早大ノート最後の詩篇・こぞの雪今いづこ
「こぞの雪今いづこ」は、
「早大ノート」に書き付けられた全42篇の中の
最も新しい作品で
昭和12年(1937年)に作られたものと
推定されていますが、
この年こそは
中原中也が死んだ年です
中原中也は
1937年10月22日に
亡くなりますが、
「こぞの雪今いづこ」は
同年4月15日から5月14日の間の制作と
推定されていますから、
死のおよそ半年前の作品です
詩人は
「在りし日の歌」の編集の最終段階にあり、
完成した草稿を
小林秀雄に託すのは
同年9月のことです
なぜ、「こぞの雪今いづこ」が
「早大ノート」に書かれたのでしょうか、
その考証の様子が
「新編中原中也全集」(第2巻解題篇)に
詳しく記録されています
それによると、
昭和12年春に再開した
第2詩集「在りし日の歌」の編集中(第三次編集期)に
「ノート小年時」や「早大ノート」に
書きためた詩を推敲(すいこう)し
赤インクで手直ししたりしているときに
「早大ノート」の中にあった
空白のページに書き付けたのが
「こぞの雪今いづこ」でした
第2詩集「在りし日の歌」が
編集された当初の昭和11年前半には、
「去年の雪」が詩集タイトルであり
昭和12年春の段階でも
まだタイトルの候補でありながら、
結局は、「在りし日の歌」になったのは
「こぞの雪今いづこ」が
詩人の満足するものではなく
未決定稿であったために
生前どこにも発表されることがなく
詩集にも収録されなかった……
という経緯をもつ作品ですが
内容は、
前年11月に亡くなった
長男文也への追悼です
「こぞの雪」は、文也のことです
いまごろどうしているだろうか
何を求めて歩いているだろうか
薄曇りの河原か
何にも求めずに
歌いながら
ひとりで歩いているだろうか……
*
こぞの雪今いづこ
みまかりし、吾子(あこ)はもけだし、今頃は
何をか求め、歩(あり)くらん?……
薄曇りせる、磧(かわら)をか?
何をも求(と)めず、歌うたひ
たゞひとりして、歩(あり)くらん
何をも求(と)めず、生きし故、
何をも求(と)めず、暮らすらん。
何さへ求(と)めず、歌うたひ、
さびしとさへも、云ひ出でず、
たゞひとりして、歩(あり)くらん。
さば、かくてこそ、あらばあれ、
さてそののちは、如何(いか)ならん?
たゞつぶらなる、瞳して、
空を仰いで、ありもすれ、
さてそれだけにて、あるらんか?
もし、それだけの、ことならば、
よしそのうちに、欣怡(よろこび)の、
十分そなはるものとしても、
なほ今生なるわが身には、
いたましこととおもはるなり。
なにせよ分らぬことなれば
分らぬこととは知りながら
分りたいとは思ふなり
吾子はも如何に、なせるらん。
吾子はも何を、なせるらん。
想ひもとどかぬことなれば
想ひとゞかぬことかなと、
いまさらわれは、思ふなり。
せめて吾子はもあの世より
この身にピストル撃ちもせば
こよなきことにぞ思ふなるを
さるをピストル撃たばこそ
石ばかりなる、磧なれ、
鴉声(あせい)くらゐは聞けもすれ、
薄曇りせる、かの空を
眺めてありく ばかりなれ、
げにさばかりのことなれば、
げに命とや、何事ぞ?
なにせよ何も分らねば、
分りたいとは、思ふなり。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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