カテゴリー

2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »

2009年12月

2009年12月29日 (火)

1931年の詩篇<9・10>夜空と酒場・夜店

_c022067

「夜空と酒場」は、
「早大ノート」(1930~1937)の
1931年制作(推定)詩篇としては6番目にあり、
「夜店」は、
その次に続きます。

「夜空と酒場」は、
今年2009年5月15日に
「酔えない詩人」の見出しを付けて
一度読みました。

「夜店」も
5月21日に
「孤独な散歩」の見出しを付けて
読みました。

両作品は、
詩人が
この作品を作った当時襲われていた
孤絶感、孤独感、虚無感……

それは、この詩人が
生涯にわたって
抱え込んだ
悲しみや空しさや倦怠感……の
一つのバリエーションに過ぎませんが

その感情を
まっすぐに歌っている、
という点で
兄弟のような作品です。

酒がだんだん身体に回っていっても
ついに酔っ払えない詩人……。

呆然として歩いていて、
何ものもおもしろいと思えるものはなく
それでも、
部屋に閉じこもっているのよりましだと思いながら
歩いているのだけれど
電車にも人通りにも
繋(つな)がりを感じられない詩人……

飲んでも飲んでも
酔えない詩人。

歩いても歩いても
満たされない詩人。


夜空と酒場

夜の空は、広大であつた。
その下に一軒の酒場があつた。

空では星が閃めいて(きらめいて)ゐた。
酒場では女が、馬鹿笑ひしてゐた。

夜風は無情な、大浪のやうであつた。
酒場の明りは、外に洩れてゐた。

私は酒場に、這入つて行つた。
おそらく私は、馬鹿面さげてゐた。

だんだん酒は、まはつていつた。
けれども私は、酔ひきれなかつた。

私は私の愚劣を思つた。
けれどもどうさへ、仕方はなかつた。

夜空は大きく、星はあつた。
夜風は無情な、波浪に似てゐた。


夜店

アセチリンをともして、
低い台の上に商品を竝(なら)べてゐた、
僕は昔の夜店を憶ふ。
万年草を売りに出てゐた、
植木屋の爺々(じじい)を僕は憶ふ。

あの頃僕は快活であつた、
僕は生きることを喜んでゐた。

今、夜店はすべて電気を用ひ、
台は一般に高くされた。

僕は呆然(ぼうぜん)と、つまらなく歩いてゆく。
部屋(うち)にゐるよりましだと想ひながら。
僕にはなんだつて、つまらなくつて仕方がない。
それなのに今晩も、かうして歩いてゐる。
電車にも、人通りにも、僕は関係がない。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月28日 (月)

1931年の詩篇<8>さまざまな人

20091028_001_2

「早大ノート」の中の
1931年制作(推定)の詩篇としては
5番目にあるのが
「さまざまな人」です。

タイトルが付けられている詩篇
ということは、
完成稿に近い作品
と推定が可能です。

2年前に知り合った
彫刻家の高田博厚の渡仏、
東京外国語学校での
フランス語のブラッシュアップ、
青山二郎と交友開始、
千駄ヶ谷への転居、
そして、
9月、弟・恰三の死去……

「さまざまな人」が書かれたのは、
弟・恰三が死去する前で、
秋に入ってからの時期と推定されています。

2行の連が4連続き
最終連だけを7行とした構成ですが、
第1連から第4連へと読み進んで
ああ、
こういう人っているなあ、
と、思い当たることもあれば、

詩人が、
さまざまなタイプの人間を
言葉の厳密な意味で、
捕らえていることに
だんだんと
感嘆し、

他人にも自分にも甘えたヤツ、とか
真面目なようで、人を小馬鹿にしているヤツ、とか
馬鹿と間違われる天才は、ほんとの天才、とか
ミレーの絵に登場するような、穏やかな男、とかと

