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2010年2月

2010年2月28日 (日)

早大ノート以外の1932年詩篇<6>お会式の夜

20091025_063_2

中原中也は、
1932年8月に
豊多摩郡千駄ヶ谷町872(現千駄ヶ谷2-29-30)から、
荏原郡馬込町北千束621(現・大田区北千束2)に
転居しましたが、
日蓮上人入寂の地として有名な
池上本門寺はこの新居の近くにあり、

この年もお会式の
通夜客がピークに達する
10月12日の夜を、
テンツクテンテンツク……と
お太鼓の鳴り響く本門寺界隈で
過ごしたのに違いありません

その様子を
1932・10・15の日付入りで
歌ったのが
「お会式の夜」です

この作品は
「漂流感と土着感」の題で
2009年5月25日にすでに読みましたが、

最終連、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、

には、
太鼓の音を
遠くに近くに聞きながら
夜が明けるまで歩き通すほど
お会式に魂の休まるものがあったことが思われ、

毎年、ここを訪れては
夜をふかし、
眠い朝を迎えた詩人が
くっきりと目に浮かんできて、

なぜか
和やかになります

 *
 お会式の夜

十月の十二日、池上の本門寺、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、
太鼓の音の、絶えないその夜を。

来る年にも、来る年にも、その夜はえてして風が吹く。
吐く息は、一年の、その夜頃から白くなる。
遠くや近くで、太鼓の音は鳴つてゐて、
頭上に、月は、あらはれてゐる。

その時だ僕がなんといふことはなく
落漠たる自分の過去をおもひみるのは
まとめてみようといふのではなく、
吹く風と、月の光に仄(ほの)かに自分を思んみるのは。

  思へば僕も年をとつた。
  辛いことであつた。
  それだけのことであつた。
  ――夜が明けたら家に帰つて寝るまでのこと。

十月の十二日、池上の本門寺、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、
太鼓の音の、絶えないその夜を。
    (1932・10・15)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

早大ノート以外の1932年詩篇<5>秋になる朝

いいだもも、といえば
60年安保後、
日本共産党から除名され
以後、新左翼系の活動家として活躍し
冷戦後の現在も
旺盛に著作活動を続ける
思想家ですが、
その思想家の青春時代に
中原中也の詩が愛読されたということに
驚きを覚える人は少なくはないに違いありません

中原中也読者の第二世代などといわれる
いいだももは、
戦後、「中原中也の写真像」
(「向陵時報」昭和21年6月22日発行)を発表し、
それが、
戦後における最も早い時期の
中原中也論といわれるほどに
重要な文献の著作者です

いいだももの居宅・藤沢から
中村光夫、小林秀雄らが住んでいた
鎌倉は指呼の間といってよく
中也死しておよそ8年の
昭和20年春、
いいだももが小林秀雄から借り受けた
中也の遺稿が
戦後長い間帰らずにいた家で
今度は1972年に見つかったというわけですが、
その中の一つが
「秋になる朝」です

これらの遺稿は、
大岡昇平に持ち込まれた結果、
文芸誌「海」(同年6月号)に発表されたという
いわくつきの詩篇です

「青木三造」などと同じく
奇跡的に発見された草稿で
その発見の過程自体が
伝説化している作品の一つです

さて、
「秋になる朝」です

発見された年から40年も前の
1932年制作(推定)の詩です
詩人は25歳――。
この詩が作られた頃、
「山羊の歌」の印刷がはじめられたことが、
「新編中原中也全集」に案内されています
(「第二巻 詩Ⅱ解題篇」)

季節は秋のはじめ
朝5時は、
ついこの間まで4時には明るかったのが
まだ暗い
つるべ落としに暮れる日も
なかなか明けないこの頃の朝も
かなしいこと……

白々と明けはじめた
稲の田にトンボが飛んできている
お百姓は
何事もなかったかのように
朝露で湿った草鞋で
田を踏みしめている

東京にも
稲穂にトンボ、
百姓に草鞋……の風景は見られたのでしょう

昨晩飲み過ぎて
僕たちはまだ眠いのですが
眠くてフラフラなのですが
それなのに
冷たい風よ
お前は瞳をまばたいて

あの頃の冷たい風は
とうもろこしの葉や
お前の指と指の間の汗の味を思い出させる
やがてまもなく
工場の煙突から、朝の空に、ばらの形の煙をあげる

恋人よ
あの頃の朝の冷たい風は
とうもろこしの葉や
お前の指と指の間の汗の匂いを思い出させる

そうして僕は思う
希望は去った……
忍従の時だ
忍従だ
忍従だ、と
僕は思う

今朝の冷たい風が
いつしか回想の風を呼びますが
風を呼び戻せても
過去は戻ってきません
 
 
*
 秋になる朝

たつたこの間まで、四時には明るくなつたのが
五時になつてもまだ暗い、秋来る頃の
あの頃のひきあけ方のかなしさよ。

ほのしらむ、稲穂にとんぼとびかよひ
何事もなかつたかのやう百姓は
朝露に湿つた草鞋(わらじ)踏みしめて。

僕達はまだ睡い、睡気で頭がフラフラだ、それなのに
涼風は、おまへの瞳をまばたかせ、あの頃の涼風は
たうもろこしの葉やおまへの指股に浮かぶ汗の味がする
やがて工場の煙突は、朝空に、ばらの煙をあげるのだ。

恋人よ、あの頃の朝の涼風は、
たうもろこしの葉やおまへの指股に浮かぶ汗の匂ひがする
さうして僕は思ふのだ、希望は去つた、……忍従が残る。
忍従が残る、忍従が残ると。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月23日 (火)

早大ノート以外の1932年詩篇<4>幻想(何時かまた郵便屋は来るでせう)

「幻想」は、
「脱毛の秋 Études」と
同じ原稿用紙に続けて書かれた
草稿9枚が現存することから、
同時期に作られたことが推定され、
アラビア数字で
章立てされているのも
この二つの詩は同じです。

「幻想」は二つあり、
散文詩「幻想」と区別する必要があるとき、
「幻想(何時かまた郵便屋は来るでせう)」と
表記するならわしがあります。

「脱毛の秋 Études」が、
読み進めていくうちに
次第に
詩人論を歌った詩であることが見えはじめたように、
「幻想」の行く着くところは
最終章最終連の、

僕は輪廻ししようと思つたのだが、
輪は僕が突き出す前に駆け出しました。
  好いお天気の朝でした。

に、あるでしょうか

とすると、
気まぐれなお天気、
雨降れと願えば、晴れたよ、
まったくもう、
物事は思い通りにいかない、

忌々しくも不運な、
世渡りが下手な、
世界から取り残された僕
そういう詩人……

が歌われている
ということになりますが、
そこにたどり着くまでが
あっちへ飛び
こっちへ飛び
一貫したストーリーを
組み立てることが困難です

幻想は、
自由に飛び回るものですから
仕方ないことですし、
起承転結の物語を作ることが
必ずしも詩の目的ではないのですから、
やはり
1行1行を読むしか
詩にふれる方法はありません

