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2010年5月

2010年5月31日 (月)

草稿詩篇1933―1936<36>「誘蛾燈詠歌」再

214

「誘蛾燈詠歌」は
「星とピエロ」が作られたのと同じ日
1934年(昭和9年)12月16日制作の作品で
中原中也の詩の中の長詩の一つですが
これと同じくらいの長詩は
10作ほどあるでしょうか

「誘蛾燈詠歌」(ユウガトウ・エイカ)については
2009年4月15日から20日までに4回
「『曇天』までのいくつかの詩」と題して案内しました

そこでは
主にこの詩の反戦詩としての側面について述べ
1934年という年の
(この年ドイツではヒットラーが総統に就任しています)
日本国の一地方の村の状況を
青年団の喇叭(ラッパ)の練習の音など
忍び寄る戦争の足音を
詩人が敏感に感受して
制作した詩としても読むことができる
という一つのアングルを提案してみました

この詩は
詩題がつけられるほどに
完成間近かの作品ということでありながら
未完成に終わった詩であり
もし完成していれば……
代表作の一つになったかもしれない
と言えるほどに
色々な豊かなものが詰まっている詩です

色々なものの一つは
宮沢賢治の世界との響きあいで
同日に書かれた
「星とピエロ」がそうであったように
この詩にも
宮沢賢治の詩の影響があります

中原中也は
大正13年(1924年)に発行された「春と修羅」を
ダダイスト辻潤を通じてか
詩友・富永太郎を通じてか
あるいは草野心平を通じてか
以上のほかの誰からか
最初に知ったのはだれからか正確にはわかりませんが

あるいは
以上のどのケースでもなく
だれに教わるということもなく
詩人自らが偶然か必然か
本屋の棚で見つけて知ったものか
どんな場合であったにせよ
かなり早い時期に読んでいたことは
よく知られたことですし

1934年に中原中也は
「山羊の歌」を文圃堂から出版しましたが
まさしくその同じ文圃堂から
「宮沢賢治全集」が発行され
このとき中也は
いくつかの紹介文を書いているほど
賢治の詩の
理解者であり共感者でありましたし

「誘蛾燈詠歌」に
「銀河鉄道の夜」や
「春と修羅」などの影響が見られることは
きわめて自然ななりゆきであったことが
理解できます

ここではその研究の方面には突っ込みませんが
中原中也は
宮沢賢治から多くのものを吸収し
自らの詩を作り上げていることは確かなことを
それはそれとして知っておいても
中也の詩を見失わずに
中也の詩を味わう姿勢を
堅持しなければなりません

この詩を制作したのは
「ランボウ全集」全3巻の
第1巻「詩」の翻訳を詩人が担当し
第2巻「散文」を小林秀雄、
第3巻「書簡」を三好達治
という分担で進んでいた
建設社の企画に専念するために
山口に帰省し
生まれたばかりの長男と
初対面したばかりのことでしたし
色々なドラマの最中に
詩人はありました

わが子の生誕を機に
「死」についての詩を制作した詩人の
詩に対する姿勢の
なみなみならぬものについても
目を向けておかなければならないでしょうし

そういえば、
宮沢賢治が、
前年の1933年9月21日に亡くなっていることも
この詩の制作動機の一つかもしれませんし

この詩が
道化調を帯びていることの意味についても
知っていなければなりませんけれど
何といっても
この詩を何度も読んでみて
味わうことが一番です

 *
 誘蛾燈詠歌

   1

ほのかにほのかに、ともつてゐるのは
これは一つの誘蛾燈、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともつてゐるのは
誘蛾燈、ひときは明るみひときはくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともつてゐるのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともつてゐるのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときは明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一夜、此処にともるは誘蛾燈

   2

と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆しゃば)だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいへるし刹那的(せつなてき)とも考へられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)ひ気もあるといふのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるといふのだからおほけなきものです
もともとはといへば終局の所は、案じあぐむでも分らない所から
此処は此処だけで一心にならうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いから可愛がる、従つて
その子はまたその子の子を可愛がるといふふうになるうちに
入籍だの誕生の祝ひだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であらうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆といふものは
なにや分らずたゞいぢらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還に流れ消えてゆくを
銀河思ひ合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だの云はれてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考へてのやうやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活といふことしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思ひそぞろになりながら
而も(しかも)義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびつくりしてゐる

   3

      あをによし奈良の都の

それではもう、僕は青とともに心中しませうわい
くれなゐだのイエローなどと、こちや知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなほ淡(あは)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きてゐたいが業(ごふ)のはじまり、かにかくにちよつぴりと働いては
酒を飲み、何やらかなしく、これこのやうにぬけぬけと
まだ生きてをりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)うて、耳ゴーと鳴つて口きけませんだぢやい

   4

      やまとやまと、やまとはくにのまほろば…………  

何云ひなはるか、え?あんまり責めんといてくれやす
責めはつたかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)ひますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどつしやろ、しかし柳腰もええもんですえ?
     (あゝ、そやないかァ)
     (あゝ、そやないかァ)

   5 メルヘン

寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前と金時は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかへられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしてをりました

   *

或るおぼろぬくい春の夜でありました
平の忠度(ただのり)は木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗ひました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
        (一九三四・一二・一六)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年5月27日 (木)

草稿詩篇1933―1936<35>「星とピエロ」補

「星とピエロ」は
第2連末尾に
(一九三四・一二・一六)と日付が記されていて
この日が制作日と考えられています
第3、第4連は、
はじめ第1連と第2連で完結していた詩に
続けて書き加えられたものと推定されています

1934年12月16日に
詩人は山口にいます
自選詩集「山羊の歌」を刊行し
初めて生まれた子との
対面も果たしました

この作品については
2009年9月4日付け「ダダのデザイン<12>」で
「ピチベの哲学」を参照しての
コメントをすでに記し
その中で二つの作品の
相似性について述べました

宮沢賢治の影響が指摘される作品で
たとえば、詩の冒頭
「何、あれはな、空に吊した銀紙ぢやよ」は
「銀河鉄道の夜」の第1章「午後の授業」で
銀河について先生が生徒たちに
質問する場面が念頭にあったもの
と考えられています
(新編全集第2巻・解題篇)

「星とピエロ」と同じ日に
「誘蛾燈詠歌」が制作されていますが
これも道化調の歌といわれ
「ピチベの哲学」にはじまる
1934年制作の
道化調詩篇群を構成しています

再び
この道化調詩篇群を
列挙しておきます

「ピチベの哲学」
「狂気の手紙」
「骨」
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」
「お道化うた」
「秋岸清凉居士」
「月下の告白」
「星とピエロ」
「誘蛾燈詠歌」
(なんにも書かなかつたら)

 

 *
 星とピエロ

何、あれはな、空に吊るした銀紙ぢやよ
かう、ボール紙を剪(き)つて、それに銀紙を張る、
それを綱(あみ)か何かで、空に吊るし上げる、
するとそれが夜になつて、空の奥であのやうに
光るのぢや。分つたか、さもなけれあ空にあんあものはないのぢや

それあ学者共は、地球のほかにも地球があるなぞといふが
そんなことはみんなウソぢや、銀河系なぞといふのもあれは
女(をなご)共の帯に銀紙を擦(す)り付けたものに過ぎないのぢや
ぞろぞろと、だらしもない、遠くの方ぢやからええやうなものの
ぢやによつて、俺(わし)なざあ、遠くの方はてんきりみんぢやて
              (一九三四・一二・一六)

見ればこそ腹も立つ、腹が立てば怒りたうなるわい
それを怒らいでジツと我慢してをれば、神秘だのとも云ひたくなる
もともと神秘だのと云ふ連中(やつ)は、例の八ッ当りも出来ぬ弱虫ぢやで
誰怒るすぢもないとて、あんまり始末がよすぎる程の輩(やから)どもが
あんなこと発明をしよつたのぢやわい、分かつたらう

分からなければまだ教へてくれる、空の星が銀紙ぢやないといふても
銀でないものが銀のやうに光りはせぬ、青光りがするつてか
それや青光りもするぢやろう、銀紙ぢやから喃(なう)
向きによつては青光りすることもあるぢや、いや遠いつてか
遠いには正に遠いいが、それや吊し上げる時綱を途方もなう長うしたからの
ことぢや

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月26日 (水)

草稿詩篇1933―1936<34>「野卑時代」

「野卑時代」も
(海は、お天気の日には)と
(お天気の日の海の沖では)と
同じ日に制作されましたから
東京での作品でしょうか
タイトルのついた完成作です

モチーフは
海から星へと変りますが
海を歌って
海の美しさを賛美しただけではなかったように
星を歌って
単なる自然詠に終わらないことは
言うまでもありません

星を見て
綺麗と言うのはウソ
星を見て
人はガッカリするのさ
なぜなら
星を見て
自分のちっぽけなことを知るばかりなのだから

星を見て
愉快になる人は
いまどき滅多にいはしない
星を見て
愉快な人は
孤独な人だろう

そうなのさ、
混迷し、卑怯に野卑になっているのは
人々が多忙のせいであり
そのことを文明開化と人は呼ぶけど
野蛮開発と僕なら呼ぼう

もちろん、これも一つの過程のことであって
なにが出てくるかは分かりはしないが
星を見て
しかめっ面して
僕だってこの頃生きているのさ

星を見て
なにやら
文明開化の風潮へ
時勢批判の一つ
言ってみたくなった詩人

そりゃ
野蛮開発っていうもんだ
とはいうものの
星を見て
しかめっ面せざるをえなくて
元気がありません

「野卑時代」のタイトルにしては
いまいち
奥歯にモノのはさまって
あいまいな言葉使いの詩になりました

 *
 野卑時代

星は綺麗と、誰でも云ふが、
それは大概、ウソでせう
星を見る時、人はガツカリ
自分の卑少を、思ひ出すのだ

星を見る時、愉快な人は
今時減多に、ゐるものでなく
星を見る時、愉快な人は
今時、孤独であるかもしれぬ

それよ、混迷、卑怯に野卑に
人々多忙のせゐにてあれば
文明開化と人云ふけれど
野蛮開発と僕は呼びます

勿論(もちろん)、これも一つの過程
何が出てくるかはしれないが
星を見る時、しかめつらして
僕も此の頃、生きてるのです
       (一九三四・一一・二九)

  (角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月25日 (火)

草稿詩篇1933―1936<33>(お天気の日の海の沖では)

(お天気の日の海の沖では)は
(海は、お天気の日には)と
同じころに作られ、
どちらも
海をモチーフにした詩ですが

(海は、お天気の日には)のシンプルさはなくなり
スケールが少し大きくなったか小さくなったのか
子供、女、人……と人間が登場し
風景が人の世の賑わいを帯びて
時間にも空間にも
俄然、厚みや奥行きが増します

海の沖で
大勢の子どもが遊んでいる
という絵には
中也らしい不気味な感じが加わりますが
そう思わせた途端に
お・ん・なです!

