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2010年3月16日 (火)

早大ノートについて・再説

「早大ノート」は、
そもそもなぜこの名で呼ばれているか、
というと、
中原中也が昭和5年9月初旬から
同6年7月下旬まで住んでいた
代々木山谷112近間方に、
早大専門部の学生、福田嘉一郎が住んでいて
この福田が所有していた
早稲田大学の校章や
「WASEDA.UNIV.」などの文字が印刷されたノートが、
詩人に与えられたか、
詩人が無断で使用していたかして、
多くの詩が書きとどめられていたのを
角川版旧全集編集の過程で
「早大ノート」と呼ぶことにしたのが
その後も続けられているのです。

このノートの
最も古い記述は
したがって、
昭和5年(1930年)9月以降であると考えられ、
その最初の詩作品が
「干物」で、
最も遅くなって書かれたのが
昭和12年(1937年)の
「こぞの雪今いづこ」と
推定されています

1930年から1937年までの間に
作られた作品が
この「早大ノート」に記された
ということになり、
8年間、
このノートが使われたことに
感激しますが、
この間、
満遍なく詩が書き継がれた
というわけではありません

「早大ノート」の中に、
昭和8、9、10年(1933、34、35年)に制作された詩は
ありませんし(推定)、
昭和11年(1936年)は2篇、
昭和12年(1937年)は、
「こぞの雪今いづこ」1篇です

昭和11年(1936年)の2篇は、
「酒場にて」の(初稿)と(定稿)のことで
2009年5月24日に読みましたから
まだ読んでいないのは
「こぞの雪今いづこ」1篇となったわけですが、
これを読む前に
「早大ノート」の全42篇のタイトルを
もう一度
振り返っておきます

一つひとつの作品が
頭の中に
よみがえってくるでしょうか

この頃の
詩人の暮らしが
少しは見えてくるでしょうか

ほかの
どんなことが
浮かんでくるでしょうか

 *

干物
いちぢくの葉
カフェーにて
(休みなされ)
砂漠の渇き
(そのうすいくちびると)
(孤児の肌に唾吐きかけて)
(風のたよりに、沖のこと 聞けば)
Qu'est-ce que c'est que moi?
さまざま人
夜空と酒場
夜店
悲しき画面
雨と風
風雨
(吹く風を心の友と)
(秋の夜に)
(支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)
(われ等のヂェネレーションには仕事がない)
(月はおぼろにかすむ夜に)
(ポロリ、ポロリと死んでゆく)
(疲れやつれた美しい顔よ)
死別の翌日
コキューの憶ひ出
細心
マルレネ・ディートリッヒ
秋の日曜
(ナイアガラの上には、月が出て)
(汽笛が鳴つたので)
(七銭でバットを買つて)
(それは一時の気の迷ひ)
(僕達の記憶力は鈍いから)
(何無 ダダ)
(頭を、ボーズにしてやらう)
(自然といふものは、つまらなくはない)
(月の光は音もなし)
(他愛もない僕の歌が)
嬰児
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
酒場にて(初稿)
酒場にて(定稿)
こぞの雪今いづこ

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