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2010年7月21日 (水)

草稿詩篇1933―1936<58>砂漠

「砂漠」は
草稿が現存せず
原稿のコピーだけが残された、
というエピソードをもつ作品です
昭和47年(1972年)5月6日に起こった
詩人の実家・中原家の火災で
草稿は焼失しました

砂漠は
中原中也の詩の中に
たまに登場するモチーフですが
すぐさま
「ノート1924」の中の
「古代土器の印象」というダダの作品

砂漠のたゞ中で
私は土人に訊ねました

が思い出され

「早大ノート」中の
「砂漠の渇き」に

私は砂漠の中にゐた。
私の胃袋は金の叫びを揚げた

「山羊の歌」中には
「月」に

秒刻は銀波を砂漠に流し

と、いづれも
砂漠は
ただならぬ場所
荒涼とした土地
危険な地域
デンジャラスなところ
……などの意味を含めて
使われていることがわかりますが

そこは
案外、詩人の暮らしているところ
娑婆であるとか
世間であるとか
地球であるとか
生存競争に明け暮れる世の中であるとか
ありもしないおとぎの国ではなく
普通に苦難の多い場所のことかもしれません

砂漠の中に
火が見えた!

のは、
ただでさえデンジャラスなところに
火があがり
燃えているのを見た詩人の
「!」をともなった驚きを表したものであるなら
なにか
大変なことを見た!
ただならぬ状況に陥った!
やっかいなところにさしかかってしまった!
という意味のメタファーととらえてよいのでしょうか

それとも
もっとポジティブなドラマを見たほうがよいのでしょうか
たとえば
なにか大発見をした時の驚きを
凄いものを見つけてしまった!
と、歌っている、とか
それが
どんな事件だかドラマだか
わかりませんが

砂漠という場所に登場するのは
疲れた駱駝(らくだ)と、
無口な土耳古人(ダツチ)で
疲れた駱駝(らくだ)が、
自分の影を見るのなら
それは、詩人のことで
無口な土耳古人(ダツチ)が
そねむような目付きをするのなら
それは、詩人をうとましく感じている人々のことを指すのかもしれません

何故だろう
何でかなあ
砂漠の中に
火が見えるなんて
こんなこと
これまでにあったろうか
なかったよな

と、砂漠の火は
そうやすやすと目にできるものではなく
めったに見られるものではなく
その火が見えたということは
ついに
火が現れた!
大変だ!
畏れ多いことだ!

と、疲れた駱駝と
無口な土耳古人(ダツチ)ともどもに
注意を喚起しようとしているのかも知れませんが
象徴的な詩の言語は
無限に解釈を誘いますから
こう読んでいいのやら悪いのやら
見当もつかず
断言できるものは少しもありません

この詩が
砂漠という場所を
自然描写しているものでないことだけは
確かなことです

 *
 砂漠

砂漠の中に、
 火が見えた!
砂漠の中に、
 火が見えた!
        あれは、なんでがな
         あつたらうか?
        あれは、なんでがな
         あつたらうか?
陽炎(かげろう)は、襞(ひだ)なす砂に
 ゆらゆれる。
陽炎は、襞なす砂に
 ゆらゆれる。
        砂漠の空に、
         火が見えた!
        砂漠の空に、
         火が見えた!
あれは、なんでがな
 あつたらうか?
あれは、なんでがな
 あつたらうか?
        疲れた駱駝(らくだ)よ、
         無口な土耳古人(ダツチ)よ、
あれは、なんでがな
 あつたらうか?
        疲れた駱駝は、
         己が影みる。
          無口な土耳古人(ダツチ)は
         そねまし目をする。

砂漠の彼方(かなた)に、
 火が見えた!
砂漠の彼方に、
 火が見えた!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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