この場面転換というか
はぐらかされ感というか
つくりものっぽさというか
急展開というか
なにか別の動きがはじまったなと
思わされたところで

女が恋しくなるともう浜辺には立つてはゐられません
女が恋しくなると人は日蔭に帰つて来ます
日蔭に帰つて来ると案外又つまらないものです
それで人はまた浜辺に出て行きます

と、ストンと受けるという流れは
起承転結の転
序破急の破
……
弁証法なら反定立か?

第3連、第4連は
「結論じみたものになる中原のクセ」などという
批判がましい読みも生れる
エンディングとなります

それなのに人は大部分日蔭に暮らします
何かしようと毎日々々
人は希望や企画に燃えます

さうして働いた幾年かの後に、
人は死んでゆくんですけれど、
死ぬ時思い出すことは、多分はお天気の日の海のことです。

(海は、お天気の日には)が
(お天気の日の海の沖では)へと展開し
やがて「思ひ出」が生成される流れは
定立―反定立―止揚
テーゼ―アンチテーゼ―ジンテーゼ
という運動みたいで
そちらのほうへ
関心が行きますが

(お天気の日の海の沖では)というこの作品の内部にも
小さな弁証法の運動が
見られるようで
そのように読んでもまた面白い詩です

 
 *
 (お天気の日の海の沖では)

お天気の日の海の沖では
子供が大勢遊んでゐるやうです
お天気の日の海をみてると
女が恋しくなつて来ます

女が恋しくなるともう浜辺には立つてはゐられません
女が恋しくなると人は日蔭に帰つて来ます
日蔭に帰つて来ると案外又つまらないものです
それで人はまた浜辺に出て行きます

それなのに人は大部分日蔭に暮らします
何かしようと毎日々々
人は希望や企画に燃えます

さうして働いた幾年かの後に、
人は死んでゆくんですけれど、
死ぬ時思い出すことは、多分はお天気の日の海のことです。
                (一九三四・一一・二九)

  (角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月24日 (月)

草稿詩篇1933―1936<32>(海は、お天気の日には)

(海は、お天気の日には)は
(お天気の日の海の沖では)と
「野卑時代」と
続けて書かれたであろうと推定される
3作品のはじめのものです

(お天気の日の海の沖では)と
「野卑時代」は
1934年11月29日の日付をもち
この3作品は
原稿用紙
筆記具
インク
筆跡が同じであることから
(海は、お天気の日には)も
同じ日の制作か
それ以前、11月29日以前の作と
考えられているのです

(海は、お天気の日には)の冒頭

海は、お天気の日には
綺麗だ。
海は、お天気の日には、
金や銀だ。

を読んで
ただちに思い出すのが
「在りし日の歌」中の
「思ひ出」の
お天気の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天気の日の、海の沖は、
まるで、金や、銀ではないか

という、はじまりです

「思ひ出」は
昭和11年(1936年)の「文学界」8月号初出の作品で
(海は、お天気の日には)と
(お天気の日の海の沖では)とを
下敷きにして新作としたことが
推定されている詩です

詩人の心の中には
金や銀の日もあれば
飲み込まれるような
雨の日もありました

その移り変わりの激しさに
心は休まる暇もありません
この詩を書いた当時
詩人は
快晴が一転、強雨に変ってもおかしくはない
タフな日々と格闘していました
心の中は
時々刻々が
晴れのち雨、雨のち晴れ
という状態であったことが想像されます

実際に強雨に見舞われた日も
あったのでしょうか
めまぐるしく変る天気に
心の休まる暇とてなく
金銀の日が
暗転し
飲み込まれるような雨になりやしないか
恐怖におびえなければならない時を
きっと過ごしたこともあったのでしょう

 *
 (海は、お天気の日には)

海は、お天気の日には
綺麗だ。
海は、お天気の日には、
金や銀だ。

それなのに、雨の降る日は、
海は、怖い。
海は、雨の降る日は、
呑まれるやうに、怖い。

ああ私の心にも雨の日と、お天気の日と、
その両方があるのです

その交代のはげしさに、
心は休まる暇もなく

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月23日 (日)

草稿詩篇1933―1936<31-2>悲しい歌

「悲しい歌」が作られたのは、
まもなく山口への帰省をひかえた
1934年11月26日のことでした
タイトルははじめ
「悪達者な人にかゝりて」でした

悪達者はワルダッシャと読むのでしょうか
世間知にたけた
世間を渡っていく技術を身につけた
悪賢い=ワルガシコイ者のことですが
「悪」といっても
悪知恵ワルジエがよく働く程度の悪で……

真底には悪気がない悪で
悪意があるのではなく
生きていくために身に着けた
必要悪みたいな悪なので
こんな悪に巻き込まれて
妙な結果になったらたまらない
こんな悪気のない悪で
変な結果になるのは困りものだ

僕みたいに
なんのことはない夢みる男にとって
悪達者な人というのは
単なる罠みたいなもので
鎌をかけられて攻撃されるのではないが
鎌をかけられたと同じになるのだからかなわない

と思うと怖い
何もできない気がしてくる
しかし、穴に入ってもいられないし
逃げられない
気が遠くなりそうになって
ぼんやりと
呆然としてくる

こちらが注意していないと
仕掛けられた罠に
落ち込んでしまう

それは
むき出しの悪意をもって
鎌を振りかざして
こちらを襲ってくるような悪ではないから
怖い
そんな「悪」に気が付くと
逃げるわけにも行かず
余計に怖ろしくなってくる

あゝ、神様お助け下さい!
これではどうにもなりません
あなたのお力を借りなければ
どうしようにもなりません

このどうしようもないことの理由を
一度はことこまかに分解して
人に分かってもらおうとして
示そうと考えました
その分解から法則を引っ張り出してまとめ
人に教えてやろうともしました

またわたしが遭遇する一つひとつの事実を突き詰めて
詳細にわたって描出しようとも考えました
しかし事実というのは果てしもないほど豊富で複雑で
それもやがて断念せざるをえませんでした

それから私はもう手の施しようもなくなり
ただもう事実に引きずられて生きているのでございます
それでもそこに落ち着いちゃっているわけでもなく
それに加えてバカさのほうはだんだん進んでくるので参ってしまうのです

こうして今日はもう、ここに手をついて
私はもうあなたのお慈悲を待つのでございます
そして手をつくということが
どのようなことだかを今日はじめて知ることになるわけでございます

神様、今こそ私はあなたの御前に額ずくことが自然にできるのです
この強情な私めが、散々の果てに
またその果てに疑い深くグズグズして
まるで痴呆のようになってその果てに
あなたの御前に額ずくことが出来るのでございます

さてこのように、御前に額ずいておりますと
どうやら私の愚かさも、
懦弱(だじゃく)のせいで生じてくる悪ということも分かってくる気がします
しかし、それも心もとないもの
私はなおどのようにしてよいのか分からなくなります

私はもう泣きません
いいえ、泣けないのでございます
ここにこうして禁欲的な風にしておりますことも
たいして考え抜いたことでもございません

せめてこのようにして足が痛むのをこらえて座って
バカになった心を引き立てているようなものなのでございます

妻と子のことを愛おしく感じます
それはそれだけのことで、どうすることもできないし
どうなることでもないと知っては
どうしようとも思いません
しかもそれだけではどうにも仕方がないことだとも思っております……

僕は人間が笑うということは
人間が憎悪を貯めこんでいるからだと知った
人間が口をあけると
えび茶色をした憎悪が
ワーッと飛び出してくる

みんな貯まっている憎悪のために
いろいろと喜劇を演じるのだ
ただその喜劇を喜劇と感じる人と
喜劇とも感じないで
当然のことと感じる馬鹿者との違いがあるだけだ

私は見た。
彼は笑い、
彼は笑ったことを悲しみ
その悲しんだことをまた大したことでもないと思い
彼はただギョッとしていた

私は彼を賢者だと思う
(そしたら私は泣き出したくなった)

私は彼に何も言うことはなかった
しかも黙っていつまでも会っているということは危険だと感じた

私は一目散に帰ってきた

私はどうしようもないのです

ああ、どうしようもないのでございます

 *
 悲しい歌

こんな悪達者な人にあつては
僕はどんな巻添えを食ふかも知れない
僕には智恵が足りないので
どんなことになるかも知れない

悪気がちつともないにしても
悪い結果を起したら全くたまらない
悪気がちつともないのに
悪い結果が起りさうで心配だ

なんのことはない夢みる男にとつて
悪達者な人は罠(わな)に過ぎない
格別鎌を掛けられるのではないのであつても
鎌を掛けられたことになるのだからかなはない

それを思へば恐ろしい気がする
もう何も出来ない気がする
それかといつて穴に這入(はい)つてもゐられず
僕はたゞだんだんぼんやりして来る
          (一九三四・一一・二六)

 2

あゝ、神様お助け下さい!
これははやどうしやうもございません。
貴方(あなた)のお助けが来ない限りは、
これは、どうしやうもございません。

このどうしやうもないことの理由を
一度は詳しく分解して人に示さうとも考へました
その分解から法則を抽(ひ)き出し纏(まと)め、
人々に教へようとも考へました

又はわたしの遭遇する一々の事象を極めて
明細に描出しようとも考へました
しかし現実は果しもなく豊富で、
それもやがて断念しなければならなくなりました。

それから私はもう手の施しやうもなく、
たゞもう事象に引摺(ひきず)られて生きてゐるのでございますが、
それとて其処(そこ)に落付いてゐるのでもなく、
搗(か)てて加へて馬鹿さの方はだんだん進んで参るのでございます

かくて今日はもう、茲(ここ)に手をついて、
私はもう貴方のお慈悲を待つのでございます
そして手をつくといふことが
どのやうなことだかを今日初めて知るやうなわけでございます。

神様、今こそ私は貴方の御前に額(ぬか)づくことが出来ます。
この強情な私奴(め)が、散々の果てに、
またその果ての遅疑・痴呆の果てに、
貴方の御前に額づくことが出来るのでございます。

  ※

扨(さて)斯様(かよう)に御前に額づいてをりますと、
どうやら私の愚かさも、懦弱(だじゃく)の故(ゆえ)に生ずる悪も分つてくるや
うな気も致します、
然しそれも心許(こころもと)なく、
私は猶如何様(いかよう)にしたらよいものか分りません。

