詩人論の詩<3>詩の出来不出来
タペストリーとは、
麻、羊毛(ウール)、絹などを使い、
風景や模様を織り出した
つづれ織りのことです。
表は、完成された「絵」になって、
その絵を壁掛けなどとして楽しむのですが、
裏側は、描きかけの絵のような、
未完成で、荒削りな
乱れた織り目や、
布くずが散らばっている状態です。
裏は、人目に触れないから、
それでよいのです。
裏は、
表を完成させるために存在し、
表は裏がなければ存在しませんし、
双方がそれぞれを必要としていて、
どちらかが「偉い」という
関係ではありません。
「山羊の歌」や「在りし日の歌」に
選ばれた詩篇が表なら、
発表されなかった詩篇は裏であり、
どちらも、中原中也が歌った歌に
違いはありません。
表と裏とを、
たとえ、出来不出来の関係と見なしたとしても、
どちらも
中原中也の作品であることは
変わりません。
このような意味で、
小林秀雄が、
次のように言っていることは、
すこぶる、
重大な指摘であります。
――詩の出来不出来なぞ元来この詩人には大した意味はない。それほど、詩は彼の生ま身の様なものになっていた。どんな切れっぱしにも彼自身があった。
(「中原中也の遺稿」昭和十二年十二月「文学界」)
*
いのちの声
もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
――ソロモン
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上がりの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押し寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。
僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。
しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著(つ)く一か八かの方途さへ、悉皆(すつかり)分つたためしはない。
時に自分を揶揄(からか)ふやうに、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?
Ⅱ
否何(いづ)れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!
人は皆、知ると知らぬに拘(かかは)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!
併(しか)し幸福というものが、このやうに無私の境(さかひ)のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称して阿呆(あほう)といふものであらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ
だが、それが此(こ)の世といふものなんで、
其処(そこ)に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よつ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端はないとて、一先ず休心するもよからう。
Ⅲ
されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!
さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。
そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。
Ⅳ
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)
*
曇天
ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
手繰り 下ろさうと 僕は したが、
綱も なければ それも 叶(かな)はず、
旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処(おくが)に 舞ひ入る 如く。
かかる 朝(あした)を 少年の 日も、
屡々(しばしば) 見たりと 僕は 憶(おも)ふ。
かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍(いらか)の 上に。
かの時 この時 時は 隔つれ、
此処(ここ)と 彼処(かしこ)と 所は 異れ、
はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝(かは)らぬ かの 黒旗よ。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より」
*
言葉なき歌
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼(あを)く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡(あは)い
決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女(むすめ)の眼(め)のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい
それにしてもあれはとほいい彼方(かなた)で夕陽にけぶつてゐた
号笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない
さうすればそのうち喘(あへ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』」より)
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