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2009年11月12日 (木)

ダダのデザイン<24>「朝の歌」前後<2>

「朝の歌」は
中原中也が自ら
「『朝の歌』にてほぼ方針立つ」と
「詩的履歴書」(昭和11年)の中に記していて、
大岡昇平ら評者も認めるように
詩人としての会心作と
自他共に認める作品です。

この詩が会心作である理由は、
一にも二にも
ダダイズムから脱皮した作品であり、
この詩は中原中也の詩であり
中原中也のほかには書けない詩である、
ということであるからでした。

大岡昇平が1956年に書いた
「朝の歌」に立ち返って
そこのところを整理しておきますと……

大正14年以降「朝の歌」までに書かれた詩で、日附がはっきりしているのは、「秋の愁嘆」(1925、10、7)、「むなしさ」(「在りし日の歌」1926、2)の2篇だけであるが、『山羊の歌』冒頭の「春の日の夕暮れ」「月」「サーカス」「春の夜」の4篇も、それらが「朝の歌」の前に配列されているという理由によって、それ以前に書かれたと考えることが許されるであろう。ほかに同じ時期と推測される詩篇がないこともないが、一応右の6篇をもって、ダダイスムの詩から「朝の歌」に到る経路を探るに十分ということにする。

一番ダダ的字句を残しているのは「トタンがセンベイ食べて」に始まる「春の日の夕暮」であるが「秋の愁嘆」「サーカス」の道化調にもその痕跡は窺われる。しかし、「月」と「むなしさ」の晦渋な漢語の使用は、富永太郎と宮沢賢治の影響で、それらの漢字によって、一種の隠微な情感の「表現」に向っている点で、ダダの断定から離れているし、「春の夜」の、
 あゝこともなしこともなし
  樹々よはにかみ立ちまはれ
はもうかなり、「朝の歌」の詩境に近いと考えられる。(大岡昇平「朝の歌」より)

と、結論を先に案内したのに続けて
「秋の愁嘆」
「むなしさ」
「月」
「春の日の夕暮」
「サーカス」
「春」
の6作品一つひとつを鑑賞し、
「朝の歌」誕生への道筋を
克明に辿ります。

*
秋の愁嘆

あゝ、秋が來た
眼に琺瑯(ほうろう)の涙沁(し)む。
あゝ、秋が來た
胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を縦躙(じゆうりん)に秋がおぢやつた。
その着る着物は寒冷紗(かんれいしや)
兩手の先には 輕く冷い銀の玉
薄い横皺(よこじわ)平らなお顏で
笑へば籾殻(もみがら)かしやかしやと、
へちまのやうにかすかすの
惡魔の伯父さん、おぢやつたおぢやつた。
(一九二五・一〇・七)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
*原文では、「かしやかしや」「へちま」に傍点が付いています(編者)

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