  ※

私はもう泣きもしませぬ
いいえ、泣けもしないのでございます
茲にかうしてストイック風に居りますことも
さして意趣あつてのことではございません

せめてこのやうに足痛むのを堪(こら)へて坐つて、
呆(ほう)けた心を引き立ててゐるやうなものでございます。

  ※

妻と子をいとほしく感じます
そしてそれはそれだけで、どうすることも出来ないし
どうなることでもないと知つて、
どうしようともはや思ひも致しません

而(しか)もそれだけではどうにも仕方がないと思つてをります……

  3

僕は人間が笑ふといふことは、
人間が憎悪を貯(た)めるゐるからだと知つた。
人間が口を開(あ)くと、
蝦茶色(えびちゃいろ)の憎悪がわあツと跳び出して来る。

みんな貯まつてゐる憎悪のために、
色々な喜劇を演ずるのだ。
たゞその喜劇を喜劇と感ずる人と、
極(ご)く当然の事と感ずる馬鹿(ばか)者との差違があるだけだ。

私は見た。彼は笑ひ、
彼は笑つたことを悲しみ、
その悲しんだことをまた大したことでもないと思ひ、
彼はたゞギヨツとしてゐた。

私は彼を賢者だと思ふ
(そしたら私は泣き出したくなつた)

私は彼に、何も云ふことはなかつた
而も黙つて何時まで会つてゐることは危険だと感じた。

私は一散に帰つて来た。

  ※

私はどうしやうもないのです。

  ※

あゝ、どうしやうもないのでございます。

         (一九三四・一一・二六)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<31>悲しい歌

「悲しい歌」は、
はじめ
「悪達者な人にかゝりて」というタイトルでした
1934年11月26日の制作で
まもなく
山口に帰省するのですが
東京でやらねばならない仕事が
山積していましたので
帰りたくても帰れません

どんなに忙しかったか

同年11月15日付け、安原喜弘宛書簡で、
「此の間から二度ばかり(一度は朗読会、一度は出版記念会)に出ましたが、一生懸命飲まないやうにしてゐながらとうとうは一番沢山飲んでしまひました。何しろ来年二月迄毎日二十行づつランボウを訳さねばならぬのですからたまりません 完全に事務です 尤も詩も童話も書いています。」(「新編中原中也全集・第二巻・詩Ⅱ解題篇」より)

と記しているのを読めば
察しがつくというものです

ここに書かれている朗読会こそ
麻布・龍土軒で行われた
「歴程」主催の詩の朗読会のことで
中原中也が
「サーカス」を自ら朗読したことが
よく知られています

出版記念会とは
新宿・白十字で行われた
前奏社主催の
「一九三四年詩集」出版記念会のこと

「一九三四年詩集」は
この年、1934年に発表された
詩作品のアンソロジーで
中也の作品は
「憔悴」が収録されました

この日のことを
中也は、11月13日の日記に
「前奏社一九三四年刊詩集出版記念会に出る。こんな会に出るものではなし」(前掲書より)
と記しました

ランボウは、
建設社の企画で進行していた
「ランボウ全集」全3巻の
第1巻「詩」の翻訳のことで
第2巻「散文」を小林秀雄、
第3巻「書簡」を三好達治
という分担で進んでいました

この翻訳に集中するために
山口に帰省し
年を越しての作業に専念することになりますが
1935年3月から
毎月1巻ずつ刊行の予定だったこの計画は
出版自体が頓挫し
実現されませんでした

1934年11月28日付け、前川佐美雄宛書簡には
「小生ランボウの翻訳にて毎日六時間はつぶれ、へとへとになつてゐます」(前掲書より)
と記しています

以上のほかに
「山羊の歌」の刊行のために
時間を費やしました
装丁を急遽、
高村光太郎に依頼することになり
11月15日から28日の間には
文圃堂書店社主・野々上慶一と直談判し
出版交渉を成立させました

刷り上った詩集を
予約者へと発送し、
寄贈本への署名を終えて
山口へ向ったのは
12月10日の夜でした

四谷・花園アパートに居住中のことです
多くの文学者、芸術家の
出入りがあったことが推察されますし

「歴程」の主宰者、草野心平を通じて
檀一雄を知り
檀を通じて、
太宰治を知ったのもこの頃です

一つひとつの仕事が達成されてゆく、
という歓びや充実感もあったのでしょうが
ひたすらめまぐるしく
遮二無二、動き回っていたというのが
実際だったかもしれません

机に向かい
詩作し
翻訳もしたのです
おそらくこれは
深夜の作業であったでしょう

生まれたばかりの長男・文也を
まだ見ていません

(つづく)

 *
 悲しい歌

こんな悪達者な人にあつては
僕はどんな巻添えを食ふかも知れない
僕には智恵が足りないので
どんなことになるかも知れない

悪気がちつともないにしても
悪い結果を起したら全くたまらない
悪気がちつともないのに
悪い結果が起りさうで心配だ

なんのことはない夢みる男にとつて
悪達者な人は罠(わな)に過ぎない
格別鎌を掛けられるのではないのであつても
鎌を掛けられたことになるのだからかなはない

それを思へば恐ろしい気がする
もう何も出来ない気がする
それかといつて穴に這入(はい)つてもゐられず
僕はたゞだんだんぼんやりして来る
          (一九三四・一一・二六)

 2

あゝ、神様お助け下さい!
これははやどうしやうもございません。
貴方(あなた)のお助けが来ない限りは、
これは、どうしやうもございません。

このどうしやうもないことの理由を
一度は詳しく分解して人に示さうとも考へました
その分解から法則を抽(ひ)き出し纏(まと)め、
人々に教へようとも考へました

又はわたしの遭遇する一々の事象を極めて
明細に描出しようとも考へました
しかし現実は果しもなく豊富で、
それもやがて断念しなければならなくなりました。

それから私はもう手の施しやうもなく、
たゞもう事象に引摺(ひきず)られて生きてゐるのでございますが、
それとて其処(そこ)に落付いてゐるのでもなく、
搗(か)てて加へて馬鹿さの方はだんだん進んで参るのでございます

かくて今日はもう、茲(ここ)に手をついて、
私はもう貴方のお慈悲を待つのでございます
そして手をつくといふことが
どのやうなことだかを今日初めて知るやうなわけでございます。

神様、今こそ私は貴方の御前に額(ぬか)づくことが出来ます。
この強情な私奴(め)が、散々の果てに、
またその果ての遅疑・痴呆の果てに、
貴方の御前に額づくことが出来るのでございます。

  ※

扨(さて)斯様(かよう)に御前に額づいてをりますと、
どうやら私の愚かさも、懦弱(だじゃく)の故(ゆえ)に生ずる悪も分つてくるや
うな気も致します、
然しそれも心許(こころもと)なく、
私は猶如何様(いかよう)にしたらよいものか分りません。

  ※

私はもう泣きもしませぬ
いいえ、泣けもしないのでございます
茲にかうしてストイック風に居りますことも
さして意趣あつてのことではございません

せめてこのやうに足痛むのを堪(こら)へて坐つて、
呆(ほう)けた心を引き立ててゐるやうなものでございます。

  ※

妻と子をいとほしく感じます
そしてそれはそれだけで、どうすることも出来ないし
どうなることでもないと知つて、
どうしようともはや思ひも致しません

而(しか)もそれだけではどうにも仕方がないと思つてをります……

  3

僕は人間が笑ふといふことは、
人間が憎悪を貯(た)めるゐるからだと知つた。
人間が口を開(あ)くと、
蝦茶色(えびちゃいろ)の憎悪がわあツと跳び出して来る。

みんな貯まつてゐる憎悪のために、
色々な喜劇を演ずるのだ。
たゞその喜劇を喜劇と感ずる人と、
極(ご)く当然の事と感ずる馬鹿(ばか)者との差違があるだけだ。

私は見た。彼は笑ひ、
彼は笑つたことを悲しみ、
その悲しんだことをまた大したことでもないと思ひ、
彼はたゞギヨツとしてゐた。

私は彼を賢者だと思ふ
(そしたら私は泣き出したくなつた)

私は彼に、何も云ふことはなかつた
而も黙つて何時まで会つてゐることは危険だと感じた。

私は一散に帰つて来た。

  ※

私はどうしやうもないのです。

  ※

あゝ、どうしやうもないのでございます。

         (一九三四・一一・二六)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月18日 (火)

草稿詩篇1933―1936<30>別離

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「別離」は
1934年11月13日の日付をもつ作品
全5節21連の
中原中也としては中位の長さの詩です

この頃だれか特定の人との別れがあったのか
近く決まっている帰省がきっかけになって
別離の詩を生むことになったのか
それまでに経験した
だれかとの別離のことか
もっともっと古い別れのことか
それらをひっくるめた別離の物語なのか

まっさきに
浮んでくるのは
「在りし日の歌」の中の「三歳の記憶」です

あゝ 怖かつた怖かつた
――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家(となり)は空に 舞い去ってゐた!
隣家(となり)は空に 舞い去ってゐた!

という最終連は
「別離」の第1節第3連の

さよなら、さよなら!
  僕、午睡(ひるね)の夢から覚めてみると
  みなさん家を空(あ)けておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

このシーンと重なります

ここで
中原中也の
誕生から幼年期について
弟思郎が記していることに
注目しておきましょう

中原中也の一生は、故郷との関係で、三つの時期に分かれる。
一、幼年期(出生より小学校入学まで―6年間)
 中也は、明治40年4月29日、山口市で生まれた。6か月後、旅順に赴く。以後、柳樹屯―広島(この間6か月間、山口)―金沢と、父の任地に随い、小学校入学時に山口に帰る。幼年時山口にいた期間は、前後1年間で、大部分は故郷山口を離れた父母の膝下にある異郷にいた。幼時原体験、幼時原風景のほとんどは故郷以外のところにあった。(以下略)
(学燈社「中原中也必携」所収「事典・中也詩と故郷 中原思郎」より、1979)

すでによく知られたことですが
中原中也は
小学校入学まで
「土着民」ではなく
「漂流者」であった、
ということが
以上の発言から理解できます

「三歳の記憶」は
ある日昼寝から目覚めたら
隣の家が引っ越した後で
もぬけのカラになっていて
その森閑(しんかん)としたたたずまいが
幼心に恐怖感をもって受け止められ
その後もずっと
その時のイメージが残って
一種トラウマとなっている状態を
歌ったものであったことが思い合わされますし

「別離」のこの第1節第3連も
同じ思い出を歌ったものに違いありません

幼時に体験した
引っ越し=別離の
怖かった思い出と
帰郷の列車を
見送りにきた女性との別離と……
まったく関係のないはずの二つの別離が
ダブルイメージとなる
不思議な世界の出だしです

そもそも
だれに、さよならし
だれに、お世話になりました
と言っているのでしょうか
ここに出てくる女性は
だれでしょうか

奥さんの孝子ではありませんし
母堂のフクでもありませんし
……
長谷川泰子でしょうか
それとも、交流のあった他の女性でしょうか

そうではなく
「東京の女性」を
架空につくって
その女性に別れの挨拶をしているつもりなのでしょうか

第2節に入っても
幼時の思い出が
次々に浮んできます
日向ぼっこをしながら爪をカットしたあの日
芝のある庭
薄日のさす静かな昼下がり
栗を食べました

陽に干したおひつが乾いて
裏山ではカラスがのんきな声で鳴いていました

なんでも
思い出します
なんでも思い出しますが……

いや
どうしても言えないことがあります
思い出すけれど
これだけは言えません
言わないでしょう、と
なにやら
人に言えない秘密を
思い出してしまいました
……

第3節は
その秘密を明かしているのでしょうか

幼い日の
どうやら
初恋というには子どもであり過ぎて
どうやら
性的というには
エロチック過ぎる経験のことでしょうか

その手、その脣(くち)、その唇(くちびる)の、
  いつかは、消えて、ゆくでせう

この
初々しくも
性的な匂いのする
忘れることができない
虹と花の思い出!

