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2009年5月11日 (月)

「曇天」までのいくつかの詩<23>「寒い!」と「我がヂレンマ」

この頃彼が雑誌に発表するのは_「むなしさ」「冬の夜」のような旧作でなければ、
「寒い!」「我がヂレンマ」のような、_詩人の心境を、あまり巧みではなく告白した詩である。

 

と、大岡昇平が記す
2作品を読んでみます。
心境詩、とか、告白詩、とか、
大岡は、
中原中也の詩作品に、
いろいろな分類を試みています。

 

「寒い!」と「我がヂレンマ」は
どちらも、生前発表詩篇で、
「寒い!」は、「四季」(1935年3月)に、
「我がヂレンマ」は、「北の海」とともに、
第1次「歴程」創刊号(1935年5月)に、
それぞれ掲載されました。

 

つまり、
1935年、昭和10年ごろの
中也の、心境が告白されている
ということになり、
その頃の
詩人の人間関係が
想像できる、ということでもあります。

 

この頃、詩人は
妻・孝子と長男文也ともども
東京は新宿の花園アパートに
暮らしていました。
大岡昇平が、
初めにそう呼んだことから
その呼び方が定着した
かの有名な
青山学院は、
階下にあり、
青山二郎が住んでいました。

 

(つづく)

 

 * 
 寒い!

 

毎日寒くてやりきれぬ。
瓦もしらけて物云はぬ。
小鳥も啼かないくせにして
犬なぞ啼きます風の中。

 

飛礫(つぶて)とびます往還は、
地面は乾いて艶(つや)もない。
自動車の、タイヤの色も寒々と
僕を追ひ越し走りゆく。

 

山もいたつて殺風景、
鈍色(にびいろ)の空にあつけらかん。
部屋は籠(こも)れば僕なぞは
愚痴つぽくなるばかりです。

 

かう寒くてはやりきれぬ。
お行儀のよい人々が、
笑はうとなんとかまはない
わめいて春を呼びませう……

 

 *
 我がヂレンマ

 

僕の血はもう、孤独をばかり望んでゐた。
それなのに僕は、屡々(しばしば)人と対坐してゐた。
僕の血は為(な)す所を知らなかつた。
気のよさが、独りで勝手に話をしてゐた。

 

後では何時でも後悔された。
それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。
かくて生きることは、それを考へみる限りに於て苦痛であつた。

 

野原は僕に、遊べと云つた!
遊ばうと、僕は思つた。—しかしさう思ふことは僕にとつて、
既に余りに社会を離れることを意味してゐるのであつた。

 

かくて僕は野原にゐることもやめるのであつたが、
又、人の所にもゐなかつた……僕は書斎にゐた。
そしてくされる限りにくさつてゐた、そしてそれをどうすることも出来なかつた。
                 ——二・一九三五——

 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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