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2009年8月

2009年8月27日 (木)

ダダのデザイン<11>狂気の手紙

誰に宛てた
手紙なのでしょうか?

狂気が
道化の口を借りて
手紙の形で
届けられます。

ぼくは、
気が狂っている者ですが、
袖の振り合いのような人生のこと
あなたさまとも
縁あって、こうして、
お話出来ているというわけですから
聞いてやってください
危害を加えるわけでもありませんから
折角のお楽しみとでも思っていただいてですね
どうか、ぼくの気がおかしくなったところを
とくとご覧になっていただきたく
平に平に
お願い申し上げる次第でございます。

ということで言っておきますが
今回は、気がフーッと抜けました
キンポウゲになっちゃったのですよ
野原のハーブと春の空かな
これといった理由があるんじゃなくて
タンポポとか、煙とかのお仲間になってしまっただけです
このことは一筆お知らせ致します

なお、また近く、
日陰などを見ることがありましたら
(涼しい日がありましたら、か?)
すぐにでも行って、
キセルの羅宇替えや紙芝居のことなど
たっぷりとお話しします
葱や塩のこともたくさんお話しします
いや、地球のことも、
メリーゴーランドのことも、
鉢や火箸のことや……
なんでもお話し申し上げます
では。

 *
 狂気の手紙
袖の振合い他生の縁

僕事、気違ひには御座候(ござさうら)へども

格別害も致し申さず候間

切角(せっかく)御一興とは思召され候て

何卒 気の違つた所なぞ
御高覧の程伏而懇願仕候(ふしてこんがんつかまつりそうろう)

陳述(のぶれば) 此度(たび)は気がフーッと致し

キンポーゲとこそ相成候(あいなりそうろう)

野辺の草穂と春の空

何仔細あるわけにも無之(これなく)処

タンポポや、煙の族とは相成候間

一筆御知らせ申上候

猶(なお)、また近日日陰なぞ見申し候節は

早速参上、羅宇(ラウ)換へや紙芝居のことなぞ

詳しく御話し申上候

お葱(ねぎ)や塩のことにても相当お話し申上候

否、地球のことにてもメリーゴーランドのことにても

お鉢のことにても火箸のことにても何にしても御話申上可候怱々(そうそう)
           (一九三四・四・二二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年8月26日 (水)

ダダのデザイン<10>ピチベの哲学

「ピチベの哲学」は、
1934年2月、
「紀元」に発表されました。

ピチベは、
名無しの権兵衛(ごんべい)の兵衛とか
清兵衛(せいべい)さんとか
野次郎兵衛(やじろうべえ)とか、の
べい、べえにつながったり、

遠い外国、
たとえばイタリアあたりの、
古代ローマの都市の一つであった町に
住んでいた兵士の名前とかを
思わせたりしますが
ほんとのところは
なんだかわかりません。

人名と考えるのが妥当で
詩人が
想像の世界で親しい「道化」の
中の一人に付けた名前と
ここでは考えておきましょう。

俺は愁(かな)しいのだよ。
の俺は、道化である俺、ピチベで、
ピチベは詩人のことでもあり、
その俺が、
いきなり、悲しい、と歌い出します。

京都時代のダダ詩は
「道化」を介在しないで
歌われていましたが
1934年になると、
「道化」の口を借りて
歌われるようになるケースが増えるのです。

各連の冒頭の、
チヨンザイチヨンザイピーフービーも、
ジュゲムジュゲムゴコーノスリキリー
アブラカタブラ
エコエコアザラク
エロイムエッサイムエロイムエッサイム
とかの呪文のつもりなのか

その呪文を否定し
揶揄(やゆ)するものなのか
ラテン語の1節なのか
サンスクリットなのか
ヘブライ語なのか……

意味するものがなんだかは
はっきりとはわかりません
わかろうとすれば
ますますわからなくなることで
目的を達したような言葉です。

反面、どのような意味を与えても
通じるようでもある語句の連なりは
これこそ
ダダ的なボキャブラリー
といってよいでしょうが
ま、これも深追いしないで
語呂や語感を味わっているに
越したことはありません。

