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2009年5月

2009年5月29日 (金)

詩人論の詩<2>タペストリーの表裏・いのちの声

「山羊の歌」や「在りし日の歌」にも
詩人論を歌った詩はあります。

パラパラとめくるだけで、
「いのちの声」(山羊の歌)、
「曇天」(ありし日の歌)、
「言葉なき歌」(同)……と、
見つかります。

と、こんなふうな読み方を
大きく超えて
「いのちの声」は、
中原中也の全作品の中でも
巨大な存在感を放っている詩なので、
あえて、
詩人論の歌などと
呼ばないほうがよいかも知れませんが……。

「いのちの声」は、
詩人論を展開した詩であること以上に
中也作品を代表する詩でありますし、
傑作でありますし、
名作であります。

同じことは、
「曇天」にも
「言葉なき歌」にも、
言えます。

でも、
この3作品が、
「山羊の歌」「在りし日の歌」という、
詩人中原中也が、
自ら選んで、
自ら編集した詩集に収録されている、
という事実に大きな意味はある、
とは言えそうです。

発表されなかった詩篇の中にある
詩人論を歌った作品と、
この3作を比べ読みしてみると、
見えてくるものがあるのです。
その関係は、
いはば、
タペストリーの表裏の関係に似ています。

 *

 いのちの声

もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
――ソロモン

僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上がりの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押し寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。

僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。

しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著(つ)く一か八かの方途さへ、悉皆(すつかり)分つたためしはない。

時に自分を揶揄(からか)ふやうに、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?

  Ⅱ
否何(いづ)れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!

人は皆、知ると知らぬに拘(かかは)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併(しか)し幸福というものが、このやうに無私の境(さかひ)のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称して阿呆(あほう)といふものであらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ

だが、それが此(こ)の世といふものなんで、
其処(そこ)に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よつ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端はないとて、一先ず休心するもよからう。

  Ⅲ
されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。

  Ⅳ
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)


 曇天

 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
 はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
綱も なければ それも 叶(かな)はず、
 旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処(おくが)に 舞ひ入る 如く。

 かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
 かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。

 かの時 この時 時は 隔つれ、
此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
 はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より」

 *
 言葉なき歌

あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼(あを)く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡(あは)い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女(むすめ)の眼(め)のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方(かなた)で夕陽にけぶつてゐた
号笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あへ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)

2009年5月26日 (火)

詩人論の詩/「詩人は辛い」「現代と詩人」

詩は、
その詩を歌った詩人が
どのように感じたり、
考えたりする詩人であるのかを
明らかにする
詩人論をたえず含むものでありますが、

詩は、
いつも、理解されなかったり、
同じく、詩人も、
理解されなかったりするもので、
冗談じゃないよ、と
ひとこと言いたくなることが
しばしばあるようです。

ひとことどころじゃなくて、
思いっきり言いたいときに
詩人論の詩ができます。

その意味で、
生前に発表された詩篇である
「詩人は辛い」と「現代と詩人」は、
「酒場にて」の流れの作品と
同じものと見ることができます。

この2作品は、
中原中也という詩人が、
世の中に向かって
思い切って
詩人の立場を宣言したものということになります。

 *
 詩人は辛い

私はもう歌なぞ歌はない
誰が歌なぞ歌ふものか

みんな歌なぞ聴いてはゐない
聴いてるやうなふりだけはする

みんなたゞ冷たい心を持つてゐて
歌なぞどうだつたつてかまはないのだ

それなのに聴いてるやうなふりはする
そして盛んに拍手を送る

拍手を送るからもう一つ歌はうとすると
もう沢山といつた顔

私はもう歌なぞ歌はない
こんな御都合な世の中に歌なぞ歌はない

    (一九三五・九・一九)

 *
 現代と詩人

何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だつてそれだけが、私にとつては「充実」なのだから。

——そんなの古いよ、といふ人がある。
しかしさういふ人が格別新しいことをしてゐるわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いてゐれば、
それは、それでいいのだと考ふべきものはある。

とはいへそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといつてその正体が、シカと掴めたこともない。

私はそれを、好加減に推量したりはしまい。
それがハツキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまらう。
それまで私は、此処を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

われわれのゐる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持つてはゐない、持たうがものはないのだ。
さて希望を失つた人間の考へが、どんなものだか君は知つてるか?
それははや考へとさへ謂(い)へない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

私は古き代の、英国(イギリス)の春をかんがへる、春の訪れをかんがへる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがへる、旅行家の貌(かほ)をかんがへる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居への訪問をかんがへる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据えられた食卓のことをかんがへる。

私は死んでいつた人々のことをかんがへる、——(嘗(かつ)ては彼等も地上にゐたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがへる、その校庭の、雨の日のことをかんがへる。
それらは、思ひ出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんださうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行つたことがあるやうな気がする。
世界の何処(どこ)だつて、行つたことがあるやうな気がする。
地勢と産物くらゐを聞けば、何処だつてみんな分るやうな気がする。

さあさあ僕は、詩集を読まう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあつて、とても、当今日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふかい)の、陳列みたいなものぢやない。それで心の全部が充されぬまでも、サツパリとした、カタルシスなら遂行されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月25日 (月)

漂流感と土着感/お会式の夜

中原中也の年譜を見ると、
1931年(昭和6年)から
翌1932年(昭和7年)にかけて
引っ越しを3回しています。

1931年7月に、豊多摩郡千駄ヶ谷町872(現・渋谷区代々木2-29-14)に転居。
1931年12月に、千駄ヶ谷町千駄ヶ谷872(同2-29-30)に転居。
1932年8月に、荏原郡馬込町北千束621(現・大田区北千束2)に転居。

