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2009年6月22日 (月)

ダダイズム詩の倦怠メロディー

「ノート1924」は
1924年(大正13年)から1928年(昭和3年)の
5年間、中原中也が使っていたノートで
大岡昇平ら新編中原中也全集の編集委員は
「未発表詩篇」の中に1項目として分類しています。

詩篇は、全部で51篇。
「春の日の夕暮」の草稿は、
前半部にあり、
その「春の日の夕暮」の数篇前に
「倦怠に握られた男」
「倦怠者の持つ意志」の2作品があります。

この「倦怠」は、
「けだい」であったかわかりませんが、
ルビは振られていないので
「けんたい」であったと考えるのが自然です。

「春の日の夕暮」の
気だるい調べと
この「倦怠2作品」が
同じ時期に作られたことは、
ダダイズムの詩と
「倦怠のメロディー」が、
同根であることの証(あかし)
を示しているものです。

さらに、「倦怠」は、
「生前発表作品」に
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」と
「倦怠(へとへとの、わたしの肉体(からだ)よ)の
2作品があり、
発表作品であることをみても、
詩人の主要なテーマを形成していたことは
確かなことです。

「倦怠」は、
「朝の歌」を経て、
「汚れつちまつた悲しみに…」に至るまでも
歌い継がれていく
通奏低音もしくは主調音
といってもよいほどのものなのです。

(つづく)

 *
 倦怠に握られた男

俺は、俺の脚だけなして
脚だけ歩くのをみてゐよう——
灰色の、セメント菓子を噛みながら
風呂屋の多いみちをさまよへ——
流しの上で、茶碗と皿は喜ぶに
俺はかうまで三和土(タタキ)の土だ——

 *
 倦怠者の持つ意志

タタミの目
時計の音
一切が地に落ちた
だが圧力はありません

舌がアレました
ヘソが凝視(みつ)めます
一切がニガミを喜びました
だが反作用はありません

此の時
夏の日の海が現はれる!
思想と体が一緒に前進する
努力した意志ではないからです

  *    
 倦 怠

倦怠の谷間に落つる
この真ッ白い光は、
私の心を悲しませ、
私の心を苦しくする。

真ッ白い光は、沢山の
倦怠の呟(つぶや)きを掻消(かきけ)してしまひ、
倦怠は、やがて憎怨となる
かの無言なる惨(いた)ましき憎怨………

忽(たちま)ちにそれは心を石と化し
人はただ寝転ぶより仕方もないのだ
同時に、果されずに過ぎる義務の数々を
悔いながらにかぞへなければならないのだ。

はては世の中が偶然ばかりとみえてきて、
人はただ、絶えず慄(ふる)へる、木の葉のやうに
午睡から覚めたばかりのやうに
呆然(ぼうぜん)たる意識の裡(うち)に、眼(まなこ)光らせ死んでゆくのだ

 *
 倦 怠

へとへとの、わたしの肉体(からだ)よ、
まだ、それでも希望があるといふのか?
(洗ひざらした石の上(へ)に、
今日も日が照る、午後の日射しよ!)

市民館の狭い空地(あきち)で、
子供は遊ぶ、フットボールよ。
子供のジャケツはひどく安物、
それに夕陽はあたるのだ。

へとへとの、わたしの肉体(からだ)よ、
まだ、それでも希望があるといふのか?
(オヤ、お隣りでは、ソプラノの稽古、
たまらなく、可笑(おか)しくなるがいいものか?)

オルガンよ!混凝土(コンクリート)の上なる砂粒(さりふ)よ!
放課後の小学校よ! 下駄箱よ!
おお君等聖なるものの上に、
——僕は夕陽を拝みましたよ!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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