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2010年4月

2010年4月30日 (金)

草稿詩篇1933―1936<14>燃える血

「燃える血」が歌うのは
脹脛と書いて
フクラハギと読む
ふくらはぎのことです
よく、肉離れのことで話題になる
足の脛(すね)の裏側のやわらかい部分。

中原中也には
タブーがないといってよいほど
なんでも
詩の素材にしてしまう
一種の才能があり、
実はこれは
中原中也の詩の
本質的な部分に関わる
重大で重要な特徴であることに気づきます

日常生活の中に転がっている
手垢の付いた言葉を
詩にしてしまうのが
中原中也の詩であるとよく言われるあたりとも
このことはクロスするところです

風化した言葉にこそ
詩は発生するみたいな考えとも
通じる部分

御託(ごたく)はさておき、
ふくらはぎですが
ふくらはぎは
走ったり運動したりするときに使う筋肉だから
燃える血みたいなものだから
それをじっと見ているだけで
よく走りよく飛び回った
少年時代を思い出すことになり……。

ふくらはぎを眺めながら
僕は
燃える血のことを思う
すると
雨の晴れ間に流れてくるオルガンの響きを思い出し
母さんを思い出し
いつしか
小学校のころへワープしています

小学校の帰り道
しょってるカバンは重かった
余計なガラクタを詰め込んで
学校に行ったからか
図工の時間に作った作品が
返ってきたからか
カバンがパンパンにふくれた日がありましたね

オルガンの響きが
重たいカバンをしょって走る僕を
追っかけてくる
雨を含んだ風に乗って
オルガンが僕の耳元で泣いている

いつでも僕の血は燃えていたよ
友よ、君と話しているその間も
僕の血は燃えていて
困ってしまうよ

血はあんまり燃えるので
そのこと自体が一つの事象だし
君と話している時には
話すということと
血の燃焼ということの
二つの事象に関わっていることになる

友達よ
もし僕の目付きが悪かろうと
そのせいだよ
燃える血は
いつも空中に音を探し
すがすがしさを切に求め

心が働く前に
まず燃える血を鎮めなければならない
いつもいつも
だから自然は懐かしく
人の虚栄はまぶしいばかり……

燃える血よ
僕をどうしようというのだ
  夏の真昼の、動かぬ雲よ

動かぬ雲もいちじくの葉も
僕をどうしようというのだろう

鳴いている蝉も
照り返す屋根も
僕の血に沁み、
こらえることが出来ない

燃える血よ
僕をどうしようというのだ

感じて感じて感じて感じて
それだけで死んでゆけばよいとでも言うのか

 *
 燃える血

  1

ふくらはぎを眺めながら
燃える血のことを思つた。
雨の霽(は)れ間(ま)をオルガンは
鳴つてゐる。

ふくらはぎを眺めながら
僕はたらちねのことを思つた。
雨の霽れ間をオルガンは
鳴つてゐる。

ああ、おもひ出すおもひ出す、
小学校のころのこと……
小学校のかへりみち……
雑嚢(ざつのう)はほんに重かつた!

雨の霽れ間をオルガンは、
僕を何処(どこ)まで追つかける。オルガンは
雨を含んだ風にのり
小さな僕の耳に泣く。

何時(いつ)でも何時でも僕の血は
燃えてゐた。友達よ、
君と話してゐるひまも、僕の血は
あんまり燃えて困るのだ。

血はあんまり燃え、そのことは
僕にあつては一つの事象だ。
君と話してゐる時も、だから話と血の燃焼、
僕は二つの事象にかかはつてゐる。

友達よ、もし僕の目付が悪いとしても、
そのせゐだ。燃ゆる血は、
何時も空中に音を探し、すがすがしさをせちにもとめ、

心の労作(らうさ)のそのまへに、まづ燃える血を
鎮(しず)めなければならぬのだ、何時も何時も……
それゆゑ自然は懐しく、人の虚栄は眩(まぶ)しいばかり……
                (一九三三・八・二一)

燃ゆる血よ、僕をどうしようといふのだ?
    夏の真昼の、動かぬ雲よ……

動かぬ雲も無花果(いちじく)の葉も、
僕をどうしようといふのだらう?

鳴いてゐる蝉も、照りかへす屋根も、
僕の血に沁(し)み、堪えざらしめる。

燃ゆる血よ、僕をどうしようといふのだ?
感じ感じて、それだけで死んでゆけばよいといふのか?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<13>夏過(あ)けて、友よ、秋とはなりました

「夏過(あ)けて、友よ、秋とはなりました」は、
「夏(なんの楽しみもないのみならず)」から
1週間後(8月21日)に
「燃える血」
「夏の記臆」とともに作られました

8月初旬が立秋ですから
暦の上ではとうに秋ですし
「虫の声」
「怨恨」
「怠惰」
「夏(なんの楽しみもないのみならず)」の
4作が作られたのも
すべて暦上の秋ではありますが……

8月21日ともなると、
秋は目に見えて秋らしくなり
初旬の
「目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」の
かすかな秋の気配とは
いちだんと異なってきて
実感的に秋めきます

行く夏を惜しむ感情が
詩人にも抱かれたのでしょうか
一夏の経験を
語る物語の詩が
まず作られ
思い出は少年時代に飛び
また近い夏へと戻ります

3篇続く思い出の歌の
一番目、

ねえ、聞いてくれる?
僕が、この夏、どこにいたか――

僕は、島にいたんだ、小さな漁村だった
そこで、
散歩したり、
舟に乗って酒を飲んだり、
たくさんの詩を読んだり、
何にも煩わされない時間を過ごしたよ

この夏
詩人がどこかの島へ行ったという
記録は残されていません
島は
架空の
外界から孤絶した場所を示し
特定のどこそこでなくてよく
どこであってもいいのです

全般に充実した時だったけど
時には、ひどく退屈し、
無性に君たちと会いたくなったよ
でも
君たちとの長々しい会合、
だらだらとした終わりのない会合、
飲みたくもないのに飲み、
話したくもないのに話さなければならない辛さを思い出し、
やっぱり
会わなくていいんだと
僕は僕の脆弱な気持ちをなだめすかして
押え込んでいたのさ

そんな時には勉強できなかった
散歩もできなかった
酒場に出かけた
青と赤のまざったけばけばしい酒場で
ジンをあおって
しまいには悪酔いして
テーブルにうつぶしてしまった

ある夜には
浜辺で舟にもたれて
波間に輝いている月を見た
遠くのほうの空が凄まじく(美しく)
舟のそばでは虫が鳴いていた

僕は思いっきりのんびりと
夢をみていた
その時の波の音がまだ耳に残っているよ

(ここで1節は終わり、現在に時制転換します)

暗い庭で虫が鳴き、
雨まじりの風が吹いている
僕は書斎にいます
またここへ帰ってきた

靄に乗って
死者が
地平のほうから書斎の窓の下まで来て
ああ、かわいそうに
顔を合わせるのを恥ずかしがっているように思える
死者たちは、
いったいどうしてしまったのだろうか

過ぎた夏よ
島の夜々よ
お前は、一種、血みどろの思い出
でも、すがすがしく懐かしい思い出
印象に残るのに、
ほんとうにあったのかと、疑いたくなるような思い出
分かっていながら、
いまさらのように、
ああ、やはり、本当のことだったのだと
あらためて驚くような思い出

 *
 夏過(あ)けて、友よ、秋とはなりました

友達よ、僕が何処にゐたか知つてゐるか?
僕は島にゐた、島の小さな漁村にゐた。
其処(そこ)で僕は散歩をしたり、舟で酒を呑んだりしてゐた。
又沢山の詩も読んだ、何にも煩(わずら)はされないで。

時に僕はひどく退屈した、君達に会ひたかつた。
しかし君達との長々しい会合、その終りにはだれる会合、
飲みたくない酒を飲み、話したくないことを話す辛さを思ひ出して
僕は僕の惰弱な心を、ともかくもなんとか制(おさ)へてゐた。

それにしてもそんな時には勉強は出来なかつた、散歩も出来なかつた。
僕は酒場に出掛けた、青と赤との濁つた酒場で、
僕はジンを呑んで、しまひにはテーブルに俯伏(うつぶ)してゐた。

或る夜は浜辺で舟に凭(すが)つて、波に閃(きら)めく月を見てゐた。
遠くの方の物凄い空。舟の傍では虫が鳴いてゐた。
思ひきりのんびり夢をみてゐた。浪の音がまだ耳に残つてゐる。

暗い庭で虫が鳴いてゐる、雨気を含んだ風が吹いてゐる。
茲(ここ)は僕の書斎だ、僕はまた帰つて来てゐる。
島の夜が思ひ出される、いつたいどうしたものか夏の旅は、
死者の思ひ出のやうに心に沁(し)みる、毎年々々、

秋が来て、今夜のやうに虫の鳴く夜は、
靄(もや)に乗つて、死人は、地平の方から僕の窓の下まで来て、
不憫(ふびん)にも、顔を合はすことを羞(はず)かしがってゐるやうに思へてならぬ。
それにしても、死んだ者達は、あれはいつたいどうしたのだらうか?

