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2010年7月25日 (日)

草稿詩篇1933―1936<62>暗い公園

「暗い公園」は
詩の末尾に
(一九三六・一一・一七)の日付をもつ作品で
「断片」とほぼ同時期に作られたものと推定されますが
「断片」を
「暗い公園」の前に置いた意図に
理由はありません。

長男文也が
11月10日に急逝し
詩人は
この年の12月28日の忌明けの日まで
毎日、僧侶を呼んで読経してもらい
自分も一歩も家から出ずに
般若心経を読む日々だったことが分かっていますが

「暗い公園」は
明らかに
文也死後の制作ですし
「断片」も
その草稿に
「南無阿弥陀仏々々々々々々々」と書かれた文字が
後で抹消された形跡があることから
文也死後の制作と
推定される作品です

これより前に
「改造」昭和11年7月特大号に
名作「曇天」を発表し
これはやがて
「在りし日の歌」にも選抜されるのですが
この「曇天」が作られたのが
この年1936年5月初旬で
この中にある

黒い 旗が はためくを みた。

は、「暗い公園」第3連の

その黒々と見える葉は風にハタハタと鳴つてゐた。

に通じるものがあります

はためくものが
旗とポプラに違いはあるものの
二つは
同じものの異なる表現に違いありません

「曇天」と「暗い公園」は
モチーフの違いはありながら
ほとんど同じことを歌おうとしているのですが
決定的に異なるのが
文也の死の反映で
「暗い公園」の最終行

けれど、あゝ、何か、何か……変つたと思つてゐる。

が、そのことを明らかにしています

何か変つた、とは
文也の死がもたらしたことの全てですが
詩人はこの時
まだ詩人自らを掌握できていなかったのか
あるいは
こういう言い方しか
失ったものの大きさを
的確に言い表すことができない、とでも考えたか
あるいは
文也の死を
詩の言葉にする力がなかったか
パワーが湧いていなかったか

いずれであっても
文也の死についての
もっとも早い段階の表現の一つが
ここにあり
そのことを銘記すべき詩ということになります

 *
 暗い公園

雨を含んだ暗い空の中に
大きいポプラは聳(そそ)り立ち、
その天頂(てつぺん)は殆んど空に消え入つてゐた。

六月の宵、風暖く、
公園の中に人気はなかつた。
私はその日、なほ少年であつた。

ポプラは暗い空に聳り立ち、
その黒々と見える葉は風にハタハタと鳴つてゐた。
仰ぐにつけても、私の胸に、希望は鳴つた。

今宵も私は故郷(ふるさと)の、その樹の下に立つてゐる。
其(そ)の後十年、その樹にも私にも、
お話する程の変りはない。

けれど、あゝ、何か、何か……変つたと思つてゐる。
          (一九三六・一一・一七)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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