「山羊の歌」の通奏低音/倦怠のメロディー
「倦怠に握られた男」、といい
「倦怠者」、といい、
「倦怠」が、この時期、
詩人の全生活を支配していたかのような
テーマであった、といっても
オーバーでもないようです。
倦怠の調べが、
同じ時期に書かれた「春の日の夕暮」に
流れ込まないわけがありません。
「倦怠者の持つ意志」の最終の2行、
思想と体が一緒に前進する
努力した意志ではないからです
は、「春の日の夕暮」の最終連、
瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自らの 静脈管の中へです
に、通じるものがあります。
ダダ詩が、
「倦怠」と格闘していること自体が
大変に興味深いことですが
そのことよりも、
詩集「山羊の歌」の冒頭作品である「春の日の夕暮」が
「倦怠」のメロディーを奏でていることには
驚きを禁じ得ませんし、
「春の日の夕暮」ばかりか、
掉尾(とうび)を飾る「いのちの声」までの
多くの詩が「倦怠」を歌っているのは
ただごとではない、と、
言わざるをえませんし、
発見です!
「月」の、
あゝ忘られた運河の岸堤
胸に残つた戦車の地音
銹(さ)びつく鑵の煙草とりいで
月は懶(ものう)く喫つてゐる。
「朝の歌」の、
倦(う)んじてし 人のこころを
諫(いさ)めする なにものもなし。
「寒い夜の自我像」の、
蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諌(いさ)める
寒月の下を往きながら。
「夏」の、
血を吐くやうな 倦(もの)うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦(もの)うさ、たゆけさ
「汚れつちまつた悲しみに…」の
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
「秋」の、
僕は倦怠を観念して生きてゐるのだよ、
煙草の味が三通りくらゐにする。
死ももう、とほくはないのかもしれない……
「憔悴」の、
腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ
ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬(しようけい)したのにすぎなかつたかもしれぬ
「いのちの声」の、
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
と、「春の日の夕暮」にはじまり、
「いのちの声」に終わる
詩集「山羊の歌」を通じて
「倦怠=ケンタイ」(ケダイでもある)の調べが流れ、
冒頭から結末に至るまで
通奏低音のように響き渡っている、
というわけですから、
これを、驚きと言わず、
発見と言わない理由はありません。
*
倦怠に握られた男
俺は、俺の脚だけなして
脚だけ歩くのをみてゐよう--
灰色の、セメント菓子を噛みながら
風呂屋の多いみちをさまよへ--
流しの上で、茶碗と皿は喜ぶに
俺はかうまで三和土(タタキ)の土だ--
*
倦怠者の持つ意志
タタミの目
時計の音
一切が地に落ちた
だが圧力はありません
舌がアレました
ヘソが凝視(みつ)めます
一切がニガミを喜びました
だが反作用はありません
此の時
夏の日の海が現はれる!
思想と体が一緒に前進する
努力した意志ではないからです
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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