過ぎし夏よ、島の夜々よ、おまへは一種の血みどろな思ひ出、
それなのにそれはまた、すがすがしい懐かしい思ひ出、
印象は深く、それなのに実際なのかと、疑つてみたくなるやうな思ひ出、
わかつてゐるのに今更のやうに、ほんとだつたと驚く思ひ出!……
                 (一九三三・八・二一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<12>夏(なんの楽しみもないのみならず)

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「夏(なんの楽しみもないのみならず)」は、
「虫の声」
「怨恨」
「怠惰」
の3篇と、
書かれた原稿用紙
筆記具
インク
筆跡が同じものと考証されている作品。

制作日だけみると、
「虫の声」、8月9日
「怨恨」、8月9日
「怠惰」、8月10日
「夏」、8月15日と
1週間足らずで
4篇作ったことになります

「夏」は、
「怠惰」の終わりの、
僕は寝ころびたいのだよ、
とか
目をつむつて蝉が聞いてゐたい!――森の方……
につらなる
「倦怠の旋律」が歌われ

冒頭の、
なんの楽しみもないのみならず
悲しく懶い(ものうい)日は日毎続いた。
日を転ずれば照り返す屋根、
木々の葉はギラギラしてゐた。

は、「山羊の歌」の中の
「少年時」の終わり、

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……

に、ワープしたかのような
既視感(デジャブ)を覚えるフレーズです
しかし、それはつかの間、

噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!

と、命の燃焼が歌われたのとは違って
このような夏が繰り返され
いま

心は海に、帆をみることがなかつた。
漁師町の物の臭(にお)いと油紙(あぶらがみ)と、
終日陽を受ける崖とは私のものであつた。

の状態であり、

可愛い少女の絨毛(わくげ)だの、パラソルだの、
すべて綺麗でサラサラとしたものが、
もし私の目の前を通り過ぎたにせよ、そのために
私の眼が美しく光つたかどうかは甚だ(はなはだ)疑はしい。

という、感動のない日々なのです

夕方までには浜には着かうこの小舟。
という、安泰の日々は

偶々(たまたま)に、過ぎゆく汽船の甲板からは
たまたま通りがかった汽船の甲板から見ると

ちっちゃな風呂敷包みが
ころがっているようで
面白そうなのです
それで
あきずに眺めているわけなのです

風よ
願わくば
吹いておくれよ
風よ吹け

詩人は
安泰を怖れ
風の族(カゼノヤカラ)を
待望している様子です

 *
 夏

なんの楽しみもないのみならず
悲しく懶い(ものうい)日は日毎続いた。
目を転ずれば照り返す屋根、
木々の葉はギラギラしてゐた。

雲はとほく、ゴボゴボと泡立つて重なり、
地平の上に、押詰つてゐた。
海のあるのは、その雲の方だらうと思へば
いぢくねた憧れが又一寸(ちよつと)擡頭(たいとう)する真似をした。

このやうな夏が何年も何年も続いた。
心は海に、帆をみることがなかつた。
漁師町の物の臭(にお)いと油紙(あぶらがみ)と、
終日陽を受ける崖とは私のものであつた。
可愛い少女の絨毛(わくげ)だの、パラソルだの、
すべて綺麗でサラサラとしたものが、
もし私の目の前を通り過ぎたにせよ、そのために
私の眼が美しく光つたかどうかは甚だ(はなはだ)疑はしい。

――今は天気もわるくはないし、暴風の来る気配も見えぬ、
よつぽど突発的な何事かの起らぬ限り、
だから夕方までには浜には着かうこの小舟。
天心に陽は熾り(さかり)、櫓の軋(きし)る音、鈍い音。
偶々(たまたま)に、過ぎゆく汽船の甲板からは
私の舟にころがつたたつた一つの風呂敷包みを、
さも面白さうに眺めてござる
エー、眺めてゐるではないかいな。

     波々や波の眼(まなこ)や、此の櫂や
     遠(をち)に重なる雲と雲、
     忽然(こつぜん)と吹く風の族、
     エー、風の族、風の族
          (一九三三・八・一五)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年4月29日 (木)

草稿詩篇1933―1936<11>蝉

「蝉」は
「怠惰」を歌って4日後の
1933年8月14日の制作。

蝉が鳴いているのは
「怠惰」と変らないが
第2連の僕と彼の会話は
死んだ弟のことで
1915年に死んだ亜郎か
2年前に死んだ恰三か

第3連の水無河原は
郷里山口の吉敷川(よしきがわ)のことで
「在りし日の歌」の「一つのメルヘン」の
舞台として有名です

同じ連の最終行
チラチラ夕陽も射してゐるだろ……
は、「一つのメルヘン」の
「それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました」を
連想させます

蝉が鳴く遅い午後
うつらうつら
僕は
松林の向こうに空が透けて見えるところで
まどろみに入り
夢を見ます

弟が出てきて
そうじゃないそうじゃない、と言うので
僕は、
違うよちがうよ、と応じます

詩人は
はっとして目覚めて
夢と知り
墓場のことなどに
思いを馳せるのです

あの水無川の河原のそばの
先祖代々の墓は
どうなっているだろう
あそこでも蝉は鳴いているだろう
チラチラと夕陽が射しているだろう

その思いをさえぎるかのように
蝉はいよいよかしましく鳴き
蝉の声以外は何にもない世界
蝉時雨(せみしぐれ)です

僕は
そうして蝉の声の中で
僕の怠惰と向かい合います

怠惰か
怠惰か
随分と親しくしてきたよな!
怠惰よ

僕は
怠惰ゆえに
僕を何とも思わない
思わないぞ

ああ
それにしても
蝉が鳴いている
蝉の声のほか何にもない

 *
 蝉

蝉が鳴いてゐる、蝉が鳴いてゐる
蝉が鳴いてゐるほかになんにもない!
うつらうつらと僕はする
……風もある……
松林を透いて空が見える
うつらうつらと僕はする。

『いいや、さうぢやない、さうぢやない!』と彼が云ふ
『ちがつてゐるよ』と僕がいふ
『いいや、いいや!』と彼が云ふ
「ちがつてゐるよ』と僕が云ふ
と、目が覚める、と、彼はもうとつくに死んだ奴なんだ
それから彼の永眠してゐる、墓場のことなぞ目に浮ぶ……

それは中国のとある田舎の、水無河原(みづなしがはら)といふ
雨の日のほか水のない
伝説付の川のほとり、
藪蔭の砂土帯の小さな墓場、
――そこにも蝉は鳴いてゐるだろ
チラチラ夕陽も射してゐるだろ……

蝉が鳴いてゐる、蝉が鳴いてゐる
蝉が鳴いてゐるほかなんにもない!
僕の怠惰? 僕は『怠惰』か?
僕は僕を何とも思はぬ!
蝉が鳴いてゐる、蝉が鳴いてゐる
蝉が鳴いてゐるほかなんにもない!
       (一九三三・八・一四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<10>怠惰

