1931年の詩篇<4>(そのうすいくちびると)
第3連が
はじめ、すんなり入ってきて
食べることは誰にでもできます
けれども
食べ出したあとに困難があります
食べ出せば、
味わわなければなりませんのですから。
と、
なにやら、
創作論めいたものを感じさせてみたり
人生論めいたものを感じてさせてみたり
……
(そのうすいくちびると)は、
「早大ノート」の中の
1931年に制作された詩篇で
最初のものと、
推定されています。
読むコンディションによって、
第3連にひっかかる場合もあれば
第1連、第4連の
食べるによろしい。
に、引き込まれる場合もあり、
第4連の、
美食をすべてキナくさく思はせ、
人の愛さへ五月蠅(うるさ)く思はせ、――
に、つかまってしまう場合もある
不思議な作品です。
おや、
これは、
恋愛論なのか、
と感じはじめるころ
この詩の中に
ずっぽりとはまっているような
中也作品らしい奥行きがあります。
うまいなあ!
おいしいなあ!
くらいなら、
だれにでも言えるよ
食べるだけなら
よいでしょうよ
その、
うすいくちびる
細い声でもね。
十分ですよ。
それではいけないなんて
言いはしませんよ
それでいいのですよ、と
繰り返されると、
なんだか、
食べて、
もぐもぐやっているだけじゃ
情けないようになってきて、
じっくり味わわなくては……
あれやこれや
太陽が昇りはじめるように
心の羽根を飛ばし……
そうこうしているうちに、
旨いものなのに
噛み潰して
キナ臭くさえしてしまい、
人間の愛なんて煩わしいもんだ、
とまで深みにはまって
収拾がつかなくなったり……
それでも
そのうすいくちびると
その細い声は
食べるのによいのです
よろしいのですよ。
食べる、と
味わう、との、
二項対立が回避されているようで、
結局は、
どちらに軍配をあげるわけでもないけれど、
味わうことの難しさが
歌われているような詩なのでしょうか。
タイトルが付けられるまでに
至っていませんが
詩論の詩としての
完成稿を
読みたくなってくる詩篇です。
*
(そのうすいくちびると)
そのうすいくちびると、
そのほそい声とは
食べるによろしい。
薄荷(はつか)のやうに結晶してはゐないけれど、
結締組織をしてはゐるけれど、
食べるによろしい。
しかし、食べることは誰にも出来るけれど、
食べだしてからは六ヶ敷(むつかし)い。
味はふことは六ヶ敷い、……
黎明(あけぼの)は心を飛翔(ひしよう)させ、
美食をすべてキナくさく思はせ、
人の愛さへ五月蝿(うるさ)く思はせ、――
それでもそのうすいくちびるとそのほそい声とは、
食べるによろしい。――あゝ、よろしい!
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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