といった具合です。

1年前の、1930年(昭和5年)9月には、
豊多摩郡代々幡町代々木山谷(現・渋谷区代々木2-32)に
転居していますから、
3年間に4回の引っ越しです。

1925年(大正14年)に上京して、
鎌倉で亡くなるまでの13年間に
19回も引っ越ししている中也ですから
特別に驚くべきことではないのかもしれませんが……

なぜ、
こんなに度々引っ越ししなければならなかったか、
といえば、
それこそ、
詩を書くためにというほかに
理由はないのですが、
このこと、
度々引っ越ししたということによって、
詩に新しい風が吹き込まれ、
名作がたくさん生まれたのだ、
ということには
注目しておかなければなりますまい。

そうです!
中也詩の名作は
引っ越しによって生まれた、
といって過言ではありません。

「お会式の夜」は、
きっと、
1932年8月の、
荏原郡馬込町北千束への転居から
歌われた詩であることでしょう。
制作日から見ても
確実なことです。

中也の作品に漂う漂流感、
そして、その逆の、
ある特定の場所=トポスへのこだわり……、
つまり、あえていえば土着感。

その二つの対極的なイメージが生まれるのも、
この、
引っ越しという事実からでありそうです。

 *
 お会式の夜

十月の十二日、池上の本門寺、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、
太鼓の音の、絶えないその夜を。

来る年にも、来る年にも、その夜はえてして風が吹く。
吐く息は、一年の、その夜頃から白くなる。
遠くや近くで、太鼓の音は鳴つてゐて、
頭上に、月は、あらはれてゐる。

その時だ僕がなんといふことはなく
落漠たる自分の過去をおもひみるのは
まとめてみようといふのではなく、
吹く風と、月の光に仄(ほの)かに自分を思んみるのは。

  思へば僕も年をとつた。
  辛いことであつた。
  それだけのことであつた。
  ――夜が明けたら家に帰つて寝るまでのこと。

十月の十二日、池上の本門寺、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、
太鼓の音の、絶えないその夜を。
    (1932・10・15)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)


 

2009年5月24日 (日)

詩人論が生まれる/酒場にて

「酒場にて」は、
(初稿)と(定稿)とがある
興味深い作品です。

初めて作った作品を初稿とし、
それに手を加え完成させたものを
定稿=決定稿としたもので、
詩作の現場を
垣間(かいま)見られるような
愉(たの)しさが味わえます。

意味が
二重三重の幅を与えられ
そうして後、
原初のシンプルな意味に
立ち戻るのがわかったり、

やっぱりここは、
ここを削って
こちらを前面に出したほうがよい、とかの、
試行を重ねた形跡が見えたり、

決定稿より
初稿のほうが
明快で成功している作品であったり、
その逆だったり、

いろいろなことが
見えてきたりします。

詩作過程で
いろいろなことが
行われていることが
わかるのですが、

「酒場にて」は
やはり、
酒場の詩人が、
ただ酒を飲んで騒いでいる人ではないことを
言いたくなるような
詩人論が
生まれる場でもあるようなことが
面白いことです。

酒場にて(初稿)

今晩ああして元気に語り合つてゐる人々も、
実は元気ではないのです。

諸君は僕を「ほがらか」でないといふ。
然(しか)し、そんな定規みたいな「ほがらか」は棄て給へ。

ほんとのほがらかは、
悲しい時に悲しいだけ悲しんでゐられることでこそあれ。

さて、諸君の或(ある)者は僕の書いた物を見ていふ、
「あんな泣き面で書けるものかねえ?」

が、冗談ぢやない、
僕は僕が書くやうに生きてゐたのだ。

 *

 酒場にて(定稿)

今晩あゝして元気に語り合つてゐる人々も、
実は、元気ではないのです。

近代(いま)といふ今は尠(すくな)くとも、
あんな具合な元気さで
ゐられる時代(とき)ではないのです。

ほがらかとは、恐らくは、
悲しい時には悲しいだけ
悲しんでられることでせう?

されば今晩かなしげに、かうして沈んでゐる僕が、
輝き出でる時もある。

さて、輝き出でるや、諸君は云ひます、
「あれでああなのかねぇ、
不思議みたいなもんだねえ」。

が、冗談やない、
僕は僕が輝けるやうに生きてゐた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月22日 (金)

詩の外観と詩人の内部/酒場にて

東京の街並や地名を
盛り込んで作られた詩は
少なくはありません。

あっこれは新宿だ
あっここは渋谷だ、
浅草だ、などと、
その詩の風景を想像することは
詩を楽しむ一つの方法ではあります。

それはそれでいいのですが
中也の詩は、
場所や地名や風景や自然や……と、
その外観を歌う場合にも
そこに止まっていないことが多く、
一歩奥に、
詩の世界、
内的な世界が
広がっています。

その奥に立ったり、
座ったりしているのは
詩人です。
全身が詩人であるような詩人がそこにいます。

僕や私やお前や……
という形であっても、
それは、
詩人自らである場合がほとんどです。

「酒場にて」は、
酒場にいる詩人の内面を
明らかにしているのですが、
それは、
あなたが見ているような
ステロタイプなものではなく、
たとえば、ほがらか一つとっても、
ほがらかが、
単に、快活という意味だけではなく
悲しい時に悲しいだけ悲しんでいられる、
というような、
詩人的なほがらか、なのです

誤解してもらっては
困ります、
と、詩人が全身で主張しています。

 *
 酒場にて(初稿)

今晩ああして元気に語り合つてゐる人々も、
実は元気ではないのです。

諸君は僕を「ほがらか」でないといふ。
然(しか)し、そんな定規みたいな「ほがらか」は棄て給へ。

ほんとのほがらかは、
悲しい時に悲しいだけ悲しんでゐられることでこそあれ。

さて 諸君の或(ある)者は僕の書いた物を見ていふ、
「あんな泣き面で書けるものかねえ?」

が、冗談ぢやない、
僕は僕が書くやうに生きてゐたのだ。

 *
 酒場にて(定稿)

今晩あゝして元気に語り合つてゐる人々も、
実は、元気ではないのです。

近代(いま)という今は尠(すくな)くも、
あんな具合な元気さで
ゐられる時代(とき)ではないのです。

諸君は僕を、「ほがらか」ではないといふ。
しかし、そんな定規みたいな「ほがらか」なんぞはおやめなさい。

ほがらかとは、恐らくは、
悲しい時には悲しいだけ
悲しんでられることでせう?

