草稿詩篇1933―1936<40>僕が知る
「僕が知る」は
「坊や」と同じ日に制作され
「中原中也追悼号」となった
「文学界」昭和12年12月号に掲載された作品です
中原中也死亡後の発表ということで
「生前発表詩篇」には分類されません
詩人は
この作品を
生きているうちに
その目で読むことはなかったのです
その意味では
未発表でした
「狂気」についての詩ですから
すぐさま思い出すのは
「狂気の手紙」ですが
こちらは手紙の形を借りず
直(じか)に
僕の内にある狂気、
僕という狂気を見つめます
それは
蒼ざめて硬く
馬の静脈を思わせたり
それは
張子のように硬く
張子のようには破けない
それは
不死身の弾力があり
乾した鮑(あわび)みたいなものかもしれない
小刀で削って薄くして
口に入れても唾液に溶けないかもしれない
唾液に混ざらないものを
熱心に混ぜようと頑張っても
ぐっと飲み込まなければならないものかもしれない
飲み込んでも、その後、体内に容易に溶け込まないで
おなかの中でゴロゴロしていることは
僕がよく知っている
僕の狂気は
僕がよく知っていることで
あんたにゃ言われたくない!
とでも言いたかったことがあったのでしょうか
特別な事件があったというより
詩人が
そのことを常々考えている詩そのものとか
死とか生とか
永遠とか
人間そのものとか
生身の生存とか
肉体であるとか
……
かつて「夕照」(「山羊の歌」所収)で歌った
かかる折しも我ありぬ
少児に踏まれし
貝の肉。
の「貝」と同じものであるとか
……
*
僕が知る
僕には僕の狂気がある
僕の狂気は蒼ざめて硬くなる
かの馬の静脈などを思はせる
僕にも僕の狂気がある
それは張子のやうに硬いがまた
張子のやうに破けはしない
それは不死身の弾力に充ち
それはひよつとしたなら乾蚫(ほしあはび)であるかもれない
それを小刀で削つて薄つぺらにして
さて口に入れたつて唾液に反撥するかも知れない
唾液には混ざらぬものを
恰も唾液に混ざるやうな恰好をして
ぐつと嚥み(のみ)込まなければならないのかも知れない
ぐつと嚥み込んで、扨それがどんな不協和音を奏でるかは、僕が知る
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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