月が、
俺には
中にお姫様がいて
チャールストンを踊っているのに、
それは見えないから、
静かなんだがなあ。

だれも
このことをわかっていないようだなあ
このことをわかろうとしないなあ
チヨンザイチヨンザイピーフービーだよなあ
チヨンザイチヨンザイピーフービーだよなあ

さて俺は落付かう、なんてな、
さういふのが間違つてゐるぞォ
チヨンザイチヨンザイピーフービーだよなあ

月が美しいのはさ、
あのお月様の中のお姫様のようにさ
なんにも考えずに絶えず踊っているからさ

月の美しさを歌う中で
濡れ落ち葉にでもなろうとしている
凡人を痛撃します
しかし
その口調は
京都時代の激しさは消えて
穏やかです。
道化の口振りです。

 *
 ピチベの哲学

チヨンザイチヨンザイピーフービー
俺は愁(かな)しいのだよ。
――あの月の中にはな、
色蒼ざめたお姫様がゐて……
それがチャールストンを踊つてゐるのだ。
けれどもそれは見えないので、
それで月は、あのやうに静かなのさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
チャールストンといふのはとてもあのお姫様が踊るやうな踊りではないけども、
そこがまた月の世界の神秘であつて、
却々(なかなか) 六ヶ敷(むつかし)いところさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
だがまたとつくと見てゐるうちには、
それがさうだと分つても来るさ。
迅(はや)いといへば迅い、緩(おそ)いといへば緩いテムポで、
ああしてお姫様が踊つてゐられるからこそ、
月はあやしくも美しいのである。
真珠のやうに美しいのである。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
ゆるやかなものがゆるやかだと思ふのは間違つてゐるぞォ。
さて俺は落付かう、なんてな、
さういふのが間違つてゐるぞォ。
イライラしてゐる時にはイライラ、
のんびりしてゐる時にはのんびり、
あのお月様の中のお姫様のやうに
なんにも考へずに絶えずもう踊つてゐれあ
それがハタから見れあ美しいのさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
真珠のやうに美しいのさ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年8月24日 (月)

ダダのデザイン<9>1934年の「道化」たち

「中原中也必携」(学燈社「別冊国文学NO4、1979夏季号」の編著者・吉田凞生も、
中原中也の1934年、昭和9年の制作傾向について、
「道化」が顕著に現れる年と述べ、
さらに突っ込んだ解釈を加えて、
次のように記していることには、
大いに注目しておかなくてはなりません。

昭和9年は「お道化うた」のような「道化」の作品が目立つ年である。

列挙すると、二月「ピチベの哲学」を「紀元」に発表、
四月「狂気の手紙」「骨」、
六月「道化の臨終」、
十月「秋岸清涼居士」「月下の告白」、
十二月「星とピエロ」「誘蛾燈詠歌」を書くといった工合である。

「道化の臨終」は「Etude Dadaistique」と副題されていて、これらの詩の「お道化」が京都時代のダダイズムと結びついていることを思わせる。

あるいはこの昭和九年を第二の出発期と考えるべきかもしれない。

* 改行・行空きを加えるなど、手を加えてあります。

ここで、
吉田凞生が列挙している
1934年の「道化」に関わる作品のすべてを、
読んでおきましょう。

 *
 ピチベの哲学

チヨンザイチヨンザイピーフービー
俺は愁(かな)しいのだよ。
――あの月の中にはな、
色蒼ざめたお姫様がゐて……
それがチャールストンを踊つてゐるのだ。
けれどもそれは見えないので、
それで月は、あのやうに静かなのさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
チャールストンといふのはとてもあのお姫様が踊るやうな踊りではないけども、
そこがまた月の世界の神秘であつて、
却々(なかなか) 六ヶ敷(むつかし)いところさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
だがまたとつくと見てゐるうちには、
それがさうだと分つても来るさ。
迅(はや)いといへば迅い、緩(おそ)いといへば緩いテムポで、
ああしてお姫様が踊つてゐられるからこそ、
月はあやしくも美しいのである。
真珠のやうに美しいのである。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
ゆるやかなものがゆるやかだと思ふのは間違つてゐるぞォ。
さて俺は落付かう、なんてな、
さういふのが間違つてゐるぞォ。
イライラしてゐる時にはイライラ、
のんびりしてゐる時にはのんびり、
あのお月様の中のお姫様のやうに
なんにも考へずに絶えずもう踊つてゐれあ
それがハタから見れあ美しいのさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
真珠のやうに美しいのさ。