1は、
女性のあなたへの
余計な(?)心配を
ああだこうだと
でせう、でせう、
という推量形で述べるのですが……

2は、
唐突に
だれかの命令、
まともな暮らしをしなさい
とでも、言われているのは、
女性なのか
詩人が命令されているのだろうか

3は、
唐突に
フランスのブルターニュの町へ飛び
ガラスが割れて
何か事件が起こります

石畳を歩く乙女、
忘れたはずの過去が
その目の底にあっても、
町に乙女が頼りにできる辞書はなかった……

4は、
唐突に
(ブルターニュではない?)
市場で俗謡が聞こえる
女はみんな瓜(うり)だなも。
は、山口方言か?
歯槽膿漏も、
女が瓜も、
どうにでもとれるダダだ。

5は、
唐突に
雨降れ、
と、今度は詩人の願いらしい

雨降れば、
瓜の肌には冷たいだろ
歴史は逆転しはじめるだろ

祖父さん祖母さんが
生きていた昔を懐かしみ
音入り映像をみんなが集まって
見ては心通わせるだろ

オルガンのようになってほしい
愛嬌はもう結構
静かに穏やかに生きてほしい
雨降れ雨降れだ
しめやかになれだ

6は、
ところが、
詩人の願いに反して
今日は晴れ、
女は、バカに気取って、
昨日しょ気ていたのを取り返す勢い。

罪もないことです
いかにも元気そうに
百貨店(?)へ入って行きます
ろくに必要でもない品物を買いに。

とかく浮世はままならぬ、か

僕は輪回しして遊ぼうと思ったのですが
輪っかは僕が回そうとしたのより先に
回りはじめて行っちゃったんです
よいお天気の朝でした。

ここに登場する女性は
やはり
長谷川泰子なのでしょうか

幻想の果ては
ひとりぼっちの
詩人……。

 *
 幻想

何時かまた郵便屋は来るでせう。
街の蔭つた、秋の日でせう、

あなたはその手紙を読むでせう
肩掛をかけて、読むでせう

窓の外を通る未亡人達は、
あなたに不思議に見えるでせう。

その女達に比べれば、
あなた自身はよつぽど幸福に思へるでせう。

そして喜んで、あなたはあなたの悩みを悩むでせう
人々はそのあなたを、すがすがしくは思ふでせう

けれどもそれにしても、あなたの傍の卓子(テーブル)の上にある
手套(てぶくろ)はその時、どんなに蒼ざめてゐるでせう

乳母車を輓(ひ)け、
紙製の風車を附けろ、
郊外に出ろ、墓参りをしろ。

ブルターニュの町で、
秋のとある日、
窓硝子(まどがらす)ははみんな割れた。

石畳は、乙女の目の底に
忘れた過去を偲んでゐた、
ブルターニュの町に辞書はなかつた。

市場通いの手籠が唄ふ
夕(ゆうべ)の日蔭の中にして、
歯槽膿漏たのもしや、
 女はみんな瓜(うり)だなも。

雨降れ、
瓜の肌には冷たかろ。
空が曇つて町曇り、
歴史が逆転はじめるだろ。

祖父(じい)さん祖母(ばあ)さんゐた頃の、
影象レコード廻るだろ
肌は冷たく、目は大きく
相寄る魂いぢらしく

オルガンのやうになれよかし
愛嬌なんかはもうたくさん
胸掻き乱さず生きよかし
雨降れ、雨降れ、しめやかに。

昨日は雨でしたが今日は晴れました。
女はばかに気取つてゐました。
  昨日悄気(しょげ)たの取返しに。

罪のないことです、
さも強さうに、産業館に這入つてゆきます、
  要らない品物一つ買ふために。

僕は輪廻ししようと思つたのだが、
輪は僕が突き出す前に駆け出しました。
  好いお天気の朝でした。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月21日 (日)

早大ノート以外の1932年詩篇<3>脱毛の秋 Études

20091114_011

 

「脱毛の秋 Études」は、
合計9章からなる長編ですが、
全行数が長いというのではなく
章立ての数が多いという作品です。

そうなったわけは簡単で、
長期にわたって書きためた詩篇を
再構成して
一つにまとめ合わせたからです。

なぜ
「脱毛の秋 Études」という
タイトルがつけられたのか
詩句に
「脱毛」も「秋」も見当たらず、
これを読む手がかりは
ほとんどありません

というか
作品そのものにしか
手がかりはありませんから
ある意味で
作品というものの
あからさまな形=原型が
ここにある、ということかもしれません

1行1行を読むことにしか
この詩を読み
味わうすべはなく、


それは冷たい。石のやうだ
過去を抱いてゐる。
力も入れないで
むつちり緊(しま)つてゐる。
と、読み出していけば、

12行目
それよ、人の命の聴く歌だ。
にぶつかり、
なにやら、
歌についての措辞(そじ)の列。
すでに
詩論、詩人論への
展開が予感されます


それから、わたしには疑問が遺つた。
と、読んでいくと、

コークスをだつて、強(あなが)ち莫迦(ばか)には出来ないと思つた。
とぶつかり、

これはダダか
あえてダダととらなくてもよさそうだが
コークスに託して
馬鹿にしてはいけないものを
馬鹿にしていたことを自戒しているらしい
詩論の範囲で
あながち馬鹿にできないものとは?

3に進むと、
イデエについて導かれるから、
これが、馬鹿にしてはいけないことなのか

僕は運用することを知らない、と
白状しているけれど
この辺が逆説かもしれない
イデエ論を展開したいのかも……

4は、
僕は僕の無色の時間の中に投入される諸現象を、
まづまあ面白がる。
とはじまり、
やはり、イデエ論がはじまっている
それは
詩論、詩人論の一つでありそうで
無色の時間という切り口で
はじめられた

次のⅤへ進み、
瀝青(チヤン)の空があった。
という1行で
詩にであう!

中也さんがここにいる
はなだ色の空でないだけだ
チャンも青のうちだ

歩く詩人もいる!
ダダっぽい中也さんだけれど
さほど難解ではない

歩いていて
ショーウインドーが揺れ
めまいがした
それで手を広げ雨を受けた


風は遠くの街上にあつた。
は、周囲の風景
女たち、
ポスト、
僕の欲望
その状態


それにしてもと、また惟(おも)ひもする。
は、もう一度、反省し
もう一度、立ち上がる僕
という具合に
僕は僕自身の表現をだつて信じはしない。


(ここでこの詩の山場にたどり着きます)
とある六月の夕(ゆふべ)、
僕は、
松井須磨子のビラ
つまり
長谷川泰子を見るのです

いまごろ、
石版刷屋の女房になつてゐる。――さよなら。
なのです

さて9へ
詩人は
いまの気持を
ナポレオンに頼みました

泣いても泣いても泣ききれなかつたから
なんでもいい泣かないことにしたんだらう

こうして
詩人はいま
人の世の喜びを離れ、
縁台の上に莚(むしろ)を敷いて、
夕顔の花に目をくれないことと、
反射運動の断続のほか、
私に自由は見出されなかつた。

