「汚れつちまつた悲しみに…」の透明感
小林秀雄が
中也の詩は、
出来不出来を論じても無意味だ、
というようなことを記したのは
中原中也という詩人によって作られた詩が
ことごとく
生まの肉体、生身の感動を経て
選び取られた言葉の切れ端であり
その切れ端は
他人によっては分解できない
血のようなものへと変成され
それを詩(うた)にした、
そのことを抜きに
巧拙を云々することの馬鹿馬鹿しさを
言いたかったからで、
だからといって、
中原中也の詩に出来不出来がなかった、
ということではありません。
中也の詩の一つ一つに
中也という詩人の血脈が流れ
作品のどれもが
斬れば血しぶきのほとばしるようなものばかりであっても
それらには、出来不出来が
当然のことながらありました。
詩人は
自作の出来不出来のために
日々、苦闘し、
大都会を彷徨(さまよ)い、
酒場に通い、
討論し、
とっくみあいの喧嘩もし……
と言えるほどに
「言葉」や「詩句」と
たたかいました。
たたかう、という言葉が最も相応しい、
と言えるほどに、
悲しみの詩人が
詩を生み出す有様は
まさに、傷だらけ、
満身創痍(まんしんそうい)でした。
それゆえにこそ
中也作品のことごとくが
あの、名指し得ない、
なんともいえない、
透明感を帯びるにいたったというわけであります。
というわけで
あまりにも有名過ぎて
その切れ端は
日本人のだれもが知っている
代表作「汚れつちまつた悲しみに……」の
詩作品の全体に
じっくりと
向かい合ってみましょう。
*
汚れつちまつた悲しみに……
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より」
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