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2010年7月

2010年7月31日 (土)

草稿詩篇1925―1928<1> 退屈の中の肉親的恐怖

「草稿詩篇(1925―1928)」の
最先頭に置かれているのが
「退屈の中の肉親的恐怖」という詩ですが
これは
現存する中原中也が書いた書簡の中で
最も古いものとされている
大正14年(1925年)2月23日付けの
正岡忠三郎宛の書簡の中に
書き付けられてあったものです

中也と泰子は
この書簡が書かれてすぐの
3月10日に上京しますから
京都時代の最後の作品ということになっています

18歳の時の詩です
1925年、大正14年は
詩人に大きな事件が襲った年です
1936年制作の詩を読んで
長男文也の死を見たばかりですが
11年前に遡(さかのぼ)ると
泰子と上京し
泰子に逃げられた詩人と出会いますから
詩人の生涯を2度襲った大事件に
立て続けに触れるということになります

「退屈の中の肉親的恐怖」は
泰子との別離以前に書かれたものであることは明白で
世の中を斜(しゃ)に見ていて
覇気(はき)があり
元気一杯の青年詩人は
ダダイストそのものです

書簡には
タイトルの次の行に
「ダダイスト中原中也」と書かれてあり
異例のことです
これは単なる署名というより
詩題の一部であり
詩の一部である
というような読みさえできるほどの強さがあります

正岡忠三郎は
詩人・富永太郎の二高時代の友人で
冨倉徳次郎とともに
京都大学へ進んだのが縁で
京都に大正13年7月から11月まで滞在した富永に
紹介されて知り合った仲です

中原中也に
富永太郎や正岡忠三郎を紹介したのは
冨倉徳次郎であったという順序が正確のようで
冨倉は
京都寺町今出川の中也・泰子の下宿をしばしば訪れ
中也と詩論を戦わせたりする過程で
自分の交友関係の中に
中也を招じ入れたということのようです

中也は
ダダイズムを
高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」を
読む大正12年(1923年)秋以前から知っていて
「破格」語法・詩法などについて
ある程度通じていましたが
新吉の詩集を古書店で手にしたのを機に
公然とダダイストを名乗るようになります

正岡宛の書簡は
おそらく
正岡と知りあって間もない頃に書かれたもので
「ダダイスト中原中也」と
詩題「退屈の中の肉親的恐怖」の次の行に記したのは
この間話したとおり、おれはダダイストなんだ、と
正岡に印象付ける必要があったからでしょうか

内容は
よく読むと「女」のことで
女とは、ただちに泰子のことではあるけれど
女全般に普遍化した女で
その女との暮らしは「退屈」で
すでに、
「倦怠」「アンニュイ」に通じるテーマを歌いはじめていることに
やや驚かされますが

彼女達が肉親と語りゐたれば我が心――

この行にいたって
この詩の向おうとしている「肉親」について
詩人の「我が心」は
どのように読んでいいものやらと
謎のような

ケチの焦げるにほひ……
この日白と黒との独楽廻り廻る

の2行をめぐって
グルグルグルと回転しはじめるのです

白と黒の独楽
は、詩人の心の中で
回っている独楽(コマ)に二種あり
一つは純白の白
一つは漆黒の黒
二つがせめぎあって回転している様子とは
うっすらとイメージできそうですが

ケチの
焦げる
にほい

が、どのような「我が心」か
苦しみます

詩人の中の嫉妬心を
見つめて
「けち臭い」が進んで
「焦げてしまっている状態」を
言っているのでしょうか

ダダの詩に
「女」が歌われ
「肉親」が歌われ
「退屈」が歌われているのを知るだけでも
面白い詩と言えそうです

 *
 退屈の中の肉親的恐怖

多産婦よ
炭倉の地ベタの隅に詰め込まれろ!
此の日白と黒との独楽(こま)廻り廻る
世間と風の中から来た退屈と肉親的恐怖――女

制約に未だ顔向けざる頃の我
人に倣ひて賽銭投げる筒ッポオ
――とまれ!――(幻燈会夜……)
茶色の上に乳色の一閑張(いつかんばり)は地平をすべり
彼方(かなた)遠き空にて止まる
その上より西に東に――南に北に、ホロツホロツ
落ち、舞ひ戻り畳の上に坐り
「彼女(アイツ)の祖母さんとカキモチ焼いてらあ」
「それから彼女はコーラスか」
「あら? 彼女は彼女のお父さんから望遠鏡手渡しされてる」
恋人の我より離れ
彼女達が肉親と語りゐたれば我が心――
ケチの焦げるにほひ……
この日白と黒との独楽廻り廻る

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年7月29日 (木)

全詩鑑賞への見通しについて

未発表詩篇の「草稿詩篇(1933年―1936年)」を読み終えたところで
中原中也の全詩(短歌含む)を展望してみましょう。

今、中也の詩のどのあたりを読んでいるのか
今後、どのように読み進んでいくのか
おおざっぱに、その方向をつかんでおきたいと思います

第一詩集「山羊の歌」(生前発行)は44篇★
第二詩集「在りし日の歌」(死後発行)は58篇★
合同歌集「末黒野」に「温泉集」と題して自選発表した短歌28首●
生前発表詩篇は40篇▲
主に「防長新聞」に発表し、死後、初期短歌として収集された短歌78首●

未発表詩篇は
「ダダ手帖(1923―1924)」に2篇★
「ノート1924(1924―1928)」に51篇▲
「草稿詩篇(1925―1928)」に20篇▲
「ノート小年時(1928―1930)」に16篇▲
「早大ノート(1930―1937)」に42篇★
「草稿詩篇(1931―1932)」に13篇★
「ノート翻訳詩(1933)」に9篇▲
「草稿詩篇(1933―1936)」に65篇★
「療養日誌・千葉寺雑記(1937)」に5篇★
「草稿詩篇(1937)」に6篇★

以上の分類は
角川書店版全集(新旧とも)に基づいています

★は読み終えたもの
▲は何篇かを読み始めているもの
●は一つも読んでいないものとなりますが

「草稿詩篇(1933―1936)」の65篇は
1冊の詩集が編纂できるほどの
数であることがわかります
「ノート1924」の51篇
「早大ノート(1930―1937)」の42篇も同じで
未発表詩篇であり
未完成作が多いとはいえ
これだけでも
数字的には詩集3冊分以上の作品があることになります
生前発表詩篇の40篇も同じで
これを合わせれば
4冊分の詩集ができる数になります

生前発表詩篇は
詩人の生存中に
雑誌・詩誌・新聞などに
発表した完成作ばかりですから
「影の第三詩集」と呼べるものかもしれません
このうちの約7割をすでに読み終え
未発表詩篇のグループを読んでいる途中ですが

次に何を読もうかと考えたときに
読む順序として
読む戦略として
京都時代にさかのぼるより
やはり東京の生活から生れた詩を
先に読んだほうがほうがよいのか

いったん京都時代の作品まで遡って
あるいは
それ以前の作品が多い
短歌に遡って
時系列に読み進めようか
――などと考えをめぐらせました

その結果
1、「草稿詩篇(1925―1928)」
2、「ノート小年時(1928―1930)」
3、「ノート1924(1924―1928)」
4、「ノート翻訳詩(1933)」
5、短歌
6、生前発表詩篇