 *
 狂気の手紙

袖の振合い他生の縁
僕事、気違ひには御座候(ござさうら)へども
格別害も致し申さず候間
切角(せっかく)御一興とは思召され候て
何卒 気の違つた所なぞ
御高覧の程伏而懇願仕候(ふしてこんがんつかまつりそうろう)

陳述(のぶれば) 此度(たび)は気がフーッと致し
キンポーゲとこそ相成候(あいなりそうろう)
野辺の草穂と春の空
何仔細あるわけにも無之(これなく)処
タンポポや、煙の族とは相成候間
一筆御知らせ申上候

猶(なお)、また近日日陰なぞ見申し候節は
早速参上、羅宇(ラウ)換へや紙芝居のことなぞ
詳しく御話し申上候
お葱(ねぎ)や塩のことにても相当お話し申上候
否、地球のことにてもメリーゴーランドのことにても
お鉢のことにても火箸のことにても何にしても御話申上可候怱々(そうそう)
           (一九三四・四・二二)

 *
 骨

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑(をか)しい。

ホラホラ、これが僕の骨——
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、——僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

 *      
 道化の臨終(Etude Dadaistique)   

   序 曲

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。
君ら想はないか、曠野(こうや)の果に、
夜毎姉妹の灯ともしてゐると。

君等想はないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎやう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形(むぎやう)の瞳、
かの、かにかくに底の底……

心をゆすり、ときめかし、
嗚咽(おえつ)・哄笑一時(いつとき)に、肝に銘じて到るもの、
清浄こよなき漆黒のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……

     *     *
        *

空の下(もと)には 池があつた。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかほりと はるけくて、
今年も春は 土肥やし、
雲雀(ひばり)は空に 舞ひのぼり、
小児が池に 落つこつた。

小児は池に仰向(あおむ)けに、
池の縁〈ふち〉をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びつくり)し、
空もみないで 泣きだした。

僕の心は 残酷な、
僕の心は 優婉(ゆうえん)な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。

僕には何も 云はれない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、
僕は砂粒に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジツと瞶(みつ)めて をりました。

どうぞ皆さん僕といふ、
はてなくやさしい 痴呆症、
抑揚の神の 母無(おやな)し子(ご)、
岬の浜の 不死身貝、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能(あた)ふかぎりの 止揚場(しやうぢやう)、
天(あめ)が下なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
ばかげたものでも ござりませうが、
大目にあづかる 為体(ていたらく)。

かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、
泣くも笑ふも 朝露の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故、
笛のうちなる 笛の笛、
――次第に舌は 縺れてまゐる――
至上至福の 臨終(いまは)の時を、
いやいや なんといはうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れてゐられるもの……
あの あれを……といつて、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩悔ゆる涙とか?
えゝまあ それでもござりまするが……
では――
えイ、じれつたや
これやこの、ゆくもかへるも
別れては、消ゆる移り香、
追ひまはし、くたびれて、
秋の夜更に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……
さて われに返りはするものの、
野辺の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳がこつち向き、
――狂つた心としたことが、
何を云ひ出すことぢややら……
さはさりながら さらばとて、
正気の構へを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドツコイシヨのシヨ、
ダンスしたとてドツコイシヨのシヨ。
なぞと云つたら 笑はれて、
ささも聴いては 貰へない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今茲(ここ)に 不得要領……
かにかくに 書付けましたる、
ほんのこれ、心の片端〈はしくれ〉、
不備の点 恕(ゆる)され給ひて、
希(ねが)はくは お道化(どけ)お道化て、
ながらへし 小者にはあれ、
冥福の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給へ。
             (一九三四・六・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 *
 お道化うた

月の光のそのことを、
盲目少女(めくらむすめ)に教へたは、
ベートーヱ゛ンか、シューバート?
俺の記憶の錯覚が、
今夜とちれてゐるけれど、
ベトちやんだとは思ふけど、
シュバちやんではなかつたらうか?

