詩の外観と詩人の内部/酒場にて
東京の街並や地名を
盛り込んで作られた詩は
少なくはありません。
あっこれは新宿だ
あっここは渋谷だ、
浅草だ、などと、
その詩の風景を想像することは
詩を楽しむ一つの方法ではあります。
それはそれでいいのですが
中也の詩は、
場所や地名や風景や自然や……と、
その外観を歌う場合にも
そこに止まっていないことが多く、
一歩奥に、
詩の世界、
内的な世界が
広がっています。
その奥に立ったり、
座ったりしているのは
詩人です。
全身が詩人であるような詩人がそこにいます。
僕や私やお前や……
という形であっても、
それは、
詩人自らである場合がほとんどです。
「酒場にて」は、
酒場にいる詩人の内面を
明らかにしているのですが、
それは、
あなたが見ているような
ステロタイプなものではなく、
たとえば、ほがらか一つとっても、
ほがらかが、
単に、快活という意味だけではなく
悲しい時に悲しいだけ悲しんでいられる、
というような、
詩人的なほがらか、なのです
誤解してもらっては
困ります、
と、詩人が全身で主張しています。
*
酒場にて(初稿)
今晩ああして元気に語り合つてゐる人々も、
実は元気ではないのです。
諸君は僕を「ほがらか」でないといふ。
然(しか)し、そんな定規みたいな「ほがらか」は棄て給へ。
ほんとのほがらかは、
悲しい時に悲しいだけ悲しんでゐられることでこそあれ。
さて 諸君の或(ある)者は僕の書いた物を見ていふ、
「あんな泣き面で書けるものかねえ?」
が、冗談ぢやない、
僕は僕が書くやうに生きてゐたのだ。
*
酒場にて(定稿)
今晩あゝして元気に語り合つてゐる人々も、
実は、元気ではないのです。
近代(いま)という今は尠(すくな)くも、
あんな具合な元気さで
ゐられる時代(とき)ではないのです。
諸君は僕を、「ほがらか」ではないといふ。
しかし、そんな定規みたいな「ほがらか」なんぞはおやめなさい。
ほがらかとは、恐らくは、
悲しい時には悲しいだけ
悲しんでられることでせう?
されば今晩かなしげに、かうして沈んでゐる僕が、
輝き出でる時もある。
さて、輝き出でるや、諸君は云ひます、
「あれでああなのかねえ、
不思議みたいなもんだねえ」。
が、冗談ぢやない、
僕は僕が輝けるやうに生きてゐた。
(一九三六・一〇・一)
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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