1933年(昭和8年)11月はじめ、
中原中也は
郷里山口に帰省、
家族に薦められた見合いにのぞみ
遠縁にあたる上野孝子と結婚します

「怠惰」は、
同年8月10日に制作されましたが、
第3連
叔父さんは僕にいふのだ
「早く持つたほうがいいぜ、
独り者が碌(ろく)なことを考へはせぬ。」
と、あるように、
見合いの話はこの夏以前からあり、
詩人は心の中で
決めていたのかもしれません

夏の帰省中に歌われたのでしょうか
夏の朝

照りつける太陽
燃える空

誰もいない海
光る海

……

東京とは異なる
風景の広がりがある
おおらかな自然の中で
しきりに蝉の声がしていますが
先ほどから
詩人の耳に残るのは
叔父さんの言葉でした

俺も所帯を持つ時期かな
まだ早かろう
詩が書けなくなりはしないか
いや
暮しの中でだって詩は書ける
いや
いや
……

俺は
まだ怠惰から逃れられない
怠惰にケリをつけていないし
……

夏の朝よ
蝉よ
海よ

俺は
まだ
寝ころんでいたいのだよ
怠惰が抜けないのだよ
目をつむって一人
蝉の声を聞いていたいのだよ

森の方……

何か
言い残して
詩は終わります

海でも空でも太陽でもなく
森の方……
と言い残して

 *
 怠惰

夏の朝よ、蝉よ、
砂に照りつける陽よ……
燃えてゐる空よ!

今日は誰も泳いでゐない、
赤痢患者でもあつたんだらう?
海は空しく光つてゐる。――風よ……

叔父さんは僕にいふのだ
「早く持つたほうがいいぜ、
独り者が碌(ろく)なことを考へはせぬ。」

それどころか、……夏の朝よ、蝉よ、
むかふにみえる、海よ、
僕は寝ころびたいのだよ、

目をつむつて蝉が聞いてゐたい!――森の方……
         (一九三三・八・一〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年4月27日 (火)

草稿詩篇1933―1936<9>怨恨

009

「怨恨」は
「虫の声」と同日の日付(1933.9.8)をもつ作品ですが、

僕は奴の欺瞞に腹を立ててゐる
とはじまる措辞(そじ)には、
珍しく、

イロニーも
ポエジーも
抑制も
韜晦(とうかい)も
機知も
ユーモアも
……

何にもありません
単調です

中に登場する「奴」については、
角川の新全集編集が
「誰であるかは特定できない」としながら、
大岡昇平の
「小林秀雄あるいは河上徹太郎への怨恨」
という解釈を紹介していますから、
そうなのか、と思う人は
少なくないはずです

しかし
果たして
そうなのでしょうか

1933年の、
この時期に、
なぜ、また、
小林秀雄または河上徹太郎への怨恨が
吐露(とろ)されなければならなかったのか
疑問が残ります

ここのところは
いつか
大岡全集にあたって調べるつもりですが
「奴」の詮索に
それほどの意味があるとは思えませんから
やはり
この詩の味わい、読みに
ここでは集中しますと……

こういうヤツって
よくみかけますよね

人間ですから
悪いヤツって存在しますよ

こういう悪と
闘うのが詩人でもありますから
この詩には
技(わざ)がなさ過ぎて
珍しく
失敗作ですが……

ふと、
それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。
(修羅街輓歌)

要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
(憔悴)

と歌った詩人が
ここにきて
この日この時
この詩を作っている時
余裕を無くしている!
と考えてみましたが
どうでしょう?

 *
 怨恨

僕は奴の欺瞞に腹を立ててゐる
奴の馬鹿を奴より一層馬鹿者の前に匿(かく)すために、
奴が陰に日向に僕を抑へてゐるのは恕(ゆる)せぬ。
そのために僕の全生活は乏しくなつてゐる。

嘗(かつ)て僕は奴をかばつてさへゐた。
奴はただ奴の老婆心の中で、勝手に僕の正直を怖れることから、
僕の生活を抑え、僕にかくれて愛相をふりまき、
御都合なことをしてやがる

近頃では世間も奴にすつかり瞞(だま)され、
奴を見上げるそのひまに、
奴は同類を子飼ひ育てる。

その同類の悪口を、奴一人の時に僕がいふと、
奴はどうだ、僕に従つて其奴(そやつ)等の悪口をいふ。
なんといやらしい奴だらう、奴を僕は恕してはおけぬ。
                  (一九三三・八・九)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)也全詩集」より)

 

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草稿詩篇1933―1936<8>虫の声

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季節はめぐり
夏が訪れ
庭から虫の声が聞こえてきます
春の訪れを喜んだばかりだったのに……

中原中也は
春夏秋冬を
日記に記すかのように
詩に歌う名人です

とはいえ
自然が賛美されるだけに止まらないのも
中原中也の詩の特徴で
ここでは
幽霊が登場します

おや、今夜は、もう虫の音が聞こえる
と、耳を澄ますと
一匹あそこで鳴きやめば
こんどはこっちで鳴きはじめ
あっちでもこっちでも
鳴いているのか
と、怪しげな気持になっていると

幽霊が
ニコニコして
庭の中に
立ち現れます

見れば
慈愛深そうな
年のいった女の幽霊です

風がひと吹きして
幽霊は消えます

また
虫の音が
野原のほうから
聞こえてきます

「月夜とポプラ」にも
幽霊が登場しますし
ほかにも
幽霊のようなものが
登場する詩があります

虫の音も
単に、
コオロギや松虫が鳴くのを
歌っているのではない場合がほとんどです

死んでしまった祖先や兄弟や
死者たちの化身ででもあるかのように
虫は現れ
鳴きます

前年9月に祖母スエが死去
前々年9月に弟・恰三が死去
弟・亜郎は4歳で1915年に死去、中也8歳
祖父政熊は1921年、中也14歳のときに死去
父・謙助は1928年、中也21歳のときに死去
……

死者たちと
交流していたかのように
虫の声を聞く詩人です

 *
 虫の声

夜が更けて、
一つの虫の声がある。

それはたしかに庭で鳴いたのだが、
鳴き了(おわ)るや、それは彼処(かしこ)野原で鳴いたやうにもおもはれる。

此処(ここ)と思ひ、彼処と思ひ、
あやしげな思ひに抱かれてゐると、

此処、庭の中からにこにことして、幽霊は立ち現はれる。
よくみれば、慈しみぶかい年増婦(としま)の幽霊。

一陣の風は窓に起り、
幽霊は去る。

虫が鳴くのは、
彼処の野でだ。
          (一九三三・八・九)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<7> (宵の銀座は花束捧げ)

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三原山の自殺者を歌った
1933年の2月から4月末に比べて
詩人を取り巻く状況に
変化があったのか
なかったのか、

(宵の銀座は花束捧げ)は
6月末の制作と推定されていますが
リズムを感じさせる作品になりました

リズムというより
道化調を
感じるべきなのかもしれません

2009年5月15日付けで
すでに読み
その時は、

中也26歳。
元気な詩人です。
花の銀座を歌っています。
珍しく、
屈託の一つもなく
イロニーもなく
東京市民であることの誇りを
一途(いちず)に歌う詩人がいます。

と、記しましたが、
今、少し異なる見え方がします

ラアラアラアと
へし曲がってしまった
シャツの襟を直そうともせずに
繁華街をがなり歩く
サラリーマンの一行
……

「都会の夏の夜」の風景の
サラリーマンこそいないけれど
銀座の街を行く人々に
何か誇りの、何かある
なんともいえない嬉しさの秘密……

なんだかわからないけど
生きている喜びのようなもの

東京祭りで
うかれ
はしゃぎ
踊り
歌う
そして
やがては
ものみな沈黙する
おもしろうて
やがて
かなしき
ひとのいのちの
おまつりに

花束捧げて
東京祭り

 *
 (宵の銀座は花束捧げ)