されば今晩かなしげに、かうして沈んでゐる僕が、
輝き出でる時もある。

さて、輝き出でるや、諸君は云ひます、
「あれでああなのかねえ、
不思議みたいなもんだねえ」。

が、冗談ぢやない、
僕は僕が輝けるやうに生きてゐた。
            (一九三六・一〇・一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月21日 (木)

新宿・渋谷のアドバルーン/秋の日曜

「早大ノート」(1930〜1937)の
終わりの方にある
「秋の日曜」。

詩人は、
渋谷区山谷、というのは、
小田急線南新宿駅近くの
小田急電鉄本社の隣りあたりに
住んでいたことがあり、
この家の部屋から
三越か伊勢丹か
新宿の百貨店の屋上に揺れる
アドバルーンを
目にすることがありました。

千駄ヶ谷も渋谷区ですが
ここにも住んでいたことがあり、
ここからも
新宿や渋谷のアドバルーンは見えたはずですが、
あるいは、
渋谷区神山に住んでいたこともあり、
ここからも、
渋谷東横デパート屋上のアドバルーンは
見えたかも知れません。

第2連

青い空は金色に澄み、
そこから茸(きのこ)の薫りは生れ、
娘は生れ夢も生れる。

これは、
秋の景色でありましょう。
一点の翳(かげ)りもない
秋の、ある日曜日の空に
二つのアドバルーンが
ゆらりゆらり……。

その冴え渡った日の
風は冷たく、
雨上がりの日のようで
どうも
初対面の人同士
簡単に気安く馴染めるものではないなあ、と
デリケートな心持ちを
歌っています。

冴え冴えとした秋晴れであるがゆえに、
見知らぬものと
容易にはうち解けられない……。

すでに見知ったものとの再会なら
容易なのですが
あの貞淑そうな奥さまでさえ
少し昔のことを思い出しては
笑っている、
そのような秋の日です。


秋の日曜

私の部屋の、窓越しに
みえるのは、エア・サイン
軽くあがつた 二つの気球

青い空は金色に澄み、
そこから茸(きのこ)の薫りは生れ、
娘は生れ夢も生れる。

でも、風は冷え、
街はいつたいに雨の翌日のやうで
はじめて紹介される人同志はなじまない。

誰もかも再会に懐しむ、
あの貞順な奥さんも
昔の喜びに笑ひいでる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

孤独な散歩/夜店

「早大ノート」(1930〜1937)の
真ん中あたり、
「夜空と酒場」の次にあるのが「夜店」。

山口県の小さな町を飛び出し
はじめ京都で暮らし
今や、大東京で一人暮らし……。

長谷川泰子に逃げられ
数少ない友人を求めて
東京の町を歩き回って
ようやく酒談義となるならまだしも
いつも相手が見つかるわけでもなく
ひとり、スタスタ歩く詩人
いつしかトボトボと歩いていることも
しばしばあったことでしょう

明治神宮かどこかの秋祭りの
夜店でしょうか

孤絶感を抱く詩人は
故郷の祭の夜店を思い
あの頃は、元気だったなあ、と
回顧する姿勢で
歩いています。

何もかもが面白くない
何もかもがつまらない
面白いことにぶつからない
電車や人込みも
僕には無縁だ、関係ない

そうじゃいけないと思うから
歩いて歩いて
求めて求めて歩くのですが
今日は
ダメだなあ

詩人が歩くのは
楽しい散歩ばかりではありません。


夜店

アセチリンをともして、
低い台の上に商品を竝(なら)べてゐた、
僕は昔の夜店を憶ふ。
万年草を売りに出てゐた、
植木屋の爺々(じじい)を僕は憶ふ。

あの頃僕は快活であつた、
僕は生きることを喜んでゐた。

今、夜店はすべて電気を用ひ、
台は一般に高くされた。

僕は呆然(ぼうぜん)と、つまらなく歩いてゆく。
部屋(うち)にゐるよりましだと想ひながら。
僕にはなんだつて、つまらなくつて仕方がない。
それなのに今晩も、かうして歩いてゐる。
電車にも、人通りにも、僕は関係がない。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月20日 (水)

一人ぼっちの酒/カフェにて

「早大ノート」(1930〜1937)の3番目にある
「カフェにて」。

日本では、明治時代に
パリのサロンをまねた
大衆酒場が流行りました。
そこには女給がいて
ウェイトレスというより
ホステスに似た仕事をしていたという話です。

つまり
カフェは、コーヒーを出す
今の喫茶店ではなく
酒を出す風俗営業店に
近いものだったらしい。

向田邦子の「父の詫び状」には、
銀座のカフェで遊んだ父が
女給たちを家に連れて帰り
泊まらせて大騒ぎになった
というエピソードがあります。
あれです。

詩人も
カフェによく出かけました。
そこで、
文学上の議論に熱中し、
しばしば喧嘩に発展したことは
よく知られたことです。

この作品は
一人静かに飲む酒のようで、
秋風がこころに沁みる
寂寥を歌っています。


カフェにて

酔客の、さわがしさのなか、
ギタアルのレコード鳴って、
今晩も、わたしはここで、
ちびちびと、飲み更かします

人々は、挨拶交はし、
杯の、やりとりをして、
秋寄する、この宵をしも、
これはまあ、きらびやかなことです

わたくしは、しょんぼりとして、
自然よりよいものは、さらにもないと、
悟りすましてひえびえと
ギタアルきいて、身も世もあらぬ思ひして
酒啜(すす)ります、その酒に、秋風沁(し)みて
それはもう 結構なさびしさでございました

