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2010年6月20日 (日)

草稿詩篇1933―1936<43>月夜とポプラ

「月夜とポプラ」には
幽霊が登場します

この幽霊は
約1年半前に制作された「虫の声」に
にこにことして現れた
慈しみ深い年増(としま)の幽霊と
同じ幽霊なのでしょうか

幽霊は
詩人には
恐ろしげなものではなく
にこにこしていたり
慈悲深かったり
年増(いい女という意味)であったり
この「月夜とポプラ」の幽霊も
生まれたばかりの
はねの弱いこうもりに似た
優しげな生命体です

か弱くあっても
優しげであっても
死の世界の使者ではあるらしく
「君」の命を狙っています

「君」は
そのこうもり=幽霊を捕まえて
殺してしまえばいいのに
それは影だから
捕まえられない
そのうえ、たまにしか見えない

「僕」は
そいつを捕まえてやろうと
長い間考えあぐねてきたが
それでも捕まえられない
捕まえられないものと観念した今夜は
なんとしたことか!
はっきり見えるので……

「君」と「僕」は
中原中也一流の「混交」でしょうか
意識的な使い分けでしょうか
同じ存在の違った呼び名でしょうか
死の側に近い「君」を
外側から見ている「僕」は
まだこちらの生の側にいるんだ、
という違いを表現したのでしょうか
「君」には「みんな」というほどの意味を
込めているのでしょうか

初恋の思い出が
幼くして死んだ弟亜郎の思い出へ
父の死、
親族の死や祖先の死、
最近亡くなった弟恰三の思い出へ……と
広がっていったことは
想像できますが

生命について考える詩人が
命の燃焼のさ中に
死を見出すのも
ごく自然な流れです

死と生が
あまりにも
至近に存在し
いまにも溶け合ってしまうかのような

かつて生きていて
今は幽霊となって現れる
死んでいながら生きている
生きていながら死んでいる
という存在である幽霊を
「月夜とポプラ」の詩世界は
冷静冷徹な「僕」が
じっくりと凝視しているようで
なんだか安心を呼びます
ほっとするものがあります

 *
 月夜とポプラ

木(こ)の下かげには幽霊がゐる
その幽霊は、生まれたばかりの
まだ翼(はね)弱いかうもりに似て、
而(しか)もそれが君の命を
やがては覘(ねら)はうと待構へてゐる。
(木(こ)の下かげには、かうもりがゐる。)
そのかうもりを君が捕つて
殺してしまへばいいやうなものの
それは、影だ、手にはとられぬ
而も時偶(ときたま)見えるに過ぎない。
僕はそれを捕つてやらうと、
長い歳月考へあぐむだ。
けれどもそれは遂に捕れない、
捕れないと分つた今晩それは、
なんともかんともありありと見える――
       (一九三五・一・一一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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