宵の銀座は花束捧げ、
  舞ふて踊つて踊つて舞ふて、
我等東京市民の上に、
  今日は嬉しい東京祭り

今宵銀座のこの人混みを
  わけ往く心と心と心
我等東京住まひの身には、
  何か誇りの、何かある。

心一つに、心と心
  寄つて離れて離れて寄つて、
今宵銀座のこのどよもしの
  ネオンライトもさんざめく

ネオンライトもさざめき笑へば、
  人のぞめきもひときはつのる
宵の銀座は花束捧げ、
  今日は嬉しい東京祭り

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

草稿詩篇1933―1936<6>(とにもかくにも春である)

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(とにもかくにも春である)は
4節で構成される力のこもった作品で
詩の冒頭、第1節には
「此の年、三原山に、自殺する者多かりき。」という
エピグラフが置かれています

「草稿詩篇(1933年―1936年)」の
2番目にある「小唄」で、
三原山の自殺を歌ったのは
1933年2月17日で、
2か月少し経っているだけですから
詩人の関心は4月になっても
持続していたということになります

第2節のエピグラフは
「パツパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウハバミカー
キシヤヨ、キシヤヨ、アーレアノイセイ」

第3節はエピグラフがなく
第4節は、
「おゝ、父無し児、父無し児」が
それぞれ付されていて
各節は▲で区切られている作品です

旧全集編集では
(形式整美のかの夢や)
(風が吹く、冷たい風は)と
一体の作品と考えられていましたが、

いいだもも宅から発見された草稿や
安原喜弘宛の書簡(1933年4月25日付)に
同封された本篇などを
再考証した結果、
それぞれ独立した作品として
扱われることになりました

第1節で
三原山の自殺のニュースを
エピグラフとするスタンスは
第2節以降
三原山から離れているように見えながらも
堅持されます

第4節のエピグラフ
「おゝ、父無し児、父無し児」は、
詩人の視線が
自殺者が残したものへと向かい
やがて
残された者に成り代わって
詩人は歌いはじめるものだ、と
その瞬間を歌い
その経緯を歌い
詩人としての決意が表明されているかのように
読み取れなくもないのですが……

決意の表明にしては
その口調は
沈鬱(ちんうつ)であり
元気がありません

 *
(とにもかくにも春である)

         ▲

                此の年、三原山に、自殺する者多かりき。

 とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチヤンポンである。花曇りの空は、その上にひろがつて、何もかも、睡がつてゐる。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙つて春を迎へてゐる。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞つておいた春外套の男も、黙つて春を迎へ、春が春の方で勝手にやつて来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いやうな口付をして、吊帯にぶる下つてゐる。薔薇色(ばらいろ)の埃りの中に、車室の中に、春は来、睡つてゐる。乾(ひ)からびはてた、羨望(せんぼう)のやうに、春は澱(よど)んでゐる。

        ▲

        パツパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウハバミカー
        キシヤヨ、キシヤヨ、アーレアノイセイ

十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出してゐる燈光(ひかり)はあれはまるで涙ぢやないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑つてゐるが

旅といふ、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なほ子供のやうにはしやぎ
嬉しいほどのあはれをさへ感ずるのだが、

めづらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎の一と山ででもあるやうに、
ゆるやかに重さうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、

淋しい夜(よる)の山の麓、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであつたらうか、幻ではなかつたらうか。

        ▲

闇に梟(ふくろう)が鳴くといふことも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食ひ
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおなしやうなことなんだ
秋の夜、
僕は橋の上に行つて梨を囓(かじ)つた
夜の風が
歯茎にあたるのをこころよいことに思つて

寒かつた、
シャツの襟(えり)は垢(あか)じんでゐた
寒かつた、
月は河波に砕けてゐた

        ▲

        おゝ、父無し児、父無し児
 雨が降りさうで、風が凪(な)ぎ、風が出て、障子が音を立て、大工達の働いてゐる物音が遠くに聞こえ、夕闇は迫りつつあつた。この寒天状の澱んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌(いま)はしいものに思はれた。
 落雁を法事の引物にするといふ習慣をうべなひ、権柄的気六ヶ敷(けんぺいてききむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れてゐたコスモスのやうに思ひ出し、やがて忘れ、電燈をともさず一切構はず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺れペンはくづをれ、黄昏(たそがれ)に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれてゐた。
 風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いぢらしくも怨めしいものであつた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<5> (風が吹く、冷たい風は)

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(風が吹く、冷たい風は)は、
旧全集では
(形式整美のかの夢や)と
(とにもかくにも春である)との間にあり
この3篇が一体の作品であると考えられていましたが
新全集編集以来、
3篇はそれぞれ独立した作品と
見做されるようになりました

とはいうものの
この詩が
(とにもかくにも春である)の第2節へと
改稿されていったことが容易に推測され、
3篇は無関係に別個の作品ではありません

(とにもかくにも春である)の第2節は、
以下の通りです

        パツパ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウハバミカー
        キシヤヨ、キシヤヨ、アーレアノイセイ

十一時十五分、下関行終列車
窓から流れ出してゐる燈光(ひかり)はあれはまるで涙ぢやないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑つてゐるが

旅といふ、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を劃(かく)するものを
人は喜び、大人なほ子供のやうにはしやぎ
嬉しいほどのあはれをさへ感ずるのだが、

めづらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎の一と山ででもあるやうに、
ゆるやかに重さうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、

淋しい夜(よる)の山の麓、長い鉄橋を過ぎた後に、
――来る曙は胸に沁(し)み、眺に沁みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであつたらうか、幻ではなかつたらうか。

(風が吹く、冷たい風は)が、
1933年4月25日付け安原喜弘宛の書簡に
「つまらない詩を同封します」と記され
添付された詩が
(とにもかくにも春である)であり
だから、
この前日の1933年(昭和8年)4月24日に
制作されたと推定されているのです

詩人は
同年3月21日に山口に帰省し
4月6日の夜、
東京に戻っています

第2連
僕の希望も悔恨も
もう此処(ここ)までは従(つ)いて来ぬ

には、「戦士の休暇」を思わせる安堵感が現れ
東京は「戦場」であり
その戦場を離れた戦士が
昨日の東京駅の雑踏を思い返して
昨日は何をしたらうか日々何をしてゐたらうか
皆目僕は知りはせぬ

と、一種、ふて腐れた感じで
無関係を装っている節があります

やがては戻る東京ですが
この時
一瞬でも忘れていたい気持ちがあったことは間違いなく
希望も悔恨も
いっしょくたになくなって
胸平板のうれしさよ
とまで、詩人に言わせたのでした

 *
 (風が吹く、冷たい風は)

      ▲
風が吹く、冷たい風は
窓の硝子(ガラス)に蒸気を凍りつかせ
それを透かせてぼんやりと
遠くの山が見えまする汽車の朝

僕の希望も悔恨も
もう此処(ここ)までは従(つ)いて来ぬ
僕は手ぶらで走りゆく
胸平板のうれしさよ

昨日は何をしたらうか日々何をしてゐたらうか
皆目僕は知りはせぬ
胸平板のうれしさよ

(汽車が小さな駅に着いて、散水車がチヨコナンとあることは、小倉服の駅員が寒さうであることは、
幻燈風景
七里結界に係累はないんだ)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年4月26日 (月)

草稿詩篇1933―1936<4>(形式整美のかの夢や) 高橋新吉に

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(形式整美のかの夢や)は、
はじめ、というのは、
旧全集編集までという意味ですが、
(風が吹く、冷たい風は)、
(とにもかくにも春である)を含んだ
一つの作品と考えられていましたが、
新全集編集で再検討された結果
これら3作品は
それぞれ独立した詩篇に見做されることになりました

1933年という年に
ダダイスト高橋新吉への献呈詩を
なぜ書くことになったのか

(形式整美のかの夢や)にたどり着いた読者は
懐かしい人に巡り合ったような
感慨をいだくとともに
小さな疑問をもつことになるかもしれません

なにしろ
詩人が「詩的履歴書」に

大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。

と記した大正12年(1923年)から
10年という月日が流れています

そこで
1933年の日記を読んでみようとしましたが
この年の日記はなく(発見されていない?)
この頃に出した
親友・安原喜弘宛の葉書(3月22日付け)に
こんなのがありました

