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2010年6月

2010年6月30日 (水)

草稿詩篇1933―1936<49>吾子よ吾子

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「吾子よ吾子」は
1935年6月6日の日付の記された詩で
長男文也を真正面から歌っています

「吾子」は「アコ」と読み
タイトルにも詩人によって
「アコヨアコ」と読むように
ルビが付されています

この年の1月から6月にかけて
自分の子である長男文也をはじめ
赤ん坊のことを歌った詩が
たくさん制作されたのは
自然のなりゆきでした

「坊や」
「春と赤ン坊」
「雲雀」
「大島行葵丸にて」
「この小児」
などが制作されたのですが

このうち
「春と赤ン坊」と「雲雀」は
「文学界」4月号に
「この小児」は
同6月号に発表されています

詩作品のテーマとして
赤ん坊が
取り上げられ
世間に発表されたということになり
我が子ができた
それを祝福した、という
個人の生活上の
自然の流れという以上に
中原中也という詩人の
詩作の根っこに
赤ん坊が存在しはじめた、
ということになります

この詩の最終行

吾子わが夢に入るほどは
いつもわが身のいたまるゝ

は、そうしたことを
考えさせるのに十分で
「身の痛み」とともに
赤ん坊は
現れたことが理解できます

このころ
詩人は28歳の誕生日を迎えました
(1907年4月29日生まれ)

*
吾子よ吾子

ゆめに、うつつに、まぼろしに……
見ゆるは、何ぞ、いつもいつも
心に纏ひて(まとひて)離れざるは、
いかなる愛(なさけ)、いかなる夢ぞ、

思ひ出でては懐かしく
心に沁みて懐かしく
磯辺の雨や風や嵐が
にくらしうなる心は何ぞ

雨に、風に、嵐にあてず、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、めぐしき吾子よ、
育てばや、あゝいかにせん

思ひ出でては懐かしく、
心に沁みて懐かしく、
吾子わが夢に入るほどは
いつもわが身のいたまるゝ
       (一九三五・六・六)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年6月29日 (火)

草稿詩篇1933―1936<48>春の消息

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「春の消息」は
「大島行葵丸にて」と同じ日
1935年(昭和10年)4月24日に
作られました

タイトルははじめ
詩の冒頭行の
「生きてゐるのは喜びなのか」でした

「大島行葵丸にて」で
詩人は
甲板から唾(つば)をポイと吐き
この唾が
悪い病気の兆しを思わせるのですが
この詩にも
第4連に

こんな思ひが浮かぶといふのも
たゞたゞ衰弱(よは)(つ)てゐるせいだろうか?

とあり
同じように
体調の思わしくないことを歌います

この頃
詩人は
妻子を故郷に残し
単身で
先に上京していました

「大島行葵丸にて」と同じように
吾子(わが子)の顔が
思い出されていたのかもしれません

 *
 春の消息

生きてゐるのは喜びなのか
生きてゐるのは悲みなのか
どうやら僕には分らなんだが
僕は街(まち)なぞ歩いてゐました

店舗(てんぽ)々々に朝陽はあたつて
淡(あは)い可愛いい物々の蔭影(かげ)
僕はそれでも元気はなかつた
どうやら 足引摺(ひきず)つて歩いてゐました

   生きてゐるのは喜びなのか
   生きてゐるのは悲みなのか

こんな思ひが浮かぶといふのも
たゞたゞ衰弱(よは)(つ)てゐるせいだろうか?
それとももともとこれしきなのが
人生といふものなのだらうか?

尤(もっと)も分つたところでどうさへ
それがどうにもなるものでもない
こんな気持になつたらなつたで
自然にしてゐるよりほかもない

さうと思へば涙がこぼれる
なんだか知らねえ涙がこぼれる
  悪く思つて下さいますな
  僕はこんなに怠け者
       (一九三五・四・二四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年6月28日 (月)

草稿詩篇1933―1936<47>大島行葵丸にて

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1935年4月に
中原中也は
文学雑誌「紀元」の同人であったよしみで
伊豆・大島への
1泊旅行に招待されます

約4か月間
故郷山口で暮らし
東京の生活に戻って
まもなくのことでした。

「紀元」は、
大岡昇平が

「紀元」には坂口安吾も加わっていたが、坂口自身はすでに「竹藪の家」「黒谷村」などで新進作家としての位置を確立している。むしろその友人や後輩の集団なので、中原としてはやや身を落した感じである。小説家志願の集りで、詩人は異例なのだが、安原喜弘、富永次郎など、昔の「白痴群」同人を誘い、編集会議などによく出席していたようである。「その一週間」「亡弟」など小説風の断片は「紀元」のために書かれたのかも知れない。(「中原中也全集解説」評論・小説)

と記す同人誌のことです

中原中也は
坂口安吾に誘われて
昭和8年(1933年)5月から「紀元」に参加し

この頃が中原の経歴のどん底(「同上解説」日記・書簡)

とも大岡が記す
ピンチの時代に
「紀元」を
発表の場の一つにしていました

その「紀元」主催の
大島1泊旅行に招待され
珍しいことに
詩人が船に乗ったシーンが
歌われることになりました

東京の竹芝桟橋あたりから出発したのでしょうか
夜10時に出帆した
東海汽船の船の甲板から
暗闇の海へ
つばを吐くとポイっと音がして
少しの間、つばは波間に漂い
白いかたまりを見せていたけど
すぐに消えてなくなって
観音崎灯台の明かりが
ぐるぐる回っているのが見え
夜空は満面の星だった
ゆっくりと星空を見ていると
急に赤ん坊のことが思い出され
無事に暮らしているだろうかと
目一杯理性的に考えて
無事で暮らしているだろうと思ったのだけれど
それにしても気になって仕方なかった
という内容の詩です

吾子(こども)は
いうまでもなく
前年10月18日に誕生した
長男文也のこと

昭和10年(1935年)の年譜に
「3月、長門峡に行く。帰りの汽車で吐血。」とあり、
この詩を作った頃にも
詩人の体調は
芳しいものではなかったことが推測されます

 *
 大島行葵丸にて
     ――夜十時の出帆

 夜の海より僕(ぼか)唾(つば)吐いた
 ポイ と音して唾とんでつた
 瞬間(しばし)浪間に唾白かつたが
 ぢきに忽(たちま)ち見えなくなつた

観音岬に燈台はひかり
ぐるりぐるりと射光(ひかり)は廻つた
僕はゆるりと星空見上げた
急に吾子(こども)が思ひ出された

 さだめし無事には暮らしちやゐようが
 凡(およ)そ理性の判ずる限りで
 無事でゐるとは思つたけれど
 それでゐてさへ気になつた
   (一九三五・四・二四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年6月23日 (水)

草稿詩篇1933―1936<46>十二月の幻想

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「十二月の幻想」は
「シワスノゲンソー」と発音します。
表記は、「十二月」に「しはす」とルビを振っていますが
「師走」としたくなかったのは
「師走」では
「師が走る」「先生が走る」のイメージが強すぎるから
そうしたくなかったのでしょう、きっと。

