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2010年2月 7日 (日)

1932-1937年の詩篇<6>(南無 ダダ)

20091126_055

(何無 ダダ)は、
すでに
2009年10月24日、26日、29日に
「ダダのデザイン」という視点で
読みましたが、
「早大ノート」の中には
このほかにも
極めてダダっぽい作品があったり、
ダダ的な詩句がある作品があることは
見てきたとおりです

ここでまた
ダダイズムを
中原中也の詩に嗅ぎ分けるような
読みの姿勢には入りませんが、
ダダイズムが
中原中也の詩の叙情に、
叙情以上のもの
叙情以外のものを与えている、

叙情に独特の強度を与え、
叙情が叙情でなくなり
抒情詩ではないものに変成される
見えないバネになっている、
というようなことは
表明しておきましょう

(何無 ダダ)の叙情は、
一筋縄(ひとすじなわ)では括(くく)れない
どんなふうにも読めるような
奥行きがあるようで、
いっぽう
「宇宙は石鹸だ、石鹸はズボンだ」(高橋新吉)
「小猫と土橋が話をしていた」(中也)
のような
単純な観念反応
もしくは冗句に過ぎない、
と読めるような
多義性、
二重性、
二律背反性をもっていて
そのことが詩の強度を作っています

うまく言い切れませんが
(南無 ダダ)には
陰惨さと
明るさ

土砂降りの雨の中に
ポッと晴れ間の射すような

泥濘(でいねい)に咲く
蓮の花、のような

明るい曇天

清らかな汚れ
みたいなもの
聖性というか

カオスとコスモス
混沌と世界

そのようなものが
同時に存在している
共存している
と、感じられて仕方ありません

これは、「ダダイズムの影響を受けた中原中也の詩風に、最後までどこか破調めいたところがあったのに対して、三好達治、丸山薫らの新詩精神との接触には、そのような破調や騒がしい表現がなかった」

と、「現代名詩選(下)」(新潮文庫、昭和44年初版)の
編者・詩人の伊藤信吉が
書いているところに
通じるものなのですが……。

 *
(南無 ダダ)

南無 ダダ
足駄なく、傘なく
  青春は、降りこめられて、

水溜り、泡(あぶく)は
  のがれ、のがれゆく。

人よ、人生は、騒然たる沛雨に似てゐる
  線香を、焚いて
      部屋にはゐるべきこと。

色町の女は愛嬌、
 この雨の、中でも挨拶をしてゐる
青い傘
  植木鉢も流れ、
    水盤も浮み、
 池の鯉はみな、逃げてゆく

永遠に、雨の中、町外れ、出前持ちは猪突(ちょとつ)し、
      私は、足駄なく傘なく、
    茲(ここ)、部屋の中に香を焚いて、
 チウインガムも噛みたくはない。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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