当たらずとも
遠からずのイメージを
描くことができているな、
と、自分の想像に
満足するのですが……

最終連に辿(たど)りついて、
詩の真髄に
ふれるようなことになり、
感嘆は感動に近いものに変わります

この詩の真髄とは
ズバリ

落葉が来ると、
足を引込めました。

にある!
と、発見するのです。

1連から4連までも、
特別に奇矯(ききょう)でもなく
特別に普通過ぎることもなく、
よく味わえば、
詩の言葉の厳密な、

この詩人にして紡ぐことが可能な
詩的言語ではありましたし、
最終連に入っても
同じような言葉が続いていました……

ソーダ硝子のやうな眼と唇とを持つ男、
彼が考へる時、空をみました。

この2行も
奇矯でもなく普通過ぎるでもなく、

訪ねてゆくと、よくベンチに腰掛けてゐました。

この1行も
奇矯でもなく普通過ぎるでもなく、

落葉が来ると、
足を引込めました。

この2行にぶつかって、
異常な「繊細さ」というか
異常な「鋭さ」というか、に
刺されてしまいます。
グサリ、と。

彼は発狂し、モットオを熱弁し、
死んでゆきました。

という最終の2行の
ドラマは、
この男の、
落ち葉が来ると、
そっと足を引っ込める、という仕草によって
はじめて詩になります。

それにしても
はかなげな感じが、
捕らえられていますよね。

落葉が来ると、
足を引込めました。

とは!

  *
  さまざまな人

抑制と、突発の間をいつたりきたり、
彼は人にも自分にも甘えてゐるのです。

    ※

彼の鼻は、どちらに向いてゐるのか分らない、
真面目のやうで、嘲つてるやうで。

    ※

彼は幼時より変人とされました、
彼が馬鹿だと見られさへしたら天才でしたらうに。

    ※

打ち返した綿のやうになごやかな男、
ミレーの絵をみて、涎を垂らしてゐました。

    ※

ソーダ硝子のやうな眼と唇とを持つ男、
彼が考へる時、空をみました。
訪ねてゆくと、よくベンチに腰掛けてゐました。
落葉が来ると、
足を引込めました。
彼は発狂し、モットオを熱弁し、
死んでゆきました。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月26日 (土)

1931年の詩篇<7>Qu'est-ce que c'est que moi?

20091216_026

「早大ノート」の、
1931年制作(推定)の詩篇としては
4番目にあるのが、
Qu'est-ce que c'est que moi? です。

ケスクセ クモア?
と発音するのでしょうか
フランス語です。

あなたの中にあるものは何ですか?
という意味でしょうか。

作品に沿って訳せば、
あなたの中で舞っているものは何ですか?
となるのでしょうか。

富永太郎を知って以来、
小林秀雄をはじめとして、
その周辺の
東大仏文(トウダイフツブン)の学生や
時には教官も……

大岡昇平、
河上徹太郎はじめ、
「白痴群」の同人や

音楽集団「スルヤ」に
結集する音楽家たちでさえ
フランスの文学や哲学に
関心をもたない者はいないというほど、

ヴェルレーヌ
ランボー
ボードレール
マラルメ
ラフォルグ
ベルクソン
ジイド……らへの
熱烈な傾倒は
当たり前でした

「白痴群」の解散を機に、
孤立の道を歩まねばならなかった中原中也も
詩人として立つには、
詩作だけでは
食べていけないことを自覚し
フランス語に
それまで以上の力を注ぎはじめます。

1931年という年は、
2年ほど前に知った
彫刻家・高田博厚が
フランスへ渡りましたし、
この時、
長谷川泰子とともに
東京駅で、
高田を見送ります。

詩人の胸中は
どんなふうだったのでしょうか。

ふらんすへ行きたしと思へども 
ふらんすはあまりに遠し
(萩原朔太郎「純情小曲集『旅上』」)

と似た感情にありながら、
俄然、
手に届く近さにあったのでしょうか。

高田の渡仏直後には
東京外国語学校の
仏語専修科へ入学しました。

フランス語を
詩のタイトルに使った例は
いくつかありますが、
Qu'est-ce que c'est que moi? は、
詩人の心の中の
「サムシング」についての詩であるにもかかわらず、
「サムシング」をフランス語にしませんでした。


Qu'est-ce que c'est que moi?

私のなかで舞つてるものは、
こほろぎでもない、
秋の夜でもない。
南洋の夜風でもない、
椰子樹(やしのき)でもない。
それの葉に吹く風でもない
それの梢と、すれすれにゆく雲でない月光でもない。
つまり、その……
サムシング。
だが、なアんだその、サムシングかとは、
決して云つてはもらひますまい。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月25日 (金)

1931年の詩篇<6>(風のたよりに、沖のこと 聞けば)

20091118_134_2

「早大ノート」の、
1931年(昭和6年)制作
と推定される作品は、
(そのうすいくちびると)にはじまり、
(孤児の肌に唾吐きかけて)、
(風のたよりに、沖のこと 聞けば)と続き、
「秋の日曜」まで
計22篇が並んでいます。

(風のたよりに、沖のこと 聞けば)は、
漁師の世界を題材として、
人生を歌いますが、
ここでは、
漁師は猟師でもあります。

「山羊の歌」の
「深夜の思ひ」第3連にも、

波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向ふに運ぶ。
森を控へた草地が
  坂になる!

