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2009年9月 8日 (火)

ダダのデザイン<14>玩具の賦・その2

「玩具の賦」は、
大岡昇平の感性では
「道化歌」に分類されるのですが、
この詩は、
「昇平に」と献辞の付けられた
献呈詩でもあり、
なおかつ、
その献呈の相手が
大岡昇平本人であるという点に、
二重三重の意味はあり、
その意味を探っていくと、
さらに大きな意味が輝きはじめるような
構図が見えてくる
コアのような作品です。

とは、だれにも指摘されてはいないのですが
そう思うとますます
重大な作品であることがわかる作品です。

そもそも

時間と空間、対象と人称を意識的に混乱さすことによって、異様な嘲笑的で歪んだ詩的空間を造り出しているので、出まかせを言うダダの技法が、長々しいくどきとなって一つの完成したスタイルに達する。

と、大岡昇平が記したのは、
「道化歌」全般についての評言でしたが
「玩具の賦」を読んでみて、
そして、もう一度この評言を、
分解して、
丁寧に、

時間と空間、対象と人称を意識的に混乱さすことによって

異様な嘲笑的で歪んだ詩的空間を造り出しているので、

出まかせを言うダダの技法が、

長々しいくどきとなって

一つの完成したスタイルに達する。

と、読み返せば、
これは、「玩具の賦」についての
個別の評言としても
読み取れることがわかってきます。

大岡昇平は、
この評言のすぐ後で

多くの新発見の作品から見ると、ダダが彼が最も手足を伸び伸びと延ばせる環境であったこともたしかなようである。

と、中也のダダイズムについて
的確なコメントを加えるのですが、
道化歌に関する、この評言には、
さりげないようでありながら、
意図して体重がかけられていることが感じられてなりません。

意識的に混乱さす
異様で嘲笑的で歪んだ
出まかせを言う
長々しいくどき

などの、マイナスイメージの後で、
一つの完成したスタイルに達する、と、
道化歌に、
ことさら「玩具の賦」に、
肯定的な評価を与えたように受け取れるのです。

(この稿、つづく)

 *
 玩具の賦
    昇平に

どうともなれだ
俺には何がどうでも構はない
どうせスキだらけぢやないか
スキの方を減(へら)さうなんてチャンチャラ可笑(をか)しい
俺はスキの方なぞ減らさうとは思はぬ
スキでない所をいつそ放りつぱなしにしてゐる
それで何がわるからう

俺にはおもちやが要るんだ
おもちやで遊ばなくちやならないんだ
利権と幸福とは大体は混(まざ)る
だが究極では混りはしない
俺は混ざらないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ
月給が増(ふ)えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ
俺にはおもちやがよく分つてるんだ
おもちやのつまらないとこも
おもちやがつまらなくもそれを弄(もてあそ)べることはつまらなくはないことも
俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり余技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢(ぜいたく)なぞとは云ひめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
それどころか
おまへはおもちやを知つてないから
おもちやでないことも分りはしない
おもちやでないことをただそらんじて
それで月給の種なんぞにしてやがるんだ
それゆゑもしも此(こ)の俺がおもちやも買へなくなった時には
写字器械奴(め)!
云はずと知れたこと乍(なが)ら
おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ
行つたり来たりしか出来ないくせに
行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに
何とか云へるものはないぞ
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやを遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまえに遊べる筈はないのだ

おまへにはおもちやがどんなに見えるか
おもちやとしか見えないだろう
俺にはあのおもちやこのおもちやと、おもちやおもちやで面白いんぞ
おれはおもちや以外のことは考へてみたこともないぞ
おれはおもちやが面白かつたんだ
しかしそれかと云つておまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか
ありそうな顔はしとらんぞ
あると思ふのはそれや間違ひだ
北叟笑(にやあツ)とするのと面白いのとは違ふんぞ

ではおもちやを面白くしてくれなんぞと云ふんだろう
面白くなれあ儲かるんだといふんでな
では、ああ、それでは
やつぱり面白くはならない写字器械奴(め)!
――こんどは此のおもちやの此処(ここ)ンところをかう改良(なほ)して来い! トットといつて云つたやうにして来い!                      (1934.2.)
(佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』角川文庫クラシックスより」

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