漂流感と土着感/お会式の夜
中原中也の年譜を見ると、
1931年(昭和6年)から
翌1932年(昭和7年)にかけて
引っ越しを3回しています。
1931年7月に、豊多摩郡千駄ヶ谷町872(現・渋谷区代々木2-29-14)に転居。
1931年12月に、千駄ヶ谷町千駄ヶ谷872(同2-29-30)に転居。
1932年8月に、荏原郡馬込町北千束621(現・大田区北千束2)に転居。
といった具合です。
1年前の、1930年(昭和5年)9月には、
豊多摩郡代々幡町代々木山谷(現・渋谷区代々木2-32)に
転居していますから、
3年間に4回の引っ越しです。
1925年(大正14年)に上京して、
鎌倉で亡くなるまでの13年間に
19回も引っ越ししている中也ですから
特別に驚くべきことではないのかもしれませんが……
なぜ、
こんなに度々引っ越ししなければならなかったか、
といえば、
それこそ、
詩を書くためにというほかに
理由はないのですが、
このこと、
度々引っ越ししたということによって、
詩に新しい風が吹き込まれ、
名作がたくさん生まれたのだ、
ということには
注目しておかなければなりますまい。
そうです!
中也詩の名作は
引っ越しによって生まれた、
といって過言ではありません。
「お会式の夜」は、
きっと、
1932年8月の、
荏原郡馬込町北千束への転居から
歌われた詩であることでしょう。
制作日から見ても
確実なことです。
中也の作品に漂う漂流感、
そして、その逆の、
ある特定の場所=トポスへのこだわり……、
つまり、あえていえば土着感。
その二つの対極的なイメージが生まれるのも、
この、
引っ越しという事実からでありそうです。
*
お会式の夜
十月の十二日、池上の本門寺、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、
太鼓の音の、絶えないその夜を。
来る年にも、来る年にも、その夜はえてして風が吹く。
吐く息は、一年の、その夜頃から白くなる。
遠くや近くで、太鼓の音は鳴つてゐて、
頭上に、月は、あらはれてゐる。
その時だ僕がなんといふことはなく
落漠たる自分の過去をおもひみるのは
まとめてみようといふのではなく、
吹く風と、月の光に仄(ほの)かに自分を思んみるのは。
思へば僕も年をとつた。
辛いことであつた。
それだけのことであつた。
――夜が明けたら家に帰つて寝るまでのこと。
十月の十二日、池上の本門寺、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、
太鼓の音の、絶えないその夜を。
(1932・10・15)
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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