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

秋の匂い/干物

「早大ノート」(1930〜1937)の1番目にある作品。

「干物」は、
鯵(あじ)や、カマスや、エボダイや
烏賊(いか)や、スルメなどを、
道端に設置した台に並べ
太陽光線に当てて、干すという
いわゆる、天日干し(てんぴぼし)をする風景が
すこし昔のこと
東京でも、
水辺の町や川筋の町などで
見られたものです。

できあがりが「干物」(ひもの)で
そこには、独特の香りが漂っていました。

外苑は神宮外苑のことで、現新宿区、
千駄ヶ谷は、現渋谷区の地名で、
どちらも、山の手の町ですから
干物の天日干しがあったかどうか……
乾物屋さんからの匂いなのかも知れませんが、
天日干しの風景が
なかったとは断言できません。

詩人は
干物を秋の風景として感じ
その香りを嗅ぎながら
午睡(ひるね)する
幸せな時間を歌います。

詩人は、
千駄ヶ谷や南新宿に住んだことがあり
神宮の森にはしばしば出かけたことが思われます。

潮の香りが
プンと鼻孔をくすぐり
海辺にいるような
やさしい時間です。


干物

秋の日は、干物の匂ひがするよ

外苑の舗道しろじろ、うちつづき、
千駄ヶ谷、森の梢のちろちろと
空を透かせて、われわれを
視守る 如し。

秋の日は、干物の匂ひがするよ

干物の、匂ひを嗅いで、うとうとと
秋蟬の鳴く声聞いて、われは睡る
人の世の、もの事すべて患らはし
匂ひ嗅いで睡ります、ひとびとよ、

秋の日は、干物の匂ひがするよ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月19日 (火)

異郷の詩人/浮浪

「草稿詩篇(1925〜1928)」から
「浮浪」という作品。

東京市民を
誇らかに歌った詩人ではありましたが、
実はその東京とは
知る人の少ない
異郷の地でありました。

停車場の水を撒いたホームが
……恋しい。

と、望郷の思いを
洩らすことがあったのです。


 浮浪

私は出てきた、
街に灯がともつて
電車がとほつてゆく。
今夜人通も多い。

私も歩いてゆく。
もうだいぶ冬らしくなつて
人の心はせはしい。なんとなく
きらびやかで淋しい。

建物の上の深い空に
霧がただよつてゐる。
一切合財(いっさいがっさい)が昔の元気で
拵(こしら)へた笑(えみ)をたたへてゐる。

食べたいものもないし
行くとこもない。
停車場の水を撒いたホームが
……恋しい。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月18日 (月)

失恋の夜/夜寒の都会

未発表詩篇から、
都会の風景、
それも東京の風景を
歌った作品をいくつか読んでみます。

「草稿詩篇(1925~1928)」には
「夜寒と都会」があります。

この頃、ダダを抜け出ていません。
抜け出る必要を感じていなかったのかも知れません。

第2連の、
この洟(はな)色の目の婦、
コノハナイロノメノオンナ、
は、長谷川泰子のことでしょう、きっと。

東京に来て
元気になった女が
今宵も
心ここにあらず……

ここ、とは、ぼくのこと、
つまり、詩人につれない態度をとります

ぼくは、
夜のしじま(静寂)に
取り残され
熟した、赤黒い苺のような
孤独の中にいます

そうした状態を
イエスの物語にかぶせ、
ダダ的な韜晦(とうかい)
めくらましの術を使って
なにやら、
意味ありげなメッセージとなるのですが、
要するに、
これは、失恋の詩といってよいでしょう。

 *
 夜寒の都会

外燈に誘出された長い板塀、
人々は影を連れて歩く。
星の子供は声をかぎりに、
たゞよふ靄(もや)をコロイドとする。

亡国に来て元気になつた、
この洟(はな)色の目の婦、
今夜こそ心もない、魂もない。

舗道の上には勇ましく、
黄銅の胸像が歩いて行つた。

私は沈黙から紫がかつた、
数箇の苺(いちご)を受け取とつた。

ガリラヤの湖にしたりながら、
天子は自分の胯(また)を裂いて、
ずたずたに甘えてすべてを呪つた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月15日 (金)

酔えない詩人/夜空と酒場

「夜空と酒場」は、
「早大ノート」(1930~1937)の
はじめの方にあります。

どこかしら寂寥感のある
酒場風景です。
林立するビル群や
人のざわめきが聞こえてきません。

壮大な夜空と
その下の酒場……という
構図が大きくて
そう感じるのでしょうか

東京の空は
中也の生きていた時代には
広く大きなものだった、ということを
あらためて知ります

つい最近、
といっても、
高度成長前の東京、
たとえば、
東京タワーの出来る前の東京は
天の川さえ見ることができました。

武蔵野の面影が
この詩の夜空にはあります。
銀座あたりにも
この空は広がっていました。

大酒飲んでも
酔えない詩人……。

 *
 夜空と酒場

夜の空は、広大であつた。
その下に一軒の酒場があつた。

空では星が閃めいて(きらめいて)ゐた。
酒場では女が、馬鹿笑ひしてゐた。

夜風は無情な、大浪のやうであつた。
酒場の明りは、外に洩れてゐた。

私は酒場に、這入つて行つた。
おそらく私は、馬鹿面さげてゐた。

だんだん酒は、まはつていつた。
けれども私は、酔ひきれなかつた。

私は私の愚劣を思つた。
けれどもどうさへ、仕方はなかつた。

夜空は大きく、星はあつた。
夜風は無情な、波浪に似てゐた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

東京市民・中原中也/宵の銀座は花束捧げ

未刊詩篇から
アトランダムに
読んでいきましょう。

草稿詩篇(1933~1936)の
7番目に置かれているのが
タイトル無しの詩篇
(宵の銀座は花束捧げ)です。

詩人によって、
タイトルがつけられていないということは
完成品ではないことを示しますが、
大岡昇平らの角川版全集編集者は
公表に値する草稿、と、
判断したのです。

