カテゴリー

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

« 「曇天」までのいくつかの詩<5>山上のひととき | トップページ | 「曇天」までのいくつかの詩<7>草稿詩篇 »

2009年4月10日 (金)

「曇天」までのいくつかの詩<6>春と赤ン坊

「春と赤ン坊」は、
「文学界」1935年(昭和10年)4月号に発表され、
「在りし日の歌」にも収められてあるので
多くの人に親しまれている作品です。

 

制作されたのは
同年3月と推定されていますから、
長男文也の誕生から5か月、
「曇天」の制作には、
あと1年少々を要することになります。

 

同じ日に作られたと推定されている「雲雀」も
「在りし日の歌」に収められていて、
「童女」と「山上のひととき」の姉妹関係と
「春と赤ン坊」と「雲雀」の姉妹関係とが、
パラレル(相似形)になっているかのようです。

 

第1連に、
疑問符付きで登場する、
眠っている赤ん坊と、
風に吹かれている赤ん坊とは、

 

「童女」では、眠れ、眠れ、
と呼びかける対象であり、
「山上のひととき」では、
無邪気に笑い風に吹かれていた、
あの、赤ん坊にほかなりませんが……

 

ここ「春と赤ン坊」では、
いきなり、直(じか)に、という感じで、
菜の花畑に直接放り出されて
眠っている赤ん坊です。
なんだか菜の花畑から生まれた子のような、
人間の子らしくないような、
不思議な赤ん坊です。

 

————赤ン坊を畑に置いて
という最終行に
作意性とか創造性とかがあり、
ここに詩が発生します。

 

それにしても第2連の、
いいえ、の用法は巧みで、
こちらは、尋ねてもいないのに、
あれは、電線です、と電線に誘導し、
次には、聞いてもいないのに、
走っているのは自転車で、
と、誘導し、
いつのまにか
菜の花畑や白い雲までが
走っていき、
赤ん坊は、
畑に取り残されるのです。

 

この赤ん坊こそ、
詩人その人です。

 

「春と赤ン坊」と「雲雀」を
あわせて味わうと
面白いでしょう。

 

 *  
 春と赤ン坊

 

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 

走つてゆくのは、自転車々々々 向ふの道を、
走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

 

薄桃色の、風を切つて 走つてゆくのは
菜の花畑や空の白雲(しろくも)
————赤ン坊を畑に置いて  

 

 *
 雲 雀

 

ひねもす空で鳴りますは
あゝ 電線だ、電線だ

 

ひねもす空で啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴(ひばりめ)だ

 

碧(あーを)い 碧(あーを)い空の中
ぐるぐるぐると 潜(もぐ)りこみ
ピーチクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

 

歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あーをい あーをい空の下

 

眠つてゐるのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ン坊だ?

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

« 「曇天」までのいくつかの詩<5>山上のひととき | トップページ | 「曇天」までのいくつかの詩<7>草稿詩篇 »

024「在りし日の歌」曇天へ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「曇天」までのいくつかの詩<6>春と赤ン坊:

« 「曇天」までのいくつかの詩<5>山上のひととき | トップページ | 「曇天」までのいくつかの詩<7>草稿詩篇 »