1932-1937年の詩篇<1>(ナイヤガラの上には、月が出て)
1932年、昭和7年は、
詩人にどんなドラマが
起こったのでしょうか。
まずは、年譜を見ておきます。
昭和7年(1932) 25歳
4月、「山羊の歌」の編集を始める。
5月頃から自宅でフランス語の個人教授を始める。
6月、「山羊の歌」予約募集の通知を出し、10名程度の申し込みがあった。
7月に第2回の予約募集を行うが結果は変わらなかった。
8月、宮崎の高森文夫宅へ行き、高森とともに青島、天草、長崎へ旅行する。この後、馬込町北千束の高森文夫の伯母の淵江方に転居。高森とその弟の敦夫が同居。
9月、祖母(フクの実母)が死去、74歳。
母からもらった300円で「山羊の歌」の印刷にかかるが、本文を印刷しただけで資金が続かず、印刷し終えた本文と紙型を安原喜弘に預ける。
12月、「ゴッホ」(玉川大学出版部)を刊行。著者名義は安原喜弘。
このころ、高森の伯母を通じて酒場ウィンゾアーの女給洋子(坂本睦子)に結婚を申し込むが断られる。また、高森の従妹にも結婚を申し込むが断られる。
このころ、神経衰弱が極限に達する。高森の伯母が心配して年末フクに手紙を出す。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
「早大ノート」に書き留められた
1932年制作(推定)の詩は、
(ナイヤガラの上には、月が出て)
(汽笛が鳴つたので)
(七銭でバットを買つて)
(それは一時の気の迷ひ)
(僕達の記憶力は鈍いから)
(何無 ダダ)
(頭を、ボーズにしてやらう)
(自然といふものは、つまらなくはない)
(月の光は音もなし)
(他愛もない僕の歌が)
嬰児
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
の、12作です。
(ナイヤガラの上には、月が出て)は、
帰省中に書かれたものか
第4連第3行に、
わたしのをお使ひさんせー、遠慮いりいせん、
(わたしのをお使いなさい、遠慮はいりませんよ)
と、郷里山口の方言が見られます。
ナイアガラの滝の映像を
詩人は
映画ニュースか雑誌かで見たのでしょうか
水しぶきが繰り返し砕け散る様子は
「割れて砕けて裂けて散るかも」(源実朝)に似て
心の鬱屈を紛らわすのに十分だったに違いありません。
ナイアガラ滝の上には、月が出て
かき消すような雲も湧いて出ていて
どこからか、ギターの音が響いていて
滝の轟音と反響している
ほとばしる水の狂躁が僕を押し出す
僕は発電所に入っていって
わけのわからぬことを番人に尋ねると
番人は僕の様子に驚き
お静かに、お静かに、となだめるのだった
ナイアガラの上には月が出ていて
怒り狂っている水流とは
まるで無縁なように月が出ているので
僕は中世の騎士たちの恋愛を
してみたいと夢見ていた
エンジン付きの船に乗って
ぶっ飛ばして
奈落の底の果ての果てまで
行っちゃってしまいたかった
そこへ
糸が切れた、と情けない声がした
僕の釣り友達だった
わたしのをお使いなさい
遠慮はいりませんよー
こんどは船頭の息子が言った
滝の音はいつまでも
いつまでも響きやまなかった
月光は、砕けていた
荒れ狂い
怒り狂う
ナイアガラ滝の奔流は
詩人の
この時期の心の状態を映し出しています。
神経衰弱が進行しているとはいえ
詩心に衰えは見られず、
滝の逆巻く奔流は
詩心そのものでもあるようです。
*
(ナイヤガラの上には、月が出て)
ナイヤガラの上には、月が出て、
雲も だいぶん集つてゐた。
波頭(はとう)に月は千々に砕けて、
どこかの茂みでは、ギタアを弾(かな)でてゐた。
僕は、発電所の中に飛び込んでいつて、
番人に、わけの分らぬことを訊(たず)ね出した。
番人は僕の様子をみて驚いて、
お静かに、お静かに、といつた。
ナイヤガラの上には、月が出て、
僕は中世の恋愛を夢みてゐた。
僕は発動機船に乗つて、
奈落の果まで行くことを願つてゐた。
糸が切れた、となさけない声。
それは僕の釣友達であつた。
わたしのをお使ひさんせー、遠慮いりいせん、
それは船頭の息子だつた。
滝の音は、何時まで響き、
月の光は、砕けてゐた。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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