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2010年1月 1日 (金)

1931年の詩篇<11>悲しき画面

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「早大ノート」の1931年制作(推定)詩篇の
「さなざなま人」に続いて、
「夜空と酒場」
「夜店」という
夜を歌った作品が並びますが、

その次にある
「悲しき画面」が
夜の酒場の風景を含んでいるものと知るには、
「草稿詩篇(1931-1932年)」中の
「Tableau Triste   A・O・に。」に行き着き、

「Tableau Triste   A・O・に。」が
「悲しき画面」の完成形であり、
この完成詩で
献呈された「A・O・」とは誰のことだろう、と
疑問を抱き、

「A・O・」は、
1931年当時、
東京の東中野にあり、
中也も長谷川泰子も行きつけだった
酒場「暫」(しばらく)の
秋子という名の女性のことらしい、
という研究を知ると
納得できたりします。

第1連第3行
野兎色のラムプの光
の、ランプが、
酒場のランプであり、
酒場では、
野うさぎの色に似た光を発している
という情景の描写ということになります。

一方、
この献辞のない
「悲しき画面」を独自に読むかぎり、
ここに登場する女性が、
長谷川泰子その人を指す、
と、理解できないことでもありません。

どちらに受け取っても
両様に味わえれば
それもまたよし、
ということになりましょうか。

「野兎色のラムプの光」が
酒場の、
仄暗さの中で、
過去を思い出す詩人の
思い出した画面に「女」を浮かばせる……

その、女の眼(まなこ)は、
画面の中には収まっていなくて
はっきりとはしていないのだが、
あっちでもなく、こっちでもなく
僕のほうを見ているのではなく
あっちの男を見ているのでもなく
中立地帯に向けられているようだが……

どういうわけだか、
詩人は、
彼女のそばに
騎兵のサーベルと、長靴とを
感じ取ってしまうのです。

(つづく)

 *
 悲しき画面

私の心の、『過去』の画面の、右の端には、
女の額の、大きい額のプロフィルがみえ、
それは、野兎色のラムプの光に仄照(ほのて)らされて、
嘲弄的な、その生(は)え際(ぎは)に隈取(くまど)られてゐる。

その眼眸(まなざし)は、画面の中には見出せないが、恐らくは
窮屈げに、あでやかな笑(ゑみ)に輝いて、『中立地帶』とおぼしき方に向けられてゐる。
そして、何故か私は、彼の女の傍(そば)に、
騎兵のサーベルと、長靴を感ずるのだ――

読者よ、これは、その性情の無辜(むこ)のゆゑに、
いためられ、弱くされて、それの個性は、
それの個性のふさわしき習慣を形づくるに、至らなかつた、
一人の男の、かなしい心の、『過去』の画面だ、……

今宵も心の、その画面の右の端には、
その額、大きい額のプロフィルがみえ、
野兎色のラムプの光に仄照らされて、
ラムプの焔の消長に、消長につれてゆすれてゐる……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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