中也26歳。
元気な詩人です。
花の銀座を歌っています。
珍しく、
屈託の一つもなく
イロニーもなく
東京市民であることの誇りを
一途(いちず)に歌う詩人がいます。

「在りし日の歌」後記に
さらば東京! さらば青春! 
と記すまで、
4年ほどの時間があります。

 *
 (宵の銀座は花束捧げ)

宵の銀座は花束捧げ、
  舞ふて踊つて踊つて舞ふて、
我等東京市民の上に、
  今日は嬉しい東京祭り

今宵銀座のこの人混みを
  わけ往く心と心と心
我等東京住まひの身には、
  何か誇りの、何かある。

心一つに、心と心
  寄つて離れて離れて寄つて、
今宵銀座のこのどよもしの
  ネオンライトもさんざめく

ネオンライトもさざめき笑へば、
  人のぞめきもひときはつのる
宵の銀座は花束捧げ、
  今日は嬉しい東京祭り

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月13日 (水)

「曇天」というエポック<2>

ここで、
「草稿詩篇1933〜1936」が
作られた時期から
最晩年へ至る
詩人の年譜を見ておきます。

 

「曇天」(1936年5月制作)の位置が、
少し、見えますか。

 

「曇天」は、
長男・文也の死より前に書かれ
この時、詩人は、文也の死を夢にも思っていませんでした。

 

もう一つ。
この時期、
詩人は、
東京外国語学校専修科を修了しました。
フランス語の勉強をブラッシュアップし
ランボーの訳者としての仕事が
評価されていることに注目しておきましょう。

 

 

 

1931年昭和6年    東京外国語学校入学。
             弟・恰三が病死。
1932年昭和7年    山羊の歌」編集を開始。資金不足で中断。
1933年昭和8年     東京外国語学校専修科修了。
              上野孝子と結婚。東京四谷の花園アパートに住む。
              いくつかの同人誌に作品発表。
              訳詩集「ランボオ詩集<学校時代の詩>」を三笠書房から刊行。
1934年昭和9年    長男・文也が誕生。
              「山羊の歌」を文圃堂から出版。
1935年昭和10年   小林秀雄が「文学界」編集責任者となり、中也の発表増加。
1936年昭和11年    6月、訳詩集「ランボオ詩抄」を山本書店から刊行。
              11月、長男・文也死亡。
              12月、次男・愛雅誕生。
              中也の神経は衰弱しはじめる。
1937年昭和11年   千葉県の療養所に入院。
              鎌倉転居。夏に帰郷。 
              9月、「ランボー詩集」を野田書房から刊行。
                          同月、「在りし日の歌」を編集。
              10月に結核性脳膜炎を発病。同22日に永眠。

 

 *
 曇天

 

 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
 はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
綱も なければ それも 叶(かな)はず、
 旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処(おくが)に 舞ひ入る 如く。

 

 かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
 かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。

 

 かの時 この時 時は 隔つれ、
此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
 はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より」

2009年5月12日 (火)

「曇天」というエポック

Photo

 

ここで、
「曇天」を
じっくり、
読んでおきましょう。

 

ある日の朝、
空は曇りで、
都会の、
瓦屋根の上の、
さらに向こうの高い所に、
黒い旗が
はためいているのを、
詩人は見ました。

 

ハタハタハタハタ
その黒い旗は
確かにはためいているのですが
高いところにあるので
音は聞こえてきません
でも、確かに、
はたはたはたはた……と、
音が聞こえるかのように
はためいているのです

 

ぼくは、手をさしのべて
旗を下ろそうとしたのですが
網もなく、そんなことできるわけがなく
旗は、ハタハタハタハタはためくばかりです
空の奥の奥に舞い入るように
はためいているだけでした

 

こんな朝が、ぼくの少年時代にもあったなあ
何度もあったなあ、と、ぼくは思い出す
あの時は、野原の上
今は、都会の瓦屋根の上

 

あの時と今と、時は隔たっているし、
こことあそこと、場所も違うけれど
ハタハタハタハタ
空にポツンと一人
まるで、あれは、ぼくがそこにいるかのように
今も昔も変わらないで
ハタハタハタハタ……
懸命にはためいている
黒い旗よ
スゴイぞ!スゴイぞ!

 

「曇天」は、
1936年(昭和11年)、
「改造」7月号に発表されました。
総合雑誌へ中原中也がデビューしたという
エポックメーキングな作品です。

 

「曇天」で、われわれは彼がようやく幻想を手なずけはじめた
のを知る

 

と、大岡昇平は、
この詩に
一定の評価を与えたのです。

 

 *
 曇天

 

 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
 はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
綱も なければ それも 叶(かな)はず、
 旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処(おくが)に 舞ひ入る 如く。

 

 かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
 かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。

 

 かの時 この時 時は 隔つれ、
此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
 はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。

 

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より」

「曇天」までのいくつかの詩<25>我がヂレンマ

Dilemmaは、
もとギリシア語で、
diは、二つのこと、
lemmaは、仮説のこと。
現代日本語では、ジレンマだが、
中也は、ヂレンマとしました。
板挟み(イタバサミ)の状態を表します。

 

俺の血は、もう、
孤独の方へ孤独の方へと
流れていた
けれど、
俺は、よくまあ、
人と会い、
人と議論することが多かった
俺の、孤独好きの血は、
だから、どうしてよいか、
戸惑うばかりだった
お人好しだから、
付き合いに乗り
酒がはいり、
くだらん話に熱中するのだった

 

後になって
いつも悔やむのだった
とはいうものの、
孤独に浸っていることも怖いのだった
とはいうものの、
孤独でいることを捨てられないのだった
このように
生きるってことは、
それについてを考えるだけで苦痛だった

 