という道筋が見えてきました

 

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2010年7月26日 (月)

草稿詩篇1933―1936<63>夏の夜の博覧会はかなしからずや

1936年(昭和11年)11月10日
長男の文也が死去しました

この日の日記に
詩人は

午前九時二十分文也逝去
ひのえ申一白おさん大安翼
 文空童子

とだけ記します

この日より前に日記が記されたのは
11月4日で

坊やの胃は相変わらずわるく、終日むづかる。明日頃はなほるであらう。

と書いたばかりでした

12日には
詩人が喪主兼世話役になった葬儀が行われ
日記には寄せられた香典のメモが書かれますが
以後1か月は記述がなく
12月12日に
「文也の一生」の題で
死後初めてになる追悼の記事が
書かれるのです

昭和九年(1934)八月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによって帰省。
九月末小生一人上京。文也九月中に生れる予定なりしかば、待ってゐた
りしも生れぬので小生一人上京。十月十八日生れたりとの電報をうく。

と毛筆で書き起こされる
2年前の文也誕生から
その後の成長の過程が
「文也の一生」には
思い出されるままに
ありありと書き綴られて
終わるところを知らない勢いがあるのですが
昭和11年7月末日の
万国博覧会行きの内容を書いている途中で
プツンと打ち切られ

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」と
タイトルのある詩が
書き継がれる形になったのです

親子3人が博覧会で見たサーカスの思い出を
日記として叙述しているうちに
イメージがふくらんだか
感情が高ぶったか
ほかの理由によるものか
詩の言語として表出する必要に迫られ
一篇の詩の制作に至ったもののようです

詩人には
詩に置き換えるほかに
かなしみを癒す術はなく
文也死去後1か月の間
僧侶に毎日の読経を依頼し
自分は般若心経をそらんじていました

「文也の一生」の終わりの部分を
読んでおきましょう
全体の6分の1ほどに相当するでしょうか

春暖き日坊やと二人で小沢を番衆会館に訪ね、金魚を買ってやる。同じ
頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼
ぶ。大きい象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。
豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩
をみす。一心にみる。六月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。
ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。七月淳夫君他へ下宿す。
八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみ
しこともありき。八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会に
ゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通
る。上野の夜店をみる。

上野の夜店をみる。
と書いたところで
「文也の一生」は途切れるように終わります

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は
日記帳にではなく
原稿用紙に
「文也の一生」と同じ毛筆で書かれました

 *
 夏の夜の博覧会はかなしからずや

夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちよと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に余と坊やとはゐぬ
二人蹲(しゃが)んでゐぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬかなしからずや
不忍ノ(しのばずの)池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりきかなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや

その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なほ明るく、昼の明(あかり)ありぬ、
われら三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

夕空は、紺青(こんじょう)の色なりき
燈光は、貝釦(かいボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!
                 (一九三六・一二・二四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
 

2010年7月25日 (日)

草稿詩篇1933―1936<62>暗い公園

「暗い公園」は
詩の末尾に
(一九三六・一一・一七)の日付をもつ作品で
「断片」とほぼ同時期に作られたものと推定されますが
「断片」を
「暗い公園」の前に置いた意図に
理由はありません。

長男文也が
11月10日に急逝し
詩人は
この年の12月28日の忌明けの日まで
毎日、僧侶を呼んで読経してもらい
自分も一歩も家から出ずに
般若心経を読む日々だったことが分かっていますが

「暗い公園」は
明らかに
文也死後の制作ですし
「断片」も
その草稿に
「南無阿弥陀仏々々々々々々々」と書かれた文字が
後で抹消された形跡があることから
文也死後の制作と
推定される作品です

これより前に
「改造」昭和11年7月特大号に
名作「曇天」を発表し
これはやがて
「在りし日の歌」にも選抜されるのですが
この「曇天」が作られたのが
この年1936年5月初旬で
この中にある

黒い 旗が はためくを みた。

は、「暗い公園」第3連の

その黒々と見える葉は風にハタハタと鳴つてゐた。

に通じるものがあります

はためくものが
旗とポプラに違いはあるものの
二つは
同じものの異なる表現に違いありません

「曇天」と「暗い公園」は
モチーフの違いはありながら
ほとんど同じことを歌おうとしているのですが
決定的に異なるのが
文也の死の反映で
「暗い公園」の最終行

けれど、あゝ、何か、何か……変つたと思つてゐる。

が、そのことを明らかにしています

何か変つた、とは
文也の死がもたらしたことの全てですが
詩人はこの時
まだ詩人自らを掌握できていなかったのか
あるいは
こういう言い方しか
失ったものの大きさを
的確に言い表すことができない、とでも考えたか
あるいは
文也の死を
詩の言葉にする力がなかったか
パワーが湧いていなかったか

いずれであっても
文也の死についての
もっとも早い段階の表現の一つが
ここにあり
そのことを銘記すべき詩ということになります

 *
 暗い公園

雨を含んだ暗い空の中に
大きいポプラは聳(そそ)り立ち、
その天頂(てつぺん)は殆んど空に消え入つてゐた。

六月の宵、風暖く、
公園の中に人気はなかつた。
私はその日、なほ少年であつた。

ポプラは暗い空に聳り立ち、
その黒々と見える葉は風にハタハタと鳴つてゐた。
仰ぐにつけても、私の胸に、希望は鳴つた。

今宵も私は故郷(ふるさと)の、その樹の下に立つてゐる。
其(そ)の後十年、その樹にも私にも、
お話する程の変りはない。

けれど、あゝ、何か、何か……変つたと思つてゐる。
          (一九三六・一一・一七)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月24日 (土)

草稿詩篇1933―1936<61>断片

回想は
まだまだ続けられ
昭和11年(1936年)11月中旬に制作されたと
推定されている「断片」は
10年前と12年前の思い出にふれます

前半に出てくる「恋人」は
長谷川泰子らしく
後半に出てくる「あの男」は
詩人・富永太郎らしいことが推察できます

詩作当時も
血液型の研究は進み
一般にも流布していたのでしょうか
相性判断の恰好の材料として
現在のように
週刊誌などで宣伝されていたものなのでしょうか

詩人の周辺にも
たとえば
銀座のバーあたりには
新しがり屋で
占い好きで
なんでもかんでも血液型で判断するのが好きな人物が
遊び半分
詩人の交友関係を
占ったりした場面がいつかあったのかも知れません

恋人よ!
と、呼びかける詩句は
「山羊の歌」の「盲目の秋」に

私の聖母!(わたしのサンタマリア!)

