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2009年6月 5日 (金)

詩人論の詩<4>「秋の一日」のきれくづ

小林秀雄が、
どんな切れっぱしにも彼自身があった。
と、記すとき、
「秋の一日」という
中也の詩が頭にあったか、
この詩の最終連、

ぽけっとに手を突込んで
路次を抜け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。

を、思い出す人は多くいることに違いありません。

横浜に遊んだときの歌と
伝えられているこの作品、
中原中也の詩作法の一端を示していて
「山羊の歌」の中でも
印象に残るものの一つでしょうか、

散歩や遊興や旅行や……
詩人が動いているところには、
必ず、
詩を作ろうという意志があり、
詩の切れ端を捕まえようとする詩人があるのだな、と
誰もが、
この詩に触れて
詩人が、
まずは、詩の全体というより
詩の一部、
布の切れ屑が見つかれば
詩は生まれてくるもの、という
詩作法になじんでいることを知ります

すべての詩を
このように作ったとは言えないのでしょうが
詩句の1行でも浮かんだら
それを元にして
1篇の詩に作りあげていく詩人の姿が
目に浮かぶようで、
親しみが湧いてきます。

小林秀雄が言うのは
こうして得られた詩句の
どの一つにも
生ま身の詩人の声が通い
血が流れているから、
出来不出来などという
テクニックを云々することは意味のないことだ、
という洞察です。

 *
 秋の一日

こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍(わだち)との音によつて、
サイレンの棲む海に溺れる。 

夏の夜の露店の会話と、
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩のかなたの地平の目の色。

今朝はすべてが領事館旗のもとに従順で、
私は錫(しやく)と広場と天鼓のほかのなんにも知らない。
軟体動物のしやがれ声にも気をとめないで、
紫の蹲(しやが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

(水色のプラットホームと
躁(はしや)ぐ少女と嘲笑(あざわら)ふヤンキイは
いやだ いやだ!)

ぽけっとに手を突込んで
路次を抜け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。

(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより)

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