
1934年10月18日(昭和9年)ですから
その、およそ2か月後に、
この長い詩篇は書かれました。

 

たとえば、
詩人として立つ、ということへの
他者からの反発……。

 

山口の実家に帰って、
村の青年団からの誘いでもあったのでしょうか、
いや、実際に誘いがあったかどうか、
なんてことは、
詮索(せんさく)してもはじまりませんが、

 

すでに15年戦争に入った
昭和初期の地方に
第一子誕生で帰郷した詩人へ
アドバイスという名目の
しめつけの類があっても
不思議ではありません。

 

中原家および周辺が
いかに進歩的・開明的であろうとも、
村落共同体の暑苦しさ
とでもいえるようなことは
たとえ、実際に
そんなことがなかったにしても
この「都会的な詩人」に
感じ取られなかったわけがありません。

 

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです

 

という、
第2章の冒頭の1行を、
だからといって、
義理人情共同体の
しがらみからの解放は
死しかない、と歌っている、
などと読むのはとうてい無理です。

 

この詩は、
どのような経緯で作られたのか……
第一子誕生の直後なのに
なぜ? と、
疑問に感じる人もいることでしょうが、
「死」は、
詩人の、
早い時期からの「テーマ」だったことを
忘れてはいけません。

 

長男誕生のこの時に
突然、「死」が現れたのでは
ありませんし、
むしろ、「死」は
詩人の中に、
若き頃から常にあった
と言ってもよいほどのテーマでした。

 

(つづく)

 

 *
 誘蛾燈詠歌

 

   1

 

ほのかにほのかに、ともつてゐるのは
これは一つの誘蛾燈、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともつてゐるのは
誘蛾燈、ひときは明るみひときはくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともつてゐるのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともつてゐるのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときは明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一夜、此処にともるは誘蛾燈

 

   2

 

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆しゃば)だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいへるし刹那的(せつなてき)とも考へられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)ひ気もあるといふのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるといふのだからおほけなきものです
もともとはといへば終局の所は、案じあぐむでも分らない所から
此処は此処だけで一心にならうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いから可愛がる、従つて
その子はまたその子の子を可愛がるといふふうになるうちに
入籍だの誕生の祝ひだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であらうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆といふものは
なにや分らずたゞいぢらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還に流れ消えてゆくを
銀河思ひ合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だの云はれてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考へてのやうやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活といふことしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思ひそぞろになりながら
而も(しかも)義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびつくりしてゐる

 

   3

 

          あをによし奈良の都の

 

それではもう、僕は青とともに心中しませうわい
くれなゐだのイエローなどと、こちや知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなほ淡(あは)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きてゐたいが業(ごふ)のはじまり、かにかくにちよつぴりと働いては
酒を飲み、何やらかなしく、これこのやうにぬけぬけと
まだ生きてをりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)うて、耳ゴーと鳴つて口きけませんだぢやい

 

   4

 

          やまとやまと、やまとはくにのまほろば…………  

 

何云ひなはるか、え?あんまり責めんといてくれやす
責めはつたかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)ひますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどつしやろ、しかし柳腰もええもんですえ?

 

     (あゝ、そやないかァ)
     (あゝ、そやないかァ)

 

   5 メルヘン

 

寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前と金時は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかへられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしてをりました

 

   *

 

或るおぼろぬくい春の夜でありました
平の忠度(ただのり)は木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗ひました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
        (一九三四・一二・一六)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年4月14日 (火)

「曇天」までのいくつかの詩<9>この小児

 寒い夜中に
 泣き止まなかった
 生まれたばかりの子は、
 
 やがて、
 外気にも触れ、
 ハイハイもすれば、
 ヨチヨチ歩きもできるようになり、
 風の中で、眠り、
 風に吹かれて、笑っている
 いたいけのない子どもになり、
 