閉じこもっていないで
野原に出て遊んだらどうか
という声があって
俺も、そう思い、
遊ぼう、遊ぼう、と思った。
でも、そう思うことが、すでに、俺が、
社会からますます遠ざかることになることだった

 

そうして俺は
野原に出ることもやめるのだったが
だからといって
人と付き合いをよくするということでもなかった
俺は、書斎にこもっていた
書斎で、腐っていた
腐っている自分をどうすることもできないでいた

 

 *
 我がヂレンマ

 

僕の血はもう、孤独をばかり望んでゐた。
それなのに僕は、屡々(しばしば)人と対坐してゐた。
僕の血は為(な)す所を知らなかつた。
気のよさが、独りで勝手に話をしてゐた。

 

後では何時でも後悔された。
それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。
かくて生きることは、それを考へみる限りに於て苦痛であつた。

 

野原は僕に、遊べと云つた!
遊ばうと、僕は思つた。--しかしさう思ふことは僕にとつて、
既に余りに社会を離れることを意味してゐるのであつた。

 

かくて僕は野原にゐることもやめるのであつたが、
又、人の所にもゐなかつた……僕は書斎にゐた。
そしてくされる限りにくさつてゐた、そしてそれをどうすることも出来なかつた。
                 ——二・一九三五——

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

「曇天」までのいくつかの詩<24>寒い!

「寒い!」は、
確かに、心境告白ありのままって感じで、
めんめんと内部を披瀝しています。

 

それを、
寒い、と、表現するところに
詩への意志はあり、
どうやら、それは
それほどスムースにはいっていない
友人との関係、
対社会関係、
政治的な人々との関係、
お調子ものたちとの関係
……
の中での、
詩人の嘆きであり
それらの関係を作り出すものへの
批判の意味も込められているようです。

 

青山学院は
中也にとって
居心地のよい場所ではなかったのではないか
と思わせるものさえ
ここから感じ取ることだって可能です。

 

毎日寒いなあ、寒くてやりきれんわ
瓦までが白ずんで、ものを言わねーよ
まったくもう
小鳥も鳴かないのに
犬っころだけは風の中で啼いてやがるよ

 

通りじゃ石つぶては飛ぶし、
地面は乾いちゃって
潤いがないし、
車のタイヤの色さえ寒々しいや
ぼくを追い越してぶっ飛ばしていく

 

山だってまったく殺風景だ
鈍いグレーな空には何にもない
部屋に引きこもっているぼくは
愚痴っぽくなるばっかりですよ

 

ああ、寒い寒い、こう寒くちゃやりきれんわ
お行儀のよい人々が
幸せ呆けしたうすら笑いを見せても
ぼくにゃ関係ない
大声あげて春を呼び戻すのだ

 

瓦、小鳥、犬っころ……
石つぶて、地、車……
山、グレーな空、部屋……
お行儀のよい人々の笑い……

 

これらの語句に
詩人は
どのような意味を込め
どのような心境を告白したのでしょうか
それらを
いったい、だれに向かって
言いたかったのでしょうか

 

(つづく)

 

 * 
 寒い!

 

毎日寒くてやりきれぬ。
瓦もしらけて物云はぬ。
小鳥も啼かないくせにして
犬なぞ啼きます風の中。

 

飛礫(つぶて)とびます往還は、
地面は乾いて艶(つや)もない。
自動車の、タイヤの色も寒々と
僕を追ひ越し走りゆく。

 

山もいたつて殺風景、
鈍色(にびいろ)の空にあつけらかん。
部屋は籠(こも)れば僕なぞは
愚痴つぽくなるばかりです。

 

かう寒くてはやりきれぬ。
お行儀のよい人々が、
笑はうとなんとかまはない
わめいて春を呼びませう……

 

 *
 我がヂレンマ

 

僕の血はもう、孤独をばかり望んでゐた。
それなのに僕は、屡々(しばしば)人と対坐してゐた。
僕の血は為(な)す所を知らなかつた。
気のよさが、独りで勝手に話をしてゐた。

 

後では何時でも後悔された。
それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。
かくて生きることは、それを考へみる限りに於て苦痛であつた。

 

野原は僕に、遊べと云つた!
遊ばうと、僕は思つた。—しかしさう思ふことは僕にとつて、
既に余りに社会を離れることを意味してゐるのであつた。

 

かくて僕は野原にゐることもやめるのであつたが、
又、人の所にもゐなかつた……僕は書斎にゐた。
そしてくされる限りにくさつてゐた、そしてそれをどうすることも出来なかつた。
                 ——二・一九三五——

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月11日 (月)

「曇天」までのいくつかの詩<23>「寒い!」と「我がヂレンマ」

この頃彼が雑誌に発表するのは_「むなしさ」「冬の夜」のような旧作でなければ、
「寒い!」「我がヂレンマ」のような、_詩人の心境を、あまり巧みではなく告白した詩である。

 

と、大岡昇平が記す
2作品を読んでみます。
心境詩、とか、告白詩、とか、
大岡は、
中原中也の詩作品に、
いろいろな分類を試みています。

 

「寒い!」と「我がヂレンマ」は
どちらも、生前発表詩篇で、
「寒い!」は、「四季」(1935年3月)に、
「我がヂレンマ」は、「北の海」とともに、
第1次「歴程」創刊号(1935年5月)に、
それぞれ掲載されました。

 

つまり、
1935年、昭和10年ごろの
中也の、心境が告白されている
ということになり、
その頃の
詩人の人間関係が
想像できる、ということでもあります。

 

この頃、詩人は
妻・孝子と長男文也ともども
東京は新宿の花園アパートに
暮らしていました。
大岡昇平が、
初めにそう呼んだことから
その呼び方が定着した
かの有名な
青山学院は、
階下にあり、
青山二郎が住んでいました。

 

(つづく)

 

 * 
 寒い!