霧の降つたる秋の夜に、
庭・石段に腰掛けて、
月の光を浴びながら、
二人、黙つてゐたけれど、
やがてピアノの部屋に入り、
泣かんばかりに弾き出した、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

かすむ街の灯とほに見て、
ウヰンの市(まち)の郊外に、
星も降るよなその夜さ一と夜、
虫、草叢(くさむら)にすだく頃、
教師の息子の十三番目、
頸の短いあの男、
盲目少女(めくらむすめ)の手をとるやうに、
ピアノの上に勢ひ込んだ、
汗の出さうなその額、
安物くさいその眼鏡、
丸い背中もいぢらしく
吐き出すやうに弾いたのは、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

シュバちやんかベトちやんか、
そんなこと、いざ知らね、
今宵星降る東京の夜(よる)、
ビールのコップを傾けて、
月の光を見てあれば、
ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、
はやとほに死んだことさへ、
誰知らうことわりもない……

*とちれて 山口方言で、とっさの判断がつかない様子をいう。「とちる」の意味を含むか。
(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『在りし日の歌』より)

 *
 秋岸清凉居士 
消えていつたのは、
あれはあやめの花ぢやろか?
いいえいいえ、消えていつたは、
あれはなんとかいふ花の紫の莟(つぼ)みであつたぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟みであつたぢやろ 
     ※ 
とある侘(わ)びしい踏切のほとり
草は生え、すゝきは伸びて
その中に、
焼木杭(やけぼつくひ)がありました 
その木杭に、その木杭にですね、
月は光を灑(そそ)ぎました 
木杭は、胡麻塩頭の塩辛声(しよつかれごえ)の、
武家の末裔(はて)でもありませうか?
それとも汚ないソフトかぶつた
老ルンペンででもありませうか 
風は繁みをさやがせもせず、
冥府(あのよ)の温風(ぬるかぜ)さながらに
繁みの前を素通りしました 
繁みの葉ッパの一枚々々

伺ふやうな目付して、

こつそり私を瞶(みつ)めてゐました 
月は半月(はんかけ)  鋭く光り
でも何時もより
可なり低きにあるやうでした 
蟲(むし)は草葉の下で鳴き、
草葉くぐつて私に聞こえ、
それから月へと昇るのでした 
ほのぼのと、煙草吹かして懐(ふところ)で、
手を暖(あつた)めてまるでもう
此処(ここ)が自分の家のやう
すつかりと落付きはらひ路の上(へ)に
ヒラヒラと舞ふ小妖女(フエアリー)に
だまされもせず小妖女(フエアリー)を、
見て見ぬ振りでゐましたが
やがてして、ガツクリとばかり
口開(あ)いて後ろに倒れた
頸(うなじ) きれいなその男
秋岸清涼居士といひ——僕の弟、
月の夜とても闇夜ぢやとても
今は此の世に亡い男 
今夜侘びしい踏切のほとり
腑抜(ふぬけ)さながら彳(た)つてるは
月下の僕か弟か
おほかた僕には違ひないけど
死んで行つたは、
——あれはあやめの花ぢやろか
いいえいいえ消えて行つたは、
あれはなんとかいふ花の紫の莟ぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟か知れず
あれは果されなかつた憧憬に窒息しをつた弟の
弟の魂かも知れず
はた君が果されぬ憧憬であるかも知れず
草々も蟲の音も焼木杭も月もレ−ルも、
いつの日か手の掌(ひら)で揉んだ紫の朝顔の花の様に
揉み合はされて悉皆(しつかい)くちやくちやにならうやもはかられず
今し月下に憩(やす)らへる秋岸清凉居士ばかり
歴然として一基の墓石
石の稜(りょう) 劃然(かくぜん)として
世紀も眠る此の夜さ一と夜
——蟲が鳴くとははて面妖(めんよう)な
エヂプト遺蹟もかくまでならずと
首を捻(ひね)つてみたが何
ブラリブラリと歩き出したが
どつちにしたつておんなしことでい
さてあらたまつて申上まするが
今は三年の昔の秋まで在世
その秋死んだ弟が私の弟で
今ぢや秋岸清凉居士と申しやす、ヘイ。 