 電線のうなる風の日には
 菜の花畑に
 取り残され……
 
 今は、
 コボルトという
 いたづら好きの妖精が
 飛び交う
 空の下にいます。
 
 その空に
 黒いすじが一つ現れると
 この子どもは、
 怯(おび)えて、
 泣き出すのですが
 その涙は、
 銀のような液体でした
 
 詩人は
 考えました
 
 地球が二つに割れるといい、
 そして片方は外国旅行にでも行ってしまえばいい
 そうすれば、ぼくは、
 残ったほうの地球の半分に腰掛けて、
 青い空を飽きるまで眺めて
 詩でも書いて
 暮らして行けるだろう
 
 花崗岩や
 海辺の空や
 お寺の屋根や
 海の果て……などを
 いやになるほど眺めて。
 
 赤子の歌は、
 イノセンスの賛歌であることを超えて、
 いつしか、
 詩人の立つところへの、
 不安とか
 希望とか
 未来とか
 
 なにやら、
 詩人自らに
 差し迫って
 重いものに向かうかのようです。
 
 
 *
 この小児

 

コボルト空に往交(ゆきか)へば、
野に
蒼白の
この小児。

 

黒雲空にすぢ引けば、
この小児
搾(しぼ)る涙は
銀の液……

 

     地球が二つに割れゝばいい、
     そして片方は洋行すればいい、
     すれば私はもう片方に腰掛けて
     青空をばかり――

 

花崗の巌(いはほ)や
浜の空
み寺の屋根や
海の果て……

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)
 ◇原作には「もう片方」に傍点が付けられています。(編者)

「曇天」までのいくつかの詩<8>雲雀ひばり

空で鳴るのが電線なら
空で啼くのは雲雀(ひばり)

 

電線とかけて
なんと解く?
ひばり、と解く
その心は、
空で鳴く

 

掛詞(かけことば)とか
連想ゲームとか
しりとり遊びとか
なぞなぞとか……の手法を
詩人は自家薬籠中(じかやくろうちゅう)の
詩作法として
使いこなしているようです。

 

「春と赤ン坊」では、
この詩作法やレトリックなどによって
赤ん坊が、
いつしか
菜の花畑に取り残されました

 

「春と赤ン坊」で、
はじめ
走ってゆくのは
自転車でしたが
いつのまにか
走ってゆくのは
菜の花畑や空の白雲です

 

菜の花畑や空の白雲が
走ってゆき
赤ん坊は
菜の花畑に取り残されるのです。

 

天と地がひっくり返ったような
めまいを感じませんか
そんな大げさでなくとも
立ちくらみのような感覚になりませんか

 

「雲雀」では
歩いてゆくのは
菜の花畑
次に
歩いてゆくのは
あの山この山、になり、
平気で
歩くことのないものが
歩くようになります。

 

視点の移動とか
視線の転換とか
なんてことよりも
時計をねじ曲げる絵、
ダリの絵とかに
繋(つな)がっているような
シュールな感覚ではないでしょうか。

 

あどけなき幼児の
成長は、
いまや、俄然、
創意の中に、
新たな展開をはじめます。

 

 *
 雲 雀

 

ひねもす空で鳴りますは
あゝ 電線だ、電線だ

 

ひねもす空で啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴(ひばりめ)だ

 

碧(あーを)い 碧(あーを)い空の中
ぐるぐるぐると 潜(もぐ)りこみ
ピーチクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

 

歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あーをい あーをい空の下

 

眠つてゐるのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ン坊だ?

2009年4月13日 (月)

「曇天」までのいくつかの詩<7>草稿詩篇

「月下の告白」や「秋岸清凉居士」が
書かれた1934年(昭和9年)以降、
「曇天」までの間に書かれた作品で、
大岡昇平があげているのは、
以下の14作品です。

 

「別離」
「初恋集」
「雲」
「青い瞳」
「坊や」
「童女」
「山上のひととき」
「むなしさ」
「冬の夜」
「寒い!」
「我がヂレンマ」
「春と赤ン坊」
「白夜とポプラ」
「幻影」

 

このうちで、
長男文也の誕生にかかわる作品は
「坊や」
「童女」
「山上のひととき」
「春と赤ン坊」の4作ですが、

 

この4作品のほかにも
文也の「生」を歌った歌は
いくつかあります。
文也の「死」を悼んだ詩も
多くありますし、
文也以外の子どもを
歌った作品もあります。
ここで、
少し整理しておきますと、

