ダダのデザイン<16>玩具の賦・その4
「玩具の賦(昇平に)」を
献呈された大岡昇平が、
この詩について論評したことは
そう多くはありませんし、
したとしても詳しいものではなく、
作品論とまで言えるほどのものでは
ありません。
繰り返し取り上げてきましたが、
「道化の臨終」をきっかけに、
1934年の作品を論じ、
道化歌を論じた「中原中也・1」の中の、次の部分、
ただし「道化の臨終」はダダ的なのであって、ダダそのものではない。この作品が書かれた1934年はほかに「ピチベの哲学」(2月発表、新発見)、 「玩具の賦」(2月)、「狂気の手紙」(4月)、「お道化うた」(6月、これもほとんど確認された)、「秋岸清涼居士」(10月)、「星とピエロ」(12 月)など、同じ傾向の道化歌が集中している。
時間と空間、対象と人称を意識的に混乱さすことによって、異様な嘲笑的で歪んだ詩的空間を造り出しているので、出まかせを言うダダの技法が、長々しいくどきとなって一つの完成したスタイルに達する。
と、述べたくだりが、
「玩具の賦」に関する
唯一といってもよい「作品論」です。
ここでも、
「作品の内部」に立ち入って
詳しく論じられているわけではありませんが、
大岡昇平が全体重をかけて、
これらの作品を読み解いた結果があります。
このほかにも、
幾度か、
「玩具の賦」が引き合いにされることがあるのですが、
中でも、
「中原中也」所収の
「Ⅵ『中原中也全集』解説」の
「翻訳」の章の末尾に、
「全集刊行中に判明或いは訂正した伝記的事実」として
「玩具の賦」(昇平に)を
中原中也が「文学界」に送付した事実に関する
やや詳細な記述があるのには、
興味津々とさせられるものがあります。
ここに、それを
引用しておきます。
(以下、上掲書より引用)
なお本全集刊行中判明或いは訂正した伝記的事実がある。その一つに「玩具の賦」(昇平に)を「文学界」に送附した件がある。これは私は知らなかったのであるが、「近代文学」が昭和35年10—11月に行った、私に関する座談会での、中村光夫の次の発言として文献になっていた。
「『文学界』でぼくらが手伝っていた時分に(略)中原の詩が廻って来た。昇平のことを書いた詩なんです。喧嘩のあとで書いているんです」(戦後文学の批判と認識(7)「大岡昇平—その仕事と人間」<上>10月号)。昭和12年8月私が杉山平助と論争していた間のことで、私がそれを見て「今月はやられちゃったなあ」といったという。
これを憶えていなければならないのは、無論私であった。私は無論この座談会は発表当時読んだのだが、私自身に記憶がなく、中村の証言のほかの部分に誤りがあったので、彼の勘違いと速断し、そのまま忘れてしまったのである。本全集編集中も思い出さなかった。文献は表題が私に関するものだったので、他の編者の探索もそこまで及ばず、一月前吉田凞生が偶然見附けたのであった。
私がこの原稿を見たことは、いまだに思い出せずにいるし、小林秀雄も河上徹太郎も忘れている。しかし当時の「文学界」編集者式場俊三の記憶に残っており、原稿はやはり送られていたのである。
ほぼ「玩具の賦」(昇平に)のままであろうが、中村は「昇平に」という題だったと覚えている。「秋岸清涼居士」に青山二郎宛の「月下の告白」があったように異文があったということが考えられるのである。前触れもなく、突然持って来たものであった。ただし式場の記憶では昭和12年ではなく、11年である。12年には河上徹太郎を中心とする「企劃委員会」ができていたので、自由に持ち込みはできなくなっていた。原稿は私には見せずに、小林と相談して不掲載としたという。
私が見たか見ないかは中原に関しないが、彼の経歴にこういうやり方はほかに例がなく、私に対する害意はなみなみならぬものであったことが察せられる。
*漢数字を洋数字にしたり、1行空きを加えるなど、改めた箇所があります。(編者)
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