それを
(霙とおんなじことですよ)
と思えるのは
現在の詩人なのでしょうか

第4節では
がんばっている僕が
ついに本音を出して
キントンのような甘いものが食べたい
と、きっと母へ言ってみたものの
無理を言ってしまった
とすぐさま反省する優等生だった僕の思い出……

第5節は
見送ってくれた友へ
いや
付き添ってくれた母へ

ではもう、此処からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、

と意地でも
自力で行くからと
さよならを言いますけれど
もっとほかの話もできたはずなのに
と思ってみたり
いや、やっぱり、できないできない
あれやこれや
悔いが残り……

それにしても
目の覚めるように
あでやかなパラソルを
クルクルっとまわすあなたがまぶしい
目の裏に焼きついて離れません

 *
 別離


さよなら、さよなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたねえ
  いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡(ひるね)の夢から覚めてみると
  みなさん家を空(あ)けておいでだつた
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
  そして明日(あした)の今頃は
  長の年月見馴れてる
  故郷の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまり眩(まぶ)しいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る

さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!

        (一九三四・一一・一三)

  2

 僕、午睡から覚めてみると、
みなさん、家を空けてをられた
 あの時を、妙に、思ひ出します

 日向ぼつこをしながらに、
爪摘(つめつ)んだ時のことも思ひ出します、
 みんな、みんな、思ひ出します

芝庭のことも、思ひ出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思ひ出します

干された飯櫃(おひつ)がよく乾き
裏山に、烏が呑気に啼いてゐた
あゝ、あのときのこと、あのときのこと……

 僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
 でも、わけても思ひ出すことは

わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう

  3

忘れがたない、虹と花
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花

どこにまぎれてゆくのやら
  どこにまぎれてゆくのやら
  (そんなこと、考へるの馬鹿)

その手、その脣(くち)、その唇(くちびる)の、
  いつかは、消えて、ゆくでせう
  (霙(みぞれ)とおんなじことですよ)

あなたは下を、向いてゐる
  向いてゐる、向いてゐる
  さも殊勝らしく向いてゐる

いいえ、かういつたからといつて
  なにも、怒(おこ)つてゐるわけではないのです、
  怒つてゐるわけではないのです

忘れがたない虹と花、
  虹と花、虹と花、
  (霙とおんなじことですよ)

  4

 何か、僕に、食べさして下さい。
何か、僕に、食べさして下さい。
 きんとんでもよい、何でもよい、
 何か、僕に、食べさして下さい!

いいえ、これは、僕の無理だ、
  こんなに、野道を歩いてゐながら
  野道に、食物(たべもの)、ありはしない。
  ありません、ありはしません!

  5

向ふに、水車が、見えてゐます、
  苔むした、小屋の傍、
ではもう、此処からお帰りなさい、お帰りなさい
  僕は一人で、行けます、行けます、
僕は、何を云つてるのでせう
  いいえ、僕とて文明人らしく
もつと、他(ほか)の話も、すれば出来た
  いいえ、やつぱり、出来ません出来ません

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年5月17日 (月)

草稿詩篇1933―1936<29>月下の告白・青山二郎に

「月下の告白 青山二郎に」は
「秋岸清凉居士」と同じ日
1934年10月20日の日付をもつ作品で、
内容も同じく、
1931年9月に亡くなった弟・恰三を追悼した詩です

この日の2日前である
1934年10月18日に
第一子が誕生しました
詩人は18日の日記に
「八白先勝、みづのえ。午後一時 男児生る。」
とだけ記しています

詩人は、
長男の誕生を電報で知りますが
この18日の夜は
青山二郎、竹田鎌二郎と
新宿、銀座、日本橋を飲み歩いたことが
この竹田鎌二郎の日記に書かれていて
祝杯のシーンを想像することができます

新編全集には
青山二郎が
この詩を中也が制作した翌日19日に
金沢へ骨董の買い出し旅行に出かけたため
かねて詩人が青山に依頼しておいた
「山羊の歌」の装丁を
急遽、高村光太郎に変更したいきさつが
考証されています

詩人が
初めての子に対面するのは
「山羊の歌」が刊行された年末に
ようやく帰省してからのことで
この頃、超多忙な日々を
強いられていたことがわかります

このようなせわしない暮らしの中で
「秋岸清凉居士」と
「月下の告白 青山二郎に」は
同日に書かれたことに
驚きを覚えざるを得ません

「死」についての論議が
青山二郎らとの間で
交わされたのでしょうか
または
ほかの理由が
詩人の内部にあったのでしょうか

弟の死を悼む詩は
すでに
「ポロリポロリと死んでゆく」
「疲れやつれた美しい顔」
「死別の翌日」
「梅雨と弟」
「蝉」
があり、

この年の4月28日に作られた
「骨」をはじめとする
死者との交流を歌った作品や
やがては
長男文也を失って歌う追悼詩の群れへ、

そして多数の「在りし日」を歌う
大きな流れを
形成していく様相を見せはじめています


 月下の告白
    青山二郎に

劃然(かくぜん)とした石の稜(りよう)
あばた面(づら)なる墓の石
蟲鳴く秋の此の夜さ一と夜
月の光に明るい墓場に
エジプト遺跡もなんのその
いとちんまりと落居(おちい)てござる
この僕は、生きながらへて
此の先何を為すべきか
石に腰かけ考へたれど
とんと分らぬ、考へともない
足の許(もと)なる小石や砂の
月の光に一つ一つ
手にとるやうにみゆるをみれば
さてもなつかしいたはししたし
さてもなつかしいたはししたし
      (一九三四・一〇・二〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)   

草稿詩篇1933―1936<28>秋岸清凉居士

「秋岸清凉居士」は
2009年3月23日付で
「青山二郎への献呈詩/月下の告白」と題して
すでに案内し、
以後も、「月下の告白」に関する一連の
コメントの中などで
幾度かふれました

「草稿詩篇(1931年―1936年)」の配置順に
時間軸に沿って一つひとつを読んできて
また、ここに辿りついたわけですが

「魂の動乱時代」と
親友・安原喜弘が名づけた
危機の時代を脱出し、
結婚して、第一子が生誕し、
詩集「山羊の歌」を刊行し
詩壇からの評価もようやく定まってきたこの頃に
1931年9月に死んだ
弟・恰三を悼む詩をはじめ
「在りし日」を歌う詩篇が
数多く制作されたということは
いまだに一つの謎です

 *
 秋岸清凉居士

消えていつたのは、
あれはあやめの花ぢやろか?
いいえいいえ、消えていつたは、
あれはなんとかいふ花の紫の莟(つぼ)みであつたぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟みであつたぢやろ

     ※

とある侘びしい踏切のほとり
草は生え、薄(すすき)は伸びて
その中に、
焼木杭(やけぼつくひ)がありました

その木杭に、その木杭にですね、
月は光を灑(そそ)ぎました

木杭は、胡麻塩頭の塩辛声(しよつかれごえ)の、
武家の末裔(はて)でもありませうか?
それとも汚ないソフトかぶった
老ルンペンででもありませうか

風は繁みをさやがせもせず、
冥府(あのよ)の温風(ぬるかぜ)さながらに
繁みを前を素通りしました。

繁みを葉ッパの一枚々々
伺ふやうな目付して、
こつそり私を瞶(みつ)めてゐました

月は半月(はんかけ) 鋭く光り
でも何時もより
可なり低きにあるやうでした

蟲(むし)は草葉の下で鳴き、
草葉くぐつて私に聞こえ、
それから月へと昇るのでした

ほのぼのと、煙草吹かして懐で(ふところ)で、
手を暖(あつた)めてまるでもう
此処(ここ)が自分の家(うち)のやう
すつかりと落付きはらひ路の上(へ)に
ヒラヒラと舞ふ小妖女(フエアリー)に
だまされもせず小妖女(フエアリー)を、
見て見ぬ振りでゐましたが
やがてして、ガックリとばかり
口開(あ)いて後ろに倒れた
頸(うなじ) きれいなその男
秋岸清凉居士といひ――僕の弟、
月の夜とても闇夜ぢやとても
今は此の世に亡い男

今夜侘びしい踏切のほとり
腑抜(ふぬけ)さながら彳(たつ)てるは
月下の僕か弟か
おほかた僕には違ひないけど
死んで行つたは、
――あれはあやめの花ぢやろか
いいえいいえ消えて行つたは、
あれはなんといふ花の紫の莟ぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟か知れず
あれは果されなかつた憧憬に窒息しをつた弟の
弟の魂かも知れず
はた君が果されぬ憧憬であるかも知れず
草々も虫も焼木杭も月もレ-ルも、
いつの日か手の掌(ひら)で揉んだ紫の朝顔の花の様に
揉み合はされた悉皆(しつかい)くちやくちやにならうやもはかられず
今し月下に憩(やす)らへる秋岸清凉居士ばかり
歴然として一基の墓石
石の稜(りよう)劃然くわくぜん)として
世紀も眠る此の夜さ一と夜
――虫が鳴くとははて面妖(めんよう)な
エヂプト遺蹟もかくまでならずと
首を捻(ひね)つてみたが何
ブラリブラリと歩き出したが
どつちにしたつておんなしことでい
さてあらたまつて申上まするが
今は三年の昔の秋まで在世
その秋死んだ弟が私の弟で
今ぢや秋岸清凉居士と申しやす、ヘイ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<27>詠嘆調

1934年(昭和9年)4月22日の日付をもつ
4篇の詩、
「昏睡」
「夜明け」
「朝(雀の声が鳴きました)」
「狂気の手紙」
を制作してまもなくの1934年5月のある日、
中原中也は
昭和2年(1927年)12月を最後につけるのをやめていた
日記を再開します

大岡昇平は
中原中也のこの日記再開の理由について

こうして文学社会と交際が出来たことから、再び環境との間に摩擦が生じ、種々の感想が生れた。昭和2年以来7年振りで日記をつけはじめる。
(角川文庫「中原中也」所収「中原中也全集解説・日記・評論」)