未発表詩篇としては、
郷里・山口で約3か月を過ごし
東京に戻ってはじめての作品ですが
1935年も晩春の4月22日に
「師走」を歌ったのは
どのようないきさつかわかっていません

同じ日に
「聞こえぬ悲鳴」(「改造」昭和12年春季特大号)が
制作されていますから
状況は
似ていたのかもしれません

「聞こえぬ悲鳴」は

悲しい 夜更は 腐つた花弁(はなびら)——
   噛んでも 噛んでも 歯跡〈はあと〉もつかぬ
   それで いつまで 噛んではゐたら
   しらじらじらと 夜は明けた

という最終連で終わる詩です

きっかけはわかりませんが
4月のある夜
詩人は
「噛んでも噛んでも歯跡がつかない」
悲しみに襲われて
沈んでいるうちに
朝になったことを歌っています

「十二月の幻想」は
「聞こえぬ悲鳴」の前に書かれたものでしょうか
シークエンスは夜明けの前です
眠れぬ夜のさ中にある詩人は
街中から聞こえてきた警笛に
妄想をつのらせます

警笛は
パトカーのサイレンか
消防車のサイレンかに似た
100年近く前の警察の車両か
消防車の車両が発する
急を告げるための人工音でしょう
深夜、警笛が聞こえることはよくあることです
なにか事故もしくは事件があったのでしょうか
不吉な響きは
現代のものと変らぬ
不安感を聞く人々の胸に刻みます

妄想は広がり
天変地異の発生をおそれる
想像へと羽根は広がり
やがて
恋人や親兄弟との離別のイメージさへ生まれ
詩は終わります

この詩を作った日(4月23日)の日記には

昨夜二時迄読書。それより二篇の詩を物し、終ること四時半。腹空つて眠
られず。五時半食堂にビールを取りに行つたれどまだ起きてゐず。それより
雑誌・新聞等を読みて六時半再びビールを取りにゆき、得たり。序でに朝
食を頼む。ビール一本を飲み終らざるうちに朝食を運び来たる。朝食をとり
て、また残りのビールを飲む。天気はよいかな。昨夜あれ程に淋しき心を歌
ひたる、げに夢の如し。

などと記されました

深夜2時まで読書し
それから二つの詩を作り終わるのが4時半
空腹で眠れないので
ビールを飲み
朝食を取り
陽が昇るのを見れば
好い天気だった
昨夜感じた
身の凍えるほどの淋しさは
どこへ行ってしまったのやら
夢みたい……

「幻想」とタイトルを付けていることは
よからぬ想像を
客観視する詩人の眼差しが
存在していることを示しますから
余計な心配はしないほうがよいらしく
日記にも
現実をある意味でたくましく生きる詩人の姿があります

 *
 十二月の幻想

ウー……と、警笛(けいてき)が鳴ります、ウウウー……と、
皆さん、これは何かの前兆です、皆さん!
吃度(きっと)何かが起こります、夜の明け方に。
吃度何かゞ夜の明け方に、起こると僕は感じるのです

――いや、そんなことはあり得ない、決して。
そんなことはあり得ようわけがない。
それはもう、十分冷静に判断の付く所だ。
それはもう、実証的に云つてさうなんだ……。

ところで天地の間には、
人目に付かぬ条件があつて、
それを計上しない限りで、
諸君の意見は正しからうと、

一夜彗星(すいせい)が現れるやうに
天変地異は起ります
そして恋人や、親や、兄弟から、
君は、離れてしまふのです、君は、離れてしまふのです
              (一九三五・四・二三)

 (角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年6月22日 (火)

草稿詩篇1933―1936<45>不気味な悲鳴

「不気味な悲鳴」は
アルチュール・ランボーの詩の1節を
エピグラフに引用した作品です

建設社という出版社の企画で
ランボー全集の詩の翻訳を担当していた詩人の
今回の帰郷は
誕生した長男・文也に会うことと
この翻訳に専念することが主な目的でした

第一子である文也を
初めて両の手で抱き
新しい年を故郷、山口の湯田温泉の実家で迎え
ランボー詩の訳業に集中して
作詩にも取り組むことのできた詩人は
この頃、親友安原喜弘宛ての書簡を
合計5通発信しています

山口・湯田発で
前年末の30日付けから
3月2日付けまでに発信した
封書2通、葉書3通が残り
「中原中也の手紙」(安原喜弘編著)に収集されていますが

1月12日付け葉書には

(略)病人は立枯れつつあり赤ん坊は太りつつあります 活動写真が沢山
見たくて仕方がありません 今色んなものが書けます それで翻訳の方はど
うも怠りがちでどうせ締切前に馬車馬になる運命だらうと妙な覚悟です(略)

などと書き送っていて
この頃の詩人の
充実した日々がしのばれます

前日に
(おまへが花のやうに)
「初恋集」
「月夜とポプラ」
「僕と吹雪」
「不気味な悲鳴」の
5作品を仕上げたばかりですから
「今色んなものが書けます」となったのでしょう
ランボーの翻訳には遅滞があったにしても
詩作は旺盛でした

その詩作に
ランボーから借りて
エピグラフとしたのが
「不気味な悲鳴」で
中原中也は
ランボーの「イルミナシオン」中の
「少年時」最終章末尾を
鈴木信太郎訳を参考にしつつ
独自の訳を試みました

如何(いか)なれば換気装置の、穹窿(きゅうりゅう)の一つの隅に蒼ざめた
るは?

とは、
換気用の窓にのぞく
屋外に広がる大空の青の
悲しいまでのけだるさを
いぶかしがる感情を述べたものといってよいでしょうか

冒頭の、

僕はもう、何も欲しはしなかつた。

の1行を導入する
「倦怠感」を表しています

「汚れつちまつた悲しみに……」を作ってから
どれほどの年月が経過しているでしょうか
中原中也が
同人誌「白痴群」第6号に
「倦怠のうちに死を夢む」と歌ったのは
1930年のことですから
そのときから数えても5年です

僕は次第に次第に灰のやうになつて行つた。
振幅のない、眠りこけた、人に興味を与へないものに。

僕は眠い、――それが何だ?
僕は物憂い、――それが何だ?
僕が眠く、僕が物憂いのを、僕が嘆く理由があらうか?