があり、
「無題」冒頭に

こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆふべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。

などとあるのを
すぐさま連想しますが
「断片」は
さすがに直接話法の生々しさはそがれて
恋人同士のどんな思いも
思いどころか肉体もが
百年後には影も形もなくなっていることを
冷徹に見通す目に重点は移動していますし
それを
血液型の話の枠内に押しとどめようとする
「道化調」さえあります

この詩は
かつての恋も
百年も経てば
跡形もなく
この冬の夜のように
煙突を吹きつける風が
はげしいのだけが変らずにあり続けるのであり
それを思えば
淋しくてたまらない
どうしようもなく淋しい、
というところに重心があり
恋そのものは遠景に退いているのです

後半のあの男(富永太郎)の思い出も
12年前のちょうど今ごろ
火鉢を囲んで
ゴールデンバットを盛んに吸っては
談論風発したのに
今はこうして僕は生きのび
僕とゴールデンバットはあり続けているのに
あの男はいない
という不思議さに目は向けられ
やはり遠い過去の景色としてあります

僕がこうしてあの男とゴールデンバットを吸いながら
あれこれと話したことを
記憶にとどめて思い出すことができるというのは
気持ちがしっかりしているからであって
そうでなければ
こんなにもまざまざとあの男のことを
思い出すこともできないのだから
これはもはや悲しいということを通り越している

通り越して
どんな状態であるか
そこに
詩人が述べたいものが存在しているのですが
それは言ってしまうと
白々しくて
あつ苦しくて
どうにもならなくて
何の役にもたたない
断片みたいなもので
……

そうやすやすと
言えるものではないけれど
いろいろな形で
実は言ってきたものです
そんなことばかりを言わないでいれば
もう少し裕福になっていたかもしれないのに
こりずに何度も何度も
そのことばかりについて言おうとしてきました

 *
 断片

(人と話が合ふも合はぬも
所詮は血液型の問題ですよ)?……

恋人よ! たとへ私がどのやうに今晩おまへを思つてゐようと、また、おまへが私を
 どのやうに思つてゐようと、百年の後には思ひばかりか、肉体さへもが影をもとど
 めず、そして、冬の夜(よる)には、やつぱり風が、煙突に咆(ほ)えるだらう……
おまへも私も、その時それを耳にすべくもないのだし……

さう思うふと私は淋しくてたまらぬ
さう思うふと私は淋しくてたまらぬ

勿論(もちろん)このやうな思ひをすることが平常(いつも)ではないけれど、またこんなことを思つてみ
 たところでどうなるものでもないとは思ふけれど、時々かうした淋しさは訪れて来
 て、もうどうしやうもなくなるのだ……

(人と話が合ふも合はぬも
所詮は血液型の問題ですよ)?……

さう云つてけろけろしてゐる人はしてるもいい……
さう云つてけろけろしてゐる人はしてるもいい……

人と話が合ふも合はぬも、所詮は血液型の問題であつて、だから合ふ人と合へばいい
 合はぬ人とは好加減(いいかげん)にしてればいい、と云つてけろけろ出来ればなんといいこつた
らう……

恋人よ! 今宵煙突に風は咆え、
僕は灯影(ほかげ)に坐つてゐます
そして、考へたつてしやうのないことばかりが考へられて
耳ゴーと鳴つて、柚子(ゆず)酸ッぱいのです

そして、僕の唱へる呪文(?)ときたら
笑つちや不可(いけ)ない、こんのものです
  ラリルレロ、カキクケコ
  ラリルレロ、カキクケコ

現にかういつてゐる今から十年の前には、
あの男もゐたしあの女もゐた
今もう冥土に行つてしまつて
その時それを悲しんだその母親も冥土に行つた
もう十年にもなるからは
冥土にも相当お馴れであらうと
冗談さへ云ひたい程だが
とてもそれはそうはいかぬ
十二年前の恰度(ちょうど)今夜
その男と火鉢を囲んで煙草を吸つてゐた
その煙草が今夜は私独りで吸つてゐるゴールデンバットで、
ゴールデンバットと私とは猶(なお)存続してるに
あの男だけゐないといふのだから不思議でたまらぬ
勿論(もちろん)あの男が埋葬されたといふことは知つてるし
とまれ僕の気は慥(たし)かなんだ
だが、気が慥かといふことがまた考へやうによつては、たまらないくらゐ悲しいこと
 で
気が慥かでさへなかつたならば、尠(すくな)くとも、僕程に気が慥かでさへなかつたならば、
 かうまざまざとあの男をだつて今夜此処(ここ)で思ひ出すわけはないのだし、思ひ出して、
 妙な気持(然り、妙な気持、だつてもう、悲しい気持なぞといふことは通り越して
 ゐる)にならないでもすみさうだ

そして、
(人と話が合ふも合はぬも
所詮は血液型の問題ですよ)と云つて
僕も、万事都合といふことだけを念頭に置いて
考へたつて益にもならない、こんなことなぞを考へはしないで、尠くも今在るよりは
 裕福になつてゐたでもあらうと……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月23日 (金)

草稿詩篇1933―1936<60>小唄二篇

長男文也はすくすくと育ち
どうやらこの頃
第二子の懐胎を知り
一方、
第一詩集「山羊の歌」の刊行以来
詩人としての名声は高まり広がり
「文学界」「四季」「改造」「歴程」などへの寄稿も頻繁になり
酒席の場への出入りも増えていました

よいことの多くはなかった詩人は
ここにきてようやく上り調子にあるにもかかわらず
時として
人の命のはかなさを感じ
人生を振り返ることが多くなるのは
自分の体の中で進行する
よからぬ病を
人知れず自覚していたからでしょうか

この時点で
長男文也が死んでしまう(11月10日)ことなど
夢にも思うことなく
1月には「含羞(はじらひ)」を書き
「文学界賞」に投稿した「六月の雨」が
1等には選ばれず
佳作第1席作品として掲載されるのは
6月のことですし
7月には
「ランボウ詩抄」を刊行します

昭和11年(1936年)3月~7月と
制作日を推定されている「小唄二篇」は
一で
漆黒の海に響きわたる汽笛を
二で
自殺者のニュースが伝わる三原山を
ともに
明るくはない題材を歌いながらも
リズムがあって
ホッとさせるものがあります

 *
 小唄二篇

   一

しののめの、
よるのうみにて
汽笛鳴る。

心よ
起きよ、
目を覚ませ。

しののめの、
よるのうみにて
汽笛なる。

   二

僕は知つてる煙(けむ)が立つ
  三原山には煙が立つ

行つてみたではないけれど
  雪降りつもつた朝(あした)には

寝床の中で呆然(ぼうぜん)と
  煙草くゆらし僕思ふ

三原山には煙が立つ
  三原山には煙が立つ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月22日 (木)

草稿詩篇1933―1936<59>一夜分の歴史

「一夜分の歴史」も
草稿は現存せず
「文芸」昭和12年(1937年)12月号に
遺稿として死後発表されたものだけが残り
この印刷物が底本とされる作品です
「文芸」に使用した草稿は
印刷終了後に散逸するなど
この作品が今こうして読まれるには
さまざまなエピソードがあり
そのことは新全集第2巻「詩Ⅱ」解題篇に
詳しく案内されています

制作は
昭和11年(1936年)5月頃と推定されていますが
死後初出にいたる複雑な経緯などがあり
断定できるものではありません

詩の内容は
雨の降るある夜
梅の木にたまった滴に風が吹いて
ボタボタと庭の土に落ちるのを聞きながら(見ながら)
詩人は
いつもより砂糖を多めにいれて
コーヒーを飲んだのですが

その夜のことを

と、そのやうな一夜が在つたといふこと、
明らかにそれは私の境涯の或る一頁であり、
それを記憶するものはただこの私だけであり、
その私も、やがては死んでゆくといふこと、
それは分り切つたことながら、また驚くべきことであり、
而(しか)も驚いたつて何の足しにもならぬといふこと……