と記しています。

「文学社会と交際ができた」とは、
近くは、
1933年(昭和8年)末の結婚を機に
四谷区花園町の花園アパートへ
転居したことからはじまった文学的交流のことであり、
ここには主の青山二郎をはじめ、
小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、中村光夫らが
入れ替わり立ち替わり出入りしてしましたし、
遠くは、
小林秀雄や河上徹太郎らの
文壇での活動や
同人誌「紀元」などへの参加や
「半仙戯」「四季」「日本歌人」などへの
詩の発表を通じて
盛んになった文学的活動のことです

詩作そのものからの必要というより
文学者との交流が広がるに連れて
社会的な摩擦が生じ、
それらを整理し、
記録する必要に迫られて
日記が再開された、
という位置づけになります

「詠嘆調」の制作日は
1934年から1935年前半の間と
幅広く推定されていますから、
日記に書かれた状況との
因果関係を特定するのは
そもそも非常に困難です

ですから
社会との軋轢(あつれき)と
結婚生活の間に生れる
焦燥とか苦悩とか……が
「詠嘆調」に歌われているものとは
一概には言えないものがありまして
冒頭にいきなり飛び出してくる
「悲しみ」は
詩人がそれまでの長い間抱き続けてきたものと
受け取るのが自然でしょう

詩の前半部は
ことさらこの時期の状況から
突然生れたものではない
ずっとこれまでもあった悲しみ
これからもずっと続くものであろう
悲しみを歌います

後半部の
「夜は早く寐(ね)て、朝は早く起きる!」で
パートナーの孝子のものと思われる発言が登場し
俄然、この時期の状況とつながる
生活感覚が現れますが
これもすぐさま、
昔の、小学校の先生の言葉へと
オーバーラップしてゆき、
「夕空霽(は)れて、涼虫(すずむし)鳴く」という
音楽の授業で唱歌を歌った時間へとさかのぼり
次いで
「腰湯がすんだら、背戸(せど)の縁台にいらつしやい。」と
中原家の家族の時間へと移動していきます

こうした時間は
詩人に
意志とは何の、関係もないのでした……
という詠嘆を吐かせるものでした
こうした時間は
いまも……

かくして
悲しみは
長く続いてきたものでしたが
これからはどうなっていくのやら
ああ!

 *
 詠嘆調

悲しみは、何処までもつづく
蛮土の夜の、お祭りのやうに、その宵のやうに、
その夜更のやうに何処までもつづく。

それは、夜と、湿気と、炬火(たいまつ)と、掻き傷と、
野と草と、遠い森の灯りのやうに、
頸(うなじ)をめぐり少しばかりの傷を負はせながら過ぎてゆく、

それは、まるで時間と同じものでもあるのだらうか?
胃の疲れ、肩の凝りのやうなものであらうか、
いかな罪業のゆゑであらうか
この駱駅(らくえき)とつづく悲しみの小さな小さな無数の群は。

それはボロ麻や、腓(ハギ)に吹く、夕べの風の族であらうか?
夕べ野道を急ぎゆく、漂泊の民(たみ)であらうか?
何処までもつづく此の悲しみは、
はや頸を真ッ直ぐにして、ただ諦めてゐるほかはない。……

     ※

「夜は早く寐(ね)て、朝は早く起きる!」
――やるせない、この生計(なりはひ)の宵々に、
煙草吹かして茫然と、電燈(でんき)の傘を見てあれば、
昔、小学校の先生が、よく云つたこの言葉
不思議に目覚め、あらためて、
「夜は早く寐て、朝は早く起きる!」と、
くちずさみ、さてギョッとして、
やがてただ、溜息を出すばかりなり。

「夜は早く寐て、朝は早く起きる!」
「夕空霽(は)れて、涼虫(すずむし)鳴く」
「腰湯がすんだら、背戸(せど)の縁台にいらつしやい。」
思ひ出してはがつかりとする、
これらの言葉の不思議な魅力。
いかなる故にがつかりするのか、
はやそれさへ分りはしない。

「夜は早く寐て、朝は早く起きる!」
僕は早く起き、朝霧よ、野に君を見なければならないだらうか。
小学校の先生よ、僕はあなたを思ひ出し、
あなたの言葉を思ひ出し、あなたの口調を、思ひ出しさへするけれど、
それら悔恨のやうに、僕の心に浸(し)み渡りはするけれど、
それはただ一抹の哀愁となるばかり、
意志とは何の、関係もないのでした……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月15日 (土)

草稿詩篇1933―1936<26>狂気の手紙・再読

「狂気の手紙」は
2009年8月27日に
一度読みました

「昏睡」
「夜明け」
「朝(雀の声が鳴きました)」の3篇と
同じ1934年4月22日に制作された、
ということを知って
もう一度読むと
新たなことが見えても来ます

この詩だけに
単独で向き合えば
なんだか
深刻な狂気の世界に導かれますが
4篇の作品を並べて読むと
それぞれの作品が
明確な意識の元に
コントロールされ
詩=表現の意志に貫かれていることが
あらためて
理解できます

それぞれの詩が
相対化されるわけですが
「狂気の手紙」は
よく読むと
論理的ですらあることがわかります

それは
考えてみれば
当たり前のことなのですが

詩は
多かれ少なかれ
言葉で作る建造物のようなものでもありますから
「論理」がなくては
建ってもいられませんから
建っているためには
「論理」を構築しなければなりませんし

ぎすぎすした「論理」を
あばら骨が見えるようには
見せたくないのであれば
「論理」を見せない詩法を、
実はこれも「論理」の一つですが
編み出さなければなりませんから

どっちを取るにしても
「論理」に基づきますし
どちらも取るという詩法もあるかもしれませんが
どちらも取らないという詩法を編み出すには
新たな「論理」が要るに違いありませんから
ここでまた「論理」を求めることになります

こんなことを
くどくどくどくど
書いているのも
お葱や塩や
キンポーゲや
タンポポや煙の族や
メリーゴーランドや……

これらの詩のパーツ
詩を形づくっている一つひとつの言葉が
ちっとも
論理的ではなく
その場その場の思いつきで
とりとめもなく
非論理的で感覚的に
使われているようでありながら
詩そのものが論理的である
とはどういうことかと
「狂気の手紙」のパーツを追いかけているうちに
こちらが論理的な姿勢になっていることに
気づかされるからです

キンポーゲといえば
金鳳花と書き
「アルカロイドを含み有毒植物が多い」(ウィキペディア)と記される
キンポウゲ科の植物のことで
仲間に
トリカブト
オダマキ
フクジュソウ
クリスマスローズ
イチリンソウ
アネモネ
レンゲショウマ
……
とあるのを見れば
ピンと来る人も多いに違いない
一連のグループの花であり
キンポウゲは
「科」の名になっているほど
このグループの代表なのです

此度(こたび)は気がフーッと致し

キンポーゲとこそ相成候(あいなりそうろう)


に、詩人が込めた意味は明瞭で
気持ちがフーッとなって
キンポウゲでも食べたみたいに
おかしな気分になっちゃいまして

ま、野原の香り草に春の空の気分てなもんで
なんの理由があるわけではありません
タンポポや、煙のヤカラと同じことになっちゃっただけのことで
そこんところを
一筆書いてお知らせしておこうと思いましただけで。

タンポポは
根を煎じて、コーヒーのようにして飲んだりもしますし
野生するハーブの一つでもありますし
その流れで
煙の族とは
煙草のように煙を吸引すると
フラフラっとすることが知られている
薬草や大麻の類かもしれませんし
そうでなくとも
煙草そのものと考えてもよいでしょう
最終連には
羅宇(ラウ)換へのことが出てきますし

羅宇(ラウ)換へ、とは
キセル(煙管)の
きざみタバコを詰める火皿と吸い口とをつなぐ
竹で作られた部分のことで
キセルは使うたびに
ヤニで汚れるので
しょっちゅう手入れが必要で
火皿や吸い口の部分は
布切れなどで掃除すればよいのですが
羅宇(ラウ)の部分は
時々、取り替えなければならないのです

この、
羅宇(ラウ)換へや紙芝居のことなぞ
というのは、
日常生活上のこまごまとした
趣味趣向・たしなみ・好物・遊びなどの
一部始終のことで

お葱や塩のこと
地球のこと、メリーゴーランドのこと
お鉢のこと、火箸のこと
……も

日々の暮らしの食べ物のことから
物見遊山から地球のことまで
なんでもかんでも
一切合財を
お話してさしあげましょう

ということを
表現しようとしているだけで
裏返せば
いろいろと
話したいことが溜まっちゃったから
会ってぜひとも話したい
と訴えている詩なのかもしれません

早速参上、羅宇(ラウ)換へや紙芝居のことなぞ

詳しく御話し申上候


が、会って話したい、
と言っていることは明白ですね

 *
 狂気の手紙

袖の振合い他生の縁
僕事、気違ひには御座候(ござさうら)へども
格別害も致し申さず候間
切角(せっかく)御一興とは思召され候て
何卒(なにとぞ) 気の違つた所なぞ
御高覧の程伏而懇願仕候(ふしてこんがんつかまつりそうろう)

陳述(のぶれば) 此度(こたび)は気がフーッと致し
キンポーゲとこそ相成候(あいなりそうろう)
野辺の草穂と春の空
何仔細あるわけにも無之(これなく)処
タンポポや、煙の族とは相成候間
一筆御知らせ申上候

猶(なお)、また近日日陰なぞ見申し候節は
早速参上、羅宇(ラウ)換へや紙芝居のことなぞ
詳しく御話し申上候
お葱(ねぎ)や塩のことにても相当お話し申上候
否、地球のことにてもメリーゴーランドのことにても
お鉢のことにても火箸のことにても何にしても御話申上可(もうしあぐべく)候怱々(そうそう)
                 (一九三四・四・二二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月13日 (木)

草稿詩篇1933―1936<25>朝(雀の声が鳴きました)

「朝(雀の声が鳴きました)」は
「昏睡」
「夜明け」
「狂気の手紙」とともに
1934年4月22日の日付をもつ作品です

「狂気の手紙」を除く3篇は
「いちぢくの葉(夏の午前よ、いちぢくの葉よ)」とともに
小林秀雄が編集責任者であった
季刊誌「創元」の第1輯に掲載されました

「創元」は
昭和21年12月30日に発行されたもので
制作されてから12年後の
没後発表作品ということになります

「夜明け」と近似する内容ですが
こちらのほうが
やや定型を志向し
3-4-3-4の中に収められましたし

鳴きました
朝でした
思ひました
ゐました
ありました
をりました
をりました
という
丁寧語(ですます調)で
過去形を連続使用して

心が泣いてをりました
というリフレイン

そして
最終行を
僕の心は泣いてゐた
と、丁寧語を解除して
である調で断言的に
過去形で結びました

その上に
お葱(ねぎ)が欲しいと思ひました
とか
焼木杭(やけぼつくい)や霜のやう
とか……
詩人独特の「喩(ゆ)」が
交ざります

もはや
かがやかしい朝ではなく
何が悲しいのか
わからないまま
心は泣いている朝なのです

油煙まじりの煙、とは、
吹かれて
どこかに飛んでいってしまうような
はかなげな煙ではなくて
吹かれても吹かれても
尾を引いたように
すじとなって流れるような
粘り気のある煙のことでしょうか