 

1、長男文也の誕生以前に作られた歌
2、長男文也の誕生から死亡の間に作られた歌
3、長男文也の死亡以後に作られた歌
と、分けることができます。

 

文也の誕生は、1934年、昭和9年10月18日です。
文也の死亡は、1936年、昭和11年11月10日です。

 

1は、
子ども一般を歌った詩、
自分の子ども時代を歌った詩、
弟・亜郎(の死)を歌った詩、
長谷川泰子の子・茂樹を歌った詩
などが、考えられますが、

 

ここでは
特に、2に
こだわっていることになります。
第1子である文也の
誕生と成長をモチーフにして
詩人は、
さまざまな歌を作るのです。
それらは、
3の追悼詩でもない作品です。

 

2の作品を
ざっと列挙すると、

 

「在りし日の歌」所収作品に
「この小児」      1935・5?
「春と赤ン坊」    1935・3?(文学界1935年4月号)
「雲雀」        1935・3?(文学界1935年4月号)

 

「生前発表作品」に
「童女」

 

「草稿詩篇1933年——1936年」に、
「誘蛾燈詠歌」     1934・12・16
「坊や」          1935・1・9
「大島行葵丸にて」   1935・4・24
「吾子よ吾子」     1935・6・6
「山上のひととき」   1935・9・19
「夜半の嵐」

 

と、いった具合になります。

 

以上の全作品を
ここに載せ、
いくつかを味わうことにします。

 

 *
 この小児

 

コボルト空に往交(ゆきか)へば、
野に
蒼白の
この小児[しょうに]。

 

黒雲(くろくも)空にすぢ引けば、
この小児
搾(しぼ)る涙は
銀の液……

 

     地球が二つに割れゝばいい、
     そして片方は洋行すればいい、
     すれば私はもう片方に腰掛けて
     青空をばかり——

 

花崗の巌(いはほ)や
浜の空
み寺の屋根や
海の果て……

 

*  
 春と赤ン坊

 

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 

走つてゆくのは、自転車々々々 向ふの道を、
走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

 

薄桃色の、風を切つて 走つてゆくのは
菜の花畑や空の白雲(しろくも)
————赤ン坊を畑に置いて

 


 雲 雀

 

ひねもす空で鳴りますは
あゝ 電線だ、電線だ

 

ひねもす空で啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴(ひばりめ)だ

 

碧(あーを)い 碧(あーを)い空の中
ぐるぐるぐると 潜(もぐ)りこみ
ピーチクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

 

歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あーをい あーをい空の下

 

眠つてゐるのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ン坊だ?

 


 童女

 

眠れよ、眠れ、よい心、
おまへの肌へは、花粉だよ。

 

飛行機虫の夢をみよ、
クリンベルトの夢をみよ。

 

眠れよ、眠れ、よい心、
おまへの眼(まなこ)は、昆蟲(こんちゅう)だ。

 

皮肉ありげな生意気な、
奴等の顔のみえぬひま、

 

眠れよ、眠れ、よい心、
飛行機虫の、夢をみよ。

 

 *
 誘蛾燈詠歌

 

   1

 

ほのかにほのかに、ともつてゐるのは
これは一つの誘蛾燈、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともつてゐるのは
誘蛾燈、ひときは明るみひときはくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともつてゐるのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともつてゐるのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときは明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一夜、此処にともるは誘蛾燈

 

   2

 

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆しゃば)だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいへるし刹那的(せつなてき)とも考へられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)ひ気もあるといふのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるといふのだからおほけなきものです
もともとはといへば終局の所は、案じあぐむでも分らない所から
此処は此処だけで一心にならうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いから可愛がる、従つて
その子はまたその子の子を可愛がるといふふうになるうちに
入籍だの誕生の祝ひだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であらうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆といふものは
なにや分らずたゞいぢらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還に流れ消えてゆくを
銀河思ひ合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だの云はれてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考へてのやうやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活といふことしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思ひそぞろになりながら
而も(しかも)義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびつくりしてゐる

 

   3

 

          あをによし奈良の都の

 

