ダダのデザイン/春の日の夕暮
中原中也が、
初めて世に問うた
自選詩集「山羊の歌」の冒頭に
「春の日の夕暮」を配置したことは
この詩への
詩人の並々ならぬ思いが
込められていることを想像させます。
その詩はダダイズムの詩でした。
後に「ノート1924」と
大岡昇平ら考証者によって呼ばれることになる
大学ノートに、
詩人は
1924年(大正13年)から1928年(昭和3年)の間に作った
詩篇や創作メモなどを綴っています。
その中から
詩集「山羊の歌」へ選んだのが
「春の日の夕暮」1篇だけなのですが
ノートでのタイトルは
「春の夕暮」でした。
詩集編集の段階で
タイトルと
内容の一部が変更されたのです。
両作品を読み比べて
大きな変更はないように見えますが……
世の中に広く伝わっている
第2連の「月の光のヌメランと」は
もと「月の光のノメランと」だったことを知り、
オノマトペの名手だった詩人の
繊細な語彙感覚が
あらためてわかるほか、
行分けや字空きの調整、
漢字をひらがなに変えたり、
その逆もあったり、
難解語を削除したり、
文語を口語に直したり、
その逆もあったり、
音数律を整えることも
この編集段階では、
自覚されていたといえるかも知れませんし、
色々と
細やかな創作意識で
詩全体に
フィニッシュワークを加えていることがわかり……
じっくり読み比べていると
うん、これだ! これだ!
やっぱり、ここには
すごいものがある!
非凡なものがある! と、
中原中也という詩人に
惚れ直しを迫られるような
ちょっとした感動を覚えます。
「春の夕暮」は
「春の日の夕暮」になって
見違えるほどに
すっきりしていることに気づき、
多くのひとに記憶され
愛唱されることになったわけが
ここにあることを知って、
衝撃すら覚えることになるのです。
このあたり、
デザイナーが
自らの作品を完成形へと
最後の仕立て直しをするときの
呼吸というもの似ていて、
その息づかいの中にいる気分になります。
これは、
優れた編集感覚の底にある
優れたデザイン感覚が
見え隠れしているのに
触れるような経験とでもいえるものです。
*
春の夕暮
塗板(トタン)がセンベイ食べて
春の日の夕暮れは静かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮れは穏やかです
あゝ、案山子(かかし)はなきか――あるまい
馬嘶(いなな)くか――嘶きもしまい
ただただ青色の月の光のノメランとするまゝに
従順なのは春の日の夕暮れか
ポトホトと臘涙(ろうるい)に野の中に伽藍は赤く
荷馬車の車、油を失ひ
私が歴史的現在に物を言へば
嘲る嘲る空と山とが
瓦が一枚はぐれました
これから春の日の夕暮れは無言ながら
前進します
自(み)らの静脈管の中へです
*
春の日の夕暮
トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮れは穏やかです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮れは静かです
吁(ああ)! 案山子(かかし)はないか――あるまい
馬嘶(いなな)くか――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮れか
ポトホトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが
瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮れは
無言ながら 前進します
自(み)らの 静脈管の中へです
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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