と、「一夜分の歴史」として
思索するものです

このくだりに出会って
すぐさま
「曇った秋」の第3連を思い出し
とりわけ
その第5連

まことに印象の鮮明といふこと
我等の記臆、謂(い)はば我々の命の足跡が
あんまりまざまざとしてゐるといふことは
いつたいどういふことなのであらうか

を思い出します

この時期
詩人は
ある過去の出来事の一場面が
まざまざとよみがえり
それが近い過去ではなおさら
遠い過去では
手に届きもしないことだけれど同じことだ、と

「雲」では歌います

しきりに
過去のある一日や一瞬をクローズアップし
この「一夜分の歴史」のように

鮮やかな過去の一瞬が
私だけのもの
私だけに記憶されているものであり
その私はやがては
この世から消えてなくなる存在であり
そんなことは分かりきったことでありながら
考えれば考えるほど
驚くべきことで……

誠に
「死」とはとらえがたいもので
この目でしかと見ることができないもので
しかし驚いていてもはじまらないもので
……


永遠に答えの出ない問いを問う間も
風は吹き
梅の木にたまった滴を
地面に叩きつけているのです

 *
 一夜分の歴史

その夜は雨が、泣くやうに降つてゐました。
瓦はバリバリ、煎餅かなんぞのやうに、
割れ易いものの音を立ててゐました。
梅の樹に溜つた雨滴(しずく)は、風が襲ふと、
他の樹々のよりも荒つぽい音で、
庭土の上に落ちてゐました。
コーヒーに少し砂糖を多い目に入れ、
ゆつくりと掻き混ぜて、さてと私は飲むのでありました。

と、そのやうな一夜が在つたといふこと、
明らかにそれは私の境涯の或る一頁であり、
それを記憶するものはただこの私だけであり、
その私も、やがては死んでゆくといふこと、
それは分り切つたことながら、また驚くべきことであり、
而(しか)も驚いたつて何の足しにもならぬといふこと……
――雨は、泣くやうに降つてゐました。
梅の樹に溜つた雨滴(しづく)は、他の樹々に溜つたのよりも、
風が吹くたび、荒つぽい音を立てて落ちてゐました。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月21日 (水)

草稿詩篇1933―1936<58>砂漠

「砂漠」は
草稿が現存せず
原稿のコピーだけが残された、
というエピソードをもつ作品です
昭和47年(1972年)5月6日に起こった
詩人の実家・中原家の火災で
草稿は焼失しました

砂漠は
中原中也の詩の中に
たまに登場するモチーフですが
すぐさま
「ノート1924」の中の
「古代土器の印象」というダダの作品

砂漠のたゞ中で
私は土人に訊ねました

が思い出され

「早大ノート」中の
「砂漠の渇き」に

私は砂漠の中にゐた。
私の胃袋は金の叫びを揚げた

「山羊の歌」中には
「月」に

秒刻は銀波を砂漠に流し

と、いづれも
砂漠は
ただならぬ場所
荒涼とした土地
危険な地域
デンジャラスなところ
……などの意味を含めて
使われていることがわかりますが

そこは
案外、詩人の暮らしているところ
娑婆であるとか
世間であるとか
地球であるとか
生存競争に明け暮れる世の中であるとか
ありもしないおとぎの国ではなく
普通に苦難の多い場所のことかもしれません

砂漠の中に
火が見えた!

のは、
ただでさえデンジャラスなところに
火があがり
燃えているのを見た詩人の
「!」をともなった驚きを表したものであるなら
なにか
大変なことを見た!
ただならぬ状況に陥った!
やっかいなところにさしかかってしまった!
という意味のメタファーととらえてよいのでしょうか

それとも
もっとポジティブなドラマを見たほうがよいのでしょうか
たとえば
なにか大発見をした時の驚きを
凄いものを見つけてしまった!
と、歌っている、とか
それが
どんな事件だかドラマだか
わかりませんが

砂漠という場所に登場するのは
疲れた駱駝(らくだ)と、
無口な土耳古人(ダツチ)で
疲れた駱駝(らくだ)が、
自分の影を見るのなら
それは、詩人のことで
無口な土耳古人(ダツチ)が
そねむような目付きをするのなら
それは、詩人をうとましく感じている人々のことを指すのかもしれません

何故だろう
何でかなあ
砂漠の中に
火が見えるなんて
こんなこと
これまでにあったろうか
なかったよな

と、砂漠の火は
そうやすやすと目にできるものではなく
めったに見られるものではなく
その火が見えたということは
ついに
火が現れた!
大変だ!
畏れ多いことだ!

と、疲れた駱駝と
無口な土耳古人(ダツチ)ともどもに
注意を喚起しようとしているのかも知れませんが
象徴的な詩の言語は
無限に解釈を誘いますから
こう読んでいいのやら悪いのやら
見当もつかず
断言できるものは少しもありません

この詩が
砂漠という場所を
自然描写しているものでないことだけは
確かなことです

 *
 砂漠

砂漠の中に、
 火が見えた!
砂漠の中に、
 火が見えた!
        あれは、なんでがな
         あつたらうか?
        あれは、なんでがな
         あつたらうか?
陽炎(かげろう)は、襞(ひだ)なす砂に
 ゆらゆれる。
陽炎は、襞なす砂に
 ゆらゆれる。
        砂漠の空に、
         火が見えた!
        砂漠の空に、
         火が見えた!
あれは、なんでがな
 あつたらうか?
あれは、なんでがな
 あつたらうか?
        疲れた駱駝(らくだ)よ、
         無口な土耳古人(ダツチ)よ、
あれは、なんでがな
 あつたらうか?
        疲れた駱駝は、
         己が影みる。
          無口な土耳古人(ダツチ)は
         そねまし目をする。

砂漠の彼方(かなた)に、
 火が見えた!
砂漠の彼方に、
 火が見えた!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月20日 (火)

草稿詩篇1933―1936<57>雲

「雲」も
「夜半の嵐」と同様に
昭和10年(1935年)後半~同11年(1936年)前半、
と制作日の推定幅を大きくとられた作品

一度
2009年5月6日に読みました
その時とほぼ同じ読みになりますが
新たな発見を加えて
もう一度読んでみます

詩人は
遠い過去に
のぼったことのある山の見える場所
そこは郷里の山口のどこかか
見晴らしの利く丘か野原か
後ろ手に組んだ腕に頭を乗せて
回想に耽っています

あの山の上で
お弁当を食べたことがあるなあ

小学校の遠足のことでしょうか
もっと大人になってからのことでしょうか
あの時のあの女の子
結婚した後、どうしているだろうか……
などと
深まってはいかない思い出は
あっちへ行きこっちへ行き

遠い過去の出来事
近い過去の出来事と
行ったり来たりしているうちに

山の上にいて、寝ころんで、空を見るのも
ここから、あの山を見るのも
同じようなものだ
動かなくてよい
動くな
動かなくてよいのだ

このようにして
枯れ草に寝そべって
やわらかな温もりにくるまれ
空の青の、冷たさそうなのを見ながら
煙草を吸っていられるんだ
こいつは世界的な幸福といってもよい
などと
一瞬でしかない
幸福な時間に浸っています