東京市目黒区下目黒四丁目八四二 安原喜弘様
山口市湯田 中原中也 二十二日

二十一日 無事帰り着きました 当地はまだ冷たい風が吹きすさんでゐます 山の梢ばかりが目に入るといふふうです
奈良には二泊しました
  鹿がゐるといふことは
  鹿がゐないといふことではない
  奈良の昼
           と日記に書きました
                      怱々

鹿がゐるといふことは
鹿がゐないといふことではない

とは、アフォリズムか何かのつもりでしょうか
いや、そんなことはどうでもよく
ここにポエジーというものがすでにある、という
そのわけが分かればOKなのですが……

在るということは
無いということではない、
などと同じく
初期数学の定理の説明のような
あるいは
論理学の初歩の公式のような
「遊びの世界」が
感じられます

つまり
ダダが感じられます

この葉書の
約1か月後に
(形式整美のかの夢や)は作られました

形式整美とは
ダダが目指した形なき形か
破壊し破壊し尽くしたところに
新たな美を打ちたてようとした運動の目標のことか

その夢は
もはや地に落ちて
私は今、険しい山の道を行く
土は硬く
風は寒い
……

しかし
そう心配することでもないよ
自然が私の味方だ
血は自ずと不可思議の歌を奏でる
歌は廃(すた)れることはない
……

新吉へ
エールを送る
詩人の姿が
浮んできます

 *
 (形式整美のかの夢や)
       ▲
            高橋新吉に

形式整美のかの夢や
羅馬(ローマ)の夢はや地に落ちて、
我今日し立つ嶢角(ぎようかく)の
土硬くして風寒み

希望ははやも空遠く
のがるる姿我は見ず
脛(はぎ)は荒るるにまかせたる
我や白衣の巡礼と

身は風にひらめく幟(のぼり)とも
長き路上にをどりいで
自然を友に安心立命
血は不可思議の歌をかなづる
     (一九三三・四・二四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年4月25日 (日)

草稿詩篇1933―1936<3>早春散歩

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空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
とはじまる「早春散歩」は、
冬が去り
ようやく春めいた季節の
ある晴れた日の昼下がりか
強い風が
心待ちにしていた春の訪れを喜ぶ気持ちを
薄絹かハンカチかを吹き散らすかのように
こっぱみじんにして吹いている

早春の情景を描いているようで
すでに
詩人の抱いている感懐を
1行でほのめかします

私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
と、ほんとうのところは
いろいろな出来事を経験した詩人なのに
何ものもなかったかのように
風の中を
吹き過ぎていく

詩人が吹き過ぎていく! のです

異国人の眼差しして
確固として
隙間風にさえ吹かれて消えてしまうもののように

春なのに
詩人の心を淋しくするものは消えやらず
今年も春を迎えて
ゆるやかに
春が訪れたのだということを
土手を歩きながら
遠くの空を眺めながら
ぼくは思い
そう思うことにも慣れてしまって
ぼくは……

特定の何それという事象を超えて
春先の「ものうい感情」が伝わってきますが
弟の死を歌った
「死別の翌日」の呼吸や声調が流れ込んでいる
と読み取る
詩人中村稔のような評者もいます

 *
 早春散歩

空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
春、早春は心なびかせ、
それがまるで薄絹ででもあるやうに
ハンケチででもあるやうに
我等の心を引千切り
きれぎれにして風に散らせる

私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
少なくとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
風の中を吹き過ぎる
異国人のやうな眼眸(まなざし)をして、
確固たるものの如く、
また隙間風にも消え去るものの如く

さうしてこの淋しい心を抱いて、
今年もまた春を迎へるものであることを
ゆるやかにも、茲に春は立返つたのであることを
土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

草稿詩篇1933―1936<2>小唄

「草稿詩篇」(1933年―1936年)の
2番目にある作品「小唄」は
1933年2月17日制作の日付が
末尾にあります

1936年(昭和11年)制作(推定)の
「小唄二篇」の第2節に
そのまま生かされる詩です
つまり、一次形態です

この詩を作ってまもなくの
1933年(昭和8年)4月末に制作(推定)した
(とにもかくにも春である)のエピグラフに
「此の年、三原山に、自殺する者多かりき」とあり、
三原山火口での自殺を
新聞などのニュースで
詩人は聞き知っていたことが想像されます

2月の
雪の降った日の翌朝に
詩人は寝床の中で
ぼんやりと
タバコをふかしながら
三原山を思います

もくもくと
立ちのぼる煙……

行ったことはないけれど
僕は知っている

もくもくと
立ちのぼる煙は……

あれは……

詩人は、
煙が
単なる火山の煙には
思えませんでした

あれは……

 *
 小唄

僕は知つてる煙(けむ)が立つ
 三原山には煙が立つ

行つてみたではないけれど
 雪降り積つた朝(あした)には

寝床の中で呆然(ぼうぜん)と
 煙草くゆらせ僕思ふ

三原山には煙が立つ
 三原山には煙が立つ

      (一九三三.二.一七)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年4月24日 (土)

草稿詩篇1933―1936<1>(あゝわれは おぼれたるかな)

(あゝわれは おぼれたるかな)は
未定稿ですから
タイトルも仮のもので
連の構成も未完成と推定されていて
2連の詩として表記されることになっています
(角川版全集編集委員会)

いずれは
4-4-3-3のソネットへ
作り上げられる予定であったことが推定されるものの
断言はできず
2連の詩と見做されているのです

この詩は
「朝の歌」の第3次形態が記された
原稿用紙の裏に
鉛筆で書かれているということですから
俄(にわ)かに
第一詩集「山羊の歌」に占める
「朝の歌」という作品、
いや、
中原中也という詩人の詩業に占める
「朝の歌」という作品の大きさに思い致し
その草稿の裏に書かれ詩なのだ
ということに
襟をたださずにはいられません

襟をたださなくとも
おやっと、目を向けざるを得ません

「朝の歌」は
第3次形態に
わずかの修正を加えただけで
印刷用の草稿に書き直され
「山羊の歌」に収録されました(第4次形態)

その、第3次形態の「朝の歌」」が書かれた
原稿用紙の裏に
(あゝわれは おぼれたるかな)は書かれた

ということは
「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くために、こんな手数がかかるのではとガツカリす」(詩的履歴書)

と後に、詩人が回想した
「詩を作る苦闘」の
陽の目を見た「朝の歌」と
陽の目を見なかった(あゝわれは おぼれたるかな)
というとらえ方ができるという意味で
興味深いのです

(あゝわれは おぼれたるかな)は
14行の詩、ソネットへの途中で
詩人がいったん放棄した詩ということになります

「朝の歌」は自他ともに認める作品になりましたが
その陰に
陽の目を見なかった
(あゝわれは おぼれたるかな)という作品があります

陽の目を見なかった作品が
このように
未発表詩篇には
犇(ひしめ)いています

 *
 (あゝわれは おぼれたるかな)

あゝわれは おぼれたるかな
  物音は しづみゆきて
燈火(ともしび)は いよ明るくて
あゝわれは おぼれたるかな

母上よ 涙ぬぐひてよ
  朝(あした)には 生みのなやみに
けなげなる小馬の鼻翼
紫の雲の色して
たからかに希(ねが)ひはすれど
たからかに希ひはすれど
轣轆(れきろく)と轎(くるま)ねりきて
――――――――――――
澄みにける羊は瞳
瞼(まぶた)もて暗きにゐるよ
  ――――――――――――

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年4月23日 (金)

未発表詩篇について<2>草稿詩篇1933―1936

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「草稿詩篇」(1933年―1936年)には
65もの詩篇が集められています
1933年は中也26歳の年
1936年は29歳の年

1933年は、
「山羊の歌」が未だ刊行できず
苦しい状態でありながらも
「紀元」「半仙戯」「四季」などに
詩やフランス詩の翻訳を発表、
年末には結婚し
後に「青山学院」と呼ばれるようになる
新宿・四谷の花園アパートに新居を構えるなど
転機が訪れた年です

