草稿詩篇1933―1936<36>「誘蛾燈詠歌」再
「誘蛾燈詠歌」は
「星とピエロ」が作られたのと同じ日
1934年(昭和9年)12月16日制作の作品で
中原中也の詩の中の長詩の一つですが
これと同じくらいの長詩は
10作ほどあるでしょうか
「誘蛾燈詠歌」(ユウガトウ・エイカ)については
2009年4月15日から20日までに4回
「『曇天』までのいくつかの詩」と題して案内しました
そこでは
主にこの詩の反戦詩としての側面について述べ
1934年という年の
(この年ドイツではヒットラーが総統に就任しています)
日本国の一地方の村の状況を
青年団の喇叭(ラッパ)の練習の音など
忍び寄る戦争の足音を
詩人が敏感に感受して
制作した詩としても読むことができる
という一つのアングルを提案してみました
この詩は
詩題がつけられるほどに
完成間近かの作品ということでありながら
未完成に終わった詩であり
もし完成していれば……
代表作の一つになったかもしれない
と言えるほどに
色々な豊かなものが詰まっている詩です
色々なものの一つは
宮沢賢治の世界との響きあいで
同日に書かれた
「星とピエロ」がそうであったように
この詩にも
宮沢賢治の詩の影響があります
中原中也は
大正13年(1924年)に発行された「春と修羅」を
ダダイスト辻潤を通じてか
詩友・富永太郎を通じてか
あるいは草野心平を通じてか
以上のほかの誰からか
最初に知ったのはだれからか正確にはわかりませんが
あるいは
以上のどのケースでもなく
だれに教わるということもなく
詩人自らが偶然か必然か
本屋の棚で見つけて知ったものか
どんな場合であったにせよ
かなり早い時期に読んでいたことは
よく知られたことですし
1934年に中原中也は
「山羊の歌」を文圃堂から出版しましたが
まさしくその同じ文圃堂から
「宮沢賢治全集」が発行され
このとき中也は
いくつかの紹介文を書いているほど
賢治の詩の
理解者であり共感者でありましたし
「誘蛾燈詠歌」に
「銀河鉄道の夜」や
「春と修羅」などの影響が見られることは
きわめて自然ななりゆきであったことが
理解できます
ここではその研究の方面には突っ込みませんが
中原中也は
宮沢賢治から多くのものを吸収し
自らの詩を作り上げていることは確かなことを
それはそれとして知っておいても
中也の詩を見失わずに
中也の詩を味わう姿勢を
堅持しなければなりません
この詩を制作したのは
「ランボウ全集」全3巻の
第1巻「詩」の翻訳を詩人が担当し
第2巻「散文」を小林秀雄、
第3巻「書簡」を三好達治
という分担で進んでいた
建設社の企画に専念するために
山口に帰省し
生まれたばかりの長男と
初対面したばかりのことでしたし
色々なドラマの最中に
詩人はありました
わが子の生誕を機に
「死」についての詩を制作した詩人の
詩に対する姿勢の
なみなみならぬものについても
目を向けておかなければならないでしょうし
そういえば、
宮沢賢治が、
前年の1933年9月21日に亡くなっていることも
この詩の制作動機の一つかもしれませんし
この詩が
道化調を帯びていることの意味についても
知っていなければなりませんけれど
何といっても
この詩を何度も読んでみて
味わうことが一番です
*
誘蛾燈詠歌
1
ほのかにほのかに、ともつてゐるのは
これは一つの誘蛾燈、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともつてゐるのは
誘蛾燈、ひときは明るみひときはくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともつてゐるのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともつてゐるのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときは明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一夜、此処にともるは誘蛾燈
2
と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆しゃば)だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいへるし刹那的(せつなてき)とも考へられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)ひ気もあるといふのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるといふのだからおほけなきものです
もともとはといへば終局の所は、案じあぐむでも分らない所から
此処は此処だけで一心にならうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いから可愛がる、従つて
その子はまたその子の子を可愛がるといふふうになるうちに
入籍だの誕生の祝ひだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であらうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆といふものは
なにや分らずたゞいぢらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還に流れ消えてゆくを
銀河思ひ合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だの云はれてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考へてのやうやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活といふことしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思ひそぞろになりながら
而も(しかも)義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびつくりしてゐる
3
あをによし奈良の都の
それではもう、僕は青とともに心中しませうわい
くれなゐだのイエローなどと、こちや知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなほ淡(あは)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きてゐたいが業(ごふ)のはじまり、かにかくにちよつぴりと働いては
酒を飲み、何やらかなしく、これこのやうにぬけぬけと
まだ生きてをりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)うて、耳ゴーと鳴つて口きけませんだぢやい
4
やまとやまと、やまとはくにのまほろば…………
何云ひなはるか、え?あんまり責めんといてくれやす
責めはつたかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)ひますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどつしやろ、しかし柳腰もええもんですえ?
(あゝ、そやないかァ)
(あゝ、そやないかァ)
5 メルヘン
寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前と金時は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかへられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしてをりました
*
或るおぼろぬくい春の夜でありました
平の忠度(ただのり)は木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗ひました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
(一九三四・一二・一六)
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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