かくて僕は坐り、僕はもう永遠に起ち上りさうもなかつた。

と、「倦怠(けだい)」は
ますます深まっている様子です

僕はいつそ死なうと思つた。
而(しか)も死なうとすることはまた起ち上ることよりも一層の大儀であつた。

と、ここらへんまでは
「倦怠のうちに死を夢む」と
同じことを
表現を変えているだけなことが
わかります
そして

かくて僕は天から何かの恵みが降つて来ることを切望した。

というあたりまでをも
「汚れつちまつた悲しみに……」に
読み取ることが可能なことに気づくと……

小林秀雄が
「中原の詩はいつでもかういふ場所から歌はれてゐる。彼はどこにも逃げない、
理知にも心理にも、感覚にも。」(「中原中也の『山羊の歌』」)

と書いていることの
深い読みを思い出し
感嘆せざるをえません

「不気味な悲鳴」は
「汚れつちまつた悲しみに……」の
「その後」であり
「姉妹篇」でもあるように
読める作品といえば
突飛なことでしょうか
どうでしょうか……。

 *
 不気味な悲鳴

      如何(いか)なれば換気装置の、穹窿(きゅうりゅう)の一つの隅に
      蒼ざめたるは?      ランボオ

僕はもう、何も欲しはしなかつた。
暇と、煙草とくらゐは欲したかも知れない。
僕にはもう、僅(わず)かなもので足りた。

そして僕は次第に次第に灰のやうになつて行つた。
振幅のない、眠りこけた、人に興味を与へないものに。
而(しか)もそれを嘆くべき理由は何処にも見出せなかつた。

僕は眠い、――それが何だ?
僕は物憂い、――それが何だ?
僕が眠く、僕が物憂いのを、僕が嘆く理由があらうか?

かくて僕は坐り、僕はもう永遠に起ち上りさうもなかつた。

   ※

然(しか)しさうなると、またさすがに困つて来るのであつた。
何をとか?――多分、何となくと答へるよりほかもない。
何となら再び起(た)ち上がれとは誰も云ふまいし、
起ち上らうと思ふがものもないのにも猶(なお)困つて来るのであつたから。

僕はいつそ死なうと思つた。
而(しか)も死なうとすることはまた起ち上ることよりも一層の大儀であつた。

かくて僕は天から何かの恵みが降つて来ることを切望した。
而もはや、それは僕として勝手な願ひではなかつた。
僕は真面目に天から何かゞ降つて来ることを願つた。
それが、ほんの瑣細(ささい)なものだらうが、それは構ふ所でなかつた。

   ※

――僕はどうすればいいか?
       (一九三五・一・一一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年6月21日 (月)

草稿詩篇1933―1936<44>僕と吹雪

「僕と吹雪」は
僕という貝についての考察の詩です
貝である僕が
自然が放った花吹雪にさらされて
論理の亡者である自分を自覚した日々を
回想しています

貝は
最近では
「僕が知る」(1935年1月9日制作)の
不死身で弾力に充ちた「乾蚫(ほしあはび)」と繋がり、
また
かなり前(1929年4~5月制作推定)には
「山羊の歌」中の「夕照」第3連に

かかる折しも我ありぬ
少児に踏まれし
貝の肉。

とある「貝の肉」と繋がっています

大岡昇平が
太平洋戦争に従軍中の戦地で
口ずさんだことで有名でもある
「夕照」の中の「貝の肉」を
「僕が知る」の「乾蚫(ほしあはび)」と
「僕と吹雪」の「僕という貝」と
3作並べて読んでみると
「貝」というメタファーの奥に
新たに見えてくるものがあるかもしれません

その糸口になりそうなのが
「僕と吹雪」の中の「現識」です

「僕と吹雪」には
ダダっぽい表現の中に
第2連の、現識過剰
第4連の、現識
と、2箇所で「現識」という語句が使われ
この聞きなれない言葉はなんだろう
と、多くの人が首を傾げ
立ち往生するに違いのないハードルになっています

「現識」が
この詩のキーワードになっているのですが
この詩が書かれた1935年1月11日に前後する
1934年12月から同35年3月の間に書かれたと
推定されている「芸術論覚え書」の
次の一節に
その答えはあります

芸術は、認識ではない。認識とは、元来、現識過剰に堪られなくなって発生したものとも考えられるもので、その認識を整理するのが、学問である。故に、芸術は、学問では猶更ない。

ここでは
「芸術」の定義が試みられているのですが
詩人は
「学問」と対比して「芸術」をとらえ
「学問」が「認識」を整理するものであるのに対し
「芸術」は「認識」とは別のもので、
「学問」ではなおさらない、と
主張しています

「名辞以前」とか
「身一点に感じる」とか
「エラン・ヴィタール」とかに通じる
芸術論の一つです

芸術=詩は、学問ではない
という主張は
中原中也という詩人の
譲ることのできない「聖域」みたいなもので
このことで
色々な人と議論を戦わせ
時には
取っ組み合いの喧嘩をしたであろうことが想像される
芸術論の根幹でした

現識は
認識にいたるまでの
認識の前段階をさし

僕は、現識過剰で、
腹上死同然だつた。

は、摂取した知識が未整理のままで
学問にさえならなかったので
快楽の絶頂で死んでしまった状態と同じだった、
というような意味です

現識は
それ自体、不快なものではなく
終わりのない快楽をともないますから
熱中し
耽り
過剰になりがちです

詩人も
「お勉強に淫(いん)していた」ときがあったのです
そんな状態であったおのれの過去を
詩人は、
論理の亡者として
裁断するのです

そして
詩の末尾では
世間の親に向けた
メッセージを送ります

世の親たちよ
子どもたちを呑気に育てなさい
そうすすめるのは
あなたの子の
性(セックス)へ目覚めを早まらず
そうすれば
神経質な者にはならないからです

現識過剰で、
腹上死同然だった
詩人は
論理の亡者であった過去、
神経質な者であった自分と
決別しました

それというのも
僕という貝に
自然が
花吹雪を
激しく吹きつけたからです、
というところが
この詩のミソなのかもしれません

 *
 僕と吹雪

自然は、僕という貝に、
花吹雪(はなふぶ)きを、激しく吹きつけた。

僕は、現識過剰で、
腹上死同然だつた。

自然は、僕を、
吹き通してカラカラにした。

僕は、現職の、
形式だけを残した。

僕は、まるで、
論理の亡者。

僕は、既に、
亡者であつた!

  祈祷す、世の親よ、子供をして、呑気にあらしめよ
  かく慫慂するは、汝が子供の、性に目覚めること、
  遅からしめ、それよ、神経質なる者と、なさざらん
  ためなればなり。
                 (一九三五・一・一一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年6月20日 (日)

草稿詩篇1933―1936<43>月夜とポプラ

「月夜とポプラ」には
幽霊が登場します

この幽霊は
約1年半前に制作された「虫の声」に
にこにことして現れた
慈しみ深い年増(としま)の幽霊と
同じ幽霊なのでしょうか

幽霊は
詩人には
恐ろしげなものではなく
にこにこしていたり
慈悲深かったり
年増(いい女という意味)であったり
この「月夜とポプラ」の幽霊も
生まれたばかりの
はねの弱いこうもりに似た
優しげな生命体です

か弱くあっても
優しげであっても
死の世界の使者ではあるらしく
「君」の命を狙っています

「君」は
そのこうもり=幽霊を捕まえて
殺してしまえばいいのに
それは影だから
捕まえられない
そのうえ、たまにしか見えない

「僕」は
そいつを捕まえてやろうと
長い間考えあぐねてきたが
それでも捕まえられない
捕まえられないものと観念した今夜は
なんとしたことか!
はっきり見えるので……