夕顔の花に目を向けず
日々お行儀よく繰り返し
私に自由を見つけようとしても
見つけ出せなかったのです

以上が
1932年の詩人の
脱毛の時です
この頃、
詩人のレゾン・デートルを
自問自答する時が
あったのです。

「脱毛の秋」の秋は、
「とき」と読みます

 *
 脱毛の秋 Études
 
 1

それは冷たい。石のやうだ
過去を抱いてゐる。
力も入れないで
むつちり緊(しま)つてゐる。

捨てたんだ、多分は意志を。
享受してるんだ、夜の空気を。
流れ流れてゐてそれでも
ただ崩れないといふだけなんだ。

脆(もろ)いんだ、密度は大であるのに。
やがて黎明(あけぼの)が来る時、
それらはもはやないだらう……

それよ、人の命の聴く歌だ。
――意志とはもはや私には、
あまりに通俗な声と聞こえる。

それから、わたしには疑問が遺つた。
それは、蒼白いものだつた。
風も吹いてゐたかも知れない。
老女の髪毛が顫(ふる)えてゐたかも知れない。

コークスをだつて、強(あなが)ち莫迦(ばか)には出来ないと思つた。

所詮、イデエとは未決定的存在であるのか。
而(しか)して未決定的存在とは、多分は
嘗(かつ)て暖かだつた自明事自体ではないのか。

僕にはもう冷たいので、それを運用することを知らない。
僕は一つの藍玉(あいだま)を、時には速く時には遅くと
溶かしてゐるばかりである。

僕は僕の無色の時間の中に投入される諸現象を、
まづまあ面白がる。

無色の時間を彩るためには、
すべての事物が一様の値ひを持つてゐた。

まづ、褐色の老書記の元気のほか、
僕を嫌がらすものとてはなかつた。

瀝青(チヤン)の空があった。
一と手切(ちぎ)りの煙があつた。
電車の音はドレスデン製の磁器を想はせた。
私は歩いていた、私の膝は檪材(くぬぎざい)だつた。

風はショウインドーに漣(さざなみ)をたてた。
私は常習の眩暈(めまい)をした。
それは枇杷(びわ)の葉の毒に似てゐた。
私は手を展げて、二三雨滴を受けた。

風は遠くの街上にあつた。
女等はみな、白馬になるとみえた。
ポストは夕陽に悪寒してゐた。
僕は褐色の鹿皮の、蝦蟇口(がまぐち)を一つ欲した。

直線と曲線の両観念は、はじめ混り合はりさうであつたが、
まもなく両方消えていつた。

僕は一切の観念を嫌憎する。
凡(あら)ゆる文献は、僕にまで関係がなかつた。

それにしてもと、また惟(おも)ひもする。
こんなことでいいのだらうか、こんなことでいいのだらうか?……

然(しか)し僕には、思考のすべはなかつた

風と波とに送られて
ペンキの剥(は)げたこのボート
愉快に愉快に漕げや舟

僕は僕自身の表現をだつて信じはしない。

とある六月の夕(ゆふべ)、
石橋の上で岩に漂ふ夕陽を眺め、
橋の袂(たもと)の薬屋の壁に、
松井須磨子のビラが翻るのをみた。

――思へば、彼女はよく肥つてゐた
綿のやうだつた
多分今頃冥土では、
石版刷屋の女房になつてゐる。――さよなら。

9 

私は親も兄弟もしらないといつた
ナポレオンの気持がよく分る

ナポレオンは泣いたのだ
泣いても泣いても泣ききれなかつたから
なんでもいい泣かないことにしたんだらう

人の世の喜びを離れ、
縁台の上に莚(むしろ)を敷いて、
夕顔の花に目をくれないことと、
反射運動の断続のほか、
私に自由は見出されなかつた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月19日 (金)

中原中也関連新刊情報

「中原中也と詩の近代」
著者:加藤邦彦
出版社名:角川学芸出版
発売日: 2010年3月25日
税込価格:6,825円
A5判
ISBN 978-4-04-653603-7-C3095
内容紹介:気鋭の研究者が、新しい基礎資料により「中也像」をていねいに追究。同時代とのかかわりから、中也自身と作品についての検討を試み、作品の生成過程の探究を通じて中也の詩への意識に迫った、詩歌研究者必携の書。

2010年2月17日 (水)

早大ノート以外の1932年詩篇<2>材木

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中原中也は、
山口の実家に帰省中の1932年の8月初旬、
足を延ばして
詩友、高森文夫の実家、宮崎県東臼杵を訪ねました
それから二人して、
延岡、青島、天草、長崎を旅行し、
その後、単身、山口へ戻り、
金沢経由で帰京しました

「夏休み」みたいなことをしたのですが、
「材木」という詩は、
この、宮崎訪問の時、
東臼杵東郷町の
若山牧水記念館へ行った帰り道で
目にした製材所がモデル、
ということが分かっています

高森文夫本人の証言などから
明らかになっていることですが、
なぜ、製材所が詩になるのか
というところが、
いかにも、中原中也らしく、
中原中也という詩人が
製材所を詩にしてしまう詩人であることを
あらためて
発見するきっかけになる詩です

詩人はこの時、

「この村に製材所を建て、二人でやろうじゃないか。君も学校なんかやめちまって村に帰って暮らせよ。松脂の匂でも嗅ぎながら……。」

と、高森に語ったことが
知られています。(「新編中原中也全集第2巻詩Ⅱ解題篇」)

第3連、
日中(ひなか)、陽をうけ、ぬくもりますれば、
    樹脂(やに)の匂ひも、致そといふもの。

とあるように、
詩人は、
樹脂の匂いや香りに、
特別の感情を抱いていたことは、
出世作「朝の歌」の
樹脂の香に朝は悩まし、
にも見られることです。

立つてゐるのは、空の下(もと)によ、
    立つてゐるのは材木ですぢやろ。

このリフレインは
単純で何の変哲もありませんが
そういえば
材木屋さんて見かけなくなったなあ、と
郷愁を誘い、
あの木屑の香りが
都会の町中にも流れていた日があったんだ、と
ノスタルジアが乗り移り
詩人と同じ姿勢に
なっていたりはしませんか?

 *
 材木

立つてゐるのは、材木ですぢやろ、
    野中の、野中の、製材所の脇。

立つてゐるのは、空の下(もと)によ、
    立つてゐるのは材木ですぢやろ。

日中(ひなか)、陽をうけ、ぬくもりますれば、
    樹脂(やに)の匂ひも、致そといふもの。

夜(よる)は夜(よる)とて、夜露(よつゆ)うければ、
    朝は朝日に、光ろといふもの。

立つてゐるのは、空の下によ、
    立つてゐるのは、材木ですぢやろ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月15日 (月)

早大ノート以外の1932年詩篇<1>青木三造

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「青木三造」は、
「草稿詩篇(1931年―1932年)」の中の
1932年制作(推定)としては
1番目にある作品で
人名のタイトルがついています

「青木三造」は、
中原中也が書いた
数少ない小説であり
未発表の作品である「青年青木三造」を
詩にしたもので、
新編中原中也全集の編集は
小説の「序歌」にあたる、
と案内しています

これは、
詩が、序歌の一、その二、と
二部仕立てでの「序歌」を形作っていて、
その本体を
小説「青年青木三造」と見立てたものだからです

この小説および詩作品は、
角川の旧版「中原中也全集」編集過程で発見されたが
出版までに大岡昇平ら編集陣が
入手できなかったという事情のある
「幻の遺稿」だったもので、
ようやく入手できたのが
同全集校了後であったという経緯が
大岡昇平の
「ある遺稿が世に出るまで」(1971)や
「遺稿処理史」(同)などに詳しく書かれています