 * 
 月下の告白 
    青山二郎に 
劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう) 
あばた面(づら)なる墓の石 
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜 
月の光に明るい墓場に 
エジプト遺跡もなんのその 
いとちんまりと落居(おちい)てござる 
この僕は、生きながらへて 
此の先何を為すべきか 
石に腰かけ考へたれど 
とんと分らぬ、考へともない 
足の許(もと)なる小石や砂の 
月の光に一つ一つ 
手にとるやうにみゆるをみれば 
さてもなつかしいたはししたし 
さてもなつかしいたはししたし 
  (一九三四・一〇・二〇) 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 *
 星とピエロ

何、あれはな、空に吊るした銀紙ぢやよ
かう、ボール紙を剪(き)つて、それに銀紙を張る、
それを綱(あみ)か何かで、空に吊るし上げる、
するとそれが夜になつて、空の奥であのやうに
光るのぢや。分つたか、さもなけれあ空にあんあものはないのぢや

それあ学者共は、地球のほかにも地球があるなぞといふが
そんなことはみんなウソぢや、銀河系なぞといふのもあれは
女(をなご)共の帯に銀紙を擦(す)り付けたものに過ぎないのぢや
ぞろぞろと、だらしもない、遠くの方ぢやからええやうなものの
ぢやによつて、俺(わし)なざあ、遠くの方はてんきりみんぢやて

見ればこそ腹も立つ、腹が立てば怒りたうなるわい
それを怒らいでジツと我慢してをれば、神秘だのとも云ひたくなる
もともと神秘だのと云ふ連中(やつ)は、例の八ッ当りも出来ぬ弱虫ぢやで
誰怒るすぢもないとて、あんまり始末がよすぎる程の輩(やから)どもが
あんなこと発明をしよつたのぢやわい、分かつたらう

分からなければまだ教へてくれる、空の星が銀紙ぢやないといふても
銀でないものが銀のやうに光りはせぬ、青光りがするつてか
それや青光りもするぢやろう、銀紙ぢやから喃(なう)
向きによつては青光りすることもあるぢや、いや遠いつてか
遠いには正に遠いいが、それや吊し上げる時綱を途方もなう長うしたからのことぢや

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)


 誘蛾燈詠歌

   1

ほのかにほのかに、ともつてゐるのは
これは一つの誘蛾燈、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともつてゐるのは
誘蛾燈、ひときは明るみひときはくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともつてゐるのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともつてゐるのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときは明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一夜、此処にともるは誘蛾燈

   2

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆しゃば)だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいへるし刹那的(せつなてき)とも考へられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)ひ気もあるといふのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるといふのだからおほけなきものです
もともとはといへば終局の所は、案じあぐむでも分らない所から
此処は此処だけで一心にならうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いから可愛がる、従つて
その子はまたその子の子を可愛がるといふふうになるうちに
入籍だの誕生の祝ひだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であらうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆といふものは
なにや分らずたゞいぢらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還に流れ消えてゆくを
銀河思ひ合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だの云はれてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考へてのやうやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活といふことしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思ひそぞろになりながら
而も(しかも)義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびつくりしてゐる

   3

          あをによし奈良の都の

それではもう、僕は青とともに心中しませうわい
くれなゐだのイエローなどと、こちや知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなほ淡(あは)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きてゐたいが業(ごふ)のはじまり、かにかくにちよつぴりと働いては
酒を飲み、何やらかなしく、これこのやうにぬけぬけと
まだ生きてをりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)うて、耳ゴーと鳴つて口きけませんだぢやい

   4

          やまとやまと、やまとはくにのまほろば…………  

何云ひなはるか、え?あんまり責めんといてくれやす
責めはつたかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)ひますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどつしやろ、しかし柳腰もええもんですえ?