それではもう、僕は青とともに心中しませうわい
くれなゐだのイエローなどと、こちや知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなほ淡(あは)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きてゐたいが業(ごふ)のはじまり、かにかくにちよつぴりと働いては
酒を飲み、何やらかなしく、これこのやうにぬけぬけと
まだ生きてをりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)うて、耳ゴーと鳴つて口きけませんだぢやい

 

   4

 

          やまとやまと、やまとはくにのまほろば・・・・・・  

 

何云ひなはるか、え?あんまり責めんといてくれやす
責めはつたかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)ひますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどつしやろ、しかし柳腰もええもんですえ?

 

     (あゝ、そやないかァ)
     (あゝ、そやないかァ)

 

   5 メルヘン

 

寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前と金時は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかへられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしてをりました

 

   *

 

或るおぼろぬくい春の夜でありました
平の忠度(ただのり)は木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗ひました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
        (一九三四・一二・一六)

 

 *
 坊や

 

山に清水が流れるやうに
その陽の照った山の上の
硬い粘土の小さな溝を
山に清水が流れるやうに

 

何も解せぬ僕の赤子(ぼーや)は
今夜もこんなに寒い真夜中
硬い粘土の小さな溝を
流れる清水のやうに泣く

 

母親とては眠いので
目が覚めたとて構ひはせぬ
赤子(ぼーや)は硬い粘土の溝を
流れる清水のやうに泣く

 

その陽の照った山の上の
硬い粘土の小さな溝を
さらさらさらと流れるやうに清水のやうに
寒い真夜中赤子(ぼーや)は泣くよ
          一九三五・一・九

 

 *
 大島行葵丸にて
     夜十時の出帆

 

夜の海より僕(ぼか)唾(つば)吐いた
ポイ と音して唾とんでつた
瞬間(しばし)浪間に唾白かつたが
ぢきに忽(たちま)ち見えなくなつた

 

観音岬に燈台はひかり
ぐるりぐるりと射光(ひかり)は廻つた
僕はゆるりと星空見上げた
急に吾子(こども)が思ひ出された

 

さだめし無事には暮らしちやゐようが
凡(およ)そ理性の判ずる限りで
無事でゐるとは思つたけれど
それでゐてさへ気になつた
   (一九三五・四・二四)

 

 * 
 吾子よ吾子

 

ゆめに、うつつに、まぼろしに……
見ゆるは、何ぞ、いつもいつも
心に纏(まと)ひて離れざるは、
いかなる愛(なさけ)、いかなる夢ぞ、

 

思ひ出でては懐かしく
心に沁みて懐かしく
磯辺の雨や風や嵐が
にくらしうなる心は何ぞ

 

雨に、風に、嵐にあてず、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、あゝいかにせん

 

思ひ出でては懐かしく、
心に沁みて懐かしく、
吾子わが夢に入るほどは
いつもわが身のいたまるゝ
   (一九三五・六・六)

 


 山上のひととき

 

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

 

いとしい者はたゞ無邪気に笑つてをり
世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた

 

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

 

私は手で風を追ひかけるかに
わづかに微笑み返すのだつた

 

いとしい者はたゞ無邪気に笑つてをり
世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた
      (一九三五・九・一九)

 

 *
 夜半の嵐

 

松吹く風よ、寒い夜(よ)の
われや憂き世にながらへて
あどけなき、吾子(あこ)をしみればせぐくまる
おもひをするよ、今日このごろ。

 

人のなさけの冷たくて、
真(しん)はまことに響きなく……
松吹く風よ、寒い夜(よ)の
汝(なれ)より悲しきものはなし。

 

酔覚めの、寝覚めかなしくまづきこゆ
汝(なれ)より悲しきものはなし。
口渇くとて起出でて
水をのみ、渇きとまるとみるほどに
吹き寄する風よ、寒い夜の

 

喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし

2009年4月10日 (金)

「曇天」までのいくつかの詩<6>春と赤ン坊

「春と赤ン坊」は、
「文学界」1935年(昭和10年)4月号に発表され、
「在りし日の歌」にも収められてあるので
多くの人に親しまれている作品です。

 