と、ダダっぽい用法で
猟師が出てきますし、

「心象」には第1節第3連に、

とほりかかつた小舟の中で
船頭がその女房に向つて何かを云つた。
――その言葉は聞きとれなかつた。

と、船乗りが登場する例があります。

詩人は、
猟師、漁師、船乗り……などの暮らしに
詩人の生き方の対比を見たり、
類似を感じたりして、
メタファーとか
シンボルとか、
独特で格別の意味を
投じているのかもしれません。

この詩も、
未完成ですから、
厳密な鑑賞は
おせっかいかもしれませんが

あゝ、これでは、
人生は今も聞こゆる潮騒(しおさい)のごと、
ねぼけづらなる潮騒のごと、
うらがなしく、あつけない。

と、

しかすがに、みよ、猟師の筋骨、
彼等は今晩も沖に出てゆく。
そのために昼間は寝る。

の、どちらに重心がかかるのか
ふと迷いますが、

人生が、
潮騒のように
うら悲しく、
呆気ないもの、
と、詩人が感じるのをよそに、

漁師(猟師)たちは
たくましい筋骨を誇らしげに
沖へと出てゆくのだ
そのために
昼間にはぐっすり眠るのだ、

と、ひとまずは読んで、
その上で、
単に、猟師賛美の詩に
とどまらないところを
どのように味わいますか、

その読みの要(かなめ)は、
最終行、

そのために昼間は寝る。

に、あるようです。

猟師もまた、
詩人もまた、
「夜」は戦場ですし、
「昼」は休息の時であることにおいて
同じようなものですから、

昼間寝る、
ということは、
非常識なことでも、
反社会的なことでも、
ぐうたらなことでも、
ありません。

「しかすがに」は
「しか・す・がに」で、
「然(しか)」という副詞、
「す」というサ変動詞の終止形、
「がに」という程度や状態を表す
接続助詞の集まりです。
「しかしながら」の意味。


(風のたよりに、沖のこと 聞けば)

風のたよりに、沖のこと 聞けば
今夜は、可なり漁(と)れさう、ゆつくり今頃夕飯食べてる。
そろそろ夜焚(よだき)の、灯ともす船もある
今は凪だが、夜中になれば少し荒れよう。

しらじらと夜のあけそめに、
漁船らは、沖を出発、
帰つてきた、港の朝は、
まぼろしの、帆柱だらけ
雨風に、しらむだ船側(ふなばた)、
干(ほ)されたる大いな網よ。

せはしげな、女の声々、

あゝ、これでは、
人生は今も聞こゆる潮騒(しおさい)のごと、
ねぼけづらなる潮騒のごと、
うらがなしく、あつけない。

しかすがに、みよ、猟師の筋骨、
彼等は今晩も沖に出てゆく。
そのために昼間は寝る。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月24日 (木)

1931年の詩篇<5>(孤児の肌に唾吐きかけて)

20091216_063

「早大ノート」では
(そのうすいくちびると)の次にあるのが
(孤児の肌に唾吐きかけて)です。

孤児の肌(はだへ)に唾吐きかけて、

という冒頭行が、
いったい、
何を、
どんなことを、
しでかしてしまったのだろうか、と、
もう少し具体的に知りたい欲求を
起こさせますが、

人の道に外れた
なんらかの行為を犯してしまって、
その行為の後で
泣いている詩人の姿を
思い浮かべることはできるでしょうか

わたくしは、
救いのない大馬鹿者だよ

ここで、
いっそ死んでしまおうか
とでも、思ったのかどうかは
わかりませんが、
断崖の道を歩くとは
自己制裁の意味が込められていることを
感じさせなくもありません。

詩人は、しかし、
夕陽の中の
断崖を歩いて、
大きな声を出して笑ってみようとしたのです

またしても
愚かな願いを抱いて

後でまた泣くのか、
わが心よ

こうして、
詩人は
懺悔(ざんげ)の姿勢を
見せているのでしょうか。

神(の問題)に向かう
何事かが、
この詩を作っている時期に
あったのでしょうか。


(孤児の肌に唾吐きかけて)