中也没後40年近くして
遺稿のありかが判明した、
数奇な運命の作品、
ということになります

「青年青木三造」のモデルは、
1930年(昭和5年)に解散した
「白痴群」の同人、安原喜弘を
モデルにしたものと考えられていて、
したがって、
詩「青木三造」のモデルも
安原喜弘と推測されています

第一詩集「山羊の歌」は、

昭和7年4―5月は、(略)「山羊の歌」が編集され、「憔悴」「いのちの声」など調子の高い作品が書かれた年である。予約募集が成功しなかったことも既に書いた。9月、母親から三百円貰って、本文のみ印刷したが、製本の費用なく、安原喜弘の家に預ける。同月、大森区馬込町北千束621に移転した。(「中原中也全集」解説・詩Ⅱ、1967)

と、大岡昇平が記す状態でした。

ほかのところでは、

詩集の印刷が進まないにつれ、中原の神経は混乱し始める。友人たちが詩集の出版を妨害しているというような被害妄想も生じたに違いない。「家も木も、瞬く星も隣人も、街角の警官も親しい友人も、今すべてが彼に向い害意を以て囁き始めたのである」と安原は書く。(「在りし日の歌」1966)

と記しますが、
ここに出てくる安原喜弘こそが
青木三造のモデルなのです

詩人が、
友人知人らの離反を感じているときに
安原喜弘は近くに居続け
「山羊の歌」の「紙型」を預かった、
ということもわかっていますが、
このような状態の
どのような時に
「青木三造」は
書かれたのでしょうか

詩の冒頭は、
こころまこともあらざりき
と、詩人をサポートした親友に対しては
冷ややか過ぎる詩句ではじめられますが……

いや、不実ということでもなかったよ
ゆらりゆらりゆれていたさ
海の深みに生える海草のように
おぼれおぼれているからさ、
溺れていること自体を知らないような

……

前後もわからないたゆたいの姿は
それは悲しい海草の
情けのこれっぽっちもないということじゃないのさ
優しさがあふれてゆらりゆらり揺れて
青に緑に変化するのは
海の底で人の知らない
涙を飲んでいるからだということがわかるというものさ

その二は、
現代口語調に転調して、
戦い暮れて後
夜となって繰り出す
酒場でのビール三昧(ざんまい)の様子
チヤチヤつぎませコップにビール
一杯一杯又一杯の様子です

どうせ浮世はサイアウが馬、
の気分で、
不運不幸にくよくよするな
人間(じんかん)万事塞翁が馬、
ですよ
と、毎日毎夜
飲んで流したこの世の憂さでしたが……

リフレーンが
利いていて
底に在る悲しみが
乗り移ってくるようでもあります

 *
 青木三造
 
 序歌の一

こころまこともあらざりき
不実といふにもあらざりき
ゆらりゆらりとゆらゆれる
海のふかみの海草の
おぼれおぼれて、溺れたる
ことをもしらでゆらゆれて

ゆふべとなれば夕凪(ゆうなぎ)の
かすかに青き空慕ひ
ゆらりゆらりゆれてある
海の真底の小暗きに
しほざゐあはくとほにきき
おぼれおぼれてありといへ

前後(ぜんご)もあらぬたゆたひは
それや哀しいうみ草の
なさけのなきにつゆあらじ
やさしさあふれゆらゆれて
あをにみどりに変化(へんげ)すは
海の真底の人知らぬ
涙をのみてあるとしれ

 その二

  冷たいコップを燃ゆる手に持ち
  夏のゆふべはビールを飲まう
  どうせ浮世はサイアウが馬
   チヤチヤつぎませコップにビール

  明けても暮れても酒のことばかり
  これぢやどうにもならねやうなもんだが
  すまぬとおもふ人様もあるが
   チヤチヤつぎませコップにビール

  飲んだ、飲んだ飲んだ、とことんまで飲んだ
  飲んで泡吹けあ夜空も白い
  白い夜空とは、またなんと愉快ぢやないか
   チヤチヤつぎませコップにビール。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月14日 (日)

早大ノート以外の1932年詩篇

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「早大ノート」の中の
1932年制作(推定)の詩篇は、
これまで読んできたように

(ナイアガラの上には、月が出て)
(汽笛が鳴つたので)
(七銭でバットを買つて)
(それは一時の気の迷ひ)
(僕達の記憶力は鈍いから)
(何無 ダダ)
(頭を、ボーズにしてやらう)
(自然といふものは、つまらなくはない)
(月の光は音もなし)
(他愛もない僕の歌が)
嬰児
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
の、12篇ですが、

この他に、
未発表詩篇で
1932年制作の詩篇が
「草稿詩篇(1931年-1932年)」の中に
まとめられてあります。

青木三造
材木
脱毛の秋
幻想(何時かまた郵便屋は来るでせう)
秋になる朝
お会式の夜
蒼ざめし我の心に
(辛いこつた辛いこつた!)
修羅街挽歌 其の二
の9篇ですが、

「草稿詩篇」というのは、
詩人の生存中に発表されなかった作品のうちで、
「早大ノート」や
「ノート1924」などのように
詩人の手で
1冊のノートの中に記録された作品ではなく、

詩人が
友人知人らへ宛てた手紙の中に書いたもので、
後になって発見された作品などが
中原中也研究の積み重ねの中で多く集まり
一つの分類項目となるまでの数になり、
そうして分類された作品を
「新編中原中也全集」の編集委員らが
制作(推定)年別に編集したものです。

「未発表詩篇」は、
こういうことから、
制作(推定)順に整理されて、

ダダ手帖(1923年―1924年)
ノート1924(1924年―1928年)
草稿詩篇(1925年―1928年)
ノート小年時(1928年―1930年)
早大ノート(1930年―1937年)
草稿詩篇(1931年―1932年)
ノート翻訳詩(1933年)
草稿詩篇(1933年―1936年)
療養日誌・千葉寺雑記(1937年)
草稿詩篇(1937年)

という内訳になっています

2010年2月13日 (土)

中原中也賞に高3の文月悠光さん 最年少受賞

(asahi.comより転載します)
 新鮮な感覚を備えた優れた現代詩の詩集に贈られる第15回中原中也賞に、札幌市の高校3年生、文月悠光(ふづき・ゆみ)さん(18)=本名非公表=の「適切な世界の適切ならざる私」が選ばれた。第1回の受賞者の豊原清明さんと並んで最年少の受賞者という。同賞は中也の出身地の山口市が主催し、13日、同市で選考会が開かれた。
 受賞作は、文月さんが14~17歳に書きためた詩集。このうち「落花水(らっかすい)」では「透明なストローを通して美術室に響く/“スー、スー”という私の呼吸音。/語りかけても返事がないのなら/こうして息で呼びかけてみよう。」などとつづられている。選考委員は現代詩作家の荒川洋治さん、梅光学院大学特任教授の北川透さん、作家の高橋源一郎さんら6人で、「とても素直な感じ。誰が読んでも親しめる広がりを持った世界を作っている」と高く評価した。

 文月さんは「中也は真っ先に触れた詩人の一人で、その名を冠した賞をいただけるのは喜び。これからいろんな人と出会い、作品を模索していきたい」と話した。

2010年2月12日 (金)