制作されたのは
同年3月と推定されていますから、
長男文也の誕生から5か月、
「曇天」の制作には、
あと1年少々を要することになります。

 

同じ日に作られたと推定されている「雲雀」も
「在りし日の歌」に収められていて、
「童女」と「山上のひととき」の姉妹関係と
「春と赤ン坊」と「雲雀」の姉妹関係とが、
パラレル(相似形)になっているかのようです。

 

第1連に、
疑問符付きで登場する、
眠っている赤ん坊と、
風に吹かれている赤ん坊とは、

 

「童女」では、眠れ、眠れ、
と呼びかける対象であり、
「山上のひととき」では、
無邪気に笑い風に吹かれていた、
あの、赤ん坊にほかなりませんが……

 

ここ「春と赤ン坊」では、
いきなり、直(じか)に、という感じで、
菜の花畑に直接放り出されて
眠っている赤ん坊です。
なんだか菜の花畑から生まれた子のような、
人間の子らしくないような、
不思議な赤ん坊です。

 

————赤ン坊を畑に置いて
という最終行に
作意性とか創造性とかがあり、
ここに詩が発生します。

 

それにしても第2連の、
いいえ、の用法は巧みで、
こちらは、尋ねてもいないのに、
あれは、電線です、と電線に誘導し、
次には、聞いてもいないのに、
走っているのは自転車で、
と、誘導し、
いつのまにか
菜の花畑や白い雲までが
走っていき、
赤ん坊は、
畑に取り残されるのです。

 

この赤ん坊こそ、
詩人その人です。

 

「春と赤ン坊」と「雲雀」を
あわせて味わうと
面白いでしょう。

 

 *  
 春と赤ン坊

 

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 

走つてゆくのは、自転車々々々 向ふの道を、
走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

 

薄桃色の、風を切つて 走つてゆくのは
菜の花畑や空の白雲(しろくも)
————赤ン坊を畑に置いて  

 

 *
 雲 雀

 

ひねもす空で鳴りますは
あゝ 電線だ、電線だ

 

ひねもす空で啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴(ひばりめ)だ

 

碧(あーを)い 碧(あーを)い空の中
ぐるぐるぐると 潜(もぐ)りこみ
ピーチクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

 

歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あーをい あーをい空の下

 

眠つてゐるのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ン坊だ?

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

2009年4月 8日 (水)

「曇天」までのいくつかの詩<5>山上のひととき

昭和9年(1934年)10月18日の
長男文也の誕生から、
11か月が経ちました。

 

(一九三五・九・一九)の日付のある
「山上のひととき」は、
「坊や」よりも「童女」に
近い日の制作でしょう、きっと。

 

「坊や」は、
生まれたての赤ん坊が
泣きやまない様子を歌いましたが、
「山上のひととき」と「童女」は
外気の下(もと)の赤ん坊です。
外(おんも)へ出られるだけ
成長したのです。

 

この二つの詩は
まるで姉妹作品です。

 

いたいけない乳児に
一つは、
ただひたすら
眠れ眠れ、と呼びかけ、
一つは、
ようやく笑うようになった乳児に
ひたすらやさしく
風が吹くさまを歌うのです。

 

そして、一つは、

 

皮肉ありげな生意気な、
奴等の顔のみえぬひま、と、

 

一つは、

 

世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた、と、

 

この眠り、
この笑い、このやわらかい風の
対極にあるものの存在を示し、
この存在に
脅かされない状態の続くことを
歌うのです。

 

イノセンスとの
至福の時間を
脅かすものの存在……。
どちらの詩も
そういう構造で作られています。

 

 *
 山上のひととき

 

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

 

いとしい者はたゞ無邪気に笑つてをり
世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた

 

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

 

私は手で風を追ひかけるかに
わづかに微笑み返すのだつた

 

いとしい者はたゞ無邪気に笑つてをり
世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた
      (一九三五・九・一九)

 

(角川ソフィア文庫版「中原中也全詩集」より)

2009年4月 7日 (火)

