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2009年7月10日 (金)

ダダのデザイン<3>道化の臨終(2)

大岡昇平が、

「道化の臨終」は、ダダ的なのであって、ダダそのものではない

と言ったからといって
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」が、
ダダイズムの詩ではない、
ということにはなりません。

大岡昇平の考えるダダイズムと
中原中也の考えるダダイズムとは
同じモノであるとは言えないのですし、
そもそも
大岡昇平は
なにを「ダダ的」と言い、
なにを「ダダイズムそのもの」と言っているのか
あいまいなところがあります。

中原中也は、この詩を
Etude Dadaistiqueと副題をつけたのですから、
これを、
ダダ風の練習曲、と訳すか、
ダダの練習曲、と訳すのか、という問題ではなく、
この詩は、
ダダの詩、と解するのが自然です。

中原中也は、この詩を
ダダの詩の練習曲と
「謙遜」して副題をつけたのだ、
と積極的に解する方が自然です。

「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は、
もはや、
1924年ころのダダイズムの詩とは、
かけ離れたものになっていますが、
そのことは
1924年当時のダダイズムと
異なるダダイズムの詩であることを示しはするものの
1934年のダダイズムの詩であることを
否定するものではなく、
それを、
ダダイズムの詩であり、
その練習曲であった、と
受け取れる作品と言っても
おかしくありません。

とにかく
読んでみましょう。

なにやら、物語を期待させる
はじまり……

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。

火を吹くドラゴンが
海の沖に住んでいる
ということを、
キミ、想像してみたまえ

荒野の果てに
暮らしている姉妹のことを
思ってみたまえ

永遠の夜の海で
繰り返す波
そこで泣く
形のない生き物
そこで見開かれた形のない瞳……を
キミは、思ってみたことがあるか

心を揺する
ときめかす
嗚咽し哄笑し
肝に染みいる
このうえなく清浄な暗闇(くらやみ)、漆黒(しっこく)
暖かい紺碧のそら……を
想像してみたまえ!

これを語っているのは
道化です。

(つづく)

 *      
 道化の臨終(Etude Dadaistique)    

   序 曲

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。
君ら想はないか、曠野(こうや)の果に、
夜毎姉妹の灯ともしてゐると。

君等想はないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎやう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形(むぎやう)の瞳、
かの、かにかくに底の底……

心をゆすり、ときめかし、
嗚咽(おえつ)・哄笑一時(いつとき)に、肝に銘じて到るもの、
清浄こよなき漆黒のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……

     *     *
        *

空の下(もと)には 池があつた。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかほりと はるけくて、
今年も春は 土肥やし、
雲雀(ひばり)は空に 舞ひのぼり、
小児が池に 落つこつた。

小児は池に仰向(あおむ)けに、
池の縁〈ふち〉をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びつくり)し、
空もみないで 泣きだした。

僕の心は 残酷な、
僕の心は 優婉(ゆうえん)な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。

僕には何も 云はれない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、
僕は砂粒に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジツと瞶(みつ)めて をりました。

どうぞ皆さん僕といふ、
はてなくやさしい 痴呆症、
抑揚の神の 母無(おやな)し子(ご)、
岬の浜の 不死身貝、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能(あた)ふかぎりの 止揚場(しやうぢやう)、
天(あめ)が下なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
ばかげたものでも ござりませうが、
大目にあづかる 為体(ていたらく)。

かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、
泣くも笑ふも 朝露の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故、
笛のうちなる 笛の笛、
――次第に舌は 縺れてまゐる――
至上至福の 臨終(いまは)の時を、
いやいや なんといはうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れてゐられるもの……
あの あれを……といつて、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩悔ゆる涙とか?
えゝまあ それでもござりまするが……
では――
えイ、じれつたや
これやこの、ゆくもかへるも
別れては、消ゆる移り香、
追ひまはし、くたびれて、
秋の夜更に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……
さて われに返りはするものの、
野辺の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳がこつち向き、
――狂つた心としたことが、
何を云ひ出すことぢややら……
さはさりながら さらばとて、
正気の構へを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドツコイシヨのシヨ、
ダンスしたとてドツコイシヨのシヨ。
なぞと云つたら 笑はれて、
ささも聴いては 貰へない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今茲(ここ)に 不得要領……
かにかくに 書付けましたる、
ほんのこれ、心の片端〈はしくれ〉、
不備の点 恕(ゆる)され給ひて、
希(ねが)はくは お道化(どけ)お道化て、
ながらへし 小者にはあれ、
冥福の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給へ。
             (一九三四・六・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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