その油煙のように
焼木杭(やけぼつくい)のように
霜のように
僕の心は泣いていた

雀が鳴き、雨があがった朝でしたが
ぼくは、大好物の葱が
無性に食べたいのです

 *
 朝

雀の声が鳴きました
雨のあがつた朝でした
お葱(ねぎ)が欲しいと思ひました

ポンプの音がしてゐました
頭はからっぽでありました
何を悲しむのやら分りませんが、
心が泣いてをりました

遠い遠い物音を
多分は汽車の汽笛の音に
頼みをかけるよな気持

心が泣いてをりました
寒い風に、油煙まじりの
煙が吹かれてゐるやうに
焼木杭(やけぼつくい)や霜のやう僕の心は泣いてゐた

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<24>夜明け

98

「昏睡」と同日に制作された詩篇は
ほかにも
「夜明け」
「朝(雀の声が鳴きました)」
「狂気の手紙」があり
1934年4月22日制作の詩篇は
合計4篇あるということになります

このうちの
「狂気の手紙」を除く3篇は
「いちぢくの葉(夏の午前よ、いちぢくの葉よ)」とともに
季刊誌「創元」第1輯(昭和21年12月30日発行)に
掲載されました

中原中也没後の発表になり、
「生前発表詩篇」には分類されませんから
「未発表詩篇」に集められています

「創元」は
小林秀雄が編集責任者であり
戦後における、
最も早い中原中也への案内であり評価、
ということになりますが、
それは
当たり前すぎることです

大岡昇平が
フィリピン戦線から帰還し
「俘虜記」を刊行するのは
昭和23年ですから、
中原中也の詩を公開するのにふさわしいのは
小林秀雄以外に
そう多くは存在しなかったことでしょう

小林秀雄は
少なくとも文壇の中枢に
存在していました

敗戦の
廃墟の中に
戦争を経験しないで死んでいった詩人が
27歳の時に書いた詩が
どのように読まれ
受け入れられたのでしょうか

「夜明け」は、
人々が、
まだ誰も起きださない朝に
近くで雀が鳴き
遠くで鶏が鳴き始め
……
やがて
釜戸を焚く音がして
新聞配達が新聞を投げ込む音がして
牛乳配達の車が音がして
しまいには
カラスも鳴き出す

たわいもない
朝の風景を
歌っているのですが
それが
敗戦の廃墟に暮らす人々に
新鮮な響きをもって
読まれることは
なんの不思議ではないような気がします

無論
詩人が
この詩を歌った時
そんなことを夢にも思っていませんでしょうが
廃墟の中で
この詩を読んだ人が
なにかしら
生きている実感を抱いたり
元気が出てくるのを感じたりするのも
なんの不思議ではないような気がします

小林秀雄も
必ずや
そんなことを
「夜明け」に感じたのではないでしょうか

第2連第4行にある「顕心的」は
どうも
中原中也特有の造語であるらしく
「こころを顕(あらわ)にする」の意味と取るのが習いで
したがってこの行は
御影石が雨に濡れて、
こころを見せている、というほどの意味になります

 *
 夜明け

夜明けが来た。雀の声は生唾液(なまつばき)に似てゐた。
水仙は雨に濡れてゐようか? 水滴を付けて耀(かがや)いてゐようか?
出て、それを見ようか? 人はまだ、誰も起きない。
鶏(にはとり)が、遠くの方で鳴いてゐる。――あれは悲しいので鳴くのだらうか?
声を張上げて鳴いてゐる。――井戸端はさぞや、睡気(ねむけ)にみちてゐるであらう。

槽(おけ)は井戸端の上に、倒(さかし)まに置いてあるであらう。
御影石(みかげいし)の井戸側は、言問ひたげであるだらう。
苔は蔭の方から、案外に明るい顔をしてゐるだらう。
御影石は、雨に濡れて、顕心的であるだらう。
鶏(とり)の声がしてゐる。遠くでしてゐる。人のやうな声をしてゐる。

おや、焚付(たきつけ)の音がしてゐる。――起きたんだな――
新聞投込む音がする。牛乳車(ぎうにうぐるま)の音がする。
((えー……今日はあれとあれとあれと……?………))
脣(くち)が力を持つてくる。おや、烏(からす)が鳴いて通る。
                           (一九三四・四・二二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年5月11日 (火)

草稿詩篇1933―1936<23>昏睡

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1934年の中原中也は
どのような活動をしたか
角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」の
年譜を見ておきましょう

昭和9年(1934年) 27歳
「紀元」「半仙戯」への詩の発表が続く。
「四季」「鷭」「日本歌人」などにも多数発表。
2月 「ピチベの哲学」、6月「臨終」など。
9月、建設社の依頼でランボーの韻文詩の翻訳を始める。同社による「ランボー全集」全3巻(第1巻 詩 中原中也訳、第2巻 散文 小林秀雄訳、第3巻 書簡 三好達治訳)の出版企画があったためである。中也は暮れに帰省し、翌年3月末上京するまで山口で翻訳を続けたが、この企画は実現しなかった。
10月18日長男文也が生まれる。
11月、このころ「歴程」主催の朗読会で「サーカス」を朗読。草野心平を知る。
この月、「山羊の歌」出版が文圃堂に決まる。草野の紹介で、高村光太郎に装幀を依頼。またこのころ、檀一雄を知り、檀の家で太宰治を知る。
12月、高村光太郎の装幀で文圃堂より「山羊の歌」を刊行。限定200部。うち、市販150部。発送作業後山口に帰省し、文也と対面する。翌年3月まで滞在し、「ランボー全集」のための翻訳に専念する。
(洋数字への変更や改行の追加などを施してあります=編者)

前年12月に結婚し、
新宿・四谷の花園アパートで生活する詩人でした

10月には長男が生まれました
詩の発表も活発化、
文学者との交流を盛んに行い
ランボーの翻訳では
帰省して専念するほど熱を入れました
12月には、「山羊の歌」を出版しました

「昏睡」は
このような年の
4月に制作されましたが、
このような年の前年12月に
詩人は結婚しましたから
結婚約5か月後の作品ということになります

年譜に見られる
充実し安定し活発な
詩人の活動とはうらはらに
「昏睡」が歌っているのは
「何ももう要求がないといふ」
ニヒルな
無感動な状態です

単に、
無感動ということでもなく

記憶といふものが
もうまるでない
往来を歩きながら
めまひがするやう

どこか
遠いところへまぎれてしまったのだか
昨日まであったことが
今とまったく関係のない過去になってしまったのだか
記憶というものが
なんにもなくなってしまって
道を歩いていても
すべてが見知らぬもので
すべてが新しすぎて
すべてがよそよそしくて
めまいがする

僕の心が
滅びてしまったのか
僕の夢が
滅びてしまったのか

君たちが
なんだか言っていたようだ
ぼんやり思い出す
確かに
君たちがなんだかんだと言っていたようだが……

泥のような眠りの底から
記憶をよみがえらせようとすると
ようやく
ぼんやりと
君たちの声がボソボソ言うのが聞こえてくる

何か言っていたねえ、そういえば……

 *
 昏睡

亡びてしまつたのは
僕の心であつたらうか
亡びてしまつたのは
僕の夢であつたらうか

記憶といふものが
もうまるでない
往来を歩きながら
めまひがするやう

何ももう要求がないといふことは
もう生きてゐては悪いといふことのやうな気もする
それかと云つて生きてゐたくはある
それかと云つて却に死にたくなんぞはない

あゝそれにしても、
諸君は何とか云つてたものだ
僕はボンヤリ思ひ出す
諸君は実に何かかか云つてゐたつけ
             (一九三四・四・二二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年5月 9日 (日)

草稿詩篇1933―1936<22>玩具の賦(昇平に)

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「草稿詩篇(1933年―1936年)」中の 1933年制作(推定)詩篇を読み終えて ようやく 1934年に入ります その一番目に 1934.2の日付をもつ 「玩具の賦(昇平に)」があります この詩については 2009年9月7日から10月12日にかけて 「ダダのデザイン」という枠の中で 合計7回にわたって 書きましたが 言い足りなかったことが まだまだたくさん残っている感じがあります 言い足りなかったことの中で 最も重要なことの一つが 「玩具の賦(昇平に)」という詩への ダダイスト辻潤の影響です 「玩具の賦(昇平に)」にある 「玩具」は 辻潤が 読売新聞に寄稿して 1924年(大正13年)7月22日から24日の3日間 連続して掲載された 「惰眠洞妄語」(だみんどうもうご)という標題の論文の中に 書かれてあるのです これを 中原中也はどのようにして読んだのか 「玩具の賦(昇平に)」を制作した 1934年2月に どのような経緯で 「惰眠洞妄語」に書かれた 「芸術は玩具だ」という1節を想起したのでしょうか 約10年の歳月が流れていますが 論文連載時に読んだものか それとも 論文掲載以後に なんらかの理由があって読んだのか わかっていないのですが これを読んだかどうかは別にしても 中原中也が 辻潤の「玩具=芸術論」を 聞き知っていたことは 確かなことでしょう 辻潤は 高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉」を編集し 刊行をサポートしたことでも知られる ダダイズムの思想家で 中原中也は 京都時代に「ダダイスト新吉」を読んで ひどく感激し 以後、ダダイストを自称するほどに 強い影響を受けたのですし、 中原中也の 1927年(昭和2年)9月11日の日記には (辻潤を訪問す)と記していて 実際に会っているほどの間柄でもありますし この時の会見によって 「芸術=玩具論」を 知ったのかもしれませんし 真実のところは わかっていませんが 1934年という年に 道化歌が多く書かれたと 大岡昇平らが指摘していることの背景には やはり ダダの影がある ということを証(あか)すものでしょう そのことを証明する作品として 「玩具の賦(昇平に)」は現れました そうであるなら  中原中也の ダダのデザインの 有力な根拠を 「惰眠洞妄語」に見出すことができるというわけで これは大発見になります  *  「玩具の賦(昇平に)」      どうともなれだ 俺には何がどうでも構はない どうせスキだらけぢやないか スキの方を減(へら)さうなんてチャンチャラ可笑(をか)しい 俺はスキの方なぞ減らさうとは思はぬ スキでない所をいつそ放りつぱなしにしてゐる それで何がわるからう 俺にはおもちやが要るんだ おもちやで遊ばなくちやならないんだ 利権と幸福とは大体は混(まざ)る だが究極では混りはしない 俺は混ざらないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ 月給が増(ふ)えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ 俺にはおもちやがよく分つてるんだ おもちやのつまらないとこも おもちやがつまらなくもそれを弄(もてあそ)べることはつまらなくはないことも 俺にはおもちやが投げ出せないんだ こつそり弄べもしないんだ つまり余技ではないんだ おれはおもちやで遊ぶぞ おまへは月給で遊び給へだ おもちやで俺が遊んでゐる時 あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふはよいが それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは 滑稽だぞ 俺はおもちやで遊ぶぞ 一生懸命おもちやで遊ぶぞ 贅沢(ぜいたく)なぞとは云ひめさるなよ おれ程おまへもおもちやが見えたら おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから 文句なぞを云ふなよ それどころか おまへはおもちやを知つてないから おもちやでないことも分りはしない おもちやでないことをただそらんじて それで月給の種なんぞにしてやがるんだ それゆゑもしも此(こ)の俺がおもちやも買へなくなった時には 写字器械奴(め)! 云はずと知れたこと乍(なが)ら おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ 行つたり来たりしか出来ないくせに 行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに 何とか云へるものはないぞ おもちやが面白くもないくせに おもちやを商ふことしか出来ないくせに おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに おもちやを遊んでゐらあとは何事だ おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ おもちやで遊べたら遊んでみてくれ おまえに遊べる筈はないのだ おまへにはおもちやがどんなに見えるか おもちやとしか見えないだろう 俺にはあのおもちやこのおもちやと、おもちやおもちやで面白いんぞ おれはおもちや以外のことは考へてみたこともないぞ おれはおもちやが面白かつたんだ しかしそれかと云つておまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか ありそうな顔はしとらんぞ あると思ふのはそれや間違ひだ 北叟笑(にやあツ)とするのと面白いのとは違ふんぞ ではおもちやを面白くしてくれなんぞと云ふんだろう 面白くなれあ儲かるんだといふんでな では、ああ、それでは やつぱり面白くはならない写字器械奴(め)! ――こんどは此のおもちやの此処(ここ)ンところをかう改良(なほ)して来い! トットといつて云つたやうにして来い!                                  (一九三四.二.) (角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月 4日 (火)

