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2010年1月

2010年1月29日 (金)

1932-1937年の詩篇<1>(ナイヤガラの上には、月が出て)

1932年、昭和7年は、
詩人にどんなドラマが
起こったのでしょうか。
まずは、年譜を見ておきます。

昭和7年(1932) 25歳
4月、「山羊の歌」の編集を始める。
5月頃から自宅でフランス語の個人教授を始める。
6月、「山羊の歌」予約募集の通知を出し、10名程度の申し込みがあった。
7月に第2回の予約募集を行うが結果は変わらなかった。
8月、宮崎の高森文夫宅へ行き、高森とともに青島、天草、長崎へ旅行する。この後、馬込町北千束の高森文夫の伯母の淵江方に転居。高森とその弟の敦夫が同居。
9月、祖母(フクの実母)が死去、74歳。
母からもらった300円で「山羊の歌」の印刷にかかるが、本文を印刷しただけで資金が続かず、印刷し終えた本文と紙型を安原喜弘に預ける。
12月、「ゴッホ」(玉川大学出版部)を刊行。著者名義は安原喜弘。
このころ、高森の伯母を通じて酒場ウィンゾアーの女給洋子(坂本睦子)に結婚を申し込むが断られる。また、高森の従妹にも結婚を申し込むが断られる。
このころ、神経衰弱が極限に達する。高森の伯母が心配して年末フクに手紙を出す。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

「早大ノート」に書き留められた
1932年制作(推定)の詩は、

(ナイヤガラの上には、月が出て)
(汽笛が鳴つたので)
(七銭でバットを買つて)
(それは一時の気の迷ひ)
(僕達の記憶力は鈍いから)
(何無 ダダ)
(頭を、ボーズにしてやらう)
(自然といふものは、つまらなくはない)
(月の光は音もなし)
(他愛もない僕の歌が)
嬰児
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
の、12作です。

(ナイヤガラの上には、月が出て)は、
帰省中に書かれたものか
第4連第3行に、

わたしのをお使ひさんせー、遠慮いりいせん、
(わたしのをお使いなさい、遠慮はいりませんよ)

と、郷里山口の方言が見られます。

ナイアガラの滝の映像を
詩人は
映画ニュースか雑誌かで見たのでしょうか

水しぶきが繰り返し砕け散る様子は
「割れて砕けて裂けて散るかも」(源実朝)に似て
心の鬱屈を紛らわすのに十分だったに違いありません。

ナイアガラ滝の上には、月が出て
かき消すような雲も湧いて出ていて
どこからか、ギターの音が響いていて
滝の轟音と反響している

ほとばしる水の狂躁が僕を押し出す
僕は発電所に入っていって
わけのわからぬことを番人に尋ねると
番人は僕の様子に驚き
お静かに、お静かに、となだめるのだった

ナイアガラの上には月が出ていて
怒り狂っている水流とは
まるで無縁なように月が出ているので

僕は中世の騎士たちの恋愛を
してみたいと夢見ていた
エンジン付きの船に乗って
ぶっ飛ばして
奈落の底の果ての果てまで
行っちゃってしまいたかった

そこへ
糸が切れた、と情けない声がした
僕の釣り友達だった
わたしのをお使いなさい
遠慮はいりませんよー
こんどは船頭の息子が言った

滝の音はいつまでも
いつまでも響きやまなかった
月光は、砕けていた

荒れ狂い
怒り狂う
ナイアガラ滝の奔流は
詩人の
この時期の心の状態を映し出しています。

神経衰弱が進行しているとはいえ
詩心に衰えは見られず、
滝の逆巻く奔流は
詩心そのものでもあるようです。

*
(ナイヤガラの上には、月が出て)

ナイヤガラの上には、月が出て、
雲も だいぶん集つてゐた。
波頭(はとう)に月は千々に砕けて、
どこかの茂みでは、ギタアを弾(かな)でてゐた。

僕は、発電所の中に飛び込んでいつて、
番人に、わけの分らぬことを訊(たず)ね出した。
番人は僕の様子をみて驚いて、
お静かに、お静かに、といつた。

ナイヤガラの上には、月が出て、
僕は中世の恋愛を夢みてゐた。
僕は発動機船に乗つて、
奈落の果まで行くことを願つてゐた。

糸が切れた、となさけない声。
それは僕の釣友達であつた。
わたしのをお使ひさんせー、遠慮いりいせん、
それは船頭の息子だつた。

滝の音は、何時まで響き、
月の光は、砕けてゐた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

1932-1937年制作の詩篇<ラインナップ>

「早大ノート」には
1930年から1937年までの
8年間の詩篇42篇が
記録されていますが、
1933年から1935年の作品はありません。

そのうちわけを見ると、
5篇は1930年制作(推定)のものですし
22篇が1931年制作(推定)でしたし、
12篇が1932年
2篇が1936年
1篇が1937年、でした。

ノートの使用期間が
8年間に渡るものであって、
1936、37年の詩篇は
書き留めておくものが他になく、
このノートの空きスペースを
便宜的に当てたことが想像されます。

合計42篇の
未完成詩篇や完成作品が
記録されているということは
1冊の詩集を編むことのできる数ですが
その意図はありませんでした。

1931年制作の詩篇22篇を
すでに読んだということは、
「早大ノート」の大半を読んだということになりますが、
ひきつづいては、
1932年~1937年の詩篇12篇を
一挙に読み進めます。

(順序通りにはいきませんが、1930年作品5篇は最後に読む予定です)

では
ラインナップだけを見ておきましょう。

(ナイアガラの上には、月が出て)
(汽笛が鳴つたので)
(七銭でバットを買つて)
(それは一時の気の迷ひ)
(僕達の記憶力は鈍いから)
(何無 ダダ)
(頭を、ボーズにしてやらう)
(自然といふものは、つまらなくはない)
(月の光は音もなし)
(他愛もない僕の歌が)
嬰児
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月26日 (火)

中也・松陰・晋作…名前独占ダメ 特許庁、商標認めず

(asahi.comより転載します)

