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2010年8月10日 (火)

草稿詩篇1925-1928<4-1>かの女

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富永太郎が
京都の生活を引き上げ、
帰京したのは
1924年(大正13年)12月のこと
同年10月11日初めて喀血し
次第に悪化する病状に不安を感じてのものでした

中原中也が泰子とともに上京するのは
1925年3月10日、
富永の紹介で
この春
東大仏文科に入学したばかりの
小林秀雄を知るのは4月

大岡昇平が
「富永は五月三日に片瀬を引き上げ、代々木富ヶ谷の家へ帰った。交友は富永を交えて三人で始められたと考えてよい。」(「朝の歌」所収「友情」)
と記した
中原中也、小林秀雄、富永太郎の交友は
富永の「死の病」が
進行する中でのことでした
(富永は上京後、藤沢・片瀬海岸で転地療養していた)

しかし
富永は病気の進行をほとんど口外せず
親密だった正岡忠三郎でさえ
「タロウキトク」の電報を受けて
急遽、冨倉徳次郎とともに上京したのが11月6日でしたし
小林は富永が小康状態のときにしか会わなかったためか
富永の病気を楽観していた節があるし
中原中也は
富永から病状を隠されていた様子だし
富永自身ですら死病を自覚していなかった
というような事情の中で
11月12日に富永は死んでしまいます

小林秀雄は盲腸炎の手術で入院中のことで
富永の葬式の後で
小林を見舞った正岡から死を知らされます
中原中也は電報で富永の死を知ります

富永太郎は
「死の床」にあっても
書簡やメモをよく書いて
最期には「きたない」といって
酸素吸入のためのゴム管を
自分の手ではずしてしまう意思の強さ
一種の潔さの表明があり
死の直前まで表現者でありました

これらのことが克明に
正岡によって
富永の死の直後に記録され
その一部が
大岡昇平の「富永の死、その前後」に
案内されていることは
少しだけ紹介したところです

大岡昇平は、
同じところで

中原が「いよいよ詩に専心しようと大体決まる」(「詩的履歴書」)のは、こういう雰囲気の中だったのである。

とも書いていますが
そう書くことによって
「朝の歌」制作への端緒を
中原中也がつかんでいった
物語のはじまりを告げているのです

泰子を失ったのをはじめ
富永太郎が死去し
小林秀雄とも断絶していては
中原中也には
東京での友人関係はゼロであり
まさに
大都会東京に一人投げ出された状態でした
ここに
詩人が新たに出発する物語を
大岡昇平は見出しました

「かの女」は
1925年制作と
日月を特定されない
制作日の推定幅がとられた作品ですが
ダダイズムからの脱却を告げる詩のはじまりであり
新たな詩人の誕生の
その兆しを告げる詩の位置を主張する
作品の一つでもあります

 *
 かの女

千の華燈よりとほくはなれ、
笑める巷(ちまた)よりとほくはなれ、
露じめる夜のかぐろき空に、
かの女はうたふ。

「月汞(げつこう)はなし、
低声(こごゑ)誇りし男は死せり。
皮肉によりて瀆(けが)されたりし、
生よ歓喜よ!」かの女はうたふ。

鬱悒(ゆう)のほか訴ふるなき、
翁(おきな)よいましかの女を抱け。
自覚なかりしことによりて、

いたましかりし純美の心よ。
かの女よ憔(じ)らせ、狂ひ、踊れ、
汝(なれ)こそはげに、太陽となる!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

Senpuki04
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