1934年は
長男・文也が誕生し
「山羊の歌」が
ようやく出版された年

1935年は、
文也の成長に喜びを感じる日々のなか
「四季」「日本歌人」「文学界」「歴程」などに
詩・翻訳などを盛んに発表、
若き詩人・高森文夫との交友もはじめました

1936年は、
引き続き「四季」「文学界」「紀元」などへ発表
詩人としての評価が高まりつつありました
……
しかし、この年の11月、
長男・文也が急逝します
直後の12月には
次男・愛雅(よしまさ)が誕生しますが……

制作年別(推定)に
「草稿詩篇」(1933年―1936年)の
全65作品のタイトルを見ておきます

■1933年(昭和8年)

(あゝわれは おぼれたるかな)
小唄
早春散歩
(形式整美のかの夢や)
(風が吹く、冷たい風は)
(とにもかくにも春である)
(宵の銀座は花束捧げ)
虫の声
怨恨
怠惰

夏(なんの楽しみもないのみならず)
夏過(あ)けて、友よ、秋とはなりました
燃える血
夏の記臆
童謡
京浜街道にて
いちぢくの葉(夏の午前よ、いちぢくの葉よ)
(小川が青く光つてゐるのは)
朝(かがやかしい朝よ)
朝(雀が鳴いてゐる)

■1934年(昭和9年)

玩具の歌
昏睡
夜明け
朝(雀の声が鳴きました)
狂気の手紙
詠嘆調
秋岸清凉居士
月下の告白
別離
悲しい歌
(海は、お天気の日には)
(お天気の日の海の沖では)
野卑時代
星とピエロ
誘蛾燈詠歌
(なんにも書かなかつたら)

■1935年(昭和10年)

(一本の藁は畦の枯草の間に挟つて)
坊や
僕が知る
(おまへが花のように)
初恋集
 すずえ
 むつよ
 終歌
月夜とポプラ
僕と吹雪
不気味な悲鳴
十二月(しはす)の幻想
大島行葵丸にて
春の消息
吾子(あこ)よ吾子(あこ)
桑名の駅
龍巻
山上のひととき
四行詩(山に登つて風に吹かれた)
(秋が来た)
曇つた秋
夜半の風

砂漠

■1936年(昭和11年)

一夜分の歴史
小唄二篇
断片
暗い公園
夏の夜の博覧会はかなしからずや

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年4月21日 (水)

未発表詩篇について

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「早大ノート」
「草稿詩篇(1931―1932年)」
「療養日誌・千葉寺雑記」を
読み終えたところで、
「未発表詩篇」について
整理しておきましょう

中原中也の詩作品は、
なんらかの形で公開されたり
作品として発表されたりしたもののうち、
詩人自らが編集した
「山羊の歌」(第一詩集)
「在りし日の歌」(第二詩集)のほかに
雑誌や新聞などに発表した作品が
「生前発表詩篇」として収集されています

以上の分類に属さない作品が
「未発表詩篇」に集められて
まず作品が記録されたノート別に
次に作品が記録された草稿の制作年代別に
整理・分類されています

角川書店が
2010年現在までに編んだ
計3次にわたる「中原中也全集」の成果として
この分類・整理がスタンダードになり
いたるところで踏襲されています

「未発表詩篇」に分類された
ノート別、草稿別の作品群は、

「ダダ手帖」(1923年―1924年)●2
「ノート1924年」(1924年―1928年)●51
「草稿詩篇」(1925年―1928年)●20
「ノート小年時」(1928年―1930年)●16
「早大ノート」(1930年―1937年)●42
「草稿詩篇」(1931年―1932年)●13
「ノート翻訳詩」(1933年)●9
「草稿詩篇」(1933年―1936年)●65
「療養日誌・千葉寺雑記」(1937年)●5
「草稿詩篇」(1937年)●6

となります

●の後の数字は作品の数です
合計で229作品あります
このうちのいくつかは
推敲課程での別形態であったり
発表作品の初期形態だったりしますから
およそ200作品とみることができます

 

2010年4月14日 (水)

千葉寺雑記の詩篇<4>雨が降るぞえ―病棟挽歌

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「雨が降るぞえ――病棟挽歌」は
「泣くな心」が
1937年2月7日から8日の間に制作されて後の
同8日から9日の間に制作されたと推定され
「千葉寺雑記」に記された詩篇の
最後の作品です

中原中也が
中村古峡療養所を退院するのは
2月15日ですが
退院許可が下りることを
自ら予感できる何かがあったのか
雨が降る様子を歌っているにしては
陰惨さはなく
副題に「病棟挽歌」とあるように
「さよなら!療養所」の意味を持たせて
余裕みたいなものを感じさせる内容です

冒頭連の
俺はかうして、病院に、
しがねえ、暮しをしては、ゐる。

この、
暮しをしては、の「は」が利いています

してはいるけれども、という
「逆接」を表す助詞で、
しがない暮しだけれど、
そう悪くはない、というニュアンスを
持たせてあります

「降るぞえ」も
俗謡調ですし

空気を、換へると、いふぢやんか、
それとも、庭でも、見るぢやんか。
の、「ぢやんか」や

いや、そんなこと、分るけえ。
の、「分るけえ」には
方言を取り入れる
遊び心があります

第3連
まつくらくらの、冬の、宵。
は、宮沢賢治の剽窃(ひょうせつ)または模倣(もほう)で、
隣りの、牛も、もう寝たか、
は、おどけた感じが復活していますし

「たんたら、らららら」というオノマトペにも
そのルフラン(繰り返し)にも
雨が
小躍りして喜ぶような
軽快さがただよいます

詩人は
退院願いを繰り返す必要を
もはや感じなくてよい状態にあり
挽歌を歌ったのですが
随所に
技法を凝らす
詩人のスタンスを
取り戻しています

 *
 雨が降るぞえ
 ――病棟挽歌

雨が、降るぞえ、雨が、降る。
今宵は、雨が、降るぞえ、な。
俺はかうして、病院に、
しがねえ、暮しをしては、ゐる。

雨が、降るぞえ、雨が、降る。
今宵は、雨が、降るぞえ、な。
たんたら、らららら、らららら、ら、
今宵は、雨が、降るぞえ、な。

人の、声さへ、もうしない、
まつくらくらの、冬の、宵。
隣りの、牛も、もう寝たか、
ちつとも、藁のさ、音もせぬ。

と、何号かの病室で、
硝子戸(がらすど)、開ける、音が、する。
空気を、換へると、いふぢやんか、
それとも、庭でも、見るぢやんか。

いや、そんなこと、分るけえ。
いづれ、侘(わび)しい、患者の、こと、
たゞ、気まぐれと、いはば気まぐれ、
庭でも、見ると、いはばいふまで。

たんたら、らららら、雨が、降る。
たんたら、らららら、雨が、降る。
牛も、寝たよな、病院の、宵、
たんたら、らららら、雨が、降る。
               (了)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年4月13日 (火)

千葉寺雑記の詩篇<3>泣くな心

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昭和12年(1937)2月7日から8日の間に
制作されたと推定されている
「泣くな心」は、
結果的には
2月15日に退院する詩人が
退院許可が下りないことに苛立ち
退院を切望する理由を
詩の形にしたものです

詩を読んでみましょう

私は17歳のときに、はじめて都会に出た
私はなにもできないわけではなかった
しかし、私が思う存分に出来る仕事があり
それは誰にでも出来る、通俗な仕事ではなかった

誰も自分が積み上げてきた経歴を放棄して
後戻りしようなんて思わないだろう
ということで、運を天に任せて、ますます自分が出来る仕事だけをした
そうして10数年の歳月が過ぎた
母だけは独り故郷で気を揉んでいた

私はそれを気の毒だと思った
しかしどうすることも出来なかった
私自身もそれで気を揉むことがあった
そのために友達と会っていても急に気がそっちのほうに行っていることがあった