草稿詩篇1933―1936<21-2>朝(雀が鳴いてゐる)再読

「朝(雀が鳴いている)」は
1933年11月初旬に
山口帰省中に作られた(と推定される)作品で、
詩人は
この詩を制作してまもなく
結婚しました

自然に考えれば
この詩の中には
結婚を控えた者の
希望や期待や喜びが
横溢(おういつ)していて
当たり前のことです

ですから
冒頭連の

雀が鳴いてゐる
朝日が照つてゐる
私は椿の葉を想ふ

この3行は
希望や期待や喜びの表現である
と読めますから

私は椿の葉を想ふ
とは、
雀が鳴き朝日が照る
春の朝に
艶やかな緑をたたえて
幸福そうな
つばきの葉のことが思えてくる
という
安定した気持ちを
描写しているものと
受け止めることができます

肉厚な椿の葉の緑が
固有に放つ
安定した幸福感のようなものが
ピタリと言い当てられました

雀が鳴いている
それは
はやく起きて
こんなに希望に満ちた
幸せな時間を
寝ているなんてもったいない
さあ
はやく
この時間に参加して
たっぷりと
味わいなさいよ

まるで
キューピッドのように
何羽もの雀たちが
さわがしいまでに
はやしたてているようですが

でもねえ
待ってよ
そんなにすぐには起きられるものですかってんだ
ぼくはね
潅木の林の中を
走り回っている
夢を見ていたんだよ
それはそれで十分に
楽しかったんだよ

恋人よ
親や家族たちに
距てられている
ぼくの恋人よ
君はどう思うだろうか
……
ぼくはいまでも
君を大切な懐かしい人と思っているよ
懐かしく大切に思っているよ

ああ
雀が鳴いている
朝日が照っている
ぼくは椿の葉のことを思っている

詩人はこのように
幸福な時を
詩に刻んでおこうとした
という読みのほうが
素直かもしれません

そうなってくると
この詩の恋人が
長谷川泰子である可能性は
断然小さくなってきます……

 *
 朝

雀が鳴いてゐる
朝日が照つてゐる
私は椿の葉を想ふ

雀が鳴いてゐる
起きよといふ
だがそんなに直ぐは起きられようか
私は潅木林の中を
走り廻る夢をみてゐたんだ

恋人よ、親達に距(へだ)てられた私の恋人、
君はどう思ふか……
僕は今でも君を懐しい、懐しいものに思ふ

雀が鳴いてゐる
朝日が照つてゐる
私は椿の葉を想ふ

雀が鳴いてゐる
起きよといふ
だがそんなに直ぐは起きられようか
私は潅木林の中を
走り廻る夢をみてゐたんだ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月 3日 (月)

草稿詩篇1933―1936<21>朝(雀が鳴いてゐる)

「朝(雀が鳴いている)」は
「朝(かゞやかしい朝よ)」とともに
1933年11月初旬に
山口帰省中に作られたと推定される作品。

詩人は
この帰省中に
見合いの末
結婚しました

もう少し具体的に言えば
11月2日ごろ山口に帰り
遠縁の上野孝子と見合いし
12月3日に結婚式を挙げました

見合いをする前に
詩人はすでに
結婚を決めていた節があり、
11月初旬に制作された「朝」2篇には
ともに
そのことの反映が
見つかるかもしれません

そうしたことを意識して
この詩を読もうと
読むまいと
この詩がもつ謎のようなフレーズのいくつかからは
想像力をかきたてるに十分な
刺激的な匂いが
はなたれています

私は椿の葉を想ふ
という1行は
その一つですが

恋人よ、親達に距(へだ)てられた私の恋人、
という1行が含まれる
第3連全体は
何を意味しているだろうか

回りくどい言い方はやめて
この恋人とは
長谷川泰子のことではないのか
と、問わない手はありえません

この詩の恋人が
長谷川泰子である可能性は
ないとは言えず
永遠に可能性として残るだけですが
万が一
彼女であるとすれば

雀が鳴いてゐる
という1行
朝日が照つてゐる
という1行
……

私は椿の葉を想ふ
という1行も
……

詩が
ひっくり返るような
転換が起こります

だれが
それを決めるのか
といえば
これを作った詩人に聞けばわかるのですが
それができないのなら
この詩が決めるのですから
何度も何度も
詩を読んでみるほかにありません

私は
いま
寝床の中にいます

それ以外は
詩人の脳裏を去来し
胸中をめぐるものです

 *
 朝

雀が鳴いてゐる
朝日が照つてゐる
私は椿の葉を想ふ

雀が鳴いてゐる
起きよといふ
だがそんなに直ぐは起きられようか
私は潅木林の中を
走り廻る夢をみてゐたんだ

恋人よ、親達に距(へだ)てられた私の恋人、
君はどう思ふか……
僕は今でも君を懐しい、懐しいものに思ふ

雀が鳴いてゐる
朝日が照つてゐる
私は椿の葉を想ふ

雀が鳴いてゐる
起きよといふ
だがそんなに直ぐは起きられようか
私は潅木林の中を
走り廻る夢をみてゐたんだ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<20>朝(かゞやかしい朝よ)

「朝」と題する詩は、
いくつかありますが、
「朝(かゞやかしい朝よ)」と
「朝(雀が鳴いている)」の2篇は、
1933年11月10日付け
安原喜弘宛の書簡の内容などから、
同年年11月初旬制作と
推定されているものです

中原中也は、
1927年(昭和2年)12月15日を最後に
1934年5月になるまで
日記を書きませんでした

そのため
日記の書かれなかった期間の活動は
友人知人宛の書簡・葉書を通じてしか
知ることができないことが多く
安原喜弘宛の書簡・葉書は
極めて貴重です

1933年11月10日付け
安原喜弘宛の書簡を
読んでみましょう

表 東京市目黒区下目黒四丁目八四二 安原喜弘様
裏 十日 山口市湯田 中原中也

 御無沙汰しました お変わりありませんか
 紀元の十二月号まだ印刷屋にも廻つてゐない由云って来ましたが 出せるものならもう二三号は出したいものと思ひます  僕女房もらうことにしましたので 何かと雑用があり 来ていただくことが出来ません 上京は来月半ばになるだらうと思ひます ランボウの書簡とコルビ-エールの詩を少しと訳しました 自分の詩も三つ四つ書きましたが、書直して送る勇気が出る程のものではありません お天気の好い日は、野道を歩きますが、まぶしくて、眼の力が弱つたことを感じます
(以下略)

略した部分には、
コルビエールの
「巴里」という詩(ソネット)の訳詩14行や
「えゝ?」という詩の訳が書かれ
詩人のコメントが付けられています

この書簡の中に
「自分の詩も三つ四つ書きましたが、書直して送る勇気が出る程のものではありません」
とある詩が、
「朝(かゞやかしい朝よ)」と
「朝(雀が鳴いている)」の2篇と推定されています

この2篇の詩の制作日が
1933年11月初旬とされるのは
安原宛のこの書簡と
この2篇の詩篇が書かれた
原稿用紙、筆記具、インク、筆跡が
同じものであることから
書かれた日も同じころであるという
推定ができるからなのです

この2篇ともに
「朝の歌」との「同趣向」を
角川新全集の編集は指摘していますが
1926年の「朝の歌」制作から
すで7年以上が経過していて
「同趣向」を指摘する意味は
よくわかりません

似ているところは多くありますが
まったく別の作品として
読むことができます

 *
 朝

かゞやかしい朝よ、
紫の、物々の影よ、
つめたい、朝の空気よ、
灰色の、甍(いらか)よ、
水色の、空よ、
風よ!

なにか思ひ出せない……
大切な、こころのものよ、
底の方でか、遥か上方でか、
今も鳴る、失(な)くした笛よ、
その笛、短くはなる、
短く!

