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2009年7月 6日 (月)

ダダのデザイン<2>道化の臨終(1)

中原中也が
「山羊の歌」の編集にかかったのは
1932年(昭和7年)4月、
といわれていますから
「ノート1924」が
書き出された頃から7、8年、
その間、詩人は、
様々な経験をしました。

京都に住み、長谷川泰子と同棲、そして上京、
詩人富永太郎との邂逅および死別、
小林秀雄と泰子をめぐる三角関係、
泰子の離反、
音楽集団「スルヤ」との親交、
「白痴群」創刊と廃刊、
東京での孤絶した暮らし……

ダダイズムの詩「春の夕暮」は、
詩人が経験したこれらの時代を経て、
7、8年後に
詩集「山羊の歌」の編集をはじめた頃に
ふたたび、
詩人によって
ピックアップされ、

読者へ届けられるための
新たなデザインをほどこされて、
「春の日の夕暮」として
再生しました。

「ノート1924」に書かれた
この作品は、この間、
詩人によって
読み返されたことがあったのでしょうか
放りっぱなしにされていたのでしょうか
7、8年の間、眠っていたのでしょうか……。

この疑問は、ただちに、
ダダイズムは、
中原中也の中で
どのような状態にあったのか
眠っていただけなのか
絶えず活動を続ける活火山のようではなかったにせよ
休火山のようなものだったのか、
というような問いへと繋がっていきます

そこで、しばしば、
引き合いに出されるのが、
1934年(昭和9年)年に作られた
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」です。

タイトルを補足するかのように
「ダダイスティックな練習曲」
という意味の副題をつけられた
この作品は、
中原中也のダダイズムのその後を探る
手がかりになる
重要な位置にあります。

 *      
 道化の臨終(Etude Dadaistique)

   序 曲

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。
君ら想はないか、曠野(こうや)の果に、
夜毎姉妹の灯ともしてゐると。

君等想はないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎやう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形(むぎやう)の瞳、
かの、かにかくに底の底……

心をゆすり、ときめかし、
嗚咽(おえつ)・哄笑一時(いつとき)に、肝に銘じて到るもの、
清浄こよなき漆黒のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……

     *     *
        *

空の下(もと)には 池があつた。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかほりと はるけくて、
今年も春は 土肥やし、
雲雀(ひばり)は空に 舞ひのぼり、
小児が池に 落つこつた。

小児は池に仰向(あおむ)けに、
池の縁〈ふち〉をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びつくり)し、
空もみないで 泣きだした。

僕の心は 残酷な、
僕の心は 優婉(ゆうえん)な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。

僕には何も 云はれない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、
僕は砂粒に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジツと瞶(みつ)めて をりました。

どうぞ皆さん僕といふ、
はてなくやさしい 痴呆症、
抑揚の神の 母無(おやな)し子(ご)、
岬の浜の 不死身貝、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能(あた)ふかぎりの 止揚場(しやうぢやう)、
天(あめ)が下なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
ばかげたものでも ござりませうが、
大目にあづかる 為体(ていたらく)。

かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、
泣くも笑ふも 朝露の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故、
笛のうちなる 笛の笛、
——次第に舌は 縺れてまゐる——
至上至福の 臨終(いまは)の時を、
いやいや なんといはうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れてゐられるもの……
あの あれを……といつて、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩悔ゆる涙とか?
えゝまあ それでもござりまするが……
では——
えイ、じれつたや
これやこの、ゆくもかへるも
別れては、消ゆる移り香、
追ひまはし、くたびれて、
秋の夜更に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……
さて われに返りはするものの、
野辺の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳がこつち向き、
——狂つた心としたことが、
何を云ひ出すことぢややら……
さはさりながら さらばとて、
正気の構へを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドツコイシヨのシヨ、
ダンスしたとてドツコイシヨのシヨ。
なぞと云つたら 笑はれて、
ささも聴いては 貰へない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今茲(ここ)に 不得要領……
かにかくに 書付けましたる、
ほんのこれ、心の片端〈はしくれ〉、
不備の点 恕(ゆる)され給ひて、
希(ねが)はくは お道化(どけ)お道化て、
ながらへし 小者にはあれ、
冥福の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給へ。
             (一九三四・六・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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