そんなことだから、どうもあいつはくさいと思われたこともあった
後になっていつも了解して貰えたけれど。
しかしそうこうしているうち母のことで気を揉むことはとうとう私のくせになった
そうであるから私は憂鬱な男とみなされるようになった

そうであるから褒められるのは作品ばかり
人間はどうもつき合いにくいと思われることもよくあった
それは誤解だとばかり私は弁解に努めた
そうしてなおさら嫌われることにもなった

そうこうしていうるちに子どもを亡くした
私はこればかりには参ってしまった
その挙句が今度の神経衰弱
なんとも面目ないことでございます

今はもう治療が功を奏して大体何もかも分かり
さて今度こそはほがらかに本業に立ち返りたいと思っても
予後の養生のためなのか
まだ退院の許可が出ず

日々訓練作業で心身の鍛錬をしているが
もともと実生活人のための訓練作業なので
まがりなりにも詩人である小生には
えてしてひょっとこ踊りの材料にしかなりませんわな

なにしろ芸術というものは、いわば人が働いている時にはそれを眺め
人が休んでいる時になってはじめて仕事がはじまるもの
人が働く時にその働く真似をしているようでは
とんだ喜劇にしかなりません、しかしながら

これも何かの決まりなのかと
出来る限り努力して
そんな具合に努力するのは
本業の詩のためには何の役にたつことか

たった少し自分に出来ることをも
減らしてしまうのではないかと
時には杞憂におちいることもあるけれど
院長に話すのは恐れ入ることだし

万事は前世の決まりなのかと
ばあさんの言葉もじっくり味わい
こうして未だに患者生活
「泣くな心よ、怖るな心」
……
……
……

こうして読んでみると
難解な語句一つもなく
出来得る限りのやさしい言葉で
だれにでも伝わるように
書かれていることがわかります

それに加えて
この詩には
追記なるものが添えられていて

母を悪く言うのではないが
母の愛情も過ぎれば害を生むこともある、と
詩の中で言わなかったことを
吐露します

ついに
吐露してしまう
という感じです

まだ入院中のことですから
おとなしくしていなければならない身でした

母君よ涙のごひて見給へな
 われはもはやも病ひ癒えたり

と、数日前(推定)に作った歌5首の
最後には
母を歌った詩人でした

 *
 泣くな心

私は十七で都会の中に出て来た。
私は何も出来ないわけではなかつた。
しかし私に出来るたつた一つの仕事は、
あまり低俗向ではなかつた。

誰しも後戻りしようと願ふ者はあるまい、
そこで運を天に任せて、益々(ますます)自分に出来るだけのことをした。
さうして十数年の歳月が過ぎた。
母はたゞ独りで郷(くに)で気を揉んでゐた。

私はそれを気の毒だと思つた。
しかしそれをどうすることも出来なかつた。
私自身もそれで気を揉む時もあつた。
そのために友達と会つてても急に気がその方に移ることもあつた。

そのうちどうもあいつはくさいと思はれた時もあつた。
あとでは何時(いつ)でも諒解(りょうかい)して貰へたが。
しかしそのうち気を揉むことは遂に私のくせとなつた。
由来憂鬱(ゆううつ)な男となつた。

由来褒められるとしても作品ばかり。
人間はどうも交際(つきあ)ひにくいと思はれたことも偶(たま)にはあつた。
それは誤解だとばかり私は弁解之(これ)つとめた。
さうして猶更(なおさら)嫌はれる場合もあつた。

さうかうするうちに子供を亡くした。
私はかにかくにがつかりとした。
その挙句が此度の神経衰弱、
何とも面目ないことでございます。

今もう治療奏効して大体何もかも分り、
さてこそ今度はほがらかに本業に立返りたいと思つても、
余後の養生のためなのか、
まだ退院のお許しが出ず、

日々訓練作業で心身の鍛練をしてをれど、
もともと実生活人のための訓練作業なれば、
まがりなりにも詩人である小生には、
えてしてひよつとこ踊りの材料となるばかり。

それ芸術といふものは、謂(い)はば人が働く時にはそれを眺め、
人が休む時になつてはじめて仕事のはじまるもの、
人が働く時にその働く真似をしてゐたのでは、
とんだ喜劇にしかなりはせぬ、しかしながら、

これも何かの約束かと、
出来る限りは努めてもをれど、
そんな具合に努めることは、
本業のためにはどんなものだか。

たつた少しの自分に出来ることを、
減らすことともなるではあるまいかと
時には杞憂(きゆう)も起るなれど、
院長に話すは恐縮であるし

万事は前世の約束なのかと、
老婆の言葉の味も味はひ、
かうして未だに患者生活、
「泣くな心よ、怖るな心」か。

追記、詩は要するに生活側より云へば観念的現実なれば、実生活的現実には非(あらざ)れど、聊(いささ)か弁解を加え置かんこと何れにせよよきことと思へば、左に一言附加へ申す。この詩でみれば、小生院長を怖れゐるかの如く見ゆるかも知れねど、病院迄余を伴ひたる母を怖れるなり。而(しか)も母を悪く思ふどころにはあらね、母のいたつてさばけぬ了見が人様に物申す時、兎角(とかく)事実を尨大(ぼうだい)にすることを怖るなり。これは幼稚園以来のことにて、幼稚園の先生に会ひにゆきて「少しうちの子をひどくして下され」なぞ申すなり。格別小生が悪いのでもなんでもないなり、たゞだよい上にもよくしようとの母の理想派的気性より出づるなり。何のことはない、急に幼稚園の先生がこはい顔したりする日ありけり。考へてみれば前日あたり母が幼稚園に来たのなり。
 母を悪く申すではなけれど、謂はば母のあまりに母らし過ぎたるは及ばざるが如しとか、母の愛も過ぎては、害生ずる時もあり得るなるか。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年4月10日 (土)

千葉寺雑記の詩篇<2>(短歌五首)

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「千葉寺雑記」は、
中原中也が入院していた中村古峡療養所が
千葉市千葉寺町にあったことから
当時使用していたノートを
詩人自らが命名したものですが、
ここに記された韻文(定型詩)は
「未発表詩篇」に分類・収集され、
散文は、
日記の中に分類・収集されています

結果、
「道修山夜曲」のほかに、
(短歌五首)
「泣くな心」
「雨が降るぞえ」が
「千葉寺雑記」に集められました

(短歌五首)は、
角川版全集の編集者が
仮につけたもので、
詩人の命名によるものではありません

詩人は、
小学校時代から
山口県の地方新聞である
「防長新聞」の短歌欄へ投稿し、
中学校3年になった大正11年4月には
合同歌集「末黒野」(すぐるの)を発行(推定)、
中の一部「温泉集」28首を詠んでいるほどに
短歌は親しみのある表現形式です

「生前発表詩篇」にも
「初期短歌」107首が収集されていますし
詩人の文学的出発は短歌だった、
ということを
忘れるわけにはいきません

昭和12年2月初旬の制作(推定)
ということは、
誕生日前ですから
29歳の作品ということになりますが

力みがなく
一筆書きで一気に書いたような
伸びやかな響きは
だれにもやすやすと作れるものではなく
随所に
ポエジーをさえ見出すことができます

そんな5首です

母に宛てた歌の通り
われはもはやも病ひ癒えたり、
の状態に
詩人は立っているのです

 
 
  *
 (短歌五首)

ゆふべゆふべ我が家恋しくおもゆなり
 草葉ゆすりて木枯の吹く

小田の水沈む夕陽にきららめく
 きららめきつゝ沈みゆくなり

沈みゆく夕陽いとしも海の果て
 かゞやきまさり沈みゆくかも

町々は夕陽を浴びて金(きん)の色
 きさらぎ二月冷たい金なり

母君よ涙のごひて見給へな
 われはもはやも病ひ癒えたり

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年4月 9日 (金)

千葉寺雑記の詩篇<1>道修山夜曲

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「道修山夜曲」の道修山(どうしゅうざん)は
(丘の上サあがつて、丘の上サあがつて)の
「丘」と同一の丘陵のことで
療養所が建っていた場所です