孤児の肌(はだへ)に唾吐きかけて、
あとで泣いたるわたくしは
滅法界の大馬鹿者で、

今、夕陽のその中を
断崖(きりぎし)に沿うて歩みゆき、
声の限りに笑はんものと

またも愚かな願ひを抱き

あとで泣くかや、わが心。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月23日 (水)

1931年の詩篇<4>(そのうすいくちびると)

20091104_072

 

第3連が
はじめ、すんなり入ってきて

食べることは誰にでもできます
けれども
食べ出したあとに困難があります
食べ出せば、
味わわなければなりませんのですから。

と、
なにやら、
創作論めいたものを感じさせてみたり
人生論めいたものを感じてさせてみたり
……

(そのうすいくちびると)は、
「早大ノート」の中の
1931年に制作された詩篇で
最初のものと、
推定されています。

読むコンディションによって、
第3連にひっかかる場合もあれば
第1連、第4連の

食べるによろしい。

に、引き込まれる場合もあり、

第4連の、

美食をすべてキナくさく思はせ、
人の愛さへ五月蠅(うるさ)く思はせ、――

に、つかまってしまう場合もある
不思議な作品です。

おや、
これは、
恋愛論なのか、
と感じはじめるころ
この詩の中に
ずっぽりとはまっているような
中也作品らしい奥行きがあります。

うまいなあ!
おいしいなあ!
くらいなら、
だれにでも言えるよ

食べるだけなら
よいでしょうよ
その、
うすいくちびる
細い声でもね。
十分ですよ。

それではいけないなんて
言いはしませんよ
それでいいのですよ、と
繰り返されると、
なんだか、
食べて、
もぐもぐやっているだけじゃ
情けないようになってきて、
じっくり味わわなくては……

あれやこれや
太陽が昇りはじめるように
心の羽根を飛ばし……

そうこうしているうちに、
旨いものなのに
噛み潰して
キナ臭くさえしてしまい、
人間の愛なんて煩わしいもんだ、
とまで深みにはまって
収拾がつかなくなったり……

それでも
そのうすいくちびると
その細い声は
食べるのによいのです
よろしいのですよ。

食べる、と
味わう、との、
二項対立が回避されているようで、
結局は、
どちらに軍配をあげるわけでもないけれど、
味わうことの難しさが
歌われているような詩なのでしょうか。

タイトルが付けられるまでに
至っていませんが
詩論の詩としての
完成稿を
読みたくなってくる詩篇です。

 *
(そのうすいくちびると)

そのうすいくちびると、
そのほそい声とは
食べるによろしい。

薄荷(はつか)のやうに結晶してはゐないけれど、
結締組織をしてはゐるけれど、
食べるによろしい。

しかし、食べることは誰にも出来るけれど、
食べだしてからは六ヶ敷(むつかし)い。
味はふことは六ヶ敷い、……
黎明(あけぼの)は心を飛翔(ひしよう)させ、

美食をすべてキナくさく思はせ、
人の愛さへ五月蝿(うるさ)く思はせ、――
それでもそのうすいくちびるとそのほそい声とは、
食べるによろしい。――あゝ、よろしい!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月20日 (日)

1931年の詩篇ラインナップ

20091219_0022

 

1931年は、
「白痴群」解散や
長谷川泰子の出産などの事件があった
前年1930年のショックを引きずって、
あまりパッとしない年と
受け取られているようですが、
年譜を見ておきましょう。

昭和6年(1931) 24歳
この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。
2月、高田博厚渡仏。長谷川泰子とともに東京駅で見送る。
4月、東京外国語学校専修科仏語に入学。
5月、青山二郎を知る。
7月、千駄ヶ谷に転居。
9月、弟恰三死去、19歳。戒名は秋岸清涼居士。葬儀のため帰省。
10月、小林佐規子(長谷川泰子)「グレタ・ガルボに似た女性」の審査で一等に当選。
冬、高森文夫を知る。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

9月の、弟恰三の死去という事件は、
詩人の詩作に顕著な影響を与えたことが
大岡昇平をはじめとする
さまざまな研究で明らかにされており、
「在りし日の歌」につながる
「死」のテーマへのきっかけの一つとして
論じられてきました。

それゆえにか、
恰三の死を悼む詩ばかりが目立ち
「この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。」と、
この年の不作が強調されがちですが、
詩作がなかったわけではありません。