「君」と「僕」は
中原中也一流の「混交」でしょうか
意識的な使い分けでしょうか
同じ存在の違った呼び名でしょうか
死の側に近い「君」を
外側から見ている「僕」は
まだこちらの生の側にいるんだ、
という違いを表現したのでしょうか
「君」には「みんな」というほどの意味を
込めているのでしょうか

初恋の思い出が
幼くして死んだ弟亜郎の思い出へ
父の死、
親族の死や祖先の死、
最近亡くなった弟恰三の思い出へ……と
広がっていったことは
想像できますが

生命について考える詩人が
命の燃焼のさ中に
死を見出すのも
ごく自然な流れです

死と生が
あまりにも
至近に存在し
いまにも溶け合ってしまうかのような

かつて生きていて
今は幽霊となって現れる
死んでいながら生きている
生きていながら死んでいる
という存在である幽霊を
「月夜とポプラ」の詩世界は
冷静冷徹な「僕」が
じっくりと凝視しているようで
なんだか安心を呼びます
ほっとするものがあります

 *
 月夜とポプラ

木(こ)の下かげには幽霊がゐる
その幽霊は、生まれたばかりの
まだ翼(はね)弱いかうもりに似て、
而(しか)もそれが君の命を
やがては覘(ねら)はうと待構へてゐる。
(木(こ)の下かげには、かうもりがゐる。)
そのかうもりを君が捕つて
殺してしまへばいいやうなものの
それは、影だ、手にはとられぬ
而も時偶(ときたま)見えるに過ぎない。
僕はそれを捕つてやらうと、
長い歳月考へあぐむだ。
けれどもそれは遂に捕れない、
捕れないと分つた今晩それは、
なんともかんともありありと見える――
       (一九三五・一・一一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年6月19日 (土)

草稿詩篇1933―1936<42>初恋集

「初恋集」は
3節からなる作品で
はじめは
(おまへが花のやうに)を第3節とした
全4節の詩と考えられていましたが
角川・新全集の編集で
解釈が改められました

第1節は、「すずえ」
第2節は、「むつよ」
第3節は、「終歌」とタイトルがつけられて
いずれも
初恋の思い出の歌です

「すずえ」のモデルは
未発表の小説「無題(それは彼にとつて)」に
登場する「文江」ではないか、
と推測されています
(新編全集第2巻「詩」解題篇)

第2節の「むつよ」は
「文江」をモデルにしたものか
ほかの女性であるか
不明ですが
第1節「すずえ」には

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした

とあり、

第2節「むつよ」には

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。

とあることから
異なる女性である可能性があるものの
二つの詩が扱う時間が異なっているだけで
十三の少年(「むつよ」)が
十五(「すずえ」)になっただけで
相手は同じ女性だったとも考えられます

しかし
それが誰であるかを
特定はできませんし
(おまへは花のやうに)の女性との関連も
特定はできません

1935年1月11日という日に
詩人は
なんらかのきっかけで
遠い日の淡い恋の相手を
思い出して
次々に詩にしていきました

(おまへが花のやうに)の相手をふくめて
その女性は
一人であった可能性もありますが
詩には
何人かの女性が登場するようにみえ
そうであっても
不思議なことではありません

僕にみえだすと僕は大変、
狂気のやうになるのだつた

と(おまへが花のやうに)で歌った「狂気」は
「狂喜」でもありましたが
幼い日の「恋」とは

何時でもおまへを小突(こづ)いてみたり
いたづらばつかりするのだつたが

というほかに
何か気の利いたセリフを言えるわけでもなく
相手の肉体を
痛めつけるまでに
一人占めしたい欲求のようなもの
サディスティックなまでに独占したがる欲望のようなもの……
に似た「恋」でしかなかったことを
詩人は
いま振り返って
ありありと
その場面を思い出すのです

「狂喜」は「狂気」に近く
「狂気」は「狂喜」に近く
「終歌」では

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐(ほ)き出してやれ。
吐(ほ)き出してやれ!

ああ
マシュマロのように
やわらかく
可愛いキミよ

今度会ったら
今度会えることができたら

噛んでやれ

というのは
「愛咬」の領域ともいえる
もう
ほかに
なにもできずに
「咬んで」
僕の愛を
ぶちまけてやる!
という表現ですが……

そんな日が戻ってくるわけがないことを
詩人は
絶望的に
知っていました

 *
 初恋集

 すずえ

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた
          (一九三五・一・一一)

 むつよ

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、それが家(うち)のだとしらずに、
それと、暫く遊んでゐました

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれはあつた。
          (一九三五・一・一一)

終歌

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐(ほ)き出してやれ。
吐(ほ)き出してやれ!

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐(ほ)き出してやれ!

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?

噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
        (一九三五・一・一一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年6月18日 (金)

草稿詩篇1933―1936<41―2>(おまへが花のやうに)

(おまへが花のやうに)は
初恋の思い出を歌った詩です
より正確にいえば
初恋の一つを歌った、ということですが
初恋がいくつもあるということになると
それも矛盾ですが
若き日に恋した相手のことは
後年、どの一人のことも
初恋と呼んでおかしくもない
甘酸っぱく
楽しく、悲しい思い出でもあります

この恋は
何歳の頃のことでしょうか

松並木の道を通って
日曜日の朝日を受けてやってくる
女の子は
淡鼠(うすねず)の絹の靴下穿(は)いた
花のようで

その姿が見えると
僕は
嬉しくて嬉しくて
変になるのでした
それから
近くを流れる
椹野川(ふしのがわ)の河原に座って
話をしましたが

僕はといえば
一度も素直な態度でいたことはなく
いつもお前を小突いてみたり
あれやこれやふざけてばかりいたのでした

今でもあの時僕らが座った
河原の石は
あのままだろうか
草は今でも生えているか
そんなことを、誰か、知っているものがいるわけがない

お前はその後どこへ行ってしまったのか
お前は今ごろどうしているか
僕は何も知りはしない
ああ、そんなことって、あるか、え

そんなことってあるか
あってもなくても
お前は今では赤の他人
どこで誰と笑っていることやら
今も香水つけていることやら

香水をつけている女性なら
もう高校生ほどの年ごろでしょうか
それとも
何かの折に
小学生か中学生が香りをつけて
詩人のところへ遊びにきたのでしょうか

よそ行きの「べべ」を着て
親戚である
詩人の家を訪問した親子連れの中に
この女性はいたのでしょうか

「うすねずの絹の靴下」が
なんとも
なまめかしく
成熟した女性を想像させるのは
自然ですが
それを穿いていたのは
少女であったろう、
という想像も捨てがたく
花のような少女の像が
鮮やかに残りもします……

この詩は
角川・旧全集では
「初恋集」の第3節とみなされていましたが
新全集では
独立した作品と解釈されました

*
(おまへが花のやうに)

おまへが花のやうに
淡鼠(うすねず)の絹の靴下穿(は)いた花のやうに
松竝木(まつなみき)の開け放たれた道をとほつて
日曜の朝陽を受けて、歩んで来るのが、

僕にみえだすと僕は大変、
狂気のやうになるのだつた
それから僕等磧(かわら)に坐つて
話をするのであつたつけが

思へば僕は一度だつて
素直な態度をしたことはなかつた
何時でもおまへを小突(こづ)いてみたり
いたづらばつかりするのだつたが

今でもあの時僕らが坐つた
磧の石は、あのまゝだらうか
草も今でも生えてゐようか
誰か、それを知つてるものぞ!