     (あゝ、そやないかァ)
     (あゝ、そやないかァ)

   5 メルヘン

寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前と金時は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかへられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしてをりました

   *

或るおぼろぬくい春の夜でありました
平の忠度(ただのり)は木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗ひました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
        (一九三四・一二・一六)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年8月21日 (金)

ダダのデザイン<8>サーカス

幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました
と、はじまる「サーカス」には、
道化は登場しませんが、
サーカスのイメージには
道化、ピエロ、クラウン……を
欠かすことはできませんから、
「サーカス」には
見えない道化の存在が感じられます、
と言ってしまえば、
荒唐無稽(こうとうむけい)なことでしょうか。

「山羊の歌」の
3番目におかれ、
ダダの影響から
抜け出た作品と言われる
「朝の歌」より前におかれた「サーカス」は、
ダダの詩だとは到底言えませんし、
ダダの詩などとわざわざ言う必要もありませんが、
ダダの世界に無縁とも言えません。

そこに
「道化」がいるからです。

「サーカス」には
道化は登場しませんが
サーカスという場の設定自体が
すでに
道化の存在を想像させますし、
「サーカス」という作品に、
道化の眼差しは希薄であっても
道化の気配を嗅ぎ取ることは容易です。
そこには
「道化」がいる、
と言ってもおかしくはないでしょう。

「サーカス」に出てこなかった
「道化」は、
やがて、
色々なところに
登場することになりますが、
とりわけ、1934年(昭和9年)には、
数多く現れます。

ここでまた、大岡昇平が「中原中也・1」で
書いているところに
注目しておきましょう。

ただし「道化の臨終」はダダ的なのであって、ダダそのものではない。この作品が書かれた1934年はほかに「ピチベの哲学」(2月発表、新発見)、「玩具の賦」(2月)、「狂気の手紙」(4月)、「お道化うた」(6月、これもほとんど確認された)、「秋岸清涼居士」(10月)、「星とピエロ」(12月)など、同じ傾向の道化歌が集中している。

時間と空間、対象と人称を意識的に混乱さすことによって、異様な嘲笑的で歪んだ詩的空間を造り出しているので、出まかせを言うダダの技法が、長々しいくどきとなって一つの完成したスタイルに達する。

一方あらゆる粉飾を捨て去ったような「骨」が書かれるのもこの狂燥の最中の4月28日である。

1年の後、「秋岸清涼居士」の凄惨な道化は、低温課程の中で、「含羞」の優雅な階調に転換される。
(略)

(略)多くの新発見の作品から見ると、ダダが彼が最も手足を伸び伸びと延ばせる環境であったこともたしかなようである。(略)

(大岡昇平「中原中也」角川書店、昭和49年、「中原中也・1」より)
*漢数字を洋数字に変えたり、改行を加えたりしています。

 *
 サーカス
幾時代かがありまして
  
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  
  今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り
    
     今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  
  そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて
  
  汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
  
  安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯(いわし)
  
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)

夜は劫々と更けまする

落下傘奴(らくかがさめ)のノスタルヂアと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2009年8月20日 (木)

ダダのデザイン<7>道化の臨終<6>

中也が
「山羊の歌」の編集にかかったのは
1932年(昭和7年)4月。
それから
丸3年、
「白痴群」の盟友、安原喜弘の
献身的なサポートを得ながら、
いくつかの出版社に原稿を持ち込みますが
OKの声は容易には聞けませんでした。
しかし、
1934年(昭和9年)、
青山二郎の仲立ちもあり、
文圃堂から
「山羊の歌」は出版されました。