つい先だって
「曇った秋」で

我等の記臆、謂(い)はば我々の命の足跡が
あんまりまざまざとしてゐるといふことは
いつたいどういふことなのであらうか

と歌った詩人です

同じ頃
「夜半の嵐」では

喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし

と歌った詩人でもあります

遠い過去も
近い過去も同じこと
山の上で見る空も
ここからあの山を見るのも同じこと
といえる地点に詩人はいて
そこから
山の上の雲をながめ
過去を振り返っているとしかいえません

そこは
世界的幸福な地点なのでありますから
遠い過去も近い過去も
あの山もここも
みんな同じようなことで
永遠の一瞬の
その時の時だけがあり
ほかは何もない世界です
……

*

山の上には雲が流れてゐた
あの山の上で、お弁当を食つたこともある……
  女の子なぞといふものは
  由来桜の花弁(はなびら)のやうに、
  欣(よろこ)んで散りゆくものだ
  
  近い過去も遠いい過去もおんなじこつた
  近い過去はあんまりまざまざ顕現(けんげん)するし
  遠いい過去はあんまりもう手が届かない

山の上に寝て、空を見るのも
此処(ここ)にゐて、あの山をみるのも
所詮(しょせん)は同じ、動くな動くな

あゝ、枯草を背に敷いて
やんわりぬくもつてゐることは
空の青が、少しく冷たくみえることは
煙草を喫ふなぞといふことは
世界的幸福である

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月19日 (月)

草稿詩篇1933―1936<56>夜半の嵐

1935年制作の未発表詩篇を読み終わり
ようやく1936年に入りますが
「夜半の嵐」は
昭和10年(1935年)後半~同11年(1936年)前半、
と制作日の推定幅を大きくとられた作品で
実際、1936年に入っての作品であるか否かは
断定できません

中也29歳(4月29日誕生日)の
年譜を見ておきます

昭和11年(1936) 29歳
「四季」「文学界」「紀元」などに詩・翻訳を多数発表。
1月「含羞(はじらひ)」、6月「六月の雨」(「文学界賞」佳作第一席)、7月
「曇天」など。
春、文也を連れて動物園に行く。
6月「ランボウ詩抄」を山本書店より刊行。
7月、親子三人で「東洋ハーゲンベック大サーカス館」のサーカスを上野に
観に行く。
秋、親戚の中原岩三郎の斡旋で日本放送協会への入社話があり面接を
受ける。
11月10日、文也死去する。死因は小児結核。戒名は文空童子。悲痛
甚だしく、忌明けの12月28日まで毎日僧侶を読んで読経してもらう。「文
也の一生」を日記に書く。
12月15日、次男愛雅(よしまさ)生まれる。このころ、「夏の博覧会はかな
しからずや」「冬の長門峡」を制作。神経衰弱が昂じる。

眼に入れても痛くはない
というほどに可愛がった長男文也が
この年の11月、突然のように、亡くなります

詩人は悲痛とたたかうものの
力尽きたかのようにして
翌1937年10月22日に亡くなります

1936年の年明けに
詩人は
こんな風な悲劇が起こることを
まして自分が死んでしまうなんてことを
夢にだに思っていませんが
「死を想う」ことは
詩人の仕事でもあり
「生と死」は常にテーマでしたし
悲しみの由(よ)って来たる根源に
たえず「死」はありますから
「死」は
たびたび歌われもしました

「夜半の嵐」にも
「死の予感」、
「死の予兆」が現れます

1年前の昭和10年(1935年)4月24日制作の
「大島行葵丸にて」で
甲板から海に向って吐かれた唾(つばき)は
すでに
結核性の病の進行を物語るものだったのでしょうか
それより少し前の
同年3月には
長門峡への小旅行の帰途
汽車の中で吐血した詩人でした

最終行

それ、死の期(とき)もかからまし
(それ、死ぬ時もこんなふうであろうか)

には、突如として
詩の中に「死の期」が現れ
読者は息を飲む衝撃を受けますが
その時を
だれも想像することはできませんから
不安は掻き立てられたままになります

後になって
このころ詩人の中にあった予感を想像し
予兆を確認するばかりです

*
夜半の嵐

松吹く風よ、寒い夜(よ)の
われや憂き世にながらへて
あどけなき、吾子(あこ)をしみればせぐくまる
おもひをするよ、今日このごろ。

人のなさけの冷たくて、
真(しん)はまことに響きなく……
松吹く風よ、寒い夜(よ)の
汝(なれ)より悲しきものはなし。

酔覚めの、寝覚めかなしくまづきこゆ
汝(なれ)より悲しきものはなし。
口渇くとて起出でて
水をのみ、渇きとまるとみるほどに
吹き寄する風よ、寒い夜の

喀痰(かくたん)すれば唇(くち)寒く
また床(とこ)に入り耳にきく
夜半の嵐の、かなしさよ……
それ、死の期(とき)もかからまし

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月18日 (日)

草稿詩篇1933―1936<55-2>曇った秋・続

大岡昇平は
「曇った秋」について
詩に登場する「君」が
小林秀雄その人のことであることを指摘する中で

 小林は昭和九年以来、中原の詩の文壇への推薦者であった。「文学界」八月
号に「骨」を紹介した。「山羊の歌」の文圃堂出版は青山二郎のサロンで自然に
湧いた話だが、無論小林の賛成があって成立したのである。「文学界」昭和十年
一月号に小林が「書評」を、河上が「推薦文」を書いた。
 「六月の雨」は、昭和十一年夏の文学界賞の有力候補になった。賞は、結局
一時「文学界」の財政的援助者でもあった岡本かの子「鶴は病みき」へ行ったが、
「文学界」は殆ど毎月中原の詩を載せている。

と、小林らの詩人へのサポートの数々を列挙して

それでも中原の怨恨は解けなかったのである。

と結論しています。
(新旧全集「日記・書簡」解説)

1935年の
日記や書簡を解説するくだりは
詩人としての評価が高まる一方で
「周囲との不調和」に悩む詩人にふれ
とりわけ
小林秀雄との「因縁」を抽出して
詩人の側の「怨恨」に注目します

大岡昇平は
2年前の昭和8年(1933年)8月8日制作の
未発表詩篇「怨恨」に遡って
詩人の小林への怨恨を指摘したかと思うと
それが
1935年(昭和10年)9月13日の
日記に書かれた「呪詛」へ
一直線に通じるものと断定的に語りますが
その流れで
同年10月5日制作の
「曇った秋」を
「不気味な作品」として紹介するのです

つまり
大岡昇平は「曇った秋」を
怨恨の歌と見做しているのですが
この詩には
じめじめとした憎悪の呼吸は感じられず
むしろ乾いていて
さばさばとした悲しみに近いものが感じられるのは
「身内」にはない
不特定多数の一読者の
鈍感さのせいでしょうか

しよんぼりとして、犬のやうに捨てられてゐたと。

と歌っても
みじめさは
一読者には感じられず
「僕」にもありません

第2節で
突如、犬ではなく
猫に目を移すのは
捨てられた犬のみじめさとは異なる世界に
僕=詩人は棲息し
「緊密な心」を抱いて生存する猫に
自分を見ることができるからです