 

毎日寒くてやりきれぬ。
瓦もしらけて物云はぬ。
小鳥も啼かないくせにして
犬なぞ啼きます風の中。

 

飛礫(つぶて)とびます往還は、
地面は乾いて艶(つや)もない。
自動車の、タイヤの色も寒々と
僕を追ひ越し走りゆく。

 

山もいたつて殺風景、
鈍色(にびいろ)の空にあつけらかん。
部屋は籠(こも)れば僕なぞは
愚痴つぽくなるばかりです。

 

かう寒くてはやりきれぬ。
お行儀のよい人々が、
笑はうとなんとかまはない
わめいて春を呼びませう……

 

 *
 我がヂレンマ

 

僕の血はもう、孤独をばかり望んでゐた。
それなのに僕は、屡々(しばしば)人と対坐してゐた。
僕の血は為(な)す所を知らなかつた。
気のよさが、独りで勝手に話をしてゐた。

 

後では何時でも後悔された。
それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。
かくて生きることは、それを考へみる限りに於て苦痛であつた。

 

野原は僕に、遊べと云つた!
遊ばうと、僕は思つた。—しかしさう思ふことは僕にとつて、
既に余りに社会を離れることを意味してゐるのであつた。

 

かくて僕は野原にゐることもやめるのであつたが、
又、人の所にもゐなかつた……僕は書斎にゐた。
そしてくされる限りにくさつてゐた、そしてそれをどうすることも出来なかつた。
                 ——二・一九三五——

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月 8日 (金)

「曇天」までのいくつかの詩<22>月夜とポプラ

「月夜とポプラ」は、
「草稿詩篇」(1933年~1936年)の後半部、
「誘蛾燈詠歌」と「吾子よ吾子」の間あたりにある、
といえば、おおよそ見当がつくでしょうか。

 

1935年(昭和10年)の制作と推定され、
この時期、
というのは、長男文也が生まれ
死亡するまでの間のことですが、
この時期に、
いくつか、
「死を思う」作品が
見られるのです。

 

「大島行葵丸にて」には、
甲板から海に唾(ツバ)を吐いたシーンがあり、
「夜半の嵐」には、
痰を吐いた後、寝床に入って、
松風を聞いているシーンがありますが、

 

これらは、
身体の不調を表す詩句でもありまして、
不調が、ただちに死と結びつくほどの
重篤なものではなかったにせよ
詩人の創作意識は、
死を格好の材料としたがったことが
想像されます。
いかがでしょうか。

 

中原中也の作品に
しばしば見られる
不気味なイメージや
死のイメージを
喚起させる詩の一つに
この「月夜とポプラ」は
数えることができます。

 

この流れは、
1934年制作の「骨」に連なるもので、
そこでは、すでに、
死後のイメージが
ビビッドに実現されていたのですが、
「月夜とポプラ」は、
そのバージョンです。

 

死そのもののイメージ
死後のイメージ
あの世のイメージ
……
死にまつわる歌として
読める作品の一つです。

 

木の下の陰の部分には幽霊がいて、
生まれたばかりで
翼(はね)もか弱いコウモリに似ているのですが
そいつは、キミの命を狙っている

 

キミは、そいつを捕まえて
殺してしまえばよいものを
実は、そいつ、
影だから捕まえられない
しかも、そいつは、たまにしか見えない

 

ぼくは、そいつを、捕まえてやろうと
長い年月、考え苦しんできた
でも、そいつを捕まえられないでいる

 

捕まらないと分かった今晩、
そいつは、
なんとも、かんとも、
ありありと見えるようになった

 

尻切れトンボのような
詩の終わり方は
中也がよく使う手であります
断絶感を読者に与えて
印象を強くするという方法。

 

死というやつを
詩人は
ありありと
見ることができるようになった!

 

 *
 月夜とポプラ

 

木の下かげには幽霊がゐる
その幽霊は、生まれたばかりの
まだ翼(はね)弱い蝙蝠(かうもり)に似て、
而も(しかも)それが君の命を
やがては覘(ねら)はう待構へてゐる
(木の下かげには、かうもりがゐる。)
そのかうもりを君が捕つて
殺してしまへばいいやうなものの
それは、影だ、手にはとられぬ
而も時偶(ときたま)見えるに過ぎない。
僕はそれを捕つてやらうと、
長い歳月考へあぐむだ。
けれどもそれは遂に捕れない、
捕れないと分つた今晩それは、
なんともかんともありありと見えるー

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月 6日 (水)

「曇天」までのいくつかの詩<21>雲

Nyage

 

 

 

「別離」(十一月十三日)「初恋集」(十年一月十一日)「雲」などの感傷詩では、
幼年時のはかない恋情に意味がつけられ、

と、大岡昇平は、
この3作品を同列に評しています。
感傷詩、というレッテルも貼っています。

 

「雲」は、批判的意志を含めて読めば
確かに、感傷詩と言えますが
詩人は、恋愛詩のつもりで
書いたものでありましょう。
「草稿詩篇」(1933年~1936年)の
「夜半の嵐」の次に配置されています。

 

喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし

 

と、「夜半の嵐」で歌ってから、
それほど時間はかかっていないはずの制作です。

 

山の上を雲が流れてゆくのを
ここ=平地から眺める詩人は
あそこで、お弁当を食べたことを思い出し、
一緒にいた女の子のその後を考え、

 

女性というものは
桜の花びらが
喜んで散っていくように
結婚していくものなんだ……

 

遠い過去も近い過去も
遠ければ遠いで手が届かないし
近ければ近いであまりに鮮やかであるし
同じことだ……

 

山の上で空を見るのも
ここであの山を見るのも
同じことだから
動かないでいいんだ
動くな動くな
これでいいんだ

 

枯れ草の上に寝て
やわらかなぬくもりを感じながら
空の青の、冷たく透き通ったのを見て
煙草を吸うなどができるということは
世界的幸福というもんだ
などと考えをめぐらします。

 