長男文也が誕生するのも
この頃で、
ランボーの翻訳のために帰省し
辞書と首っ引きで、
その詩世界と格闘、
しばらく、
東京の喧噪から遠ざかる生活を送るのも
この年ですし、
「道化の臨終」が作られたのも
この年でした。

詩人が詩人として世に立つためには
詩集を持つこと、
詩集を発行することが大きな証となりますが
その第1詩集が
公刊されたこの年

1934年、昭和9年という年は
中原中也27歳、
大きな区切りの年であるようでした。

この節目の年に
中也の中で
ダダイズムはどのように生きていたのか
どのような形をとっていたのか……
その答が
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」にあります。

「道化の臨終」は
中原中也という詩人の
ダダのデザインの実践の
1934年という時点の現在形ということになり、
その核心にあるのは、
道化という存在です。

*      
 道化の臨終(Etude Dadaistique)

   序 曲

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。
君ら想はないか、曠野(こうや)の果に、
夜毎姉妹の灯ともしてゐると。

君等想はないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎやう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形(むぎやう)の瞳、
かの、かにかくに底の底……

心をゆすり、ときめかし、
嗚咽(おえつ)・哄笑一時(いつとき)に、肝に銘じて到るもの、
清浄こよなき漆黒のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……

     *     *
        *

空の下(もと)には 池があつた。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかほりと はるけくて、
今年も春は 土肥やし、
雲雀(ひばり)は空に 舞ひのぼり、
小児が池に 落つこつた。

小児は池に仰向(あおむ)けに、
池の縁〈ふち〉をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びつくり)し、
空もみないで 泣きだした。

僕の心は 残酷な、
僕の心は 優婉(ゆうえん)な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。

僕には何も 云はれない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、
僕は砂粒に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジツと瞶(みつ)めて をりました。

どうぞ皆さん僕といふ、
はてなくやさしい 痴呆症、
抑揚の神の 母無(おやな)し子(ご)、
岬の浜の 不死身貝、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能(あた)ふかぎりの 止揚場(しやうぢやう)、
天(あめ)が下なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
ばかげたものでも ござりませうが、
大目にあづかる 為体(ていたらく)。

かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、
泣くも笑ふも 朝露の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故、
笛のうちなる 笛の笛、
——次第に舌は 縺れてまゐる——
至上至福の 臨終(いまは)の時を、
いやいや なんといはうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れてゐられるもの……
あの あれを……といつて、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩悔ゆる涙とか?
えゝまあ それでもござりまするが……
では——
えイ、じれつたや
これやこの、ゆくもかへるも
別れては、消ゆる移り香、
追ひまはし、くたびれて、
秋の夜更に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……
さて われに返りはするものの、
野辺の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳がこつち向き、
——狂つた心としたことが、
何を云ひ出すことぢややら……
さはさりながら さらばとて、
正気の構へを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドツコイシヨのシヨ、
ダンスしたとてドツコイシヨのシヨ。
なぞと云つたら 笑はれて、
ささも聴いては 貰へない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今茲(ここ)に 不得要領……
かにかくに 書付けましたる、
ほんのこれ、心の片端〈はしくれ〉、
不備の点 恕(ゆる)され給ひて、
希(ねが)はくは お道化(どけ)お道化て、
ながらへし 小者にはあれ、
冥福の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給へ。
             (一九三四・六・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

ダダのデザイン<6>道化の臨終<5>

「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
1934年(昭和9年)に作られ、
1937年(昭和12年)「日本歌人」9月号に発表されました。

制作された1934年は、
中也27歳の年ですが、
制作の年よりも
発表された1937年は、
詩人が死去する年である
ということには、
おやっと、
思わずにいられないものがあります。

世の中に向けて発表するということは
その作品が遠い過去に作られたものであっても、
その作品の現在を示すものである以上
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は、
中原中也という詩人の
最晩年の作品に属するということなのですから。