猫は空地の雑草の陰で、
多分は石ころを足に感じ、
霧の降る夜を鳴いてゐた――

と、猫に自身を投影して見ることができ
その猫は詩人の生き方であり
猫を歌うことによって
詩人の生き方を
明らかにしているのでしょう
中原中也、伝家宝刀の詩人宣言です

大岡昇平は
「曇った秋」を
なぜ
「不気味な作品」と受け止めたのでしょうか
逆に
疑問が湧いてきます

 *
 曇った秋

      1

或る日君は僕を見て嗤(わら)ふだらう、
あんまり蒼い顔してゐるとて、
十一月の風に吹かれてゐる、無花果(いちじく)の葉かなんかのやうだ、
棄てられた犬のやうだとて。

まことにそれはそのやうであり、
犬よりもみじめであるかも知れぬのであり
僕自身時折はそのやうに思つて
僕自身悲しんだことかも知れない

それなのに君はまた思ひ出すだらう
僕のゐない時、僕のもう地上にゐない日に、
あいつあの時あの道のあの箇所で
蒼い顔して、無花果の葉のやうに風に吹かれて、――冷たい午後だつた――

しよんぼりとして、犬のやうに捨てられてゐたと。

     2

猫が鳴いてゐた、みんなが寝静まると、
隣りの空地で、そこの暗がりで、
まことに緊密でゆつたりと細い声で、
ゆつたりと細い声で闇の中で鳴いてゐた。

あのやうにゆつたりと今宵一夜(ひとよ)を
鳴いて明(あか)さうといふのであれば
さぞや緊密な心を抱いて
猫は生存してゐるのであらう……

あのやうに悲しげに憧れに充ちて
今宵ああして鳴いてゐるのであれば
なんだか私の生きてゐるといふことも
まんざら無意味ではなささうに思へる……

猫は空地の雑草の陰で、
多分は石ころを足に感じ、
霧の降る夜を鳴いてゐた――

     3

君のそのパイプの、
汚れ方だの燋(こ)げ方だの、
僕はいやほどよく知つてるが、
気味の悪い程鮮明に、僕はそいつを知つてるのだが……

  今宵ランプはポトホト燻(かゞ)り
  君と僕との影は床(ゆか)に
  或ひは壁にぼんやりと落ち、
  遠い電車の音は聞こえる

君のそのパイプの、
汚れ方だの焦げ方だの、
僕は実によく知つてるが、
それが永劫(えいごう)の時間の中では、どういふことになるのかねえ?――

  今宵私の命はかゞり
  君と僕との命はかゞり、
  僕等の命も煙草のやうに
  どんどん燃えてゆくとしきや思へない

まことに印象の鮮明といふこと
我等の記臆、謂(い)はば我々の命の足跡が
あんまりまざまざとしてゐるといふことは
いつたいどういふことなのであらうか

    今宵ランプはポトホト燻り、
    君と僕との影は床に
    或ひは壁にぼんやりと落ち、
    遠い電車の音は聞こえる

どうにも方途がつかない時は
諦めることが男々しいことになる
ところで方途が絶対につかないと
思はれることは、まづ皆無

    そこで命はポトホトかゞり
    君と僕との命はかゞり
    僕等の命も煙草のやうに
    どんどん燃えるとしきや思へない

コホロギガ、ナイテ、ヰマス
シウシン ラツパガ、ナツテ、ヰマス
デンシヤハ、マダマダ、ウゴイテ、ヰマス
クサキモ、ネムル、ウシミツドキデス
イイエ、マダデス、ウシミツドキハ
コレカラ、ニジカン、タツテカラデス
ソレデハ、ボーヤハ、マダオキテヰテイイデスカ
イイエ、ボーヤハ、ハヤクネルノデス
ネテカラ、ソレカラ、オキテモイイデスカ
アサガキタナラ、オキテイイノデス
アサハ、ドーシテ、コサセルノデスカ
アサハ、アサノホーデ、ヤツテキマス
ドコカラ、ドーシテ、ヤツテクル、ノデスカ
オカホヲ、アラツテ、デテクル、ノデス
ソレハ、アシタノ、コトデスカ
ソレガ、アシタノ、アサノ、コトデス
イマハ、コホロギ、ナイテ、ヰマスネ
ソレカラ、ラツパモ、ナツテ、ヰマスネ
デンシヤハ、マダマダ、ウゴイテ、ヰマス
ウシミツドキデハ、マダナイデスネ
               ヲハリ
         (一九三五・一〇・五)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月17日 (土)

草稿詩篇1933―1936<55>曇つた秋

「曇った秋」の中の「君」について
大岡昇平は

中原からこのように親密に「君」とよびかけられる人間は、小林のほかにいない。

と記します

第1節第1連冒頭行をはじめ
同第3連冒頭行
第3節第1連冒頭行のほか
リフレイン連にも
「君」は登場し
「僕」の心に突き刺さる言葉を吐いては
回想の中に現れます

「君」が小林秀雄であることを
知っていればいるほど
この詩は
なまめかしく
生々しく
肉体をもって生きはじめることになるのですが

知らなければ知らないなりに
「君」と「僕」とは
君がいて僕がいて
僕がいて君がいる
ある種の透明で対等な関係の
僕と君として読むこともできます

大岡昇平は
中原中也の親友の一人ですし
同時代を生きた文学仲間でありますし
中原中也評伝を通じて
評伝文学というものを確立した文学者でありますから
一般の人や
後世の人が
知りようにもないことを知らしめる
義務のような
使命のようなものがあって
当然でしょうし

この詩を「私小説」のように読み得る
ポジションにありましたから
そこから発信される話題は
すべてが第一次情報であり
当事者情報であり
信頼できる重要な価値を
持ち続けていることは
だれでもが知っていることです

その大岡が
「君」を小林秀雄と断定しているのです
(新・旧全集「日記・書簡」解説)

そうすると
詩の冒頭連

或る日君は僕を見て嗤(わら)ふだらう、
あんまり蒼い顔してゐるとて、
十一月の風に吹かれてゐる、無花果(いちじく)の葉かなんかのやうだ、
棄てられた犬のやうだとて。

は、1925年(大正14年)3月に
詩人と連れ立って上京し
同棲していた長谷川泰子が
11月のある日、
小林秀雄の暮らす家へと
去った事件のことであることがわかります

それから10年
詩人がこのことを忘れたことはなく
泰子を歌った詩も
たくさん作りましたし
正面から歌わなくとも
詩の一節に登場させることもしばしばありました

「曇つた秋」は
「君」が小林秀雄のことであるなら
泰子のことをも同時に歌い
「僕」も登場する
「奇妙な三角関係」(小林秀雄)の
1935年における
再現ということになります

 *
 曇つた秋

     1

或る日君は僕を見て嗤(わら)ふだらう、
あんまり蒼い顔してゐるとて、
十一月の風に吹かれてゐる、無花果(いちじく)の葉かなんかのやうだ、
棄てられた犬のやうだとて。

まことにそれはそのやうであり、
犬よりもみじめであるかも知れぬのであり
僕自身時折はそのやうに思つて
僕自身悲しんだことかも知れない

それなのに君はまた思ひ出すだらう
僕のゐない時、僕のもう地上にゐない日に、
あいつあの時あの道のあの箇所で
蒼い顔して、無花果の葉のやうに風に吹かれて、――冷たい午後だつた――