痰のからむ身体でありながら
煙草を一服しながら
どこかの野原の枯れ草に寝ころび
行く雲の流れを眺め
時には居眠りし……

 

というと、
詩友、高森文夫を
宮城県東臼杵郡東郷村の山奥に訪ねたときに
撮影された、
有名な写真のことを
思わずにいられませんが、
その時に作られた歌ではありません。

 

詩人は、
長男・文也の死を予感することはなくとも
自分の死を
意識することがあったのかもしれません。
この詩を、感傷と片付けるには
惜しい。

 

幸福などというものに
ほど遠かった詩人が
世界的幸福
などというのですから
ここには、やはり
悲しみに深さがあります。

 

(つづく)

 *
 雲

山の上には雲が流れてゐた
あの山の上で、お辨当を食つたこともある……
  女の子なぞといふものは
  由来桜の花瓣(はなびら)のやうに、
  欣んで散りゆくものだ

  近い過去も遠いい過去もおんなじこつた
  近い過去はあんまりまざまざ顕現するし
  遠い過去はあんまりもう手が届かない

山の上に寝て、空を見るのも
此処(ここ)にゐて、あの山をみるのも
所詮は同じ、動くな動くな

あゝ枯草を背に敷いて
やんわりむくもつてゐることは
空の青が、少し冷たくみえることは
煙草を喫ふなぞといふことは
世界的幸福である

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年5月 5日 (火)

「曇天」までのいくつかの詩<20>初恋集4

Circus

 

「初恋集」は「終歌」によって
恋愛詩としての質的転換を
見せようとします。
ここに、
中原中也がいます。
その非凡があります。

 

それが、成功したかどうか
人によって感じ方はさまざまでしょう

 

いきなり、

 

噛んでやれ、
叩いてやれ。
吐き出してやれ。

 

です。
何事が起きているのだろう、と
読み手は、
詩の構造を探ろうとします。

 

マシマロやい、で、
ふくよかな
ふわふわした、
柔らかな
女性に向かっていることが
分かります。

 

ああ、懐かしい
ああ、恨めしい

 

今度会ったら
今度会ったら

 

叩いて、
噛んで、
噛んで、
叩いてやろう

 

ぼくを、
ひとりぼっちにさせておいた罰だ

 

(つづく)

 

 *
 初恋集

 

   すずえ

 

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

 

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

 

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

 

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

 

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた

 

 むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

 

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、暫く遊んでゐました

 

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれはあつた。
         (一九三五・一・一一)

 

 終歌

 

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐き出してやれ。
吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?
噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
     (一九三五・一・一一)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

 

「曇天」までのいくつかの詩<19>初恋集3

131

 

 

 

 

「初恋集」の「むつよ」を
読み下しておきます。

 

先の「すずえ」とともに
「むつよ」も、
人並はずれて早熟な
若き詩人の初恋を歌っていて、
大岡昇平は、どこかで、
実在の女性であったことを指摘していますが、
詳しくは知られていないようです。

 

長谷川泰子以外の女性という点で
面白く、
なぜ、この時期に、
泰子以外の女性が歌われたのか、と、
考えながら読んでも
面白いでしょう。

 

あなたはぼくより一つ年上で
何かといっては、姉さん気取りでしたが、
ぼくのほうが、しっかりしていると、
いつもぼくは思っていました

 

ほんとに、今思えば幼い恋でしたよ
ぼくが13、あなたは14
その後、あなたはぼくから去りましたが
ぼくはいつまでか、あなたを思っていました……

 

しばらくして後、
野原に、ぼくの家の山羊が放し飼いしてあったのを
あなたは、長い時間、遊んでいたことがありました

 

ぼくは、背戸から
あなたを見ていたのでした
ぼくが、どんなにうれしくて
泣きたいような気持ちで
あなたが山羊と遊ぶのを見ていましたことでしょう
野原の若草に、夕日が斜めに射しているのですが
なんともきれいな、涙のような夕日だった

 

(つづく)

 

 *
 初恋集

 

   すずえ

 

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

 

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

 

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

 

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

 

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた

 

 むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

 

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、暫く遊んでゐました

 

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれはあつた。
         (一九三五・一・一一)

 

 終歌

 

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐き出してやれ。
吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?
噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
     (一九三五・一・一一)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「曇天」までのいくつかの詩<18>初恋集ほか2

「初恋集」から
「すずえ」を読み下してみます。

 

早熟な中原中也の
初恋の記憶です。
この作品が、
昭和10年、1935年に作られた
ということが
中原中也的なことと言えるかもしれません。

 

この年、
天皇機関説事件が世の中を騒がし
翌年には、2・26事件が起こります
翌々年は、盧溝橋事件……と
戦争戦争戦争の時代へ
まっしぐらの
日本国でした

 

あなたと会ったということは
現実のことなのか
実際にあったことなのか
遠い日のことになってしまった

 

ぼくがあなたという女性と出会い
愛し愛されたというのは
本当のことでしょうか

 

あなたは14
ぼく15
冬休みでした
親戚の家でたまたま知って
1週間だけ、同じ屋根の下で暮らしたのでした

 

ああ、そんなことがあったのは本当のことなのか
そんなことがあったことは間違いないけれど
今は、本当には思えない
あなたの顔はくっきりと覚えているけど

 

あなたはその後、遠い外国のどこかへ
お嫁にいったと聞きました
それを話してくれた男は
ひとつも驚く風もなく
普通の顔付きで話すのでした
まったく普通の顔で

 

子どもも二人いて、
旦那は会社員だと話しました

 

(つづく)

 

 *
 初恋集

 

   すずえ

 

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

 

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

 

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

 

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

 

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた

 

 むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

 

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、暫く遊んでゐました

 

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれはあつた。
         (一九三五・一・一一)

 

 終歌

 

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐き出してやれ。
吐き出してやれ!

 

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐き出してやれ!

 

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?
噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
     (一九三五・一・一一)

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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