なんの己れが桜かな/正午・丸ビル風景

初夏のような
ポカポカ陽気に
桜は満開。
都心の公園という公園は
サラリーマンが
ブルーシートで
陣取り合戦……。
今や、花見シーズンの風物詩となって久しい。

 

桜の花を愛でる、なんて
そっちのけで
飲まにゃあ損損♪♪♪

 

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

 

と、ついつい、
中也の名作「正午 丸ビル風景」が
口端(くちは)に上ってくるというものです。

 

この、
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
というフレーズには、
頭に、酒なくて、
の5字があるのでして、
江戸時代の川柳、
酒なくて なんの己が 桜かな

 

これを、ルフランの名手である中也が
昼休みをとる
サラリーマンが
ゾロゾロゾロゾロと
ビルの玄関から出てくる光景の
なんともおかしいような
プラプラした身振りをとらえて

 

そうです!
スーダラ節の
サラリーマンは
気楽な稼業と言うけれどーー♪♪
を、思わせる
暢気そうだけれど
真面目そうで
働き者の悲哀を漂わせた姿を
歌っているのです。

 

「在りし日の歌」の
最後から3番目にこの作品はあり、
最終の「蛙声」、
その手前の「春日狂想」の
暗いイメージに比べて
正午の明るい感じが
詩人の陽気さとか
向日性とかを垣間見(かいまみ)せるようで
なんとも言えない味わいのある作品です。

 

 *
 正午
  丸ビル風景

 

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』角川文庫クラシックスより)

2009年4月 3日 (金)

「曇天」までのいくつかの詩<4>童女

すくすくと乳飲み児(ちのみご)は育ち
片言(かたこと)の言葉を
話すようになっただろうか
よちよち歩きをするようになっただろうか。

 

詩人は
おんも(外)へ
文也を連れ出したことが
きっとあったのでしょう。

 

柔らかな肌は、花粉のようだ
つぶらな瞳は、昆虫のようだ

 

飛行機虫は、
広島方言で松藻虫
奈良方言で源五郎
長野方言であめんぼう
という注が
角川ソフィア文庫版「中原中也全詩集」にあります。

 

カナブンとか、
トンボとか
飛行機を思わせる虫は
いくらでもいますが
中也独特の造語である可能性も
高いことが推測されます。

 

クリンベルトは、
想像できません。
クリーンCLEANなベルトBELTか?

 

押し隠そうとしても
隠しきれない
顔に邪悪なものが見え隠れする
あいつらのいないうちに
眠りなさい
眠れよ、たっぷりと……。

 

飛行機みたいに
飛んでいく虫が見るような
よい夢を見るんだよ

 

この詩もまた
童女に語りかけていながら
詩人自らに語りかけている、
とも、受け取れることができます。

 

 *
 童女

 

眠れよ、眠れ、よい心、
おまへの肌へは、花粉だよ。

 

飛行機虫の夢をみよ、
クリンベルトの夢をみよ。

 

眠れよ、眠れ、よい心、
おまへの眼(まなこ)は、昆蟲(こんちゅう)だ。

 

皮肉ありげな生意気な、
奴等の顔のみえぬひま、

 

眠れよ、眠れ、よい心、
飛行機虫の、夢をみよ。

 

(角川ソフィア文庫版「中原中也全詩集」より)

「曇天」までのいくつかの詩<3>坊や

昭和9年(1934年)10月18日、
長男・文也が誕生。
子どものことは、
他人の子であっても
無心に可愛がった詩人に
「我が子」ができたのです。

 

「坊や」は
1935・1・9の制作日付を持ちますから、
生後3か月も経っていません。

 

悲しいことばかりを歌う
と思われている詩人が
こんな歌を歌っているのですが……。

 

硬い粘土の小さな溝を
流れる清水のやうに泣く

 

なんとも上手な言い回しでしょう!
流れる清水のように
いつ終わるとも知れない
赤ん坊の泣き声

 

その陽の照った山の上の
硬い粘土の小さな溝を
山に清水が流れるやうに
泣くのです。

 

赤ん坊が泣きやまないで
ずっとずっと泣いている様子を
長い形容句を置いて
表現しています。

 