しよんぼりとして、犬のやうに捨てられてゐたと。

     2

猫が鳴いてゐた、みんなが寝静まると、
隣りの空地で、そこの暗がりで、
まことに緊密でゆつたりと細い声で、
ゆつたりと細い声で闇の中で鳴いてゐた。

あのやうにゆつたりと今宵一夜(ひとよ)を
鳴いて明(あか)さうといふのであれば
さぞや緊密な心を抱いて
猫は生存してゐるのであらう……

あのやうに悲しげに憧れに充ちて
今宵ああして鳴いてゐるのであれば
なんだか私の生きてゐるといふことも
まんざら無意味ではなささうに思へる……

猫は空地の雑草の陰で、
多分は石ころを足に感じ、
霧の降る夜を鳴いてゐた――

     3

君のそのパイプの、
汚れ方だの燋(こ)げ方だの、
僕はいやほどよく知つてるが、
気味の悪い程鮮明に、僕はそいつを知つてるのだが……

  今宵ランプはポトホト燻(かゞ)り
  君と僕との影は床(ゆか)に
  或ひは壁にぼんやりと落ち、
  遠い電車の音は聞こえる

君のそのパイプの、
汚れ方だの焦げ方だの、
僕は実によく知つてるが、
それが永劫(えいごう)の時間の中では、どういふことになるのかねえ?――

  今宵私の命はかゞり
  君と僕との命はかゞり、
  僕等の命も煙草のやうに
  どんどん燃えてゆくとしきや思へない

まことに印象の鮮明といふこと
我等の記臆、謂(い)はば我々の命の足跡が
あんまりまざまざとしてゐるといふことは
いつたいどういふことなのであらうか

    今宵ランプはポトホト燻り、
    君と僕との影は床に
    或ひは壁にぼんやりと落ち、
    遠い電車の音は聞こえる

どうにも方途がつかない時は
諦めることが男々しいことになる
ところで方途が絶対につかないと
思はれることは、まづ皆無

    そこで命はポトホトかゞり
    君と僕との命はかゞり
    僕等の命も煙草のやうに
    どんどん燃えるとしきや思へない

コホロギガ、ナイテ、ヰマス
シウシン ラツパガ、ナツテ、ヰマス
デンシヤハ、マダマダ、ウゴイテ、ヰマス
クサキモ、ネムル、ウシミツドキデス
イイエ、マダデス、ウシミツドキハ
コレカラ、ニジカン、タツテカラデス
ソレデハ、ボーヤハ、マダオキテヰテイイデスカ
イイエ、ボーヤハ、ハヤクネルノデス
ネテカラ、ソレカラ、オキテモイイデスカ
アサガキタナラ、オキテイイノデス
アサハ、ドーシテ、コサセルノデスカ
アサハ、アサノホーデ、ヤツテキマス
ドコカラ、ドーシテ、ヤツテクル、ノデスカ
オカホヲ、アラツテ、デテクル、ノデス
ソレハ、アシタノ、コトデスカ
ソレガ、アシタノ、アサノ、コトデス
イマハ、コホロギ、ナイテ、ヰマスネ
ソレカラ、ラツパモ、ナツテ、ヰマスネ
デンシヤハ、マダマダ、ウゴイテ、ヰマス
ウシミツドキデハ、マダナイデスネ
               ヲハリ
         (一九三五・一〇・五)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月14日 (水)

草稿詩篇1933―1936<54> (秋が来た)

(秋が来た)には
日付が記されていませんが
使用された原稿用紙、筆記具、インク、筆跡が
「竜巻」
「山上のひととき」
「四行詩」と同じものなので
1935年初秋の制作と推定されている作品です

4433のソネットで
都会の秋の
ほとんどが風景描写のようでありながら
僕の所在無さとか孤独感とかが
けれんみなく歌われているところは
やはり中原中也の詩で
センチメンタルな要素が少しもありません

公園の並木は
公孫樹(イチョウ)でしょうか
公孫樹以外の落葉でしょうか
夕方の陽の光が落葉の上に落ちて
わびしい黄色に輝いているのです

まるで泣き止んだ女の顔のようで
純白で上質の画用紙ワットマンに描いた淡彩画です
裏側は湿っぽいのに
表はサラッと乾いています

細かい砂粒をまぶしたように装い
今にも消え入りそうなか弱い女心を持つかのように
遥かな空を見やっているのですが……

僕はといえば
しゃがんで、石ころを拾ってみたり
遠くを見たり
拾った石ころをちょっと放ってみたり
思い出すように口笛を吹いてみたり……

たけなわを迎えた秋の中に
溶け込んでいるかのような詩人は
もはや
秋という季節の点景と化しているのです

 *
 (秋が来た)

秋が来た
また公園の竝木(なみき)路は、
すつかり落葉で蔽(おお)はれて、
その上に、わびしい黄色い夕陽は落ちる。

それは泣きやめた女の顔、
ワットマンに描(か)かれた淡彩、
裏ッ側は湿ってゐるのに
表面はサラッと乾いて、

細かな砂粒をうつすらと附け
まるであえかな心でも持つてゐるもののやうに、
遥(はる)かの空に、瞳を送る。

僕はしやがんで、石ころを拾つてみたり、
遐(とお)くをみたり、その石ころをちよつと放つたり、
思ひ出したみたいにまた口笛を吹いたりもします。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月13日 (火)

草稿詩篇1933―1936<53>四行詩

「四行詩」というタイトルの詩には
「ランボウ詩集」中のものや
「秋の夜に、湯に浸り」の末尾に付されたものがありますが
1935年9月制作(推定)の「四行詩」は
「竜巻」や
「山上のひととき」と
同じ流れで作られたものと推定されているのは
これらの詩が
同種の原稿用紙に書かれ
筆記具、インク、筆跡も同じだからです

とりわけ
「山上のひととき」の内容と似ていて
この2作品は同日制作とも推定されるほどですが
日付の記載がなく断定はできません

最終行

町では人が、うたたねしてゐた?

は、「山上のひととき」の

世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた

を言い替えたものであることは明白です

「詩人は辛い」や
「山上のひととき」と
同様のモチーフを
簡潔明瞭に表現したのが
この「四行詩」であり
詩人は
この詩を書いた頃
世間というものをうとましく思う現実のドラマの中にあり
「やれやれ」
「勝手にしろい」
「あほくさいわ」……などと
世間というものを
諦めや達観や距離感をもって眺めていたことが想像できます

世間とは
詩壇とか文壇とか評論界とか
詩人が
詩人論をもって
もの言わざるをえなかった世界のことでもあり
名声が高まるにつれ
ますます討論の場への参加が頻繁になっていたこの頃
相当の鬱憤がたまっていたことに違いはありません

この年の9月28日の日記には

私は徒らに人に愛情を感じ、もののあわれをも感じる。そしてもう此の世の普通の喜びだの行事といふものには何の興味も覚えず、だから嘲弄好きの感情なぞはまるで解せない。(略)敵対心なぞといふものも私には殆んどないに等しい。