 山口県萩市出身の維新の志士・吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎、山口市出身の詩人・中原中也の名前の独占的な使用は認めません――。特許庁が、歴史上の著名な人物の名前の商標登録を認めないとの判断を示した。この人物らの名前の商標登録の異議申し立てや出願をめぐり、25日までに両市に通知が届いた。

 吉田松陰らの名前は、東京都渋谷区の会社が2007年11月、乳製品や肉、野菜、ビールなどに名付けられるよう商標登録。萩市では、観光土産品などに3人の名前を使う場合は同社に使用料を支払わざるを得なくなり、同市が08年2月に異議を申し立てた。

 中原中也については、宮城県の飲料製造業者が07年に商標登録を出願していたことが判明。出願は却下されたが、山口市は昨年2月、中也の名前が独占的に使われるのを防ごうと、菓子や文房具類などについて「中原中也」と「中也」の商標登録を出願した。

 特許庁から両市に届いた通知などによると、同庁は、こうした歴史上の人物の名前の商標登録を認めれば、「観光振興や地域おこしなどの公益的な施策を阻害し、社会公共の利益に反する」と判断。萩市の異議申し立てを認めて登録を取り消し、山口市の出願は拒絶すると通知した。

 萩市は「当然の主張が認められた」、山口市は「独占使用を防ぐ当初の目的は達成された」と、いずれも一安心している。

2010年1月25日 (月)

1931年の詩篇<27-2>羊の歌 安原喜弘に

P1042335

「早大ノート」には
1930年から1937年までに作られた詩篇が
記録されています。

そのうちの
1931年に制作(推定)された詩篇を読み、
それならば
「早大ノート」以外の
1931年制作の詩篇を読もうということで
「草稿詩篇(1931年―1932年)」の中の
1931年制作の詩篇を読みましたから、

以上読んできた
未発表詩篇が作られたのと同じ年の
公開された詩篇を探してみれば
「山羊の歌」に
「羊の歌」が見つかりました。

何の変哲もない事実のようですが
大岡昇平ら
新編中原中也全集の編集委員が
こぞって、不作の年、と断じ、
年譜にも、
この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。
と記しているのとは違って
1931年の制作活動は
普通に「旺盛」であったことが
見えてきます。

安原喜弘に献呈した
「羊の歌」は
一時期、
第一詩集のタイトルの候補でもあり、
「山羊の歌」では
最終章「羊の歌」の
章題となった作品でありますし、

その作品が
この年1931年に作られている事実は
第一詩集「山羊の歌」が
この年に初めて構想され、
その構想の中心に
この歌「羊の歌」があった、
ということも考えられるほど
重要なことです。

逆から見れば
1931年(昭和6年)という年の
中原中也が
「山羊の歌」の構想に
着手した年であることの背景を
これらの詩篇はあぶり出しているものです。

これを味わうことなく
詩人に近づくことは出来ない
ということさえ言えるほど
1931年詩篇は
普通に重要なのです。

 * 
 羊の歌
   安原喜弘に

   Ⅰ 祈り

死の時には私が仰向(あふむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑よ、汝 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚のほかを希(ねが)はず。

交際よ、汝陰鬱なる汚濁(をぢよく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は既に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑ひとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず

   Ⅲ

我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
其処此処(そこここ)に時々陽の光も落ちたとはいへ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有(いう)であるやうに
またそれは、凭(よ)つかかられるもののやうに
彼女は頸をかしげるのでした
私と話してゐる時に。

私は炬燵(こたつ)にあたつてゐました
彼女は畳に坐つてゐました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室(へや)には、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは) 陽に透きました。

私を信頼しきつて、安心しきつて
かの女の心は蜜柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(ぐわんみ)しました。

   IIII

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜な夜なは、下宿の室(へや)に独りゐて
思ひなき、思ひを思ふ 単調の
つまし心の連弾よ……

汽車の笛聞こえもくれば
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思ひなき、おもひを思ふわが胸は
閉ざされて、醺(かび)生(は)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬
酷薄の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐へもする
さびしさこそはせつなけれ、みづからは
それともしらず、ことやうに、たまさかに
ながる涙は、人恋ふる涙のそれにもはやあらず……

*醺 「醺」は「酔う」の意。「かび」の意味ならば「?」の誤記か。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2010年1月17日 (日)

1931年の詩篇<27>羊の歌 安原喜弘に

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「早大ノート」の中の
1931年制作(推定)の詩篇を読み、
「草稿詩篇(1931年―1937年)」の中の
1931年制作(推定)の詩篇を読めば、
すべての
1931年制作(推定)の詩篇を読んだことになるか
というと、そうではなく、
もう一つの
決定的に重要な作品が
1931年に書かれていることに
気づかないわけにはいきません。

その詩こそ、
第一詩集「山羊の歌」の中の
「羊の歌 安原喜弘に」です。
この詩は
すでに
2008年8月17日に読んでいますが
その読みは
いまもほとんど変わっていないので
ここに再録しておきます。

<以下2008年8月17日の記事の再録>
詩集「山羊の歌」の
最終章「羊の歌」は
三つの詩で成ります。
一つ目が章タイトルと同じ「羊の歌」
二つ目が「憔悴」
三つ目が「いのちの声」です。

「羊の歌」は
安原喜弘へ献じられています。

中也晩年を最も親しく生きた
と、言われている安原は
「白痴群」の同人であり、
成城グループの一人です。

後年、というのは、昭和54年(1979年)
「中原中也の手紙」を
発表します。

詩集の終わりに当たって
詩人は
いきなり
自らの死をうたいはじめます

1の章は「祈り」と章題が付され、

死の時には私が仰向かんことを!
この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!

それというのも
僕は僕が感じることのできなかったせいで
罰せられて、死が僕にやってきたと、思うから。

仰向けの姿勢で死にたい!
うつ伏せの姿勢で死にたくはない!

せめて、死ぬときくらい、
僕は仰向けになって
すべてを感じる者でありたいのだ!