1932-1937年の詩篇<12>(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)

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(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)は、
つい少し前の作と想定される、
(僕達の記臆力は鈍いから)の中で
明治天皇御大葬、あゝあの頃はほんによかつた、と
歌ったのと同じに
古き佳き明治時代と、
その時代の詩人、
三富朽葉(みとみくちは)への
オマージュ(賛歌)であり
詩人の祈りでもあります

三富朽葉は、
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によると、
次のような経歴の人です

三富 朽葉(みとみ きゅうよう、1889年8月14日-1917年8月2日)は、日本の詩人である。
本名は義臣。長崎県石田郡武生水村(現・壱岐市)生まれ。父・道臣は石田郡長を務めた。早稲田大学英文科卒業。自由詩社同人。同人の人見東明、加藤介春、福田夕咲らとともに、自由詩風で認められ、またフランス文学批評をも著したが、犬吠埼君ヶ浜で溺れた友人・今井白楊を助けようとしてそのまま水死した。
「三富朽葉詩集」1巻(1917年)が遺った。

中也は、
フランス語を学ぶ中で
三富朽葉を知ったのでしょうか
あるいは
誰かとの文学談義の中で
知ったのでしょうか
その詩作品を
すこぶる高く買っているようです

そもそも
なぜ明治なのか、
なぜ三富朽葉なのか
その直接のきっかけはわかりませんが、

夜長の秋の宵に
いったんは就寝したものの
深夜目が覚めて、
汽車の汽笛を聞いては
すっきりと目が覚めてしまい、

死んでしまった
三富朽葉のことを思い出してから、
明治時代へと
思いは広がり、
人力車や
ガス燈……
などのイメージが
次々に浮かんでくるのでした

そうして
眠れぬ夜を
天井と睨(にら)めっこする詩人には
豆電球の灯りの中に
今は亡き詩人・朽葉も
遠くなった明治時代も
ありありと甦ってきて
ますます眠れなくなってきました

ええい、ままよ
眠れなくて結構だ
甦れよ!
今宵は故人の風貌が
ほんとに懐かしい!
死んでしまった明治ともども
甦れよ!

何かの折りに
父・謙助の思い出話でも
あったのでしょうか
山口帰郷中の作と
想像されます

 *
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)

宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて
汽車の汽笛の音(ね)を聞いた。

  三富朽葉(くちば)よ、いまいづこ、
  明治時代よ、人力も
  今はすたれて瓦斯燈(ガスとう)は
  記憶の彼方(かなた)に明滅す。

宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて
汽車の汽笛の音(ね)を聞いた。

  亡き明治ではあるけれど
  豆電球をツトとぼし
  秋の夜中に天井を
  みれば明治も甦(よみがえ)る。

  あゝ甦れ、甦れ、 
  今宵故人が風貌の
  げになつかしいなつかしい。
  死んだ明治も甦れ。

宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて
汽車の汽笛の音(ね)を聞いた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

1932-1937年の詩篇<11>嬰児

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しばらく
タイトルなしの詩篇が続きましたが
「嬰児」は
詩人によって
しっかりと記された
詩のタイトルです

はじめ、「赤ン坊」、
次に、「乳児」が、
最終形で、「嬰児」になりました

これを
えいじ、と読むか
みどりご、と読むか
不明です

タイトルを付けた、
ということは
完成形に近いことを示していて、
詩人は
この作品に
一定程度、満足していたことが、
推察されます

中原中也25歳。
この嬰児は
長谷川泰子が生んだ
演出家・山川幸世との子
と、とるのが自然で、
茂樹という名は
詩人が命名したものです

当時、最も親交の深かった
「白痴群」の同人
安原喜弘宛の書簡には
何度も、
茂樹のことが出てきます

「山羊の歌」出版の
進行がはかどらず、
疲労困憊するばかりの詩人が
問答無用に癒される時間が
茂樹との接触で
得られたのでありましょうか

カワイラチイ赤ん坊に
メロメロの詩人ですが
赤ん坊がひたすら嬉しがる様子、
生れてきたことが嬉しいことであり
それだけで十分に嬉しいことなんだ、
と観察する目が光ります

大人たちが
とうに忘れてしまった
生きているだけですでに嬉しい心、
に共感する詩人が
ここにいるのです

*
嬰児

カワイラチイネ、
おまへさんの鼻は、人間の鼻の模型だよ、
ホ、笑つてら、てんでこつちが笑ふと、
いよいよ尤(もっと)もらしく笑ひ出す、おまへは
俺の心を和げてくれるよ、ほんにさ、無精(むしょう)に和げてくれる、

その眼は大人つぽく、
横顔は、なんだか世間を知つてるやうだ、
おまへを俺がどんなに愛してゐるか、
おまへは知らないけれど知つてるやうなもんだ。

ホ、また笑つてる、声さへ立てて笑つてゐる、
そのやうな笑ひを大人達は頓馬(とんま)な笑ひだといふ。
けれども俺は知つてゐる、
生れてきたことは嬉しいことなんだ
ただそれだけで既に十分嬉しいことなんだ

なんにもあせることなく、ただノオノオと、
生きてゐられる者があつたらそいつはほんとに偉いんだ、
俺は知つてゐる、おまへのやうに
生きてゐるだけで既に嬉しい心を私は十分知つてゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月11日 (木)

1932-1937年の詩篇<10>(他愛もない僕の歌が)

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「早大ノート」中で、   
(他愛もない僕の歌が)は、   
(月の光は音もなし)に続けて書かれた作品   
と推定されていますが、   
詩内容も   
詩や詩人についてであるのは、   
この頃、   
第一詩集「山羊の歌」の出版が   
ままならなかったことによるものでしょうか。

詩や詩人を理解しない世間へ向けて   
泣き言の一つを   
言いたくなった詩人の姿を   
容易に想像することができますが、 
これは泣き言ではなく、 
一つの立派な詩論ですし 
詩人論でもあります

詩を書くことを   
自問しなければならない状況に   
詩人は追い込まれていたのです

形への意志に満ちていた   
(月の光は音もなし)と同じく
(他愛もない僕の歌が)にも
4-4-3-3のソネットという
形へのこだわりがありますが、 
こちらの内容は   
直情的で   
あからさまです

第1連の   
僕は死んだ方がましだと昨日思ひました   
は、詩人の内部に   
そのような感情が去来したことを   
偽りなく表している、   
と読めるのが、

最終連で   
いとも壮麗な死に際を演じてごらんにいれます。   
と、ややお道化て、   
突き放している感じになっているのは、   
この間、   
恢復が起こったことを想像できるので   
やはり胸を打つものがあります

芸術(=詩作)は、
つまるところ
生活に余裕があった上で
当たるも八卦でしかない希望だ
義理人情の世間に関心をもっても
詩人には何の役にも立ちはしないのさ

詩で食っていけなくても   
コチコチのパンを寝床でかじって   
水飲んで   
でも、   
僕は、清貧なんて柄じゃないよ
   
ギター協奏曲バンバン鳴らして   
泣いて笑って、   
ついでに洟(はな)もかんでやったりして   
壮麗な死に際を演出してみせまさあ

否!   
詩人は   
いつもこんな気持ちを抱いて   
夜の街を   
酒場を   
彷徨(さまよ)っていたのかもしれません

このように 
命がけで 
詩を書こうとしていたのですから……

*
(他愛もない僕の歌が)