「早大ノート」の中だけでも、
(そのうすいくちびると)から
「秋の日曜」までの22篇が
1931年制作と推定されています。

「早大ノート」にラインナップされているのは
以下の作品です。

干物
いちぢくの葉
カフェーにて
(休みなされ)
砂漠の渇き
(そのうすいくちびると)
(孤児の肌に唾吐きかけて)
(風のたよりに、沖のこと 聞けば)
Qu'est-ce que c'est que moi?
さまざま人
夜空と酒場
夜店
悲しき画面
雨と風
風雨
(吹く風を心の友と)
(秋の夜に)
(支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)
(月はおぼろにかすむ夜に)
(ポロリ、ポロリと死んでゆく)
(疲れやつれた美しい顔よ)
死別の翌日
コキューの憶ひ出
細心
マルレネ・ディートリッヒ
秋の日曜
(ナイアガラの上には、月が出て)
(汽笛が鳴つたので)
(七銭でバットを買つて)
(それは一時の気の迷ひ)
(僕達の記憶力は鈍いから)
(何無 ダダ)
(頭を、ボーズにしてやらう)
(自然といふものは、つまらなくはない)
(月の光は音もなし)
(他愛もない僕の歌が)
嬰児
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
酒場にて(初稿)
酒場にて(定稿)
こぞの雪今いづこ

「早大ノート」計42篇の
5割21篇が1931年制作と推定され、
このうち、弟の死を
ストレートなモチーフとしているのは、
(ポロリ、ポロリと死んでゆく)
(疲れやつれた美しい顔よ)
「死別の翌日」の3篇ですから、
間断なく
詩作は続けられていた、
と見てもおかしくはありません。

タイトルを付けるまでに
至っていない
未完成稿が多いのは事実ですが、
それで詩作が活発ではなかった
ということにはなりません。

 *
 ポロリ、ポロリと死んでゆく
      俺の全身(ごたい)よ、雨に濡れ、
      富士の裾野に倒れたれ
              読人不詳               
ポロリ、ポロリと死んでゆく。
みんな別れてしまふのだ。
呼んだつて、帰らない。
なにしろ、此の世とあの世とだから叶はない。

今夜にして、僕はやつとこ覚るのだ、
白々しい自分であつたこと。
そしてもう、むやみやたらにやりきれぬ、
(あの世からでも、僕から奪へるものでもあつたら奪つてくれ)

それにしてもが過ぐる日は、なんと浮はついてゐたことだ。
あますなきみじめな気持である時も、
随分いい気でゐたもんだ。
(おまへの訃報に遇ふまでを、浮かれてゐたとはどうもはや。)

風が吹く、
あの世も風は吹いてるか?
熱にほてつたその頬に、風をうけ、
正直無比な目を以つて、
おまへは私に話したがつているのかも知れない……

——その夜、私は目を覚ます。
障子は破れ、風は吹き、
まるでこれでは戸外に寝ているも同然だ。

それでも僕はかまはない。
それでも僕はかまはない。
どうなつたつてかまはない。
なんで文句を云ふものか……

 *
疲れやつれた美しい顔

疲れやつれた美しい顔よ、
私はおまへを愛す。
さうあるべきがよかつたかも知れない多くの元気な顔たちの中に、
私は容易におまへを見付ける。

それはもう、疲れしぼみ、
悔とさびしい微笑としか持つてはをらぬけれど、
それは此の世の親しみのかずかずが、
縺れ合ひ、香となつて蘢る壺なんだ。

そこに此の世の喜びの話や悲しみの話は、
彼のためには大きすぎる声で語られ、
彼の瞳はうるみ、
語り手は去つてゆく。

彼が残るのは、十分諦めてだ。
だが諦めとは思はないでだ。
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋にみる、三色菫(さんしきすみれ)だ。

 *
 死別の翌日

生きのこるものはづうづうしく、
死にゆくものはその清純さを漂はせ
物云いたげな瞳を床にさまよはすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

さて、今日は良いお天気です。
街の片側は翳り(かげり)、片側は日射しをうけて、あつたかい
けざやかにもわびしい秋の午前です。

空は昨日までの雨に拭はれて、すがすがしく、
それは海の方まで続いてゐることが分ります。

その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
みたばかりの死に茫然(ぼうぜん)として、
卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