2の章は
思惑、交際、疑い……
これら、詩人の対外関係を

古めかしい空気(思惑)
汚辱の許容(交際)
己の外をあまりに信じる心(疑い)

と、否定し
自分の内部から
これらが消え去ることを願う
詩人のスタンスが述べられます

3の章は、ボードレールの詩句

我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいへ。

を、添えて

第1連
9歳の子どもと僕の
遠い日のことが語られるのです

女の子どもです
この子どもは泰子と思われます
泰子であったほうが自然です

第2連
冬の日の天気のよい午前
僕の部屋には陽がいっぱい当たり
彼女が首を傾げると
耳朶(みみたぶ)が陽に透けて
綺麗な赤になりました
と、彼女との幸福の時間を歌います

第3連も
僕はすべての用事も忘れて
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読玩味しました
と、幸福な時間を歌います

最終の4の章は、
急激に転調します。
暗転します。

下宿の独り暮らしで
単調であって、
相手のない
つましい、心だけの連弾を
毎夜、奏している僕

汽車のピーという笛の音も聞こえてくるので
昔した旅を思い、幼き日のことを思い

いや、違う
幼き日のことも旅のことも思わずに
旅と見えるだけの、
幼き日のことと思えることだけを

……

……

寂莫(しじま)にほとぶ、は
沈黙の世界にどっぷりとつかっている、
くらいの意味でしょうか

さびしい
さびしい
思いなき思いが
綿々と
綴られます

 *
 羊の歌
   安原喜弘に

   Ⅰ 祈り

死の時には私が仰向(あふむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑よ、汝 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚のほかを希(ねが)はず。

交際よ、汝陰鬱なる汚濁(をぢよく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は既に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑ひとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず

   Ⅲ

我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
其処此処(そこここ)に時々陽の光も落ちたとはいへ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有(いう)であるやうに
またそれは、凭(よ)つかかられるもののやうに
彼女は頸をかしげるのでした
私と話してゐる時に。

私は炬燵(こたつ)にあたつてゐました
彼女は畳に坐つてゐました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室(へや)には、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは) 陽に透きました。

私を信頼しきつて、安心しきつて
かの女の心は蜜柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(ぐわんみ)しました。

   IIII

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜な夜なは、下宿の室(へや)に独りゐて
思ひなき、思ひを思ふ 単調の
つまし心の連弾よ……

汽車の笛聞こえもくれば
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思ひなき、おもひを思ふわが胸は
閉ざされて、醺(かび)生(は)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬
酷薄の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐へもする
さびしさこそはせつなけれ、みづからは
それともしらず、ことやうに、たまさかに
ながる涙は、人恋ふる涙のそれにもはやあらず……

*醺 「醺」は「酔う」の意。「かび」の意味ならば「醭」の誤記か。

(角川文庫クラシックス 佐々木幹郎編「中原中也詩集『山羊の歌』より)

2010年1月16日 (土)

1931年の詩篇<26>三毛猫の主(あるじ)の歌へる 青山二郎に

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「早大ノート」のうちの
1931年制作(推定)の詩篇は
22篇あり、
そのすべてを読み終えましたが
1931年制作(推定)の詩篇は
このほかにもあります。

「早大ノート」に記されていなくても
この年(1931年)に
友人知人宛の書簡に書かれたもので、
安原喜弘宛の書簡の中にあった
「疲れやつれた美しい顔」
「死別の翌日」
「Tableau Triste
   A・O・に。」
などの作品があり、

「三毛猫の主(あるじ)の歌へる
       青山二郎に」などのように
献呈された相手が、
知人に預けたり貸したりしていたものが
後になって発見されたり……と、
数奇な運命をたどった
草稿作品などがあり、
これらは、
草稿詩篇(1931年―1932年)の中に
まとめられています。

大岡昇平は
「思い出すことなど」(1979年)で
この「三毛猫の主(あるじ)の歌へる
       青山二郎に」が
発見された経緯(いきさつ)などを
克明に披瀝していますが、
その中に、

「この長谷川泰子を思わせる詩を青山に献じていることに、伝記作者はふ
たたび陰惨な気持に導かれる(略)」

とあり、
三毛猫が泰子のことである、
と知れば、
この詩は
俄然、
ファンのところにも
近づいてくることになるでしょう。

1931年(昭和6年)というこの年、
中原中也24歳(4月29日が誕生日)、
長谷川泰子が小林秀雄の元へと去ったのは
1925年(大正14年)11月、
中也18歳のことでした。

この年の年譜を
ふたたび見ますと、

この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。
2月、高田博厚渡仏。長谷川泰子とともに東京駅で見送る。
4月、東京外国語学校専修科仏語に入学。
5月、青山二郎を知る。
7月、千駄ヶ谷に転居。
9月、弟恰三死去、19歳。戒名は秋岸清涼居士。葬儀のため帰省。
10月、小林佐規子(長谷川泰子)「グレタ・ガルボに似た女性」の審査で一等に当選。
冬、高森文夫を知る。

と、角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」にありますが、
冒頭の、
「この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。」
は、余計なことがわかります。

この年譜に記された
詩人の行動記録は、
ほとんどが
この年に作られた詩の
背景やテーマになりましたし、

このほかに
満州事変の勃発という
社会情勢をも詩人は歌いましたし、

最終行、
「冬、高森文夫を知る。」の1行にも、
詩人の詩作を豊かにする
ドラマが広がっていったことを
想像することはむずかしくありません。

 *
 三毛猫の主(あるじ)の歌へる
       青山二郎に

むかし、おまへは黒猫だつた。
いまやおまへは三毛猫だ、
幾歳月の漂浪のために。
そして、わたしは、三毛猫の主(あるじ)だ。

わたしは、それを嘆きはしまい、
わたしはそれを、怨みはしまい。
われら二人をめぐる不運は
われらを弱めることによつて甦(よみがえ)つた。

さは、さりながら、おまへ、遐日(むかし)の黒猫よ、
わたしはおまへの、単一を惜む!
わたしはおまへの、単一な地盤の上にて

生長すべかりしことを懐(おも)ふ!
その季節(とき)やいま失はれて、
おまへは患(うれ)へ、わたしはおまへの患へを患へる。
              (一九三一・六・一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月14日 (木)