他愛もない僕の歌が
何かの役には立つのでせうか?
僕の気は余り確かではありません
僕は死んだ方がましだと昨日思ひました

芸術とは、畢に生活の余裕の
アナルキスチイクな希望です。
世話場への関心は、
詩人には何の利益をも齎(もたら)しません。

この上もう一段余裕がなくなれば、
カチカチのパンを寝床の上でかぢりながら、
汲み置きの水を飲みながら、

ギタアのレコードかけて、
泣き笑ひしたり、洟をかんだり、
いとも壮麗な死に際を演じてごらんににいれます。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月10日 (水)

1932-1934年の詩篇<9>(月の光は音もなし)

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(月の光は音もなし)は、
「早大ノート」では、この前の作である
(自然といふものは、つまらなくはない)とは
ガラリと詩風を変え、
文語ですます調で
端然とした七五調、
1連3行×4=12行詩です

形の変化は
内容の変化をともなうもののようで
この詩も、
月(とその光)と
蟲(とその声)に託して
詩の役割、
詩人のあり方、
詩人論……が
歌われます

最終連、
私は蟲の紹介者の
「蟲の」の「の」は、
同格を表わす格助詞「の」であり、
目的格の「の」ではありません

蟲である紹介者の意味であり、
蟲を紹介する者ではありません

蟲は、詩人であり
では、
月は、何を示しているでしょうか
月は、何のメタファーでしょうか

詩人の中には、
幼少の頃から
天上的なもの
超常的なもの
絶対的なもの
形而上的なもの


……
を見る眼差しがありました

蟲は、
はじめ、
草の上で鳴いているだけで、
月には聞こえず、
下界のために鳴いているしかないのですが、
鳴くことをなかなか止めないでいると、
やがては
月にも聞こえるようになります

こうなったとき、
蟲=私=詩人は、
下界の紹介者であり、
月(の世界)の下僕であります、
と、告白するかのように、
詩のありかを
明らかにするのです

*
(月の光は音もなし)

月の光は音もなし、
蟲の鳴いてる草の上
月の光は溜ります

蟲はなかなか鳴きまする
月ははるかな空にゐて
見てはゐますが聞こえない

蟲は下界のためになき、
月は上界照らすなり、
蟲は草にて鳴きまする。

やがて月にも聞えます、
私は蟲の紹介者
月の世界の下僕です。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月 9日 (火)

1932-1937年の詩篇<8>(自然といふものは、つまらなくはない)

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(自然といふものはつまらなくはない)は、
(何無 ダダ)、
(頭を、ボーズにしてやらう)の2作と
詩内容が類似している、
という判断で、
「新編中原中也全集」の編集委員は
この3作を
同時期の制作と推定しました

沈鬱(ちんうつ)で重厚な
(何無 ダダ)と、
解放感を感じさせ元気な
(頭を、ボーズにしてやらう)とが、
対照的とさえ受け止められるのに
(自然といふものはつまらなくはない)を加えて
3作の内容は類似している、
とは、
どのような読みの結果なのか
よくわかりません

自然といふものは、つまらなくはない、と
わざわざ、二重否定をもって
自然は面白い、ということを
詩人は歌いたかったのでしょうか

そもそも
自然って、この場合
何をさしているのか
ぼやーっとしています

何かに
怒っている感じが
伝わってきますが
「歯医者の女房」というメタファーが
中也独特で

この「歯医者の女房」が
あんなにしらばっくれている、
けれども
一歩下がって好意的に考えてあげれば
あいつらにもあいつらなりの感情の世界があるのだし

どっちみち
心悸亢進が近いことだろうし
そのうち隠居するってことなんだ

つまりさあ、
馬鹿じゃなければこの世を生きるには問題はない
問題がなければこの世を生きていられない

この最終2行に
この詩の重心がありそうですが
なかなか
伝わってきません

敢えて言えば
ダダっぽい
とは言えるのかもしれませんが
こんなにも
くっきりしないダダなんて
中也は書いたことはありませんし……

(何無 ダダ)と
(頭を、ボーズにしてやらう)とが持っている
明確なメッセージが
伝わってくるには
不十分です

冒頭の二重否定が
失敗に終わり、
結末の二重否定にも
あいまいさを
引きずりました

  *
(自然といふものは、つまらなくはない)

自然といふものは、つまらなくはない、
歯医者の女房なぞといふのが、つまらないのだ。

よくもまああんなにしらばつくれてる、
でもね、あいつらにはあいつらで感情の世界があるのだ。

どつちみち心悸亢進(しんきこうしん)には近づきつつあるのだが、
そのうち隠居するといふ寸法なんだ。

つまりまあ馬鹿でなければ此の世に問題はない。
問題がなければ生きてはゐられない。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月 8日 (月)

1932-1937年の詩篇<7>(頭を、ボーズにしてやらう)

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(何無 ダダ)の次に書かれたのは、
(頭を、ボーズにしてやらう)で、
その次に書かれたのは
(自然といふものはつまらなくはない)で、

この3作品は
ほとんど同時期に書かれたと
推定される大きな理由が、
「白痴群」の同人だった
安原喜弘に宛てた
昭和7年8月16日付けのはがきにあります

山口市湯田で投函されたはがきは、
簡潔にして要を得た内容で、
この頃の詩人の様子がうかがえて面白いので
全文を読んでみます

拝復
十日附けのお手紙本日落手しました 十二日天草より帰ってきました
ゴッホは本名でも又、千駄木八郎でもよろしくお願ひします
毎日甲子園を聞いてゐます、退屈です。上京したく、茂ぽつぽにもあひたいですが、二十三日までは立てないやうです
昨日今日、夜は盆踊りの太鼓が 小さな天地の空に響いてゐます
髪を刈って、イガグリ頭になりました 従って間もなくイガクリ頭で、出現のことと相なります
                     怱々不備
天草はよかったです、路の向ふから支那の荷車でもゴロゴロ来そうな、一寸そんな所です

(「中原中也の手紙」安原喜弘編著、玉川大学出版部)

「山羊の歌」出版の話が
思うに任せず、
金策もかねて帰郷した詩人は、
かねて計画中の宮崎行きを果たしました
前年冬から交友をはじめた
詩人の高森文夫の実家のある
宮崎県東臼杵を訪ね、
二人で延岡、青島、天草、長崎などの旅に出ました

はがきに書かれているように
天草行きが旅の本命
だったのかもしれません

ゴッホは
「この頃さる出版社から平易な画家伝の執筆依頼されて居つた私は、そのうちの一つ『ゴッホ』を幾分でも彼の生活の足しにもと思い、
出版社に内証で詩人に代筆をさせたのである。」(前掲書)
とある代筆の仕事のことで、
詩人は執筆者名に
ペンネーム「千駄木八郎」を
提案したのです

甲子園は、
甲子園野球のことで
ラジオ放送で
詩人はよく聞いていました
茂ぽつぽは、
長谷川泰子の子・茂樹のことです

内面の整理ができたのでしょうか
この旅を終え、
上京する前に
頭を丸坊主に刈って
出直す気持ちになったのでしょうか

こうして実際にイガクリ頭にしたことを
詩の中でも歌っていますから
この詩を含む3作品の制作時期が
推定できるわけです

詩は
束縛を解き
新しい己(おのれ)に向かい
「この世の外ならどこへでも行ってやる」
Anywhere out of the world 
と、決意表明する詩人の姿を
さまざまな形で歌います

囚人刈りにする
ハーモニカを吹く
植民地向きの気軽さ
荷物を置いてけぼりにする引越し
池の中へ跳び込む
大金を手に入れた車夫が走る
……

どうだい
これで
世の奥様方は拍手喝采
歯が抜けるほど高笑いするだろう

俺はどこまでも行くぞー
真面目腐ってなんていられるかいってんだ

 *
(頭を、ボーズにしてやらう)

頭を、ボーズにしてやらう
囚人刈りにしてやらう

ハモニカを吹かう
殖民地向きの、気軽さになつてやらう

荷物を忘れて、
引き越しをしてやらう

Anywhere out of the world
池の中に跳び込んでやらう

車夫にならう
債券が当つた車夫のやうに走らう

貯金帳を振り廻して、
永遠に走らう

奧さん達が笑ふだらう
歯が拔ける程笑ふだらう

Anywhere out of the world
真面目臭(くさ)つてゐられるかい。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月 7日 (日)

1932-1937年の詩篇<6>(南無 ダダ)

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(何無 ダダ)は、
すでに
2009年10月24日、26日、29日に
「ダダのデザイン」という視点で
読みましたが、
「早大ノート」の中には
このほかにも
極めてダダっぽい作品があったり、
ダダ的な詩句がある作品があることは
見てきたとおりです

ここでまた
ダダイズムを
中原中也の詩に嗅ぎ分けるような
読みの姿勢には入りませんが、
ダダイズムが
中原中也の詩の叙情に、
叙情以上のもの
叙情以外のものを与えている、

叙情に独特の強度を与え、
叙情が叙情でなくなり
抒情詩ではないものに変成される
見えないバネになっている、
というようなことは
表明しておきましょう

(何無 ダダ)の叙情は、
一筋縄(ひとすじなわ)では括(くく)れない
どんなふうにも読めるような
奥行きがあるようで、
いっぽう
「宇宙は石鹸だ、石鹸はズボンだ」(高橋新吉)
「小猫と土橋が話をしていた」(中也)
のような
単純な観念反応
もしくは冗句に過ぎない、
と読めるような
多義性、
二重性、
二律背反性をもっていて
そのことが詩の強度を作っています

うまく言い切れませんが
(南無 ダダ)には
陰惨さと
明るさ

土砂降りの雨の中に
ポッと晴れ間の射すような

泥濘(でいねい)に咲く
蓮の花、のような

明るい曇天

清らかな汚れ
みたいなもの
聖性というか

カオスとコスモス
混沌と世界

そのようなものが
同時に存在している
共存している
と、感じられて仕方ありません

これは、「ダダイズムの影響を受けた中原中也の詩風に、最後までどこか破調めいたところがあったのに対して、三好達治、丸山薫らの新詩精神との接触には、そのような破調や騒がしい表現がなかった」

と、「現代名詩選(下)」(新潮文庫、昭和44年初版)の
編者・詩人の伊藤信吉が
書いているところに
通じるものなのですが……。

 *
(南無 ダダ)

南無 ダダ
足駄なく、傘なく
  青春は、降りこめられて、

水溜り、泡(あぶく)は
  のがれ、のがれゆく。

人よ、人生は、騒然たる沛雨に似てゐる
  線香を、焚いて
      部屋にはゐるべきこと。

色町の女は愛嬌、
 この雨の、中でも挨拶をしてゐる
青い傘
  植木鉢も流れ、
    水盤も浮み、
 池の鯉はみな、逃げてゆく

永遠に、雨の中、町外れ、出前持ちは猪突(ちょとつ)し、
      私は、足駄なく傘なく、
    茲(ここ)、部屋の中に香を焚いて、
 チウインガムも噛みたくはない。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月 5日 (金)

1932-1937年の詩篇<5>(僕達の記臆力は鈍いから)

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(僕達の記臆力は鈍いから)の最終行に、

そして六十の老人のやうな心で、生きてゐる。

と、ありますが、
この詩を書いている詩人は
この年、1932年に
満25歳(4月29日誕生日)になります。

明治天皇の御大葬は、
明治45年9月13日に行われました
亡くなられたのは、
同年7月30日で
中原中也は5歳でした

25歳の詩人が
何かのきっかけで
小さいときにしばしば
父を訪ねて遊びにきた親友のことを
思い出します

帰郷したときに
母フクとの話の中に
出てきたのでしょうか

その思い出はぼんやりしていますが
御大葬があったころで
号外が出て
街でそれをもらった詩人は
いそいで家に帰りましたが
事情をよく飲み込めないまま、
きっと、
大人たちが真剣そうにしているのを
うかがっていました

蚊の多い夏だった、
という記憶があります

その人、父の友人が
よく遊びにきたのはこの頃で
鬚(ひげ)をたくわえていたことは
鮮やかに憶えています

シガレットケースを
パンと気前のよい音を立て
中から器用に
エジプト煙草を取り出す仕草が
思い出すにつれ浮かんできます

父のところへやってきては
僕に話しかけるではなく
いつもにこにこ笑っている人でした

後になってのことですが、
僕たちがその土地を離れてから、
その人の奥さんが
学生と駆け落ちする事件を起こして
新聞のニュースになりました

母はそのことで涙ぐみ
父は眼鏡を拭いていました

僕はその話を聞いたとき
それがどのように大層なことなのか
さっぱりわかりませんでしたが……

今になっては
それが大層なことだとわかるようになりました
どころか
60歳の老人のような心で生きているのです

第6連の、
「其の土地」は広島のことで、
詩人は当時、
広島女学院付属幼稚園に通っていました

幼少時の広島の思い出は
彩り豊かな経験に満ちていて
しばしば中原中也の詩作の
モチーフになります

広島から離れて
詩人ら家族が行った先は
石川県金沢でした。

 *
(僕達の記臆力は鈍いから)

僕達の記臆力は鈍いから、
僕達は、その人の鬚(ひげ)くらゐしか覚えてをらぬ

嘗(かつ)てその人がシガレットケースをパンと開いて、
エヂプト煙草を取り出したことももう忘れてゐる。

明治天皇御大葬、あゝあの頃はほんによかつた、
僕は生き神様が亡くなられたといふことはどんなことだか分らなかつた。

号外は盛んに出、僕はそれを受取ると急いで家の中に駆込んだ。
あの頃は蚊が、今より多かつたやうな気がする。

その人は、父の親友で、毎日々々遊びに來てゐた。
僕をみると何にも言はないで、ニコニコ笑つてゐた。

後、僕達が其(そ)の土地を去つてから、
その人の奧さんが学生と駆落したことが新聞に出た。

母は涙ぐんでゐた、父は眼鏡を拭いてゐた。
僕はそんなことがどうして大したことなのか分らなかつた。

今僕はそれが大したことだと分るやうになつた。
そして六十の老人のやうな心で、生きてゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月 4日 (木)

1932-1937年の詩篇<4>(それは一時の気の迷ひ)

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(それは一時の気の迷ひ)には、
具体的な情景がない
だれだか他人の喋(しゃべ)りと
詩人の呟(つぶや)きがあるだけです

ですから
この詩が
東京で書かれても
故郷山口で書かれても
列車の中で書かれても
おかしいことではありません

詩人は
比較的近い過去に
近辺のだれかが喋った
常套句のような言葉のいくつかを
思い出しています

だれもかれもが
詩人の意に沿わない言葉を
ああだこうだと語り、
詩人は今
その一つひとつを
口真似してみます

いけないいけない、と言われても
まだ理由を聞いていないよ
と、詩人は思いますが
強い反論の言葉は吐きませんし

だってだって、と言われても
むきに
反論してもはじまらないことですから、
――なんとも退屈な人生ではある
と、感じるだけです

それにしてもまあ
いつどこで覚えたのか
こんなに真面目腐った顔をして
可愛げをなくしてしまったこの娘
どこの娘かって
怒ってもはじまらない

生れたからに人は育ち
育つことは死に近づくことでもある
人の世さ、人の命さ

ちっぽけな憧れと
お涙頂戴シーンのてんこ盛りとで、
僕の人生が、
まったくもう、
佃煮(つくだに)状態ですよ。

風景は見えず
ただ残念がる詩人ですが
これを
求婚に失敗した悔しさと
読むかどうかは、
人それぞれです。

 *
(それは一時の気の迷ひ)

それは一時の気の迷ひ、
あきらめなされといふけれど、
迷ひがほんとかほんとが迷ひか、
迷ひこそほんたうであらうとおもふ

いいえ、いけませんいけません、
そんなことはいけません、か?

なんでいけないといふのやら、
理由はまだ誰からも聞かぬ

だつて、あなた、だつて、だつてか、
――なんとも退屈な人生ではある

何時教はり、何処で覚えたとも分らない、
こんな真面目面(づら)を、この小娘はしてゐるよ

かくて人間は生れ、人間は死に、
だつて、あなた、だつて、だつてだ

少しばかりの憧れと、盛り沢山な世話場との
チェッ、結構な佃煮(つくだに)だい。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月 3日 (水)

1932-1937年の詩篇<3>(七銭でバットを買つて)

Bydominicspics01
by Dominic's pics

(七銭でバットを買つて)を作った年は、
1932年、昭和7年で、
第一詩集「山羊の歌」の編集に
とりかかった年です。

詩集は
1934年12月に出版されるまで
苦難苦悩の時間を経なければならず
詩人は神経を衰弱させますが……。

故郷山口へ帰ったり、
詩友・高森文夫を宮崎県東臼杵に訪ねたり、
二人で青島、天草、長崎などを旅したり、

東京では、
詩集の出版先を探したり、
フランス語を教えたり……
長谷川泰子の子ども・茂樹を可愛がったり……

年譜には記載されませんが、
「白痴群」の僚友・安原喜弘との交友を
これまで以上に深めます

(ナイヤガラの上に月は出て)も
(汽笛が鳴つたので)も
(七銭でバットを買つて)も、
このような状況の下で
作られた歌でした

(七銭でバットを買つて)には
やはり
東京を離れた空気が漂ういっぽう、
アババババ、と
茂樹との交感の中で使うであろう
幼児語を遠くで思い出したように使い、

やがて「嬰児」で
カワイラチイネ、と使う前ぶれのように
ウレシイネ、と
ゴールデンバットを買って
どこか遠出をしたときの
自分の用意周到を自讃し、
子どものように喜びます

詩は、
山の中で
自転車もろとも
坂の下に踏み外してしまった
行きずりの男の災難を歌いますが

ゴールデンバットと
アババババ(=茂樹)を
味方にしている詩人は
一向に動じませんし、
余裕さえ感じさせるものになっています

そのことにもまして
詩人が
暗い山中で
赤の他人に見せる
わざとらしくない優しさを
気に留めないわけにはいきません。

アババババ、と
最後を「、」にしたままであるのは
詩人の意図するところで、
永遠のイノセンス(無垢)を
アピールするものだったのではありませんか

 *
(七銭でバットを買つて)

七銭でバットを買つて、
一銭でマッチを買つて、
――ウレシイネ、
僕は次の峠を越えるまでに、
バットは一と箱で足りると思つた。

山の中は暗くつて、
顔には蜘蛛の巣が一杯かかつた。
小さな月が出てゐるにはゐたが、
それでも木の繁つた所は暗かつた。

ア、バアバアバアバ、
僕は赤ン坊の時したことを繰返した。
誰も通るものはなかつた。

暫くゆくと自転車を坂の下に落として、
自分一人は草を摑(つか)めば上れるが、自転車を置いとくわけにもいかず
といふ災難者にあつた。

自転車に紐か何か付いてるでせう、と僕は云つた。
へい、――それには全く気が付きませんでした、

自転車は月の光を浴びながら、
ガタガタといつて引揚げられた。

――いつたい何処までゆきなさる、
――いえ、兄の嫁の危篤を知らせに、此の下の村まで一寸(ちよつと)。

自転車の前の、ランプが灯つた。――おとなしさうな男である。

僕は煙草に日を点(つ)けて、去りゆく光を眺めてゐた。

アババババ、アババババ、

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年2月 2日 (火)

1932-1937年の詩篇<2>(汽笛が鳴つたので)

(汽笛が鳴つたので)は、
ダダの詩でしょうか?

鉄道があり
汽船があり
トンネルがあり
樹々が生える野があり
青い空があり……

どこだかの景色は、
旅の途上で
東京の景色ではなく

詩人は
普段の暮らしとは違って
車窓から
世界を見ているかのようです

謎の詩句があります
第3連、

硝子(ガラス)の響きは、
大人の涎と縁がある。

硝子は
列車の窓ガラスのことでしょうか
それとも……

大人のよだれは、
何のことでしょうか
大人が夢中になって
涎を流すような
何か
とても幸せなことでも
意味しているのでしょうか

硝子の響きが
大人の涎に縁がある、
とは、
何か、
赤ん坊をあやす大人が
アババババーって
幸福な時を過ごすことをでも
暗示しているのでしょうか

この詩句を不思議がっているだけで
この詩の不思議な世界に
いつしかはまり込んでいることに
気が付きます

列車は
トンネルを抜け
木々の立つ野を抜け
何もない
青い空の中を行きます

そこに
あめ色の牛がいないのは
おかしい
間違っているよ

僕は
その青の中に
ポツンと残されます。

僕の眼も
青く染まり
大きく
哀れげでした。

*
(汽笛が鳴つたので)

汽笛が鳴つたので、
僕は発車だと思つた。
冗談ぢやない、人間の眼が蜻蛉の眼ででもあるといふのかと、
昇降口では、二人の男が嬉しげに騒いでゐた。

沖には汽船が通つてゐた。
白とオレンジとに染分けてゐた。

硝子(ガラス)の響きは、
大人の涎と縁がある。

また隧道(トンネル)であるといふことは、
なんとも自由の束縛である。

樹々は野に立つてゐる、
従順な娘達ともみられないことはない。

空は青く、飴色の牛がゐないといふことは間違つてゐる。

僕の眼も青く、大きく、哀れであつた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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