陽の照った
山の上の
硬い粘土の
小さな溝を
流れる清水のように
坊やの
泣き声は
終わらないのです

 

母親は
くたびれて、
起き出すこともできない
子を持つ親が
一度は経験するであろう
出生間もない時期の情景が
浮かんできます。

 

この、泣きやまない子は
詩人のことでもある、とは、
大岡昇平の指摘を待つまでもなく、
いつしか、
悲しみの泣き声になっているかのようにも
感じられてきます。

 

 *
 坊や

 

山に清水が流れるやうに
その陽の照った山の上の
硬い粘土の小さな溝を
山に清水が流れるやうに

 

何も解せぬ僕の赤子(ぼーや)は
今夜もこんなに寒い真夜中
硬い粘土の小さな溝を
流れる清水のやうに泣く

 

母親とては眠いので
目が覚めたとて構ひはせぬ
赤子(ぼーや)は硬い粘土の溝を
流れる清水のやうに泣く

 

その陽の照った山の上の
硬い粘土の小さな溝を
さらさらさらと流れるやうに清水のやうに
寒い真夜中赤子(ぼーや)は泣くよ
          一九三五・一・九

 

 (角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年4月 2日 (木)

「曇天」までのいくつかの詩<2>別離

たとえば、一番目の「別離」。
なんのことはない
別れのシーンですが、
一度読んだら忘れられない。

 

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまり眩(まぶ)しいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

 

こんなシーンを
昔、どっかでしたことあったっけ?
なんて、ありもしない空想を
思い描くだけで、
ドキドキワクワクしてきます。

 

白いパラソルを
クルクル回して
僕を送ってくれた彼女……。
「時代屋の女房」か
「小犬を連れた貴婦人」か。

 

忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
  (霙とおんなじことですよ)

 

決して忘れるものですか
虹と花とは
虹と花とは
みぞれと同じことですよ
あっけなく消えてなくなる
虹と花よ

 

「5章」もある詩で
やや冗長な感じが否(いな)めない、とか、
ストーリーが散漫に感じられるとか、いうなら、
何度も何度も
最後までよーく読んで
味わっていると、
自ずとまた発見が出てきて、
詩句のきれぎれに光るものが見えてきたり、
それは、一度読んだら忘れられなくなるフレーズであったりしますし、

 

わすれがたない、虹と花、
この詩こそ……。

 

さよなら、さよなら!
って、お道化風に聞くだけじゃ
もったいないです。

 

いや、道化は
あのサーカスのピエロのようで
あるいは、
チャールズ・チャプリンの主人公のようで、
なんとも哀愁のある
情感豊かなキャラクターが
この詩にも登場してくるようで
とてもいいんです。

 

4と5は
要らない、なんて思う人は
3まででもいいのですよ

 

 

 

 *
 別離

 

   1

 

さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

 

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

 

さよなら、さよなら!
  僕、午睡(ひるね)の夢から覚めてみると
  みなさん家を空(あ)けておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

 

さよなら、さよなら!
  そして明日(あした)の今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

 

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまり眩(まぶ)しいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

 

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

 

   2

 

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 

 日向ぼつこをしながらに、
爪(つめ)摘んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

 

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

 

干された飯櫃(おひつ)がよく乾き
裏山に、烏(からす)が呑気(のんき)に啼(な)いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
 でも、わけて思ひ出すことは

 

わけても思ひ出すことは……
——いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

 

   3

 

忘れがたない、虹と花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、その脣(くち)、その唇(くちびる)の、
  いつかは、消えて、ゆくでせう
  (霙(みぞれ)とおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
  なにも、怒つてゐるわけではないのです、
怒つてゐるわけではないのです

 

忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
  (霙とおんなじことですよ)

 

   4

 

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
 きんとんでもよい、何でもよい、
 何か、僕に食べさして下さい。

 

いいえ、これは、僕の無理だ、
  こんなに、野道を歩いてゐながら
  野道に、食物(たべもの)、ありはしない。
  ありません、ありはしません!

 

   5

 

向ふに、水車が、見えてゐます、
  苔(こけ)むした、小屋の傍、
ではもう、此処(ここ)からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、他の話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません。

 

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