中也関連の新刊情報

永遠の詩 (全8巻)4 中原中也

著者:中原 中也
販売元:小学館
Amazon.co.jpで詳細を確認する

(内容紹介)読者に生きる勇気を与える八人の詩人を選び、傑作詩40~50編をセレクト、各詩編に詩人・童話作家が解説を書き下ろす。巻末には作家・評論家の書き下ろしエッセイとビジュアル年譜を収録。

単行本:
128ページ
出版社:
小学館 (2010/1/25)
ISBN-10:
4096772143
ISBN-13:
978-4096772140
発売日:
2010/1/25

2009年12月18日 (金)

1931年の詩篇<3>(秋の夜に)

20091103_091

(秋の夜に)は、
「早大ノート」の中の
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)や、
(支那といふのは、吊鐘の中に這入つている蛇のやうなもの)の前にあり、
1931年制作と推定されている草稿作品です。

奉天郊外の柳条湖で
関東軍が南満州鉄道を爆破したのは
9月ですから
この(秋の夜に)も
満州事変のニュースを知った詩人の
心の揺らぎのようなものが
感じられます。

冒頭第2行の
僕は僕が破裂する夢を見て目が醒(さ)めた。
は、
「僕が破裂する」という
夢にしては強烈な衝撃ではじまり、
この夢のただならなさが訴えられます。

世界に暗雲が垂れこめ
戦争が起こるかもしれないのに
だれもそのことに気づかない

気づいても何か特別にできることもないのだが
気づいた人は、今よりももっと病的になることだろう

デカダン、サンボリスム、キュビスム、未来派、
表現派、ダダイスム、スュルレアリスム、共同製作……

戦争の陰で
これらの芸術運動も
うめき、ためらい、しぼみ……
牛肉色に染まっている

しかし、病的である人こそは、
世界の現実を知っているように、
私には思えるのです。

健全とは出来たばかりの銅鑼だ
なんとも淋しい秋の夜じゃないですか。

 * 
(秋の夜に)

秋の夜に、
僕は僕が破裂する夢を見て目が醒(さ)めた。

人類の背後には、はや暗雲が密集してゐる
多くの人はまだそのことに気が付かぬ

気が付いた所で、格別別様のことが出来だすわけではないのだが、
気が付かれたら、諸君ももつと病的になられるであらう。

デカダン、サンボリスム、キュビスム、未来派、
表現派、ダダイスム、スュルレアリスム、共同製作……

世界は、呻(うめ)き、躊躇し、萎(しぼ)み、
牛肉のやうな色をしてゐる。

然るに、今病的である者こそは、
現実を知つてゐるやうに私には思へる。

健全とははや出来たての銅鑼(どら)、
なんとも淋しい秋の夜です。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月17日 (木)

1931年の詩篇<2>(支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)<その1>

20091118_003

「早大ノート」は、
早稲田大学の校章と
WASEDA UNIV.という文字が
印刷されたノートで、
詩人は、これを
1930年から1937年まで
使用していたことが考証されています。

このノートを
「早大ノート」と命名したのは
大岡昇平ら
角川版全集の編集陣でした。

(われ等のヂェネレーションには仕事がない)の
一つ手前には
(支那といふのは、吊鐘の中に這入つている蛇のやうなもの)、
その前には
(秋の夜に)という詩篇が並んでいますが
この3作は
1931年の同じ時期に作られたらしく、
内容とか、
作風とか、
歌いぶりとか、
未完成ゆえの自由さとか、
いくつかの
似通っている点があります。

(われ等のヂェネレーションには仕事がない)が
満州事変という時代背景を歌ったものなら
(支那といふのは、吊鐘の中に這入つている蛇のやうなもの)は、
満州事変そのものを歌ったもので、
中原中也の社会への眼差しや
政治や時代への感覚や
戦争に関する思いなどが
窺(うかが)われて
極めて興味深い作品です。

藤原定家のように
「紅旗征戎非吾事」
(こうきせいじゅうわがことにあらず)
ではなく、
プロレタリア詩人のようにでもなく、
ここには
中原中也という詩人の
戦争への「ノン」というスタンスが
明確に表現されているのですから、
こういうところにこそ
学問の目は向けられてほしいものですね。


(支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)

支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの。
日本といふのは、竹馬に乗つた漢文句調、
いや、舌ツ足らずの英国さ。

今二ァ人(ふたり)は事変を起した。
国際聯盟(れんめい)は気拔けた義務を果たさうとしてゐる。

日本はちつとも悪くない!
吊鐘の中の蛇が悪い!