おまへはその後どこに行つたか
おまへは今頃どうしてゐるか
僕は何にも知りはしないぞ
そんなことつて、あるでせうかだ

そんなことつてあつてもなくても
おまへは今では赤の他人
何処で誰に笑つてゐるやら
今も香水つけてゐるやら
       (一九三五・一・一一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年6月15日 (火)

草稿詩篇1933―1936<41>(おまへが花のやうに)ほか

(おまへが花のやうに)は
1935年1月11日に
「初恋集」
「月夜とポプラ」
「僕と吹雪」
「不気味な悲鳴」とともに作られました

5作品が
同じ日に作られたのですから
この日の創作意欲は旺盛
ということができるでしょう

これらの詩の内容の関連性がどうであったか
無関係だったのか
無関係であるということがあり得るのか
5作品を
一挙に
読んでしまいますが

まず
(おまへが花のやうに)の
第2連の

僕にみえだすと僕は大変、
狂気のやうになるのだつた

とある「狂気」が
2日前に制作された
「僕が知る」にある「狂気」とは
意味には違いが込められているようでありながら
つながっていることに注目しておきましょう

こちらの「狂気」は
狂喜する、狂ったように嬉しい
I am crasy for you
というような意味ですが
「僕が知る」で
「乾蚫(ほしあはび)」のようであった
と比喩された「狂気」とも
つながっているのは
「乾蚫(ほしあはび)」が
石っころや土くれといった
もはや完全に死んでしまった
無機質なものとは異なって
生きているものであり
どちらもがその異なる姿である
ということを歌っているところでしょうか

どちらの狂気も
詩人そのものが映っているのですし
その対極に
「死」はあります

(おまへが花のやうに)は
初恋の思い出を歌ったものですが
次の「初恋集」は
いまだ、といわんばかりに
初恋体験のコレクションです

次々に
初恋の思い出が
湧き上がってきたかのように
連続して
「すずえ」
「むつよ」と
生命の横溢、躍動、燃焼
つまりは、狂気を
歌うのです

しかし、次の
「月夜とポプラ」は
幽霊の話に転じます
生まれたばかりのコウモリに似た
弱々しいはねをもつコウモリが
君の命を狙って
木の下で待ち構えている……
不気味な「死」の世界の入口に
詩人はいますが
「死」は影に過ぎず
手に取ることができません

「僕と吹雪」では
「僕という貝」に
激しく吹きつける「花吹雪」と
これは
ダダイズムっぽい言い回しで
僕=詩人の来し方を振り返り

次の作品では
不気味なもの、
すなわち
「死」そのものを歌います

僕は次第に灰のやうになつて行つた。
振幅のない、眠りこけた、人に興味を与へないものに。

このイメージは
不死身の「乾蚫(ほしあはび)」と
紙一重の関係といってよいでしょう

やがて

僕はいつそ死なうと思つた。
而(しか)も死なうとすることはまた起ち上ることよりも一層の大儀であつた。

と、「倦怠のうちに死を夢む」(汚れつちまつた悲しみに…)と同じの
怠惰(=大儀)の中で

かくて僕は天から何かの恵みが降つて来ることを切望した。

と、「神」に祈願する詩人が
現れるのです

狂気にはじまり
初恋の思い出を通じて
生の躍動が歌われる過程で
死の世界が現れ
両者は
際立って断絶することなく
グラデーションでつながっています
そして
神の恩寵を切望する詩人の
登場となりました……

1935年1月11日の1日に制作された
これら5篇の詩には
詩人のありったけが
投入されているかのような小世界が
キラキラと広がっています

*
(おまへが花のやうに)

おまへが花のやうに
淡鼠(うすねず)の絹の靴下穿(は)いた花のやうに
松竝木(まつなみき)の開け放たれた道をとほつて
日曜の朝陽を受けて、歩んで来るのが、

僕にみえだすと僕は大変、
狂気のやうになるのだつた
それから僕等磧(かわら)に坐つて
話をするのであつたつけが

思へば僕は一度だつて
素直な態度をしたことはなかつた
何時でもおまへを小突(こづ)いてみたり
いたづらばつかりするのだつたが

今でもあの時僕らが坐つた
磧の石は、あのまゝだらうか
草も今でも生えてゐようか
誰か、それを知つてるものぞ!

おまへはその後どこに行つたか
おまへは今頃どうしてゐるか
僕は何にも知りはしないぞ
そんなことつて、あるでせうかだ

そんなことつてあつてもなくても
おまへは今では赤の他人
何処で誰に笑つてゐるやら
今も香水つけてゐるやら
       (一九三五・一・一一)

 *
 初恋集

 すずえ

それは実際あつたことでせうか
 それは実際あつたことでせうか
僕とあなたが嘗(かつ)ては愛した?
 あゝそんなことが、あつたでせうか。

あなたはその時十四でした
 僕はその時十五でした
冬休み、親戚で二人は会つて
 ほんの一週間、一緒に暮した

あゝそんなことがあつたでせうか
 あつたには、ちがひないけど
どうもほんとと、今は思へぬ
 あなたの顔はおぼえてゐるが

あなたはその後遠い国に
 お嫁に行つたと僕は聞いた
それを話した男といふのは
 至極(しごく)普通の顔付してゐた

それを話した男といふのは
 至極普通の顔してゐたやう
子供も二人あるといつた
 亭主は会社に出てるといつた
          (一九三五・一・一一)

 むつよ

あなたは僕より年が一つ上で
あなたは何かと姉さんぶるのでしたが
実は僕のほうがしつかりしてると
僕は思つてゐたのでした

ほんに、思へば幼い恋でした
僕が十三で、あなたが十四だつた。
その後、あなたは、僕を去つたが
僕は何時まで、あなたを思つてゐた……

それから暫(しばら)くしてからのこと、
野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあつたのを
あなたは、それが家(うち)のだとしらずに、
それと、暫く遊んでゐました

僕は背戸(せど)から、見てゐたのでした。
僕がどんなに泣き笑ひしたか、
野原の若草に、夕陽が斜めにあたつて
それはそれは涙のやうな、きれいな夕方でそれは
あつた。
          (一九三五・一・一一)

終歌

噛んでやれ、叩いてやれ。
吐(ほ)き出してやれ。
吐(ほ)き出してやれ!

噛んでやれ。(マシマロやい。)
噛んでやれ。
吐(ほ)き出してやれ!

