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2010年1月16日 (土)

1931年の詩篇<26>三毛猫の主(あるじ)の歌へる 青山二郎に

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「早大ノート」のうちの
1931年制作(推定)の詩篇は
22篇あり、
そのすべてを読み終えましたが
1931年制作(推定)の詩篇は
このほかにもあります。

「早大ノート」に記されていなくても
この年(1931年)に
友人知人宛の書簡に書かれたもので、
安原喜弘宛の書簡の中にあった
「疲れやつれた美しい顔」
「死別の翌日」
「Tableau Triste
   A・O・に。」
などの作品があり、

「三毛猫の主(あるじ)の歌へる
       青山二郎に」などのように
献呈された相手が、
知人に預けたり貸したりしていたものが
後になって発見されたり……と、
数奇な運命をたどった
草稿作品などがあり、
これらは、
草稿詩篇(1931年―1932年)の中に
まとめられています。

大岡昇平は
「思い出すことなど」(1979年)で
この「三毛猫の主(あるじ)の歌へる
       青山二郎に」が
発見された経緯(いきさつ)などを
克明に披瀝していますが、
その中に、

「この長谷川泰子を思わせる詩を青山に献じていることに、伝記作者はふ
たたび陰惨な気持に導かれる(略)」

とあり、
三毛猫が泰子のことである、
と知れば、
この詩は
俄然、
ファンのところにも
近づいてくることになるでしょう。

1931年(昭和6年)というこの年、
中原中也24歳(4月29日が誕生日)、
長谷川泰子が小林秀雄の元へと去ったのは
1925年(大正14年)11月、
中也18歳のことでした。

この年の年譜を
ふたたび見ますと、

この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。
2月、高田博厚渡仏。長谷川泰子とともに東京駅で見送る。
4月、東京外国語学校専修科仏語に入学。
5月、青山二郎を知る。
7月、千駄ヶ谷に転居。
9月、弟恰三死去、19歳。戒名は秋岸清涼居士。葬儀のため帰省。
10月、小林佐規子(長谷川泰子)「グレタ・ガルボに似た女性」の審査で一等に当選。
冬、高森文夫を知る。

と、角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」にありますが、
冒頭の、
「この年から翌7年まで詩作はほとんどなし。」
は、余計なことがわかります。

この年譜に記された
詩人の行動記録は、
ほとんどが
この年に作られた詩の
背景やテーマになりましたし、

このほかに
満州事変の勃発という
社会情勢をも詩人は歌いましたし、

最終行、
「冬、高森文夫を知る。」の1行にも、
詩人の詩作を豊かにする
ドラマが広がっていったことを
想像することはむずかしくありません。

 *
 三毛猫の主(あるじ)の歌へる
       青山二郎に

むかし、おまへは黒猫だつた。
いまやおまへは三毛猫だ、
幾歳月の漂浪のために。
そして、わたしは、三毛猫の主(あるじ)だ。

わたしは、それを嘆きはしまい、
わたしはそれを、怨みはしまい。
われら二人をめぐる不運は
われらを弱めることによつて甦(よみがえ)つた。

さは、さりながら、おまへ、遐日(むかし)の黒猫よ、
わたしはおまへの、単一を惜む!
わたしはおまへの、単一な地盤の上にて

生長すべかりしことを懐(おも)ふ!
その季節(とき)やいま失はれて、
おまへは患(うれ)へ、わたしはおまへの患へを患へる。
              (一九三一・六・一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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