末尾に(一九三七・二・二)の日付があり、
(丘の上サあがつて、丘の上サあがつて)が書かれて
3日後に制作されたことがわかります

詩人の回復はめざましく
閉鎖病棟の精神科から
開放病棟の神経科へ移った翌日の作品です

中原中也が
中村古峡療養所に入院中に
書き残したものは、
「療養日誌」のほかに
「千葉寺雑記」があり、
詩人自らが作ったこの雑記帳に
「道修山夜曲」は記されました

この詩は
「黎明」という、
療養所発行の月刊誌の
昭和12年4月号に掲載された
作品の第一次形態です

「生前発表詩篇」にも分類・所収されていますが、
両作品の違いは
句読点の有無だけの
わずかなものです

満天の星が降り注ぐ
快晴の日の夜だったのでしょう
道修山にあった松林に入り、
下草の生えるあたりにしゃがんで
耳を澄ませば
聞こえてくる汽車の音……

その他には
なにも聞こえてこない……

松には今夜風もなく、
土はジツトリ湿つてる。
遠く近くの笹の葉も、
しづもりかへつてゐるばかり。

静かな夜でした

静かな夜を
たまたま通った汽車に
「外界」への思いを馳せたのですが
すぐさま
沈黙の世界が戻ります

ここは
道修山……
山の上なのです

しかし
それ以上のことを
詩人は歌いませんでした

 *
 道修山夜曲

星の降るよな夜(よる)でした
松の林のその中に、
僕は蹲(しやが)んでをりました。

星の明りに照らされて、
折しも通るあの汽車は
今夜何処(どこ)までゆくのやら。

松には今夜風もなく、
土はジツトリ湿つてる。
遠く近くの笹の葉も、
しづもりかへつてゐるばかり。

星の降るよな夜でした、
松の林のその中に
僕は蹲んでをりました。

(一九三七・二・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年4月 7日 (水)

療養日誌に書かれた詩篇・(丘の上サあがつて、丘の上サあがつて)

昭和12年(1937)、
1月9日から2月15日までの、
短くはない期間を
中原中也は、
千葉市にあった中村古峡療養所の
精神科および神経科へ入院しました

入院中に書き残した日記が、
平成11年、中村古峡記念病院(旧・療養所)で発見され、
「療養日誌」と呼ばれています

院長の中村古峡が
患者に与え
日々の行動などを書かせて
療養の指針にしたもので
中也の日誌は、
1月25日(月曜日)から31日(日曜日)までの
1週間分が記されていました

1月30日の日記の末尾に
(丘の上サあがつて、丘の上サあがつて)が
書き留められていました

この日、
精神科で療養していた詩人は
初めて野外作業を許可され、
そのことを、記した日記は
喜びに溢れていて、

「小父さんと二人で山の掃除。なんだか夢のやうに嬉しかつた。庭を掃くことは元来嫌ひではございません。(略)」

などと記しています

山の掃除は、
作業療法の一つ。
療養所は、
道修山という小さな山の上に建っていて
そこからは
千葉県庁が遠望され
ルネッサンス式の庁舎の中央には
銅で葺いたドームが見えました
作品中の「緑のお碗」は
このドームのことです

詩人は
この詩を「俚謡」(りよう)と
呼んでいます

山の上から見えた
千葉県庁のドームが
雨に濡れて
つやが出ている、と
それだけのことを歌っていますが
詩人の嬉しさがにじみ出ていて
よかったなあ!と
詩人の気持ちが
乗り移ってくるようです

 *
 (丘の上サあがつて、丘の上サあがつて)

丘の上サあがつて、丘の上サあがつて、
 千葉の街サ見たば、千葉の街サ見たばヨ、
県庁の屋根の上に、県庁の屋根の上にヨ、
 緑のお碗が一つ、ふせてあつた。
そのお碗にヨ、その緑のお碗に、
 雨サ降つたば、雨サ降つたばヨ、
つやがー出る、つやがー出る

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

早大ノート最後の詩篇・こぞの雪今いづこ<2>

詩人は
前年11月に、
寵愛する長男文也を突然亡くして後、
精神の平衡を失い
昭和12年1月9日から2月15日まで
千葉県にあった
中村古峡療養所に入院します

退院してから
住み着いたのが鎌倉でしたが、
「こぞの雪今いづこ」を書いたのは
4月15日から5月14日の間でした
療養の疲れから回復し
第2詩集の編集を再開します

この頃
空気銃を買い求め
鎌倉の山を散策しました
キジなどを
撃つつもりだったのでしょうか

「(略)八幡様の境内で雀を二羽撃つ、もう1羽、たしかに的(あた)つたし、みてゐた者も的つたといふのだけれど、どこに落ちたか分らず。(略)」

と、5月16日の日記に記しています

5月25日には、

「空気銃をもて大塔宮の方にゆく。(略)」とあり、

山ばかりでなく、
街場にも空気銃を持ち歩いた詩人の姿があります

この詩に出てくるピストルは、
この空気銃を「詩化」したものです

空気銃を撃つ詩人は
魂を鎮めることができたのでしょうか
……
……
……
……

詩人から
愛児を失った悲しみが
消え去ることはありませんでした

死んでしまった、あの子を思うと、今頃は、
何を求めて、歩いているだろうか?……
薄曇りの、河原を歩いているだろうか?
何をも求めずに、歌いながら
ひとりで歩いているだろうか……

それならば、そのようで、あればよいのだが、
その後、どのようになっているだろうか?
つぶらな瞳で
空を仰ぎ見ていることかもしれないが、
さて、そうしているだけだろうか?

もし、それだけのことならば
たとえそうしているだけでも、
よろこびというものが
十分にあるともいえるけど、
今生きている身には
可哀相に思えてくるよ

いずれにしても分からないことで
分からないこととは知りながら
分かりたいと思うのだ
わが子よ、今、どうなっているか
わが子よ、今、何をしているか

思いは届かないこととは知りつつも
思いは届かないことだと
いまさら、思い知ることになる
せめてわが子よあの世から
私のこの身にピストルを撃ってくれれば。

この上もないことだと思うのだけれど
そのようにピストルを撃とうとしても
石っころばかりの、河原なのだろう
カラスの声くらいは聞こえるだろうか
薄曇の、その空には

景色を眺めて歩くだけだ
ほんとうにそんなことだけだから
命とは、何だろう?
何しても何にも分からないことだから
なおさら分かりたいと、思うよ

 *
 こぞの雪今いづこ

みまかりし、吾子(あこ)はもけだし、今頃は
何をか求め、歩(あり)くらん?……
薄曇りせる、磧(かわら)をか?
何をも求(と)めず、歌うたひ
たゞひとりして、歩(あり)くらん

何をも求(と)めず、生きし故、
何をも求(と)めず、暮らすらん。
何さへ求(と)めず、歌うたひ、
さびしとさへも、云ひ出でず、
たゞひとりして、歩(あり)くらん。

さば、かくてこそ、あらばあれ、
さてそののちは、如何(いか)ならん?
たゞつぶらなる、瞳して、
空を仰いで、ありもすれ、
さてそれだけにて、あるらんか?

もし、それだけの、ことならば、
よしそのうちに、欣怡(よろこび)の、
十分そなはるものとしても、
なほ今生なるわが身には、
いたましこととおもはるなり。

なにせよ分らぬことなれば
分らぬこととは知りながら
分りたいとは思ふなり
吾子はも如何に、なせるらん。
吾子はも何を、なせるらん。

想ひもとどかぬことなれば
想ひとゞかぬことかなと、
いまさらわれは、思ふなり。
せめて吾子はもあの世より
この身にピストル撃ちもせば

こよなきことにぞ思ふなるを
さるをピストル撃たばこそ
石ばかりなる、磧なれ、
鴉声(あせい)くらゐは聞けもすれ、
薄曇りせる、かの空を

眺めてありく ばかりなれ、
げにさばかりのことなれば、
げに命とや、何事ぞ?
なにせよ何も分らねば、
分りたいとは、思ふなり。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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