ダダイズムの詩が
詩人の死去する3年前に作られ
死去するおよそ2か月前に発表された、
ということは大変興味深いことです。
詩人の死は、
1937年10月22日です。

大岡昇平は、
やや驚愕気味に
この事実をもって
中原中也はダダイストであったか、どうか
という問いを自ら立て
中也評伝では最後になった「中原中也・1」を
1971年から書きはじめましたが、
途中でプツンとやめてしまいました。

この論考「中原中也・1」を所収している
「中原中也」(1974年初版、角川書店)のあとがきには
この間の経緯が次のように記されています。

私は本巻五巻を通して解説を書き、また新しい観点を強いられる結果になりました。例えば『朝の歌』に「日本のダダイスムは中原がそこから出て来たも のとしてしか興味はない」と書きましたが、案外そこに中原の生に対する基本的態度があるのではないか、という疑問が生じました。そこで一九七一年から再出 発したのが「中原中也・1」ですが、ここで私の根気はぷっつり切れた感じになりました。

かくて、結論は出されずじまいになったのですが
「道化の臨終」について、
「ダダ的ではあるが、ダダイズムそのものではない」と
書いたのはこの「中原中也・1」の中でのことでした。

中也のダダイズムへの関わりについて
例によって
骨までしゃぶるような論究が展開されたのですが、
「道化の臨終」については、
(Etude Dadaistique)の
傍題があるにもかかわらず
最後まで、「ダダ的」とし、
そのほかの「朝の歌」以降の作品についても
「ダダ的」とする以上の断言をしませんでした。

*      
 道化の臨終(Etude Dadaistique)

   序 曲

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。
君ら想はないか、曠野(こうや)の果に、
夜毎姉妹の灯ともしてゐると。

君等想はないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎやう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形(むぎやう)の瞳、
かの、かにかくに底の底……

心をゆすり、ときめかし、
嗚咽(おえつ)・哄笑一時(いつとき)に、肝に銘じて到るもの、
清浄こよなき漆黒のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……

     *     *
        *

空の下(もと)には 池があつた。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかほりと はるけくて、
今年も春は 土肥やし、
雲雀(ひばり)は空に 舞ひのぼり、
小児が池に 落つこつた。

小児は池に仰向(あおむ)けに、
池の縁〈ふち〉をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びつくり)し、
空もみないで 泣きだした。

僕の心は 残酷な、
僕の心は 優婉(ゆうえん)な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。

僕には何も 云はれない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、
僕は砂粒に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジツと瞶(みつ)めて をりました。

どうぞ皆さん僕といふ、
はてなくやさしい 痴呆症、
抑揚の神の 母無(おやな)し子(ご)、
岬の浜の 不死身貝、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能(あた)ふかぎりの 止揚場(しやうぢやう)、
天(あめ)が下なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
ばかげたものでも ござりませうが、
大目にあづかる 為体(ていたらく)。

かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、
泣くも笑ふも 朝露の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故、
笛のうちなる 笛の笛、
——次第に舌は 縺れてまゐる——
至上至福の 臨終(いまは)の時を、
いやいや なんといはうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れてゐられるもの……
あの あれを……といつて、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩悔ゆる涙とか?
えゝまあ それでもござりまするが……
では——
えイ、じれつたや
これやこの、ゆくもかへるも
別れては、消ゆる移り香、
追ひまはし、くたびれて、
秋の夜更に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……
さて われに返りはするものの、
野辺の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳がこつち向き、
——狂つた心としたことが、
何を云ひ出すことぢややら……
さはさりながら さらばとて、
正気の構へを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドツコイシヨのシヨ、
ダンスしたとてドツコイシヨのシヨ。
なぞと云つたら 笑はれて、
ささも聴いては 貰へない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今茲(ここ)に 不得要領……
かにかくに 書付けましたる、
ほんのこれ、心の片端〈はしくれ〉、
不備の点 恕(ゆる)され給ひて、
希(ねが)はくは お道化(どけ)お道化て、
ながらへし 小者にはあれ、
冥福の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給へ。
             (一九三四・六・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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