1932-1937年の詩篇<3>(七銭でバットを買つて)
(七銭でバットを買つて)を作った年は、
1932年、昭和7年で、
第一詩集「山羊の歌」の編集に
とりかかった年です。
詩集は
1934年12月に出版されるまで
苦難苦悩の時間を経なければならず
詩人は神経を衰弱させますが……。
故郷山口へ帰ったり、
詩友・高森文夫を宮崎県東臼杵に訪ねたり、
二人で青島、天草、長崎などを旅したり、
東京では、
詩集の出版先を探したり、
フランス語を教えたり……
長谷川泰子の子ども・茂樹を可愛がったり……
年譜には記載されませんが、
「白痴群」の僚友・安原喜弘との交友を
これまで以上に深めます
(ナイヤガラの上に月は出て)も
(汽笛が鳴つたので)も
(七銭でバットを買つて)も、
このような状況の下で
作られた歌でした
(七銭でバットを買つて)には
やはり
東京を離れた空気が漂ういっぽう、
アババババ、と
茂樹との交感の中で使うであろう
幼児語を遠くで思い出したように使い、
やがて「嬰児」で
カワイラチイネ、と使う前ぶれのように
ウレシイネ、と
ゴールデンバットを買って
どこか遠出をしたときの
自分の用意周到を自讃し、
子どものように喜びます
詩は、
山の中で
自転車もろとも
坂の下に踏み外してしまった
行きずりの男の災難を歌いますが
ゴールデンバットと
アババババ(=茂樹)を
味方にしている詩人は
一向に動じませんし、
余裕さえ感じさせるものになっています
そのことにもまして
詩人が
暗い山中で
赤の他人に見せる
わざとらしくない優しさを
気に留めないわけにはいきません。
アババババ、と
最後を「、」にしたままであるのは
詩人の意図するところで、
永遠のイノセンス(無垢)を
アピールするものだったのではありませんか
*
(七銭でバットを買つて)
七銭でバットを買つて、
一銭でマッチを買つて、
――ウレシイネ、
僕は次の峠を越えるまでに、
バットは一と箱で足りると思つた。
山の中は暗くつて、
顔には蜘蛛の巣が一杯かかつた。
小さな月が出てゐるにはゐたが、
それでも木の繁つた所は暗かつた。
ア、バアバアバアバ、
僕は赤ン坊の時したことを繰返した。
誰も通るものはなかつた。
暫くゆくと自転車を坂の下に落として、
自分一人は草を摑(つか)めば上れるが、自転車を置いとくわけにもいかず
といふ災難者にあつた。
自転車に紐か何か付いてるでせう、と僕は云つた。
へい、――それには全く気が付きませんでした、
自転車は月の光を浴びながら、
ガタガタといつて引揚げられた。
――いつたい何処までゆきなさる、
――いえ、兄の嫁の危篤を知らせに、此の下の村まで一寸(ちよつと)。
自転車の前の、ランプが灯つた。――おとなしさうな男である。
僕は煙草に日を点(つ)けて、去りゆく光を眺めてゐた。
アババババ、アババババ、
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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