などと記されます

 *
 四行詩

山に登つて風に吹かれた

心は寒く冷たくあつた

過去は淋しく微笑していた

町では人が、うたたねしてゐた?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月12日 (月)

草稿詩篇1933―1936<52>山上のひととき

「山上のひととき」を作った同じ日に
「詩人は辛い」というタイトルの詩が作られ
こちらは
「四季」(昭和10年11月号)に発表されています

「詩人は辛い」はタイトルの通り
詩作そのものの苦労を通じて
詩人論を述べている詩ですが
「山上のひととき」は
わが子、文也をモチーフにしながら
詩作の周辺について
歌っています

詩作の周辺というのは
詩作品に対する評価、批判を含めた
世間というもののことですが
その世間について
第2連および最終連で

世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた

と、シニカルな視線を送るのです

「坊や」
「春と赤ン坊」
「雲雀」
「大島行葵丸にて」
「この小児」
「吾子よ吾子」
……と
赤ん坊を歌うことの多かったこの頃
この「山上のひととき」も
その流れの作品ですが

赤ん坊一般や
長男文也を歌った詩でありながら
赤ん坊の可愛さや純真さばかりを
歌ったわけではないことを
この詩は明らかにしています

「詩人は辛い」では

こんな御都合な世の中に歌なぞ歌わない

と歌い
この詩では

世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた

と歌うのは、
御都合な世の中も
遥か彼方で荒くれている世間も
詩人には
同じことを示しています
この二つのフレーズは
同じ実態の異なった表現に過ぎないことを
示しているのです

山上にあっては
風は
いとけなきわが子に吹き渡りますし
詩人にも容赦なく吹き付けますが
いとけなきわが子は
ただ無邪気に笑っていますし
詩人には
遥か彼方に見える世間は
荒涼として見えるばかりです

 *
 山上のひととき

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

いとしい者はたゞ無邪気に笑つてをり
世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた

いとしい者の上に風が吹き
私の上にも風が吹いた

私は手で風を追ひかけるかに
わづかに微笑み返すのだつた

いとしい者はたゞ無邪気に笑つてをり
世間はたゞ遥か彼方で荒くれてゐた
           (一九三五・九・一九)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月10日 (土)

草稿詩篇1933―1936<51>龍巻

「龍巻」は
1935年9月16日の作品

1935年6月7日に
中原中也は
花園アパートからほど近くの
牛込区市ヶ谷谷町62の住所へ転居します
親戚である中原岩三郎の持ち家でした

第1詩集「山羊の歌」の出版からおよそ10か月
詩人の名は徐々に広がり
詩誌や雑誌などへの出稿が頻繁になります

このあたりのことを
大岡昇平は

中原を古くから知っている友人達は、そこに常に中原の日常的声調を感じた。しかし萩原朔太郎、室生犀星など、同時代の詩人達は、みな中原の詩に高い技巧性を認めていた。室生は前に引いた日記に『山羊の歌』の諸篇に「旨さがぴつたり逸れなくなつた」と書き、萩原朔太郎は、「倦怠」のような日常的な告白詩にも技巧性を認めている(「四季」昭和十年八月号)

と書いています。(角川旧全集「日記・書簡」解説)

このころ
盛んに「四季」に寄稿し
1935年末には
同人となることを承諾しました

「四季」との関わりは
季刊「四季」昭和8年夏号(昭和8年7月発行)に
「少年時」
「帰郷」
「逝く夏の歌」を発表したのを初めとして

「四季」創刊号(昭和9年10月発行)に
「みちこ」を、
同10年1月号からは
ほぼ毎号、作品を発表しています

詩人としての名声が高まり
詩壇文壇への発言も多くなるにつれて
毀誉褒貶(きよほうへん)が相半ばする
文学世界との交流も深まって
酒席への参加も頻繁になります

「龍巻」は
詩作そのものとは無縁の
「外野席」にある詩人が
論評を戦わす自身
もしくは論評の相手を
歌ったものと受け止めることが可能な
「むなしさ」が漂う詩です

だれそれと特定はできませんが
詩人は行く先々で
文学論や詩論を戦わせるのですが
その最中、
激して、我を忘れるほどであっても
ひとたび詩に向えば
怜悧なナイフでもって
言葉の岩盤から
詩の言葉をこそぎ落す
達人になるのです

 *
 龍巻

龍巻の頸(くび)は、殊にはその後頭(こうとう)は
老廃血(ふるち)でいつぱい

曇つた日の空に
龍巻はさも威勢よく起上がるけれど

実は淋しさ極まつてのことであり
やがても倒れなければならない

浪に返つた龍巻は
たゞたゞ漾(ただよ)ふ泡となり

呼んでも呼んでも
もはや再起の心はない
    (一九三五・九・一六)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

2010年7月 1日 (木)

草稿詩篇1933―1936<50>桑名の駅

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1936年(昭和11年)11月10日、
長男文也が亡くなり
約1か月後に
中原中也は日記の中に
「文也の一生」を書きます

その中に
1935年8月の
上京の道中で遭遇した水害について

八月十日母と女中と呉郎に送られ上京。湯田より小郡まではガソリンカー。坊や時々驚き窓外を眺む。三等寝台車に昼間は人なく自分達のクーペには坊やと孝子と自分のみ。関西水害にて大阪より関西線を経由。桑名駅にて長時間停車。
<編者注>考証の結果、八月十日は、八月十一日を詩人が誤記したものとされています

と、記します

このときのことを歌ったのが
「桑名の駅」で、
1935年8月12日に制作されました

詩人らは
6月末から8月11日まで
親子3人で帰省し
親子3人で再び上京したのですね
この上京時に
関西地方は集中豪雨に見舞われました

詩人ら一行は
大阪に着いたところで
東海道本線を利用できず
関西本線で東京に向ったのですが
奈良を経由し
名古屋に向う手前の桑名で
列車は立ち往生
そこで発車を待つ時間に
詩人はホームの駅員か駅長かに
話しかけました

ここが
あの、焼きハマグリの桑名ですか

駅員だか駅長だかが
ニヤっとか
ニタっとか
隠微(いんび)なそれではなく
快活に笑って
そうです、
その手はクワナの
焼きハマグリ
一度、食べてごらんなさいませ
なんちゃって応えるので
二人は
顔を見合わせて
笑い転げたのでした

ハマグリは
焼いて食べればうまいこと!うまいこと!
貝の中の貝です

もちろんその貝には
「美味しい女性」の意味も
掛けられていたことは
詩人はとうに知っていたことでした

会話がひとしきりした後
あたりは暗闇で
風も雨も止み
蛙の声だけが
しぐれるように鳴いていました、とさ

 *
 桑名の駅

桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた
夜更の駅には駅長が
綺麗な砂利を敷き詰めた
プラットホームに只(ただ)独り
ランプを持つて立つてゐた

桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ泣いてゐた
焼蛤貝(やきはまぐり)の桑名とは
此処(ここ)のことかと思つたから
駅長さんに訊(たず)ねたら
さうだと云つて笑つてた

桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ泣いてゐた
大雨(おほあめ)の、霽(あが)つたばかりのその夜(よる)は
風もなければ暗かつた
         (一九三五・八・一二)
         「此の夜、上京の途なりしが、京都大阪
          間の不通のため、臨時関西線を運転す」

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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