だがもし平和な時の満洲に住んだら、
つまり個人々々のつきあひの上では、
竹馬よりも吊鐘の方がよいに違ひない。

あゝ、僕は運を天に任す。
僕は外交官になぞならうとは思はない。

個人のことさへけりがつかぬのだから、
公のことなぞ御免である。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月15日 (火)

1931年の詩篇<1>(われ等のヂェネレーションには仕事がない)<その2>

20091028_010

 

(われ等のヂェネレーションには仕事がない)は、
完成した作品ではないので
鑑賞したり、
味わったりというものでもありませんが、

中原の思考はダダ的方向において、最も自由に働くことが一貫して認められる

と記す、
大岡昇平の洞察に従って読んでみれば、
また、楽しからずや!
でありまして、

中原中也という詩人は、
カドリールも
回虫も
蜻蛉も猫も
旅順も
リンカーンも
陪臣も
ゴムまりも
煙突も…

どんなことでも
題材にしたのですし、
どんなことも歌ったのですし、
どんな制約もなく
自由に歌うことを、
ダダで見つけたのです。

詩人が生活する範囲の
何物にも
感じようとしたのですし
感じられないものに取り囲まれては
悲鳴をあげました。

1931年は、
満州事変が起きた年です。

戦争へ戦争へと突き進んでいく時代であり、
東北、北海道は
凶作、飢饉に見舞われ、
都会は、
大学は出たけれど、
就職口が見つからない
若者が多量にいましたし、
若者ばかりか、
一家を背負う所帯持ちにも
失業者があふれた時代でしたし、
自殺者のニュースも、
詩人の耳に入りました

この詩篇が書かれたころ、
ある友人宛に
次のような手紙を出しています。

「僕は翻訳をやってゐます。詩はその後殆んど書けません。芸術などといふ仕事は金に苦労を感じないでゐられる時代のもののやうです。(中略)僕も今の学校で大いに勉強して、大使館書記生の試験を受けます。さうでもしなければ、僕にできさうな仕事はありません」
(昭6・11・17付松田利勝宛)

 *
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)

われ等のヂェネレーションには仕事がない。
急に隠居が流行(はや)らなくなつたことも原因であらう。

若い者はみな、スポーツでもしていゐより仕方がない。
文学者だつてさうである。

年寄同様何にも出来ぬ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月12日 (土)

1931年の詩篇<1>(われ等のヂェネレーションには仕事がない)<その1>

20091023_010

「朝の歌」以後も
ダダイズムの痕跡を残した詩は
数多く見つけることができますが、
それを探す姿勢になっていると
なんだか
学問をする姿勢になってくるようなので
ここらへんで
中原中也のダダイズムを
追いかけるのは、
止めておきます。

中原中也の詩を味わうために
中原中也がダダイストであったか、なかったか
宗教詩人であったか、なかったか
抒情詩人であったか、なかったか
自然詩人であったか、なかったか
……

そういう眼差しを
否定するものではありませんが
ここではそういうアプローチや
問いの立て方はいたしません。

ダダは
京都時代に
中原中也が拠り所にさえしていた
イデオロギーみたいなものですが
「朝の歌」以降
消えてしまったわけではなく
より深いところに血肉となり
時には
中原中也の詩に
独特の強度を与えます。

そうした作品に出くわした時、
その詩を
もはや
ダダイズム云々と明言するまでもなく
ああ、あれだ、あれだ、と
詩人のたくらみに思いを馳せれば、
親しみの湧いてくるだけで
詩人の詩を楽しんだことになります

たとえば
「早大ノート」所収の
昭和6年、1931年秋に作られた
と、推定されている草稿作品に
こんなのがあります

 *
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)

われ等のヂェネレーションには仕事がない。
急に隠居が流行(はや)らなくなつたことも原因であらう。

若い者はみな、スポーツでもしてゐるより仕方がない。
文学者だつてさうである。

年寄同様何にも出来ぬ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

ダダのデザイン<26>「朝の歌」のダダ

大岡昇平の次の記述、

「土手づたひ きえてゆく」という比喩は再びわかりにくいが、恐らくここで我々を焦立ちから救うものは、「土手づたひ」という俗にして稚拙な成句である。

は、

「朝の歌」の詩句を
一字一句味わった挙句に、
「土手づたひ」という用語を
「俗にして稚拙な成句」と断じ、
さらに、

 少年時から我々に馴染深いこういう句を、中原はダダの時代から慣用していたから、お経の文句が坊主の口から出て来るように、すぐ筆に乗って来たに相違ない。

と、
解釈してみせます。

「土手づたひ」という語句は、
完成の域に達していた
ソネット文語七語調にしっくりとは馴染まない。
それは、
中原中也が
京都時代に身に着けた
ダダの癖を現したものだ
坊主がお経の文句を吐き出すような
習慣が
ついつい口をついて出たものに違いない