(懐かしや。恨めしや。)
今度会つたら、
どうしよか?

噛んでやれ。噛んでやれ。
叩いて、叩いて、
叩いてやれ!
        (一九三五・一・一一)

 *
 月夜とポプラ

木(こ)の下かげには幽霊がゐる
その幽霊は、生まれたばかりの
まだ翼(はね)弱いかうもりに似て、
而(しか)もそれが君の命を
やがては覘(ねら)はうと待構へてゐる。
(木(こ)の下かげには、かうもりがゐる。)
そのかうもりを君が捕つて
殺してしまへばいいやうなものの
それは、影だ、手にはとられぬ
而も時偶(ときたま)見えるに過ぎない。
僕はそれを捕つてやらうと、
長い歳月考へあぐむだ。
けれどもそれは遂に捕れない、
捕れないと分つた今晩それは、
なんともかんともありありと見える――
          (一九三五・一・一一)
          
 *
 僕と吹雪

自然は、僕という貝に、
花吹雪(はなふぶ)きを、激しく吹きつけた。

僕は、現識過剰で、
腹上死同然だつた。

自然は、僕を、
吹き通してカラカラにした。

僕は、現職の、
形式だけを残した。

僕は、まるで、
論理の亡者。

僕は、既に、
亡者であつた!
       祈祷す、世の親よ、子供をして、呑気にあらしめよ
       かく慫慂するは、汝が子供の、性に目覚めること、
       遅からしめ、それよ、神経質なる者と、なさざらん
       ためなればなり。
          

 *
 不気味な悲鳴

如何(いか)なれば換気装置の、穹窿(きゆうりゆう)の一つの隅に
蒼ざめたるは?    ランボオ

僕はもう、何も欲しはしなかつた。
暇と、煙草とくらゐは欲したかも知れない。
僕にはもう、僅(わず)かなもので足りた。

そして僕は次第に灰のやうになつて行つた。
振幅のない、眠りこけた、人に興味を与へないものに。
而(しか)もそれを嘆くべき理由は何処にも見出せなかつた。

僕は眠い、――それが何だ?
僕は物憂い、――それが何だ?
僕が眠く、僕が物憂いのを、僕が嘆く理由があらうか?

かくて僕は坐り、僕はもう永遠に起ち上りさうもなかつた。

   ※

然(しか)しさうなると、またさすがに困つて来るのであつた。
何をとか?――多分、何となくと答へるよりほかもない。
何となら再び起(た)ち上がれとは誰も云ふまいし、
起ち上らうと思ふがものもないのにも猶(なお)困つて来るのであつたから。

僕はいつそ死なうと思つた。
而も死なうとすることはまた起ち上ることよりも一層の大儀であつた。

かくて僕は天から何かの恵みが降つて来ることを切望した。
而もはや、それは僕として勝手な願ひではなかつた。
僕は真面目に天から何かゞ降つて来ることを願つた。
それが、ほんの瑣細(ささい)なものだらうが、それは構ふ所でなかつた。

   ※

――僕はどうすればいいか?
          (一九三五・一・一一)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年6月 9日 (水)

草稿詩篇1933―1936<40>僕が知る

「僕が知る」は
「坊や」と同じ日に制作され
「中原中也追悼号」となった
「文学界」昭和12年12月号に掲載された作品です
中原中也死亡後の発表ということで
「生前発表詩篇」には分類されません

詩人は
この作品を
生きているうちに
その目で読むことはなかったのです
その意味では
未発表でした

「狂気」についての詩ですから
すぐさま思い出すのは
「狂気の手紙」ですが
こちらは手紙の形を借りず
直(じか)に
僕の内にある狂気、
僕という狂気を見つめます

それは
蒼ざめて硬く
馬の静脈を思わせたり

それは
張子のように硬く
張子のようには破けない

それは
不死身の弾力があり
乾した鮑(あわび)みたいなものかもしれない
小刀で削って薄くして
口に入れても唾液に溶けないかもしれない

唾液に混ざらないものを
熱心に混ぜようと頑張っても
ぐっと飲み込まなければならないものかもしれない
飲み込んでも、その後、体内に容易に溶け込まないで
おなかの中でゴロゴロしていることは
僕がよく知っている

僕の狂気は
僕がよく知っていることで
あんたにゃ言われたくない!
とでも言いたかったことがあったのでしょうか

特別な事件があったというより
詩人が
そのことを常々考えている詩そのものとか
死とか生とか
永遠とか
人間そのものとか
生身の生存とか
肉体であるとか
……

かつて「夕照」(「山羊の歌」所収)で歌った

かかる折しも我ありぬ
少児に踏まれし
貝の肉。

の「貝」と同じものであるとか
……

 *
 僕が知る

僕には僕の狂気がある
僕の狂気は蒼ざめて硬くなる
かの馬の静脈などを思はせる

僕にも僕の狂気がある
それは張子のやうに硬いがまた
張子のやうに破けはしない

それは不死身の弾力に充ち
それはひよつとしたなら乾蚫(ほしあはび)であるかもれない
それを小刀で削つて薄つぺらにして
さて口に入れたつて唾液に反撥するかも知れない

唾液には混ざらぬものを
恰も唾液に混ざるやうな恰好をして
ぐつと嚥み(のみ)込まなければならないのかも知れない
ぐつと嚥み込んで、扨それがどんな不協和音を奏でるかは、僕が知る

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年6月 8日 (火)

草稿詩篇1933―1936<39>坊や

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「坊や」は
(一九三五・一・九)と
詩の最後に日付のある作品で
タイトルも付けられた
完成作です

前年10月18日に生まれた
長男文也を
モチーフにした詩としては
最初の作品になるでしょうか

子どもを産むということの
大変さについて
また、その後の、
乳飲み子の世話から
乳離れ後の子育て全般の苦労について
詩人は
深い畏敬の感情とでもいうべき
眼差しをもって
妻孝子をいたわりました

この年末12月30日の日記に、

夜明け、鶏鳴を、坊や目覚めて独り真似てゐる。やがて、母親を起さんとす。
「ホラ鶏が鳴いてるよ」といふ気持で、一生懸命母親を起さんとすれども、母
親は眠いのなり

と、赤ん坊への慈愛に満ちた眼差しとともに
妻へのいたわりの心を記しています

日記にこう記した日よりも
1年近く前に制作した
「坊や」で
詩人は
これと同じ感情を
歌っているのです

制作日である1月9日は
中原家の次男
つまり中也の次の弟亜郎の命日でもありました

この詩が書かれた原稿用紙の隅には
横書きで
ArÔ Boé/Sancta Maria/Ondarayasowaka/Denkyodaishi
というメモ書きがあり
それは「×」で抹消されているそうです
(新編全集第2巻・詩Ⅱ解題篇)

ArÔは、「亜郎」
Boéは、「坊へ」
Sancta Mariaは、「聖母マリア」
Ondarayasowakaは、サンスクリット語の「Om Tarayasvāhā」
Denkyodaishiは、「伝教大師」

ではないか
という考証が
新編全集編集委員会によって進められていますが
確定はできません

一つの詩の読みに
原稿用紙の隅に
書きおかれたメモ書きが
重要なカギとなるという
このようなケース自体が
極めてスリリングです

「坊や」という詩に
亜郎の死の影があるのだとすれば
詩の読みは
俄然、変質を余儀なくされることになります
というより
読みは深まってゆきます

この詩は
第一子の誕生を
寿(ことほ)ぐ歌であるばかりでなく
人の誕生には
人の死のイメージが重ならざるを得ない
という思いを抱き続けてきた詩人の
独特の死生観みたいなものが
流れていることになります

新しい生命の誕生が
死のイメージを喚起するということが
詩に現れる例として
このほかに
「秋岸清凉居士」
「誘蛾燈詠歌」が指摘されています

大岡昇平も
ここのあたりを
熱心に追求し
「この時期は盛んな『在りし日』の氾濫があったらしい」
と記しています

ということを踏まえて読むと
この詩で繰り返される
「清水が流れるやうに」
「流れる清水のやうに」が
最終連第3行で
「さらさらさらと」と修飾されているのが
「在りし日の歌」の「一つのメルヘン」へと
つらなっていく流れであることが理解できます

 *
 坊や

山に清水が流れるやうに
その陽の照つた山の上の
硬い粘土の小さな溝を
山に清水が流れるやうに

何も解せぬ僕の赤子(ぼーや)は
今夜もこんなに寒い真夜中
硬い粘土の小さな溝を
流れる清水のやうに泣く

母親とては眠いので
目が覚めたとて構ひはせぬ
赤子(ぼーや)は硬い粘土の溝を
流れる清水のやうに泣く

その陽の照つた山の上の
硬い粘土の小さな溝を
さらさらさらと流れるやうに清水のやうに
寒い真夜中赤子(ぼーや)は泣くよ
          (一九三五・一・九)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年6月 7日 (月)

草稿詩篇1933―1936<38>(一本の藁は畦の枯草の間に挟つて)

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(一本の藁は畦の枯草の間に挟つて)は
未発表詩篇の中では
1935年(昭和10年)に入って
最初の作品です

長男文也が生まれ
妻孝子がいて
母フクも近くにいて
親族の出入りも 
普段の年以上にあったに違いのない
山口県吉敷(よしき)郡湯田温泉の実家での正月
4月には満28歳になる詩人です

帰郷の主な目的は
ランボーの詩の翻訳に
集中するためでした

そのせいか
この頃
日記をつけていません
日記は東京滞在中の習慣なのか
この正月の日記は中断していますので
この詩の中などに歌われる情景が
この頃の詩人の暮らしや活動を
想像させてくれます

私は刈田の堆藁(としやく)に凭(もた)れて
ひねもす空に凧(たこ)を揚げてた

とある「堆藁」とは
文字を見ればわかるように
藁(わら)が堆積(たいせき)しているもので
稲や麦などの藁を円筒状に積み上げたもので
これを「トシャク」と呼ぶ
山口地方の方言

そのトシャク(堆藁)にもたれて
糸をあやつり
凧(たこ)をあげていた、
とありますが
実際に
詩人が凧揚げをしたのか
文也は生まれたばかりですし……

近所の子らが遊ぶのを
ちょいと貸してもらって
凧揚げしたのかもしれませんし
実際にはしなかったのかもしれませんし
詩人独特の
思い出が混ざっているのかもしれません
「在りし日」のことなのかもしれません

よく読むと
「一本の藁」が
モチーフになっているこの詩です
畦道の枯れ草の中の一本の藁が
陽光を浴びて
温かそうに風に揺れている
その情景を歌うことからはじまる詩です
一本の藁は
ときたま首を上げ
あたりを見ていた、という
第1連は擬人法なのです

やはり
一本の藁は
詩人のことなのでしょう

草稿の末尾に
「僕は、さう思つた、これらの」とあり、
消されたあとがあることが
考証されています
(新編全集)

2枚目以下の草稿の存在が
可能性としてあり
そもそも
タイトルも付けられていない
未完の詩ですが

第3連
冷たく青い空は
まるで玻璃(はり)のようである冬景色の中で
タバコに火を点けるには
神経を集中せねばならず
沢山の良心を要した
という終わり(?)は
いかにも中也の詩らしさがあります

おや
なぜ「良心」なのか、と
考えさせられたままなのですが
「良心」と言ったほうが近い
心理状況にあったのだろうなどと
納得させられてしまうものがあるのです

やがて
「一本の藁」も
「一本の煙草」も
「一粒の麦地に落ちて死なば」という
聖書の言葉へのダブルイメージへと
誘ってゆくものですが
それは深読みにすぎるよ
と思い直したり……と
とめどもないものになってゆくものです

 *
 (一本の藁は畦の枯草の間に挟つて)

一本の藁は畦(あぜ)の枯草の間に挟(ささ)つて
ひねもす陽を浴びぬくもつてゐた
ひねもす空吹く風の余勢に
時偶(ときたま)首上げあたりを見てゐた
私は刈田の堆藁(としやく)に凭(もた)れて
ひねもす空に凧(たこ)を揚げてた
ひねもす糸を繰り乍(なが)ら
空吹く風の音を聞いてた

空は青く冷たく青く
玻璃(はり)にも似たる冬景であつた
一本の煙草を点火するにも
沢山の良心を要することだつた

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

2010年6月 6日 (日)

草稿詩篇1933―1936<37-2>(なんにも書かなかつたら)

(なんにも書かなかつたら)は
第2節を取り出し
「薔薇」と題名をつけて
独立した詩として
僚友・安原喜弘へ贈られました

安原は
同人誌「白痴群」以来の親友で
同誌解散以後も
親交を継続した
数少ない仲間の一人です

「山羊の歌」の出版交渉にあたるなど
詩人を
陰に陽に支え
二人の間に交わされた書簡・葉書は
合計100篇が残り
戦後、1979年に
「中原中也の手紙」(玉川大学出版部)にまとめられましたが
(先ごろ講談社文芸文庫に入り、新編集・再刊されました)
「手紙八十三」と
安原の手によって整理番号のつけられた
昭和9年12月30日付けの封書に
「薔薇」は同封されました

安原は
この封書にコメントして

 この手紙と一緒に久々で一篇の詩が送られた。それは『薔薇』と題する美
しい小品で、珍らしく毛筆で和半紙に描かれている。これも彼によつて発表
されなかつたものの一つである。これは「なんにも書かなかつたら」ではじまる
未発表詩の一部(第二節)であるようだ

と記しています
(玉川大学出版部発行の同書より、原文まま)

何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……

土手の柳を、
見て暮らせ、よだ

という
東雲節(しののめぶし)の一節で終わった
第1節に続いて書かれた
第2節に
「薔薇」のタイトルはありませんが
どこか
都々逸調とか
里謡調、歌謡調が
持続しているようです

だ……
よだ
という、道化調が

第2節第1連(「薔薇」)の

開いて、ゐるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇(ばら)の、花ぢやろ。

へと続いています

薔薇に
詩人は
何を託したのでしょうか
それはやがて、
第3節の読みにかかわって
「鏡」に
どのようなメタファーが込められているのか
そして
全3節のこの作品全体の
読みの問題に発展します

(なんにも書かなかつたら)は
題名のない詩ですが
第一詩集「山羊の歌」刊行への思いが
歌われているものだとすれば
ここにも一つの詩論や詩人論を
読むことは容易です

しんなり、開いて、
こちらを、むいてる。
蜂だとて、ゐぬ、
小暗い、小庭に。

もの言わず
小暗き庭に
ひっそりと咲くバラの花とは
詩そのもののことであるような
だけれども
安原喜弘という詩人への
問いかけであり
オマージュでもあるような
多様な
読みが出来る詩ではあります

第3節の「鏡」は
澄んだ心
まっしろ
底なし
おどかし
うつす
浄め
和ます
よいもの

と、その属性を
列挙した揚句に

机の上に
一つでもあれば
心はなごむものであるのに
ある日
それにつばを吐いて
さっぱりして
すまない気持ちになった
でも
悪気はないんだ
許せよ
ちょっといたずらしただけさ

と、「詩」への思い
詩を書く姿勢を
やはりここでも
道化の口ぶりで
語っているように見えてきて
深みを感じさせてくれるのです

 *
 (なんにも書かなかつたら)

なんにも書かなかつたら
みんな書いたことになつた

覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだつた

夕陽に向つて、
野原に立つてゐた。

まぶしくなると、
また歩み出した。

何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……

土手の柳を、
見て暮らせ、よだ
       (一九三四・一二・二九)

開いて、ゐるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇(ばら)の、花ぢやろ。

しんなり、開いて、
こちらを、むいてる。
蜂だとて、ゐぬ、
小暗い、小庭に。

あゝ、さば、薔薇(さうび)よ、
物を、云つてよ、
物をし、云へば、
答へよう、もの。

答へたらさて、
もつと、開(さ)かうか?
答へても、なほ、
ジツト、そのまゝ?

鏡の、やうな、澄んだ、心で、
私も、ありたい、ものです、な。

 鏡の、やうな、澄んだ、心で、
 私も、ありたい、ものです、な。

鏡は、まつしろ、斜(はす)から、見ると、
鏡は、底なし、まむきに、見ると。

 鏡は、ましろで、私をおどかし、
 鏡、底なく、私を、うつす。

私を、おどかし、私を、浄め、
私を、うつして、私を、和ます。

鏡、よいもの、机の、上に、
一つし、あれば、心、和ます。

あゝわれ、一と日、鏡に、向ひ、
唾(つば)、吐いたれや、さつぱり、したよ。

 唾、吐いたれあ、さつぱり、したよ、
 何か、すまない、気持も、したが。

鏡、許せよ、悪気は、ないぞ、
ちよいと、いたづら、してみたサァ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

草稿詩篇1933―1936<37>(なんにも書かなかつたら)

(なんにも書かなかつたら)は
第1節末尾に
(一九三四・一二・二九)の日付を持ち
「草稿詩篇1933―1936」の中では
1934年制作の作品の最終にあります

この年に書かれた
道化調詩篇群のうちでも
最後の作品ということになります
年も押し迫り
1934年という年も残すところ3日です

つい最近印刷を終えた
第一詩集「山羊の歌」の一般販売が
この日にはじまりました
詩人は
その仕事を振り返ります

わき目一つしないで
突っ走ってきた詩人に
少し余裕ができたのでしょうか

苦労して
やっと刊行に漕ぎ着けた詩集を
手にとって
パラパラめくりながら
ふつふつと沸き立ってくる思いを
詩の形で表白します

なんにも書かなかつたら
みんな書いたことになつた

覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだつた

書き出しは
そぎ落とせるものはそぎ落とし
肩の力を抜いて
率直な気持ちが出たものでしょうか

詩人は
この時

夕陽に向つて、
野原に立つてゐた。

まぶしくなると、
また歩み出した。

まるで
西部劇の主人公のように
腰にぶら下げたガンに手をあてがい
いまにも
引き金を引こうとするかのように
ポーズをとろうとして
思いとどまり……

思いとどまれば
夕陽がまぶしくて
きびすを返して
また歩きはじめます

すると
口をついて出るのは

何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……

土手の柳を、
見て暮らせ、よだ

という
東雲節(しののめぶし)の一節です

♪何をくよくよく川端柳(かわばたやなぎ) 
♪水の流れをみて暮らせ

明治時代の流行歌として
各地で歌われ
もっと古い時代
江戸時代あたりからある
都々逸(どどいつ)ともいわれる
この歌の言葉は
繰り返し口ずさんでいると
不思議に
楽な気持ちになってくるものがあります

詩人も
この癒し効果のようなものを
この歌の言葉に感じて
落ち込んだときには
口ずさむことがあったのでしょうか
ふいに
この歌が出てきたのですが
水の流れをみて暮らせ
と、歌うべきところを
土手の柳を見て暮らせとしました

blowin' in the wind
風に吹かれて、ですね
let it be かもしれません
ままよ、です

ドンマイ!ドンマイ!
気楽に行こうぜ
という心境で
詩人は
詩集刊行を果たした
気負いを押さえて

だ……
よだ
と、一歩引いた
道化の位置で
わが身を振り返るのです

 *
 (なんにも書かなかつたら)

なんにも書かなかつたら
みんな書いたことになつた

覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだつた

夕陽に向つて、
野原に立つてゐた。

まぶしくなると、
また歩み出した。

何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……

土手の柳を、
見て暮らせ、よだ
       (一九三四・一二・二九)

開いて、ゐるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇(ばら)の、花ぢやろ。

しんなり、開いて、
こちらを、むいてる。
蜂だとて、ゐぬ、
小暗い、小庭に。

あゝ、さば、薔薇(さうび)よ、
物を、云つてよ、
物をし、云へば、
答へよう、もの。

答へたらさて、
もつと、開(さ)かうか?
答へても、なほ、
ジツト、そのまゝ?

鏡の、やうな、澄んだ、心で、
私も、ありたい、ものです、な。

 鏡の、やうな、澄んだ、心で、
 私も、ありたい、ものです、な。

鏡は、まつしろ、斜(はす)から、見ると、
鏡は、底なし、まむきに、見ると。

 鏡は、ましろで、私をおどかし、
 鏡、底なく、私を、うつす。

私を、おどかし、私を、浄め、
私を、うつして、私を、和ます。

鏡、よいもの、机の、上に、
一つし、あれば、心、和ます。

あゝわれ、一と日、鏡に、向ひ、
唾(つば)、吐いたれや、さつぱり、したよ。

 唾、吐いたれあ、さつぱり、したよ、
 何か、すまない、気持も、したが。

鏡、許せよ、悪気は、ないぞ、
ちよいと、いたづら、してみたサァ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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