1931年の詩篇<25>秋の日曜

詩人・中原中也は
1931年7月に
千駄ヶ谷町千駄ヶ谷872高橋方で
下宿生活をはじめました。

小田急の南新宿駅そばで、
新宿のデパートの屋上の
アドバルーンが見える位置に
下宿の部屋はありました。

三越でしょうか
伊勢丹でしょうか
ほかの場所にあがった
アドバルーンでしょうか……

「秋の日曜」は、
「早大ノート」に書かれた
1931年制作(推定)の詩の
最後の作品です。

ドロドロしたものが
微塵(みじん)もなく
穏やかで
爽やかで
透明で
澄んだ
秋の
日曜日の
幸福感に満ちた詩を
悲しみの詩人は
どのようにして
作ることができたのでしょうか……

繰り返し
読んでいるうちに
心の底から
温まってきて
ジーンと
こみあげてくるものがあります。

最終連、

あの貞順な奥さんも
昔の喜びに笑ひいでる。

の、
貞順な奥さんは
きっと
長谷川泰子のことでしょう、

その泰子も、
昔の一時(いっとき)を
思い出しては
幸福な笑いの中に
あるのです。

すでに、
2009年5月21日付けで
一度読みましたが、
不作と言われた
1931年の詩篇にも
こうした名作があります。

 *
 秋の日曜 

私の部屋の、窓越しに
みえるのは、エア・サイン
軽くあがつた 二つの気球

青い空は金色に澄み、
そこから茸(きのこ)の薫りは生れ、
娘は生れ夢も生れる。

でも、風は冷え、
街はいつたいに雨の翌日のやうで
はじめて紹介される人同志はなじまない。

誰もかも再会に懐しむ、
あの貞順な奥さんも
昔の喜びに笑ひいでる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

1931年の詩篇<24>マルレネ・ディートリッヒ

この詩を書いたころ、
長谷川泰子が
小林佐規子の名で
「グレタ・ガルボに似た女性」のテーマで
(東京・新宿の映画館)武蔵野館が募集していた
コンテストに当選します。

グレタ・ガルボは当時、
マレーネ・デートリッヒと並び
世界を二分していたほどの
人気女優で
妖艶な肉体美、脚線美……で
男たちを魅惑していました。

この時は
「インスピレーション」という映画が
上映にかかり、
その封切館である武蔵野館が
キャンペーンをやったというわけです。

中原中也は
泰子の当選を
心から喜べず喜ばず
遠からず近からざる距離から
ヤキモキしていた状態で
この詩を作りましたが、
グレタ・ガルボを
マレーネ・ディートリッヒに
置き換えて歌ったのです。

中也は
あるいは
ガルボよりも
デートリッヒが好みだったのかもしれませんが……

周囲にちやほやされたり
浅はかな言葉に傷ついたりしている
美しいあなたよ
セムの血をひき
アメリカの古曲に聴き入る姿の
なんと美しいあなたよ

そのようなあなたでさえ
浮世の
馬鹿どもの言うことで
苦労なされるなんて
つまらないです
僕には
何もかもが
つまらないです。

世界を風靡している
デートリッヒに呼びかけるなんて
いかにも中也らしいですが
本当の相手は
泰子だったというのが
もっと中也らしいところです

 *
 マルレネ・ディートリッヒ

なあに、小児病者の言ふことですよ、
そんなに美しいあなたさへ
あんな言葉を気にするなんて、
なんとも困つたものですね。

合言葉、二週間も口端にのぼれば、
やがて消えゆく合言葉、
精神の貧困の隠されてゐる
馬鹿者のグループでの合言葉。

それがあなたの美しさにまで何なのでせう!
その脚は、形よいうちにもけものをおもはせ、
あなたの祖先はセミチック、
亜米利加古曲に聴入る風姿(ふぜい)、

ああ、そのやうに美しいあなたさへ
あんな言葉に気をとられるなんて、
浮世の苦労をなされるなんて、
私にはつまんない、なにもかもつまんない。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月13日 (水)

1931年の詩篇<23>細心

20091103_138

「早大ノート」で
「細心」とある作品は
はじめ
「自尊心」でした。

細心は、さいしんでしょうか
自尊心というよりも
細心としたい詩心が
勝ったわけは分かりません。

意味としては
自尊心プライドと
解すれば
この詩は
いっそう通じるかもしれません

豹(ひょう)にしては鹿、
鹿にしては豹に似てゐた

この女性こそは
長谷川泰子である、と
だれしもが
頷(うなづ)きそうな形容には
詩人の心のうちが
あられもなく
曝(さら)け出されているようですが……

この詩を書いた当時、
前年1930年12月に
泰子が
築地小劇場の演出家、
山川幸世の子を生み、

「中原の求愛と希望は完全に破れる」と
大岡昇平が
冷徹に事態を読み取るように
中也と泰子の関係は
光のないものでした。

それでも
中也はその子の名付け親になり
以後も

「中原はこの子供に、まるで自分の子供に対するような愛情を注いでいた。種痘するのを忘れないように、泰子に注意したり、耳のうしろの小さな傷につける売薬の名前を速達で教えてやったりしている。(大岡昇平「在りし日の歌」)

といったような
関係をつづけます。

茂樹の誕生から
およそ1年
泰子は
小林佐規子の名で
女優活動を続ける中、
グレタ・ガルボ主演の映画を
封切りした映画館「武蔵野館」が募集した
「グレタ・ガルボに似た女性」に当選します

この頃に
書かれたのが
この「細心」
「コキューの憶ひ出」
「マルレネ・ディートリッヒ」の3作品です。

 * 
 細 心

傍若無人な、そなたの美しい振舞ひを、
その手を、まるで男の方を見ない眼を、
わたしがどんなに尊重したかは、

わたしはまるで俯向(うつむ)いてゐて
そなたを一と目も見なかつたけれど、
そなたは豹(ひょう)にしては鹿、
鹿にしては豹に似てゐた。

野卑な男達はそなたを堅い木材と感じ
節度の他に何にも知らぬ男達は、
そなたを護謨(ゴム)と感じてゐた。

されば私は差上げる、
どうせ此の世では報はれないだらうそなたの美のために、
白の手套(てぶくろ)とオリーヴ色のジャケツとを、
私が死んだ時、私の抽出(ひきだ)しからお取り下さい。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月11日 (月)

1931年の詩篇<22>コキューの憶ひ出

20091025_002

満州事変や
弟の死を歌った詩人が
次に
モチーフとしたのは
またしても
泰子との辛い事件の思い出でした。

「コキューの憶ひ出」
「細心」
「マルレネ・ディートリッヒ」の3作では、
ふたたび
「悲しき画面」に戻ったかのように
女性が歌われます。

「コキューの憶ひ出」には、
友人に恋人を奪われた
悔しい人である詩人というよりも

テンツク テンテンツク テンテンツク……と
池上本門寺の太鼓の音が響く
お会式の日の夜に
机に向かって
詩想を練っている詩人に
じわじわと襲いかかる
悲しみが前面に出ています

詩句をたどれば
夜中に自画像を描いていることになりますが
実際は絵を描いているのではなく
自我と向き合っているだけで、
(自画像ではなく自我像と詩人は常に書きます)

詩作のために考え事をしていると
その想像の世界に浮かんでくる自分の顔が
悲しみに歪(ゆが)んでいるのが
わかります

コンテで描いた肖像が
雨に濡れて
傑作な自我像の完成だい

お会式の夜には
特別列車が走るので
その終夜運転の電車の音で
悲しみが紛らわされることもあったのだけれど

それが通り過ぎれば
悲しみに打ちひしがれた顔が
煌々とそこだけ明るい
部屋の机の上の
原稿用紙の中から
くっきりと
浮かび上がってくるのでした。

「悲しき画面」と
そっくりな
詩の構造は
幻想的で映画的です。

Cocuは
コキューとかコキュとか発音し、
恋人や妻を寝取られてしまった男
という意味のフランス語ですが
これを
詩のタイトルに使うなんて
やはり、これは
中原中也ならではのものでありそうです。

小説や戯曲の題材としてなら
古今東西、
数多(あまた)の作品が
作られてきましたし、
詩作品にも
三角関係や失恋の歌ならば
たくさん歌われてきましたが……。

 * 
 コキューの憶ひ出

その夜私は、コンテで以て自我像を画いた
風の吹いてるお会式(えしき)の夜でした

打叩く太鼓の音は風に消え、
私の机の上ばかり、あかあかと明(あか)り、

女はどこで、何を話してゐたかは知る由もない
私の肖顏(にがほ)は、コンテに汚れ、

その上に雨でもバラつかうものなら、
まこと傑作な自我像は浮び、

軋(きし)りゆく、終夜電車は、
悲しみの余裕を奪ひ、

あかあかと、あかあかと私の画用紙の上は、
けれども悲しい私の肖顔(にがほ)が浮んでた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月10日 (日)

1931年の詩篇<20、21>疲れやつれた美しい顔、死別の翌日

20091118_090

「早大ノート」に書きとめられた
弟・恰三の死を追悼した詩は
3作品ありますが
このうち
(疲れやつれた美しい顔よ)

「死別の翌日」
の2篇は、
後に、
昭和6年(1931年)10月9日付け
僚友・安原喜弘宛書簡で
清書されたうえで
送り届けられました。

「悲しき画面」が
フランス語に改題されて
送られたのが
公表であり
そのための清書であったのと同じで、

句読点などに若干の変更があるものの
ほとんど同一内容の清書草稿で
そのうえ
2作とも
タイトルが付けられていますから、
完成稿と理解できますので

これらの作品は
草稿詩篇(1931年―1932年)にも
収録される習いになっています。

(疲れやつれた美しい顔よ)は
タイトルがなかったものを
「疲れやつれた美しい顔」と題され、
感動助詞「よ」が
削除されました。

 *
 疲れやつれた美しい顔

疲れやつれた美しい顔よ、
私はおまへを愛す。
さうあるべきがよかつたかも知れない多くの元気な顔たちの中に、
私は容易におまへを見付ける。

それはもう、疲れしぼみ、
悔とさびしい微笑としか持つてはをらぬけれど、
それは此の世の親しみのかずかずが、
縺(もつ)れ合ひ、香となつて蘢る壺なんだ。

そこに此の世の喜びの話や悲しみの話は、
彼のためには大きすぎる声で語られ、
彼の瞳はうるみ、
語り手は去つてゆく。

彼が残るのは、十分諦めてだ。
だが諦めとは思はないでだ。
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋にみる、三色菫(さんしきすみれ)だ。

 *
 死別の翌日

生きのこるものはづうづうしく、
死にゆくものはその清純さを漂はせ
物云いたげな瞳を床(ゆか)にさまよはすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

さて、今日は良いお天気です。
街の片側は翳(かげ)り、片側は日射しをうけて、あつたかい
けざやかにもわびしい秋の午前です。
空は昨日までの雨に拭はれて、すがすがしく、
それは海の方まで続いてゐることが分ります。

その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
みたばかりの死に茫然(ぼうぜん)として、
卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月 9日 (土)

1931年の詩篇<17、18、19>(ポロリ、ポロリと死んでゆく)(疲れやつれた美しい顔よ)死別の翌日

20091028_061

満州事変のニュースに
中原中也は
どのようにして接したのでしょうか
ラジオでしょうか
新聞でしょうか……

(秋の夜に)
(支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)の3作を書いて
詩人は、
明らかに
戦争へ向かう時代の空気に反応しましたが……

反戦を叫ぶでもなく
戦争なんて関係ない、
と不貞腐(ふてくさ)れるのでもなく
これまで通り
詩を書いて生きていくための方策を探し求めて
真剣でした
精一杯でした

さしあたっては
フランスへ渡ることを計画し
前年1930年には
中央大学予科へ編入学
この年1931年4月には
東京外国語学校仏語専修科に入学するなど
フランス語の修得に力を注ぎました

そんな矢先
弟・恰三の死に遭います。

このあたりを
大岡昇平の
簡潔にして要を得た解説は、

(略)恰三は、明治45年10月生れ、5歳年下の長男である。長男中也に医師になる意志も見込みもなく、次男亜郎は夭折していたので、中原病院を継ぐために医学を志した。幼時より剣道野球を好み、快活な性格であった。昭和5年4月、両親の期待に応えて日本医大予科に入学したが、恐らく受験勉強の過労の結果であろう、肺を悪くして帰郷する。急に病状が進んでこの年9月27日に死んだ。(中原中也全集解説「詩Ⅱ」)

と、記しています。

*この年9月27日、とある、この年は昭和6年のこと。また、恰三の死亡日は、後の研究で、9月26日とされるようになりました。(編者)

中也は、
世田ヶ谷の豪徳寺の酒場で深酒、
帰宅して弔電を読みます。

こうして
追悼の詩が
いくつか書かれましたが
「早大ノート」に書きとめられたのは
次の3作です。

 *
 (ポロリ、ポロリと死んでゆく)

      俺の全身(ごたい)よ、雨に濡れ、
      富士の裾野に倒れたれ
              読人不詳
                
ポロリ、ポロリと死んでゆく。
みんな別れてしまふのだ。
呼んだつて、帰らない。
    なにしろ、此の世とあの世とだから叶(かな)はない。

今夜(いま)にして、僕はやつとこ覚(さと)るのだ、
白々しい自分であつたこと。
そしてもう、むやみやたらにやりきれぬ、
(あの世からでも、僕から奪へるものでもあつたら奪つてくれ。

それにしてもが過ぐる日は、なんと浮はついてゐたことだ。
あますなきみじめな気持である時も
随分いい気でゐたもんだ。
   (おまへの訃報(ふほう)に遇(あ)ふまでを、浮かれてゐたとはどうもはや。

風が吹く、
あの世も風は吹いてるか?
熱にほてつたその頬に、風をうけ、
正直無比な目で以て
おまへは私に話したがつているのかも知れない……

————その夜、私は目を覚ます。
障子は破れ、風は吹き、
まるでこれでは戸外に寝ているも同様だ。

それでも俺はかまはない。
それでも俺はかまはない。
   どうなつたつてかまはない。
なんで文句を云ふものか……

 *
 (疲れやつれた美しい顔よ)

疲れやつれた美しい顔よ、
私はおまへを愛す。
さうあるべきがよかつたかも知れない多くの元気な顔たちの中に、
私は容易におまへを見付ける。

それはもう、疲れしぼみ、
悔とさびしい微笑としか持つてはをらぬけれど、
それは此の世の親しみのかずかずが、
縺(もつ)れ合ひ、香となつて籠る壺なんだ。

そこに此の世の喜びの話や悲しみの話は、
彼のためには大きすぎる声で語られ、
彼の瞳はうるみ、
語り手は去つてゆく。

彼が残るのは、十分諦めてだ。
だが諦めとは思はないでだ。
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋にみる、三色菫(さんしきすみれ)だ。

 *
 死別の翌日

生きのこるものはづうづうしく、
死にゆくものはその清純さを漂はせ、
物言いたげな瞳を床にさまよはすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

さて、今日は良いお天気です。
街の片側は翳り(かげり)、片側は日射しをうけて、あつたかい、
けざやかにもわびしい秋の午前です。
空は昨日までの雨に拭はれてすがすがしく、
それは海の方まで続いてゐることが分ります。

その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
みたばかりの死に茫然として、
卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月 7日 (木)

1931年の詩篇<16>(月はおぼろにかすむ夜に)

20091103_076

1931年に作られたと推定されている詩を
読み始めたのは
この年1931年(昭和6年)に
満州事変が起こり、
15年戦争という
無謀で野蛮で悲惨な営みに
日本という国が突き進んでいった年であり、

この年に
中原中也は
どんな状態だったのか
どんな詩を作っていたのか
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)を
読んだのが
そのきっかけでしたが、

「早大ノート」や
「草稿詩篇」の
1931年制作(推定)の詩篇を
はじめから順に読み進めて、
満州事変のころの
社会に関わる詩に至るまでには
あと一つ、
(月はおぼろにかすむ夜に)を読むばかりになりました。

「悲しき画面」で
「過去」を歌い、
「雨と風」「風雨」で
「ありし日」へと遡(さかのぼ)った詩人は、

いったん、
ここで引き返して
戦争へ向かうこの国の現実社会に
目を向けたかのように、
(秋の夜に)
(支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)
の3作を立て続けに書くのですが、

満州事変は
9月18日に勃発し、
この頃、
弟の恰三が急死し(9月26日)
(ポロリ、ポロリとしんでゆく)
(疲れやつれた美しい顔よ)
(死別の翌日)
という3作の哀悼詩も書きます。

この、
戦争(およびその背景)に言及した3作と
弟の追悼詩3作の間に
わずか2行の
未完成詩(月はおぼろにかすむ夜に)は
あります。

このあたりの事情を知って読むと
この2行詩が
どこかしら
意味深長に見えてくるから
これまた興味深いもの
と言わざるをえません。

 * 
(月はおぼろにかすむ夜に)

月はおぼろにかすむ夜に
杉は、梢を 伸べてゐた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

1931年の詩篇<15>(吹く風を心の友と)

20091111_039

風雨にかき消されそうになる思い出を
「雨と風」「風雨」で歌って
今度、その思い出は
より具体的になり、
詩人15歳の春へと
場面を移します。

げんげの咲く田んぼを
歩いている
あの15歳の春……

春の強い風をむしろ心の友にして
口笛吹いて
いつしか心の中に巣食った
悲しみをまぎらわし

げんげ田を
歩いていた
あの15歳の春は

煙にでもなったかのように
野羊にでなったかのように
パルプでもなったかのように……

飛んで行って
どこか他の遠い別の世界にでも行ってしまって
また花を咲かせているだろうか
今こうして、耳を澄ませば
あの時のげんげの花の色のように
恥じらいながら遠くに聞こえている

あれは
15歳の春からやってくる
遠い音の便りなのだろうか
滲むように
日が暮れても空のどこかに
あの日の昼のままそっくり
あの時が
あの時の物音が移ろっているように思えてくる

それがどこか?どこなのか?
とにかく僕はそこへ行けたらなあ……
そしたら
心の底から懺悔して
許されたという気持ちの中に
再び生きて
僕は努力家になろうと思います

中原中也の15歳は
大正11年(1922年)で
山口中学2年生で、
学年末の大正12年3月には、
落第が決まります。
「文学に耽りて落第す」と
その理由を、後年、
詩人は、「詩的履歴書」に記しました。

 *
(吹く風を心の友と)

吹く風を心の友と
口笛に心まぎらはし
私がげんげ田を歩いてゐた十五の春は
煙のやうに、野羊のやうに、パルプのやうに、

とんで行つて、もう今頃は、
どこか遠い別の世界で花咲いてゐるであらうか
耳を澄ますと
げんげの色のやうにはぢらひながら遠くに聞こえる

あれは、十五の春の遠い音信なのだらうか
滲(にじ)むやうに、日が暮れても空のどこかに
あの日の昼のまゝに
あの時が、あの時の物音が経過しつつあるやうに思はれる

それが何処か?――とにかく僕に其処へゆけたらなあ……
心一杯に懺悔して、
恕(ゆる)されたといふ気持の中に、再び生きて、
僕は努力家にならうと思ふんだ――

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月 6日 (水)

1931年の詩篇<13、14>雨と風、風雨

20091111_030

「悲しき画面」では、
括弧にくくられた過去が、
歌われましたが、
『過去』と表記して
それが純然たる過去ではなく、
現在につながっている過去
というニュアンスを含ませたかったのでしょうか……

「雨と風」では、
純然たる過去
すなわち、思い出となった過去が
歌われます。

激しい雨の音がして
風が吹くとき
雨の音はひときわ大きくなり
風がやめば
一瞬は雨音は和やかになりはしますが……

騒がしい雨の音よ
悲しみで呆けた僕には
なんと騒がしい雨の音だことか!

悲しみ呆けした僕の
カナシミボケシタボクノ
遠い日の思い出は消え入りそうだよ
それに似て
街も家も
雨風の中にうっすらと霞んで見える

そんなふうに
霞んだ景色の中に
ちらっと一瞬浮かんでくる
僕の遠い過去の日々は
風の音に吹き消されてしまって
雨の音と
僕とが
取り残されるのさ

最終連第2行の

ちらと浮むわがありし日は

の「ありし日」は、
やがて、
詩集「在りし日の歌」というタイトルへと
連なっていく、
さまざまな過去のかたちの、
さまざまな思い出のかたちの、
一つです。

この「雨と風」は、
詩人によって、
繰り返し推敲(すいこう)され、
「風雨」という作品になりましたが、
この推敲の過程で、
二つの作品が出来上がった状態になり、

その二つの作品は、
どちらも
未完のままともいえるし、
どちらも
完成間近ともいえる、
独立した作品になりました。

 *
 雨と風

雨の音のはげしきことよ
風吹けばひとしほまさり、
風やめばつと和みつつ

雨風のさわがしき音よ
――悲しみに呆(ほう)けし我に、
雨風のさわがしき音よ!

悲しみに呆けし我の、
思ひ出はかそけきものよ
それに似て巷(ちまた)も家も
雨風にかすむでみえる

そがかすむ風情(ふぜい)の中に
ちらと浮むわがありし日は
風の音に吹きけされつつ
雨の音と、我(あ)と、残るのよ

 *
 風 雨

雨の音のはげしきことよ
風吹けばひとしほまさり
風やめば つと和みつつ

雨風のあわただしさよ、
――悲しみに呆(ほう)けし我に、
雨風のあわただし音(ね)よ

悲しみに呆けし我の
思ひ出のかそけきことよ
それににて巷(ちまた)も家も
雨風にかすみてみゆる

そがかすむ風情の中に、
ふと浮むわがありし日よ
風の音にうちまぎれつつ
ふとあざむわがありし日よ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月 4日 (月)

1931年の詩篇<12>Tableau Triste

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「Tableau Triste A・O・に。」は、
「悲しき画面」のタイトルを
フランス語に変えた作品で、
内容は同じものです。

「早大ノート」に書きとめた
「悲しき画面」を
詩人は、
昭和6年12月4日付け
安原喜弘宛書簡に
同封した時、
「Tableau Triste A・O・に。」と
改題したのです。

このため、
「新編中原中也全集」の編集委員会は、
「未完詩篇」の編集にあたって、
「早大ノート」中の
「悲しき画面」と
「草稿詩篇(1931年―1932年)」中の
「Tableau Triste A・O・に。」とを、
独立して扱うことにしました。

これを受け取った
安原喜弘は、

十二月四日付でまた一篇の美しい詩が送られている。それは『Tableau Triste』と題され、『A・Oに』と付記されている。『A・O』については私には心当りがない。この詩も彼によって未発表のまゝに遺された詩の一つである。
(1979年、玉川大学出版部、「中原中也の手紙」より)

と記しています。

いっぽう、
安原の「中原中也の手紙」が刊行される前に、
この詩の改題について、
大岡昇平は、

「Tableau Triste」の題名を採用したのは、友人に送ることを一種の公表と見做す方針からである。(1967年、「詩Ⅱ」)

と断言的に書いています。

両者の解釈の違いみたいなことが
ここに感じられるのですが、
そのこと自体が
一つの詩作品の味わいを
豊かにする材料になっている
とも言えるようなのは
きっと
詩の力あればこそだからに違いありません。


Tableau Triste
A・O・に。

私の心の、『過去』の画面の、右の端には、
女の額の、大きい額のプロフィルがみえ、
それは、野兎色のラムプの光に仄照らされて、
嘲弄的な、その生(は)え際(ぎは)に隈取られてゐる。

その眼眸(まなざし)は、画面の中には見出せないが、恐らくは
窮屈げに、あでやかな笑(ゑみ)に輝いて、中立地帶に向けられてゐる。
そして、なぜか私は、彼の女の傍(そば)に、
騎兵のサーベルと、長靴を感ずる――

読者よ、これは、その性情の無辜のために、
いためられ、弱くされて、それの個性は、
それの個性の習慣を形づくるに至らなかつた、
一人の男の、かなしい心の、『過去』の画面、……

今宵も、心の、その画面の右の端には、
その額、大きい額のプロフィルがみえ、
野兎色の、ラムプの光に仄照らされて、
ラムプの焔の消長に、消長につれてゆすれてゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月 3日 (日)

1931年の詩篇<11>悲しき画面(その2)

20091111_110

「悲しき画面」は
4連で構成されていますが、
第2連の終行は、
騎兵のサーベルと、長靴を感ずる――
と結ばれ、
女性のそばに、
騎兵のサーベルと長靴
の存在を感じている詩人がいます。

この作品に関する
大岡昇平の
やや難解な鑑賞があるのは、
「未完詩篇」を解説した「詩Ⅱ」(1967年)です。

騎兵のサーベルや長靴はフロイディスムの解釈では男性、或いは母への加害者としての父親の象徴とされる。フロイディスムはこの頃から翻訳されていたから、中原は読んでいたかも知れない。しかし通俗解説書にある形象をそのまま使うのは中原の習慣にはなく、恐らく実感を記したものであろう。そしてここにも依然として、小林との三角関係が蔭を落している。

大岡昇平は、
こう記した当時、
「A・O・に」という献辞に
敢えてこだわらず
「Tableau Triste」および
その草稿である「悲しき画面」に
小林秀雄=長谷川泰子=中原中也の三角関係を
読み取りました。

「騎兵のサーベルと長靴」は、
「男根」的存在
というより、
「男性」であるだけでよく、
「男性」が
小林秀雄であってもよく、

あるいは、
「軍人」を意味している
と、解釈しても、
その軍人が
やがて召集される
小林秀雄であってもよく、
A・O・の恋人であってもよかったところ、

第3、4連を含む
詩全体を読んで
中原中也の内面に
いまだ、
三角関係の陰が落ちていたことを
感じ取って、
こちらを取ったのでしょう。

読者よ、
と、読者に向かって呼びかける第3連は、
中原中也の詩の中でも珍しいもので、
一人の男の、
かなしい心の、
過去の画面を、
吐き出さずにはいられなかった
詩人の実感の
ストレートな表れなのでしょうか。

今夜も、
とある酒場の、
野うさぎ色のランプの光の中に
過去を映し出す画面が浮かび、
ランプの光が揺れるのにつれて
ユラユラと揺れています。

 *
 悲しき画面

私の心の、『過去』の画面の、右の端には、
女の額の、大きい額のプロフィルがみえ、
それは、野兎色のラムプの光に仄照らされて、
嘲弄的な、その生(は)え際(ぎは)に隈取られてゐる。

その眼眸(まなざし)は、画面の中には見出せないが、恐らくは
窮屈げに、あでやかな笑(ゑみ)に輝いて、中立地帶に向けられてゐる。
そして、なぜか私は、彼の女の傍(そば)に、
騎兵のサーベルと、長靴を感ずる――

読者よ、これは、その性情の無辜のために、
いためられ、弱くされて、それの個性は、
それの個性の習慣を形づくるに至らなかつた、
一人の男の、かなしい心の、『過去』の画面、……

今宵も、心の、その画面の右の端には、
その額、大きい額のプロフィルがみえ、
野兎色の、ラムプの光に仄照らされて、
ラムプの焔の消長に、消長につれてゆすれてゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年1月 1日 (金)

1931年の詩篇<11>悲しき画面

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「早大ノート」の1931年制作(推定)詩篇の
「さなざなま人」に続いて、
「夜空と酒場」
「夜店」という
夜を歌った作品が並びますが、

その次にある
「悲しき画面」が
夜の酒場の風景を含んでいるものと知るには、
「草稿詩篇(1931-1932年)」中の
「Tableau Triste   A・O・に。」に行き着き、

「Tableau Triste   A・O・に。」が
「悲しき画面」の完成形であり、
この完成詩で
献呈された「A・O・」とは誰のことだろう、と
疑問を抱き、

「A・O・」は、
1931年当時、
東京の東中野にあり、
中也も長谷川泰子も行きつけだった
酒場「暫」(しばらく)の
秋子という名の女性のことらしい、
という研究を知ると
納得できたりします。

第1連第3行
野兎色のラムプの光
の、ランプが、
酒場のランプであり、
酒場では、
野うさぎの色に似た光を発している
という情景の描写ということになります。

一方、
この献辞のない
「悲しき画面」を独自に読むかぎり、
ここに登場する女性が、
長谷川泰子その人を指す、
と、理解できないことでもありません。

どちらに受け取っても
両様に味わえれば
それもまたよし、
ということになりましょうか。

「野兎色のラムプの光」が
酒場の、
仄暗さの中で、
過去を思い出す詩人の
思い出した画面に「女」を浮かばせる……

その、女の眼(まなこ)は、
画面の中には収まっていなくて
はっきりとはしていないのだが、
あっちでもなく、こっちでもなく
僕のほうを見ているのではなく
あっちの男を見ているのでもなく
中立地帯に向けられているようだが……

どういうわけだか、
詩人は、
彼女のそばに
騎兵のサーベルと、長靴とを
感じ取ってしまうのです。

(つづく)

 *
 悲しき画面

私の心の、『過去』の画面の、右の端には、
女の額の、大きい額のプロフィルがみえ、
それは、野兎色のラムプの光に仄照(ほのて)らされて、
嘲弄的な、その生(は)え際(ぎは)に隈取(くまど)られてゐる。

その眼眸(まなざし)は、画面の中には見出せないが、恐らくは
窮屈げに、あでやかな笑(ゑみ)に輝いて、『中立地帶』とおぼしき方に向けられてゐる。
そして、何故か私は、彼の女の傍(そば)に、
騎兵のサーベルと、長靴を感ずるのだ――

読者よ、これは、その性情の無辜(むこ)のゆゑに、
いためられ、弱くされて、それの個性は、
それの個性のふさわしき習慣を形づくるに、至らなかつた、
一人の男の、かなしい心の、『過去』の画面だ、……

今宵も心の、その画面の右の端には、
その額、大きい額のプロフィルがみえ、
野兎色のラムプの光に仄照らされて、
ラムプの焔の消長に、消長につれてゆすれてゐる……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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