と、
断定するのですが、
さらに加えて、

 そして中原はその誇称する「手間」にも拘らずそういう風に出て来た句を、推敲で圧し殺した形跡はない。むしろ自分の独創のしるしとして、そのまま「破格」として詩の中に残すことを、彼の中の隠れた力が命じたに違いないのである。

と、
結論するところの
優れて深い洞察を
見逃してはなりません。

簡単に要約すれば
「土手づたひ」という詩句の選択は、
詩人が「よかれ!」と自己に命じた方法、
破格という意識された方法であった、
と、
大岡昇平は言っているのであります。

「彼の中の隠れた力が命じたに違いない」
というのは、
ダダと言われても構うものか、
と命じるものが
詩人の心の中にあったのだ、
ということを言っているのです。

このことを
消極的に
「ダダの痕跡」というのなら
それは
「痕跡」には違いありませんが
積極的になれば
「ダダのデザイン」と
捕らえなおすことは可能ではありませんか。

大岡昇平は
この「朝の歌」から
10数年を経た1969年に、
「中原中也・1」(「季刊芸術」第9号)を発表し、
中原中也のダダイスムを考察するのですが、
そこでも
最後は
「しかしこれらはもっと慎重に検討すべき問題である。」
と筆を置きます。

ついに
結論を出さなかったのですが、
中原中也自身が
ダダイズムを否定したことがなかったことを
否定することはなく、

「朝の歌」の中に
ダダを嗅ぎ出す
法律家のような感性でもって、
「中原の思考はダダ的方向において、最も自由に働くことが一貫して認められる」
と、
中原中也のダダイズムを
認めているのです。

 *
 朝の歌
天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
  手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。
樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな
ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2009年12月 7日 (月)

ダダのデザイン<25>「朝の歌」の破格

「秋の愁嘆」
「むなしさ」
「月」
「春の日の夕暮」
「サーカス」
「春の夜」
の一つひとつを鑑賞し、
「朝の歌」誕生への道筋を辿る
大岡昇平の「朝の歌」(1956)は、

京都時代のダダイスト中原中也が
いかにして
ダダイズムの詩から脱皮していったかを
無駄のない文体の中に
明快克明に論証して
中也評伝の一つの核心を
形作っています。

これら6作品をたどりながら
ダダ色が
クレッシェンドして
次第に消えてゆく様子を

詩人富永太郎の臨終の場にはじまる
長谷川泰子=中原中也=小林秀雄の
「奇妙な三角関係」という
ドラマの進行とともに分析する
スリリングと言ってよい
文章の流れは

大岡昇平の膨大な中也評伝の中でも
核心の部分で
何度読んでも
息が詰まり、手に汗握り
目が開かれる思いを
経験するところのものです。

ここでは、
「朝の歌」を1行1行鑑賞しながら
ダダイズムへ言及しているくだりがあるものの
ドラマの進行のスリリングさの陰になって
忘れられがちな一つのコメントに
目を向けておきましょう。

大岡昇平は
次のように記しています。

 「森並は 風に鳴るかな」と読者の想像は外へ出される。「ひろごりて たひらかの空」の下を、「土手づたひ きえてゆく」という比喩は再びわかりにくいが、恐らくここで我々を焦立ちから救うものは、「土手づたひ」という俗にして稚拙な成句である。
 少年時から我々に馴染深いこういう句を、中原はダダの時代から慣用していたから、お経の文句が坊主の口から出て来るように、すぐ筆に乗って来たに相違ない。
 そして中原はその誇称する「手間」にも拘らずそういう風に出て来た句を、推敲で圧し殺した形跡はない。むしろ自分の独創のしるしとして、そのまま「破格」として詩の中に残すことを、彼の中の隠れた力が命じたに違いないのである。<「朝の歌」(1956)より>

 *
 朝の歌

天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »