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2010年3月

2010年3月28日 (日)

早大ノート最後の詩篇・こぞの雪今いづこ

「こぞの雪今いづこ」は、
「早大ノート」に書き付けられた全42篇の中の
最も新しい作品で
昭和12年(1937年)に作られたものと
推定されていますが、
この年こそは
中原中也が死んだ年です

中原中也は
1937年10月22日に
亡くなりますが、
「こぞの雪今いづこ」は
同年4月15日から5月14日の間の制作と
推定されていますから、
死のおよそ半年前の作品です

詩人は
「在りし日の歌」の編集の最終段階にあり、
完成した草稿を
小林秀雄に託すのは
同年9月のことです

なぜ、「こぞの雪今いづこ」が
「早大ノート」に書かれたのでしょうか、
その考証の様子が
「新編中原中也全集」(第2巻解題篇)に
詳しく記録されています

それによると、
昭和12年春に再開した
第2詩集「在りし日の歌」の編集中(第三次編集期)に
「ノート小年時」や「早大ノート」に
書きためた詩を推敲(すいこう)し
赤インクで手直ししたりしているときに
「早大ノート」の中にあった
空白のページに書き付けたのが
「こぞの雪今いづこ」でした

第2詩集「在りし日の歌」が
編集された当初の昭和11年前半には、
「去年の雪」が詩集タイトルであり
昭和12年春の段階でも
まだタイトルの候補でありながら、
結局は、「在りし日の歌」になったのは
「こぞの雪今いづこ」が
詩人の満足するものではなく
未決定稿であったために
生前どこにも発表されることがなく
詩集にも収録されなかった……

という経緯をもつ作品ですが
内容は、
前年11月に亡くなった
長男文也への追悼です
「こぞの雪」は、文也のことです

いまごろどうしているだろうか
何を求めて歩いているだろうか
薄曇りの河原か
何にも求めずに
歌いながら
ひとりで歩いているだろうか……

 *
 こぞの雪今いづこ

みまかりし、吾子(あこ)はもけだし、今頃は
何をか求め、歩(あり)くらん?……
薄曇りせる、磧(かわら)をか?
何をも求(と)めず、歌うたひ
たゞひとりして、歩(あり)くらん

何をも求(と)めず、生きし故、
何をも求(と)めず、暮らすらん。
何さへ求(と)めず、歌うたひ、
さびしとさへも、云ひ出でず、
たゞひとりして、歩(あり)くらん。

さば、かくてこそ、あらばあれ、
さてそののちは、如何(いか)ならん?
たゞつぶらなる、瞳して、
空を仰いで、ありもすれ、
さてそれだけにて、あるらんか?

もし、それだけの、ことならば、
よしそのうちに、欣怡(よろこび)の、
十分そなはるものとしても、
なほ今生なるわが身には、
いたましこととおもはるなり。

なにせよ分らぬことなれば
分らぬこととは知りながら
分りたいとは思ふなり
吾子はも如何に、なせるらん。
吾子はも何を、なせるらん。

想ひもとどかぬことなれば
想ひとゞかぬことかなと、
いまさらわれは、思ふなり。
せめて吾子はもあの世より
この身にピストル撃ちもせば

こよなきことにぞ思ふなるを
さるをピストル撃たばこそ
石ばかりなる、磧なれ、
鴉声(あせい)くらゐは聞けもすれ、
薄曇りせる、かの空を

眺めてありく ばかりなれ、
げにさばかりのことなれば、
げに命とや、何事ぞ?
なにせよ何も分らねば、
分りたいとは、思ふなり。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年3月16日 (火)

早大ノートについて・再説

「早大ノート」は、
そもそもなぜこの名で呼ばれているか、
というと、
中原中也が昭和5年9月初旬から
同6年7月下旬まで住んでいた
代々木山谷112近間方に、
早大専門部の学生、福田嘉一郎が住んでいて
この福田が所有していた
早稲田大学の校章や
「WASEDA.UNIV.」などの文字が印刷されたノートが、
詩人に与えられたか、
詩人が無断で使用していたかして、
多くの詩が書きとどめられていたのを
角川版旧全集編集の過程で
「早大ノート」と呼ぶことにしたのが
その後も続けられているのです。

このノートの
最も古い記述は
したがって、
昭和5年(1930年)9月以降であると考えられ、
その最初の詩作品が
「干物」で、
最も遅くなって書かれたのが
昭和12年(1937年)の
「こぞの雪今いづこ」と
推定されています

1930年から1937年までの間に
作られた作品が
この「早大ノート」に記された
ということになり、
8年間、
このノートが使われたことに
感激しますが、
この間、
満遍なく詩が書き継がれた
というわけではありません

「早大ノート」の中に、
昭和8、9、10年(1933、34、35年)に制作された詩は
ありませんし(推定)、
昭和11年(1936年)は2篇、
昭和12年(1937年)は、
「こぞの雪今いづこ」1篇です

昭和11年(1936年)の2篇は、
「酒場にて」の(初稿)と(定稿)のことで
2009年5月24日に読みましたから
まだ読んでいないのは
「こぞの雪今いづこ」1篇となったわけですが、
これを読む前に
「早大ノート」の全42篇のタイトルを
もう一度
振り返っておきます

一つひとつの作品が
頭の中に
よみがえってくるでしょうか

この頃の
詩人の暮らしが
少しは見えてくるでしょうか

ほかの
どんなことが
浮かんでくるでしょうか

 *

干物
いちぢくの葉
カフェーにて
(休みなされ)
砂漠の渇き
(そのうすいくちびると)
(孤児の肌に唾吐きかけて)
(風のたよりに、沖のこと 聞けば)
Qu'est-ce que c'est que moi?
さまざま人
夜空と酒場
夜店
悲しき画面
雨と風
風雨
(吹く風を心の友と)
(秋の夜に)
(支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)
(月はおぼろにかすむ夜に)
(ポロリ、ポロリと死んでゆく)
(疲れやつれた美しい顔よ)
死別の翌日
コキューの憶ひ出
細心
マルレネ・ディートリッヒ
秋の日曜
(ナイアガラの上には、月が出て)
(汽笛が鳴つたので)
(七銭でバットを買つて)
(それは一時の気の迷ひ)
(僕達の記憶力は鈍いから)
(何無 ダダ)
(頭を、ボーズにしてやらう)
(自然といふものは、つまらなくはない)
(月の光は音もなし)
(他愛もない僕の歌が)
嬰児
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
酒場にて(初稿)
酒場にて(定稿)
こぞの雪今いづこ

2010年3月14日 (日)

早大ノート1930年の詩篇<5>砂漠の渇き

987

「砂漠の渇き」は
(休みなされ)とは
しばらく間をおいて制作された、
と考えられているのは、
筆記具や筆跡の比較分析の結果ですが、
可能性としては
1931年(昭和6年)の制作もある、
と見なされて、
結局は
1930年秋から1931年9月中旬までの間の制作と
約1年の幅を想定されている作品です。

詩内容から判断すると
「三毛猫の主の歌へる」に近似するところから
1931年前半から9月中旬までの間の作と
推定する考えがあって、
この期間を含めて考えて
幅を大きくとったのです。

「三毛猫の主の歌へる」は
「青山二郎に」と
献辞のつけられた
(1931.6.1)の日付のある作品で、
この詩の中には
詩人と青山二郎らしき人物が登場し、
わたしが詩人で
おまえが三毛猫で
この二人の関係を
三毛猫の主、つまり詩人の側から
歌った詩になっていて、
「砂漠の渇き」も
その構造と似た作りになっています

こちらでは、
私の伴侶、
として出てくる人物が
青山二郎らしいのですが
らしいだけで
断定できることではありません

この頃付き合いのあった友人とか
詩の仲間とか
フランス語の生徒とか
伴侶はだれでもよいのですが
青山二郎であるとすれば
詩人は
1931年5月に彼と知り合うのですから
作品もそれ以後に作られた、
ということになってきます

特定のだれそれと
断定できなくとも詩を読むことはできますし
できなけれできないで
その時は想像をめぐらしながら読めばよいでしょう

詩は
いかにも「創作者の渇き」を
歌っているようで
砂漠を旅する
同好の二人が
共に苦しみ
励まし合うものの
渇きは癒されることのない状態がつづき

私の伴侶は私に嘆き、
伴侶の嘆きに私は嘆き、

仕舞いには
対立が生まれてしまうかもしれない
そんなピンチさえが予感されて……

しかし、
そんなことのないように!
と祈る詩人が登場して
その声が浮かび上がって
無理やりに
この詩を終わらせた感じで
終わります

 *
 砂漠の渇き

1
私の胃袋は、金の叫びを揚げた。
水筒の中にはもはや、一滴の水もなかつた。

私は砂漠の中にゐた。
私の胃袋は金の叫びを揚げた。

しかし私は悲しみはしなかつた。
私はどこかに猶オアシスを探さうと努力してゐた。

けれども其の時私の伴侶の、
途方に暮れた顏をみては私は悲しくなつた。

「ああ、渇く。辛いな」と私は云つた。
「辛いな、辛いな」。

そしてはや、私はオアシスのことは忘れてゐた。
私は私の伴侶への心づかひで一杯だつた。

日は光り、砂は焦げ、空はグルグル廻(ま)つた。
私は私の伴侶への心づかひで一杯だつた。

2

私達二人は渇いてゐた。
しかし差当りどうすることも出来なかつた。

私は努力しながら、
しかし、奇蹟を信じてゐた。

そして私は伴侶のためには、
やがて冗談口を叩きはじめた。

私は莫迦げきつたことを、さも呑気さうに語りながら、
遇には伴侶を笑はせることに成功した。

でもその都度、ともするとつのりゆく私の渇きは、
私の冗談口を裏切つた。

伴侶は険しい目付で其の時私を見守つた。
おまへの冗談口なぞ、あまり似つかはしくないよとばかり。

しかし我々は差当り渇きをどうしやうもなかつた。
私は祈る代りのやうに、冗談口を叩いてゐた。

3

日は光り、私は渇き、
地平はみえず。

わたくしの、理性はいまだ
狂ひもえせず。

私の伴侶は私に嘆き、
伴侶の嘆きに私は嘆き、

日は光り、空気は蒸れて、
足重く、倒れんばかり。

4

私はかくて死にゆくのだが、
しかし伴侶をいたみながらだ。

5

「対立」の概念の、去らんことを!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年3月11日 (木)

早大ノート1930年の詩篇<4>(休みなされ)

「小さくなり、丸味のある」文字で
「早大ノート」第9ページに記されたのが
(休みなされ)で、
「カフヱーにて」が1930年秋の制作であるなら
それよりも後で
1931年に入っての制作の可能性もあり、
1930年秋以降1931年9月中旬の間と
推定制作年の幅が大きくとられている作品です

詩人の置かれた状況を特定できず
約1年のインターバルの中において
この詩を
読まなければならない
ということですが、
詩のみならず
多くの創作物には
状況を想像するしかない作品というのは
いくらでもあって、
その想像がまた楽しいものであったり
作品そのものに状況が記されていたりして
それを糸口にして読めばよいのですから
読めない詩というものは
存在しません

(休みなされ)は
無題の詩ですから
完成品とはいえませんが、
だれかに向って
「どうこうしたほうがいいのでは?」と
その相手の気持をうかがいながら
提言している詩です

お休みになったらどうです?
台所や便所の掃除が一番大事なことです、
などという教訓を
この際、
忘れてしまったらどうです?

お休みになったらどうです?
ビンツケ油で作っている髪ならば
いっそグシャグシャにしてしまって
すっきりすっぽんぽんにしてしまったらどうです

魂の訴えも封殺してしまって
せかせか働いてばかりいるから
やがては姑根性をふるい出すのです

お休みになったらどうです?
細かいことにくよくよしていないで
大声で歌うんですよ

説教好きのだれか
わずらわしそうな衣装を着ただれか
働き者のしゅうとめみたいなだれか

モデルになった
特定のだれかがいたのかは
わかりませんが
そのモデルを探さなくても
詩を読むことはできます

詩人は
歌わないだれかを
見たのです

 *
 (休みなされ)

休みなされ、
台所や便所の掃除こそ大事だなぞといふ教訓を、
お忘れなされ。

休みなされ、
ビンツケでもててゐるやうな髮ならば、
グサグサにしておしまひなされ

魂の嘆きを窒息させて、
せかせかと働きなさるからこそ、
やんがて姑根性をも発揮なさるのだ。

休みなされ、
放胆になりなされ、
大きい声して歌ひなされ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

早大ノート1930年の詩篇<3>カフヱーにて

「干物」
「いちぢくの葉」
および
「カフヱーにて」の3篇は、
同じ頃に制作されたことが推定されていて
ともに秋の制作であるということは、
昭和5年、1930年の秋制作の作品と
限定されることになります。

「干物」の
人の世の、もの事すべて患(わづ)らわし

「いちぢくの葉」の
――わたくしは、がっかりとして

ほごすすべなく、いらだつて、

といった
マイナーな感情が、
抑制されて
控えめに訴えられるのに比べて、

「カフェーにて」では、
第3連、
わたくしはしょんぼりとして
自然よりよいものは、さらにもないと、
悟りすましてひえびえと

までは同じなのですが、
最終連にきて
どっとあふれ出るものがあります

ギターの曲を聴いていると
見も世もあらぬ思いがしてきて
酒をすすり飲めば、
秋風が沁み
いやというほど淋しさがつのるのでした


淋しさは
名詞になって表現されるのです

屋内に入って
人語飛び交う騒がしさの中でこそ
棒のような
淋しさに
詩人は襲われたのでした

中也23歳の秋です

 *
 カフヱーにて

醉客の、さわがしさのなか、
ギタアルのレコード鳴つて、
今晩も、わたしはここで、
ちびちびと、飮み更かします

人々は、挨拶交はし、
杯の、やりとりをして、
秋寄する、この宵をしも、
これはまあ、きらびやかなことです

わたくしは、しよんぼりとして、
自然よりよいものは、さらにもないと、
悟りすましてひえびえと

ギタアルきいて、身も世もあらぬ思ひして
酒啜ります、その酒に、秋風沁みて
それはもう結構なさびしさでございました

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年3月 9日 (火)

早大ノート1930年の詩篇<2>いちぢくの葉

「いちじくの葉」は、
同じタイトルの作品が二つあります。
1930年作(推定)は、
「いちぢくの葉よ」ではじまり、
1933年(昭和8年)作は、
「夏の午前よ」ではじまりますが、
両作品は対照的です。

いっぽうが、
夕方のいちぢくであり、
いっぽうは、
昼間のいちぢくであり、
いっぽうは、
シルエットのいちぢくであり、
いっぽうは、
陽をあびて眠たげのいちぢくであり……

今回読む「いちぢくの葉」は、
夕方の空に、
黒々として、
風に揺れていて
葉と葉の間にぽっかり空が大きく現れて、
美しい
前歯が1本欠けた女性のように
姿勢よく
立ち尽くしている
いちぢくです

美しい、前歯一本欠け落ちた
をみなのやうに、姿勢よく

この2行が
中也らしい!

前歯一本欠け落ちた
というフレーズの前後に
美しい、姿勢よく、という語句を配し、
完全無敵の美しさではなく
背筋の通って勢いのある
女性をいちじくの姿に重ねるです

シルエット状の葉は
大型の人の手の形をしているに違いないのですが
そういう形容には走らず
全体をとらえて、
姿勢のよい女性が
茫然と立っている風に見ます

軽快な気分なのではなく
私は
がっかりして
過去のごちゃごちゃ積み重なった思い出を
一つひとつほどくこともできず、
苛立って、
仕舞いには、
重い頭をどうすることもしないで
身を任せ、心も任せます

なにも言わないことにして
この夕べ、
吹きすぎる風に首をさらして
夕空に、
黒々とはためいている
いちぢくの梢を見上げて
なんだかわからないが
見知らぬものへ
一種畏敬の念に似た
愛情の気持を抱いているのです

なにごとか
不吉なものなのか
おとなしく
聞き従っておきたいものを
いちぢくの葉に感じたのでしょうか

はたはた はたはたと
曇天にはためく旗へと連なってゆく
空への祈りなのでしょうか


いちじくの葉

いちじくの、葉が夕空にくろぐろと、
風に吹かれて
隙間より、空あらはれる
美しい、前歯一本欠け落ちた
をみなのやうに、姿勢よく
ゆふべの空に、立ちつくす

――わたくしは、がつかりとして
わたしの過去のごちやごちやと
積みかさなつた思ひ出の
ほごすすべなく、いらだつて、
やがては、頭の重みの現在感に
身を托し、心も托し、

なにもかも、いはぬこととし、
このゆふべ、ふきすぐる風に頸さらし、
夕空に、くろぐろはためく
いちじくの、木末 みあげて、
なにものか、知らぬものへの
愛情のかぎりをつくす。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年3月 8日 (月)

早大ノート1930年の詩篇<1>干物

「早大ノート(1930年―1937年)」から
1931年と1932年制作の詩篇を読み、
「草稿詩篇」(1931年―1932年)を読み終えましたから、
こんどは
「早大ノート」の1930年制作の詩篇へ
さかのぼります。

その冒頭にあるのが
「干物」ですが、
この詩も
2009年5月20日に読みましたが
中原中也の1930年には
どんなことがあったのか
年譜を見ておきましょう

昭和5年(1930) 23歳
1月 「白痴群」第5号発行。
4月 「白痴群」第6号をもって廃刊。
5月 「スルヤ」第5回発表会で「帰郷」「失せし希望」「(内海誓一郎作曲)「老いたる者をして」(諸井三郎作曲)が歌われる。
8月 内海誓一郎の近く、代々木に転居。
9月 中央大学予科に編入学。フランス行きの手段として外務書記生を志し、東京外国語学校入学の資格を得ようとした。
秋、吉田秀和を知り、フランス語を教える。
12月、長谷川泰子、築地小劇場の演出家山川幸世の子茂樹を生み、中也が名付け親となる。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」巻末資料より)

この年に
一度転居がありました

それまでは
高井戸町中高井戸37に住んでいましたが
近くに住んでいた高田博厚がまもなく渡仏するのと
中央大学に通いやすかったのと
新住居の近くには内海誓一郎が住んでいた、
などの理由で、
代々木山谷112近間方に引っ越したのは
9月はじめのことでした

「干物」は、
この引っ越し前の作か後の作か、
「ひもの」か「ほしもの」か、
解釈が分かれているようですが
1930年の
外苑にも千駄ヶ谷にも
2010年現在からは想像もつかない
生活風景が残っており
すんなり「ひもの」と取りましたが
「ほしもの」であっても通じます

新しい住居に来て
そこの風景を歌っている感じと
外苑、千駄ヶ谷は
代々木山谷の地続きでもあるので、
引っ越し後の作と読みました

神宮外苑あたりの森の道に
どこからともなく漂ってくる
魚の匂いを嗅ぎ、
蝉の声を聞きながら
午後のひととき
詩人は
まどろみに誘われていきます

 *
 干物

秋の日は、干物の匂ひがするよ

外苑の舗道しろじろ、うちつづき、
千駄ヶ谷、森の梢のちろちろと
空を透かせて、われわれを
視守る 如し。

秋の日は、干物の匂ひがするよ

干物の、匂ひを嗅いで、うとうとと
秋蝉の鳴く声聞いて、われは睡る
人の世の、もの事すべて患らはし
匂ひ嗅いで睡ります、ひとびとよ、

秋の日は、干物の匂ひがするよ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年3月 6日 (土)

早大ノート以外の1932年詩篇<9>修羅街挽歌 其の二

6669

「彼の口にするのは、離反した友人たちの名であった。」(「中原中也の手紙」所収「中原中也のこと」)

と、親友・安原喜弘が書いた
1932年後半という時期の
中原中也の孤立した状況は、
「お会式の夜」
「蒼ざめし我の心に」
(辛いこつた辛いこつた!)から
測り知ることができますが、
もっとも激しい調子を持つのが
「修羅街挽歌 其の二」です。

2008年10月31日付け本欄で
「憤怒」のタイトルで一度読みましたが
今ここで読み直しても
受け止め方に特に変るものはありません

第1章は、
「友に与うる書」です
自分から去った友へ
呼びかける口調はか弱く
遠慮がちにはじまります……

暁は、紫の色、
明け初めて
わが友等みな、
我を去るや……
否よ否、
暁は、紫の色に、
明け初めてわが友等みな、
一堂に、会するべしな。

友らは私から去って
どこかで
集まっているようだな

弱き身の、
強がりや怯(おび)え、おぞましし
弱き身の、弱き心の
強がりは、猶(なお)おぞましけれど
恕(ゆる)せかし 弱き身の
さるにても、心なよらか
弱き身の、心なよらか
折るることなし。

どうせか弱き人間のことよ
強がり
おびえ……
折れ合う心もないのであろうよ

第2章は、
「ゴムマリの歌」に転じます 

詩人がゴムマリか
友人たちがゴムマリか
たぶん
詩人はゴムマリのように扱われたことがあり
いまゴムマリになってみて
ゴムマリを代弁します

ゴムマリか、なさけない
ゴムマリか、なさけない
ゴムマリは、キャラメル食べて
ゴムマリは、ギツダギダギダ
ゴムマリは、ころべどころべど
ゴムマリはゴムのマリなり
ゴムマリを待つは不運か
ゴムマリは、涙流すか
ゴムマリは、ころんでいって、
ゴムマリは、天寿に至る
ゴムマリは、天寿に至り
ゴムマリは天寿のマリよ

第3章は、
Ⅲと章番号だけの無題ですが、
ゴムマリを分析しています

ゴムマリにも色々あり
みんな人であることに変りはない、と
ゴムマリのスタンスをとります

第4章は、
Ⅳの章番号だけの無題ですが、
僕の主張になります

僕にも非があったが
僕の友にも非があった
と歌い
でもまあいい、もうすんだこと
と、終わったことにしますが、

最後には、
君等 また はやぎめで顔見合わせて嬉しがらずに呉(く)れ。
と、
君たち、
早合点して
みんなで顔を見合わせて
嬉しがらずにいてくれよ
と、
注文をつけるのです

詩人も
あくまで
妥協しないのです

 *
 修羅街挽歌 其の二

Ⅰ 友に与うる書

暁は、紫の色、
明け初めて
わが友等みな、
我を去るや……
否よ否、
暁は、紫の色に、
明け初めてわが友等みな、
一堂に、会するべしな。
弱き身の、
強がりや怯(おび)え、おぞましし
弱き身の、弱き心の
強がりは、猶(なお)おぞましけれど
恕(ゆる)せかし 弱き身の
さるにても、心なよらか
弱き身の、心なよらか
折るることなし。

Ⅱ ゴムマリの歌 

ゴムマリか、なさけない
ゴムマリか、なさけない
ゴムマリは、キャラメル食べて
ゴムマリは、ギツダギダギダ
ゴムマリは、ころべどころべど
ゴムマリはゴムのマリなり
ゴムマリを待つは不運か
ゴムマリは、涙流すか
ゴムマリは、ころんでいって、
ゴムマリは、天寿に至る
ゴムマリは、天寿に至り
ゴムマリは天寿のマリよ

強がつたこころといふものが、
それがゴムマリみたいなものだといふことは分かる
ゴムマリといふものは
幼稚園ではある
ゴムマリといふものが、
幼稚園であるとはいへ
幼稚園の中にも亦(また)
色んな童児があらう
金色の、虹の話や
蒼窮(そうきゅう)を歌ふ童児、
金色の虹の話や、
蒼窮を、語る童児、
又、鼻ただれ、眼はトラホーム、
涙する、童児もあらう
いづれみな、人の姿ぞ
いづれみな、人の心の、折々の姿であるぞ

僕が、妥協的だと思つては不可(いけ)ない
僕は、妥協する、わけではない

僕には、たくらみがないばかりだ
僕の心持は、どう変りやうもありはしない

僕の心持が、ときどきとばつちることはあつたが
それは僕の友が、少々つれなかつたからでもあつた

もちろん僕が、頑(かたく)なであつたには相違ないが、
それにしても、君等、少々冷淡であつた。

風の中から僕が抜け出て来た時
一寸(ちょっと)ばかり、唇(くち)が乾いてゐたとて
一寸ばかり、それをみてさへくれれば、
僕も猶和やかであつたろう

でもまあいい、もうすんだこと
これからは、僕も亦猶
ヒステリックになるまいゆゑに
君等 また はやぎめで顔見合わせて嬉しがらずに呉(く)れ。

(「中原中也全詩集」角川ソフィア文庫より)

2010年3月 5日 (金)

早大ノート以外の1932年詩篇<8>(辛いこつた辛いこつた!)

(辛いこつた辛いこつた!)は、
「蒼ざめし我の心に」と
同時期に制作されたであろうことは、
使われた原稿用紙が同一であり
筆跡がこの頃書かれたほかの原稿と似ているから
などという理由に加えて、
訴求する内容や
憤激の情調とかが
同種の響きを持っている、
と言えるからかもしれません。

「蒼ざめし我の心に」に比べれば
(辛いこつた辛いこつた!)には
ややお道化て
突き放した感じがあるので、
詩人のコンディションは
復調を兆しているとも受取れますが……

辛い状態が続いていたことに
変わりはありません。

詩人は
浮世を上手に渡って暮らす
平々凡々の市民を
憐憫の目で見ることはあっても
軽蔑のまなこを向けることはないのですが
この詩には
言語玩弄者達とか
小児病者とか
一般市民ではない相手に
批判の矛先を向けている様子があります

想像できるのは
文壇のボスどもや取り巻きとか
牙城に閉じこもりひからびたテーマとやらに埋没する学者どもとか
調子のいいことばかり言って稼いでいる売文家とか

要するに
知的な職業についている者で、
おのれの放つ言説が
広告のように伝播して
一つの伝説を作り上げることに無神経な
小児病者が横行闊歩していて
詩人を生き辛くさせているのを
黙って見ていてはいられないのです

言語玩弄者達と
一くくりして
詩人が批判しようとした者の中には
友人・知己も含まれていて、
「街角の警官も親しい友人も」が
悪意を抱いて
詩人を攻撃してくるという
被害妄想の傾向を帯びていたらしいのですが……

この頃、
詩人と行動をともにしていた
安原喜弘の証言は
戦後も10数年を経た回想ではあるものの
信用するほかにない説得力があります

やつ等の頭の中には言葉が詰まっている
ガラガラ詰まっていて
どんな言葉もあるけれど
心がない、
心があっても根も葉もない
嘘っぱちの心だ

そもそも大元にあるのは野望
野望の上に造花を咲かせ
迷った人はすぐに造花を求める
こうして造花作りは花屋を嫌い
いよいよ、花は造花ほどには口をきけなくなる

造花作りの羽ぶりのよいこと!
ああ、なんと滑稽なこった滑稽なこった
それが滑稽だとは見えないほど
花の言葉はしゃらくさい、
舌がもつれようがもつれまいが
花に嘘はつけないから
きれいだけれど伝わるものがないんだ

直球の中に
じれったさそうに
もどかしそうに
詩人は心の丈を
吐露していますが
詩=ポエムへの意思は
捨てられたわけでないことは
ごらんの通りです

* 
(辛いこつた辛いこつた!) 

辛いこつた辛いこつた! 
なまなか伝説的存在にされて 
あゝ、この言語玩弄者達の世に、 
なまなか伝説的存在にされて、 
(パンを奪はれ花は与へられ) 
あゝ、小児病者の横行の世に! 

奴等の頭は言葉でガラガラになり、 
奴等の心は根も葉もないのだ。 
野望の上に造花は咲いて 
迷つた人心は造花に凭(すが)る。 
造花作りは花屋を恨む、 
さて、花は造花程口がきけない。 

造花造りの羽振のよさは、 
あゝ、滑稽なこつた滑稽なこつた。 
それが滑稽だとみえないばかりに、 
花の言葉はみなしやらくさい。 
舌もつれようともつれまいと 
花に嘘などつけはしないんだ。 

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年3月 4日 (木)

早大ノート以外の1932年詩篇<7>蒼ざめし我の心に

中原中也は、 1932年8月に、 荏原郡馬込町北千束621(現・大田区北千束2) に転居しましたが、 この頃の精神状態は 「詩人の魂の最大の惑乱時代」と 親友・安原喜弘に書かせるような 危機のさなかにありました。 原因は 「山羊の歌」の出版交渉がうまくいかず 出版そのものが 危ぶまれるほどだったからなのではありません。 「(略)私達は足繁く麻布の方にある美鳳社という印刷屋の店に通った。二人とも商人との交渉にはてんで能無しであった。帰途は遥かに見える下町の灯を望んで麻布の坂 を降り、彼の鬱憤は夜とともに益々激しく爆発するのであった。」 と、安原は、 中也からの8月23日付け金沢発の絵はがきに コメントを加えていますが、(「中原中也の手紙」) これを書いた昭和16年(1941年)から 35年後の昭和51年(1976年)になって、 「訂正」を発表します 「この時の中原の魂の動乱が、詩集の出版が思うにまかせなかったことが原因だというのが、いまでは一般的な説明となって流布されているようだが、これは違う。中原は詩 集の印刷にとりかかる前も、印刷中も、その後も、詩集のなりゆきにに対してはそれほど神経質ではなかった。達観していたともいえるだろう。彼の精神は、そんなに弱くはな かった。(略)この時期、彼の心の中には、もっとほかの何かが、根強く渦まいていた。この時、彼の親しい友人たちも多くは彼を避け、あるいは不仲となり、このような彼を身 近に見た人はきわめて少ない。私の記憶するかぎり、印刷ができあがってからは、詩集の話はほとんど彼の口からは出ていない。彼の口にするのは、離反した友人たちの 名であった。」(同書所収「中原中也のこと」) 「白痴群」の解散以来、 友人関係も先細っていて 詩集発行が進行中のこの年にも 親しい友人たちは冷淡だった そのことが詩人を神経衰弱に追い詰めた、 と安原は言わんとしているようです このピンチの時期に 「蒼ざめし我の心に」は 書かれました。 廃墟にこだまするものを あなたは知っているか? 低い空に、砂ぼこりが立ち 中空に、悲しく飛び 大空へ、消えてゆくのであろうか わたしは知っている 人の心が疲労することを! わたしは知っている 人の喜びを、悲しみを わたしは知っている 人の額の汗を 突然やってくる災難を 知っている! かつて母に従順だった娘よ 台所に満ちていた色々な音よ 野良仕事で疲れた男よ それらは今どうなってしまっただろう 気がかりだ 森のこずえには 風が吹いているばかりなので ああ 忘れてしまえ、 わたしの心、 廃墟にこだまする…… 忘れてしまえ、 森の響きを 物の響きを 空の思いを 詩人に聞こえる あらゆる物音が 詩人を苦しめ、 廃墟の木魂同然に 生気がなく、 不安ばかりをつのらせました 「(略)家も木も、瞬く星も隣人も、街角の警官も親しい友人も、今すべてが彼に向い害意を以て囁き始めたのである。(略)」 と、先の絵はがきから1月後に届いた 9月23日付け大森北千束発はがきについて 案内する中で 安原は説明を加えています。  *  蒼ざめし我の心に 君知るや、廃墟の木魂(こだま)…… 低空に、砂埃(すなぼこり)して 中空にかなしくはとび、 大空に、消えもやするや 我は知る、人間の心労を! 我は知る、喜びを、かなしびを 我は知る、額の汗を、 不時の災難を、我は知るなり! 嘗(かつ)て、母に仕へたりし娘(こ)よ、 台所の響きよ、野仕事に疲れし男よ それら今日、いかにかなりし…… 森の木末(こずえ)の、風そよぐのみにして ああ、忘れよや、わが心、廃墟の木魂…… 忘れよや、森の響きを、 忘れよや、物の響きよ、 忘れよや! 空の思ひを…… (角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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