風よ!
水色の、空よ、
灰色の、甍よ、
つめたい、朝の空気よ、
かゞやかしい朝
紫の、物々物の影よ……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<19>(小川が青く光つてゐるのは)

僕は汽車に乗つて、富士の裾野をとほつてゐた。

(小川が青く光つてゐるのは)は
10月の快晴のある日、
富士の裾野を通過する
汽車の窓から見えた風景を歌いました

詩を、一通り読んで後、
どこかで読んだ記憶があると思い返せば

(ポロリ、ポロリと死んでゆく)のエピグラフに、

俺の全身(ごたい)よ、雨に濡れ、 
富士の裾野に倒れたれ 
        読人不詳
とあり、
ここに、「富士の裾野」が出てきました

山口へ帰省する
車中からの眺めでしょうか
それならば
見合いのことが
詩人の脳裏にはあったでしょうか

小さな川が、時々、見えて
青く光っています
あれは
空を映しているから
青いのだ、そうだ

列車が走っていく軌跡が
青く光っているのは
あれは
空を映しているから
青いのだ、そうだ

小川や列車が行くレールが
青白く光る
というのは
すでに、秋が深まり
冷え冷えとした季節の訪れを感じているからでしょうか

だれかが、
あれが青白く光っているのは
空の色を反映しているからだ、と
詩人に伝え
詩人も同調します

しかし、この詩は
それだけのことを
歌っているのではありません

山の彼方(かなた)に、雲はたたずまひ、
山の端(は)は、あの永遠の目ばたきは、
却(かえ)つて一本(ひともと)の草花に語つてゐた。

と、1本の草花へと
視線を誘導します

この草花とは
何の花のことだろうか
ひまわりか
ききょうか
百合の花か
などと考えあぐねますが……

むしろ
あの永遠の目ばたき
とは、何だろうと、
疑問は広がります

死んだ弟・恰三が
山の端に
落ちようとしている太陽の
一瞬、
静止してしまったかのような時間の中に現れて
1本の草花に語りかけている、
のだろうか

「永遠の目ばたき」に冠した
「あの」とは何だろう

さらに次の連の
――葡萄畑(ぶどうばたけ)の、
あの唇黒い老婆に眺めいらるるままに。
の、「唇黒い老婆」とはだれだろう
「あの」とは何だろう
と疑問は深まっていきます

新全集の解説は
中原中也が千駄木八郎の名で翻訳した
ルナールの「オノリーヌ婆さん」が
ここに登場していることを
指摘しています

その老婆に
慈しまれて
葡萄畑に咲いている草花

どうも
この草花こそ
死んだ弟・恰三の化身であるような
象徴化が
行われているらしいのですが……

となると、
秋の日よ! 風よ!
は、自然賛美というより
死者への呼びかけ、
といった趣き(おもむき)を帯びてきます

 *
 (小川が青く光つてゐるのは)

小川が青く光つてゐるのは
あれは、空の色を映してゐるからなんださうだ。

山の彼方(かなた)に、雲はたたずまひ、
山の端(は)は、あの永遠の目ばたきは、
却(かえ)つて一本(ひともと)の草花に語つてゐた。

一本の草花は、広い畑の中に、
咲いてゐた。――葡萄畑(ぶどうばたけ)の、
あの唇黒い老婆に眺めいらるるままに。

レールが青く光ってゐるのは、
あれは、空の色を映して青いんださうだ。

秋の日よ! 風よ!
僕は汽車に乗つて、富士の裾野をとほつてゐた。
                   (一九三三・一〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年5月 1日 (土)

草稿詩篇1933―1936<18>いちぢくの葉(夏の午前よ、いちぢくの葉よ)

1933年10月8日制作の
「いちぢくの葉」を読むとき、
ただちに、
同じタイトルで
1930年秋に書かれた作品を
思い出します

こちらは
夕方のいちぢくの葉でしたが
こんどは
朝のいちぢくの葉です

夕方のいちぢくの葉を歌って
第1連
美しい、前歯一本欠け落ちた
をみなのやうに、姿勢よく
ゆうべの空に立ちつくす

という、表現の
大胆さ、新しさ、ユニークさに
衝撃を受けたのですが
こんどの、この、
朝のいちぢくの葉にも
見事と言ってよいフレーズを見つけて
感激します

それは
第3連
葉は葉で揺れ、枝としても揺れてゐる
です

いちぢくが
葉は葉で揺れているのですが、
全体が、木としても揺れている
という
いちぢくの木立への
繊細な観察眼!

第1連の
葉は、乾いてゐる、ねむげな色をして
も、ピタリと
いちぢくという植物を
中也流に捉え
デリケートかつナイーブです

こういうことを
まずはじめに感じさせる詩ですが
この詩がたどりついた
詩作品としての豊かさについては
ほかにも
多くのことが言えそうです

言えそうですが
一言では言えない
不思議な世界があり
それは何かと考えていくと
一つだけ
思い当たること

それは
いちぢくという植物がまずあり
風にそれが揺れていて
電線もうなっていて
太陽は雲の陰にかくれ
その上
蝉がしきりに鳴いている

この、役者ぞろいの
風景!

それが
調和している世界
ハモッている世界
混沌としながら
コスモスを創り出している世界
……

その上になお
最終行
懐しきものみな去ると。
という決定打!

現前する空間に
時間軸が
突き刺さってきても
びくともしない……

未発表詩篇の中の
名作の一つですね

なお
最終連
空はしづかに音く、
の「音く」は
詩人の誤記とみられますが

青く
暗く
沓く

など
いくつかの正解が考えられるため
「音く」のまま表記するのが
習慣になっています

 *
 いちぢくの葉(夏の午前よ、いちぢくの葉よ)

夏の午前よ、いちぢくの葉よ、
葉は、乾いてゐる、ねむげな色をして
風が吹くと揺れてゐる、
よわい枝をもつてゐる……

僕は睡らうか(ねむらうか)……
電線は空を走る
その電線からのやうに遠く蝉は鳴いてゐる

葉は乾いてゐる、
風が吹いてくると揺れてゐる
葉は葉で揺れ、枝としても揺れてゐる

僕は睡らうか……
空はしづかに音く、
陽は雲の中に這入(はい)つてゐる、
電線は打つづいてゐる
蝉の声は遠くでしてゐる
懐しきものみな去ると。
                  (一九三三・一〇・八)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<17>京浜街道にて

1933年(昭和8年)9月22日という日に
中原中也は
東京府荏原郡馬込町北千束621に住んでいて
(現在の東京都大田区北千束2丁目)
京浜街道は近しい通りでした

後輩の詩人・高森文夫の伯母の家に
間借りし、
文夫の弟・淳夫ともども
一つ屋根の下で暮らしていました

ここは
多摩川もそう遠くはなく
県境である多摩川を越えれば川崎で
詩人は
京浜街道をタクシーで走ったり
歩いたりしたことが
あったのでしょうか

街道を通って
詩人は
何を感じ
何を歌ったのでしょう

「京浜街道にて」は
説明を拒むものがあり
飛躍や省略や断絶があり
謎が残る詩です

しなびたコスモス
鹿革の手袋
霊柩車
……

風と陽光は
まざらない
……

日蔭
落ちる涙
こごめばな
……

こごめばなは、
小さな米、小米花で
柳のようにしなった枝に
小さな花を多量に咲かせる
雪柳(ユキヤナギ)の別名です

落ちる涙はこごめばな
は、だから、たくさんの涙を流した、
ほどの意味になりますね

京浜街道を走っていった
霊柩車を
通りがかりに見ただけなのか
だれか
知り合いにかかわる霊柩車なのか
亡くなった弟たちや
父親や祖母や……
祖先や……
家族を思い出したのでしょうか

詩人は
それを明らかにはしませんが
こころにひっかかりました

ひっかかったものを
そのまま
記しておいたような
詩への途上のような
原形だけの言葉の詩になりました

 *
 京浜街道にて

萎(しな)びたコスモスに、鹿革の手袋をはめ、それを、霊柩車に入れて、街道を往く。

   風と陽は、まざらない……
霊柩車、落とす日蔭に、落ちる涙はこごめばな。
                   (一九三三・九・二二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<16>童謡

「童謡」は
「京浜街道にて」と同じ
1933年9月22日の日付をもつ作品で
「小唄二篇」第1節の
第1次形態であることがわかっています

口に出して歌われることを想定して
作られたことが確かで

575
435
575
75
と、きれいな音数律でまとめられています

汽笛は、
よく現れるモチーフで
「在りし日の歌」中の「頑是ない歌」で

思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ

と歌いだされるフレーズなどは
よく知られています

中原中也は
生まれて約半年後に
父謙助の任地であった旅順へ
母フクらに連れられていきます

記憶に残るはずもない
この「経験」を
詩人は
母フクから折りに触れて
聞かされて、
みずみずしく記憶にとどめるのです
そしてしばしば
あたかも原体験であるかのように
詩に歌いました

この世に生まれ出て半年の
汽笛の音は
どんなものだったでしょうか
象の目玉のイメージを刻む
巨大な「音」だったのでしょうか

乳児の耳をつんざく
汽笛の音に
目を見開いて
象の目玉になったのは
詩人自身であったようにも
取れるところに味があります

 *
 童謡

しののめの、
よるのうみにて
汽笛鳴る。

心よ
起きよ、
目を覚ませ。

しののめの、
よるのうみにて
汽笛鳴る、

象の目玉の、
汽笛鳴る。
    (一九三三・九・二二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<15>夏の記臆

777_11

副題に
「別府」とあったが
消されて
「夏の記臆」のタイトルだけが残った作品。

ですから
冒頭の「温泉町」は
別府のことらしいのですが
この詩の制作当時(1933年8月21日前後)に
詩人が別府に行った形跡はありません

あるいは
お忍びで
別府へ遊んだことがあったのでしょうか
それとも
遠い日の思い出なのでしょうか

タイトルの「夏の記臆」からすれば
近い過去とも
遠い過去とも取れますが
同日制作の
「夏過(あ)けて、友よ、秋とはなりました」
「燃える血」の流れから
近過去、遠過去と続けて
こんどは、どちらにも取れる時間を
作り出したのかもしれません

作り出すといっても
フィクションにする意図を
詩人は好みませんから
実体験に基づいているはずで
ならば
やはり、別府へ最近行き
その経験を
副題から抹殺して
歌ったとするのが
自然でしょうか

温泉のある、ほの暗い町を
僕は歩いていた、ひどくうつむいて。
三味線の音や、女たちの声や、
回り灯籠が目に焼きついている

そこは、すぐそばに海もあるので
夏中の賑わいは大変なものだったよ
ピストルを拭いた襤褸(ぼろ)切れがあるだろ
あれみたいに十分役に立ってくれたという親しみみたいな
汚れたシャツの襟元に吹く
風の印象があった

闇の夜に、海辺に出て
重油のような思いを抱えていた
デブの、船頭の女房が、カナブンのような声でしゃべっていた
最初の晩は、町中を歩いて、
歯ブラシを買って
宿に帰ったよ
その日は
暗い電気の灯りの下で寝たさ

 *
 夏の記臆

温泉町のほの暗い町を、
僕は歩いてゐた、ひどく俯(うつむ)いて。
三味線の音や、女達の声や、
走馬燈(まはりどうろ)が目に残つてゐる。

其処(そこ)は直ぐそばに海もあるので、
夏の賑ひは甚(はなは)だしいものだつた。
銃器を掃除したボロギレの親しさを、
汚れた襟(えり)に吹く、風の印象を受けた。

闇の夜は、海辺(ばた)に出て、重油のやうな思ひをしてゐた。
太つちよの、船頭の女房は、かねぶんのやうな声をしてゐた。
最初の晩は町中歩いて、歯ブラッシを買つて、
宿に帰った。――暗い電気の下で寝た。
       (一九三三・八・二一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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