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2010年8月 9日 (月)

草稿詩篇1925-1928<3-3>秋の愁嘆・補遺

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 中原が富永太郎の紹介で小林を訪れたのは、大正十四年四月初旬である。四月十日から小林は小笠原へ旅行、五月一日帰る。
 富永は五月三日に片瀬を引き上げ、代々木富ヶ谷の家へ帰った。交友は富永を交えて三人で始められたと考えてよい。中原が泰子と共に四月から五月へかけて中野、次に高円寺に引越したのは、馬橋の小林の家に近いためであろう。六月富永の病気が悪化し、面会謝絶が続くようになってからは、二人だけの往来ははげしくなったと思われる。中原が「いよいよ詩に専心しようと大体決まる」(「詩的履歴書」)のは、こういう雰囲気の中だったのである。
 七月中原は山口へ帰った。九月最初の媾曳。小林は二十三歳、泰子二十一歳である。
(大岡昇平「朝の歌」所収の「友情」より)
※上記「媾曳」とあるのは、「あいびき=逢い引き」のこと。(編者)

「秋の愁嘆」を読み終える前に
この頃、大正14年(1925年)
18歳の中原中也の経験について
もう少し見ておきましょう

先に、
「或る心の一季節」を読んだときに見た年譜では

4月、富永太郎の紹介で小林秀雄を知る。
5月、小林の家の近く、高円寺に転居。
10月、「秋の愁嘆」を書く。
11月、泰子、小林のもとへ去る。中也は中野に転居。しかし、その後も中也・小林・泰子の「奇妙な三角関係」(小林秀雄)は続く。
この年の暮か翌年初めごろ、宮沢賢治の詩集「春と修羅」を購入、以後愛読書となる。

と、あったあたりのことです

この頃の経過を
「角川新全集」などで補いながら
ざっと整理すると
……

小林と泰子が最初の逢い引きをしたのが9月
中原中也が「秋の愁嘆」を書いたのが10月7日
小林と泰子が大島行きを企て、泰子が遅刻して小林一人での大島行きとなったのが10月8日
大島から帰った小林が盲腸炎で京橋の病院に入院し、その病室を泰子が見舞ったのが10月中旬から11月上旬のいつか。この時、小林から「一緒に住もう」と言われた
富永の病状が悪化したのが6月、次第に面会謝絶状態が多くなり
11月5日に、正岡忠三郎は「タロウキトク」の電報を京都で受け、富永家に駆けつけたのが翌6日
11月12日に富永太郎は死去した
中原中也と長谷川泰子は電報で富永の死を知る
中原中也は富永の死後2日して遺体と面接
正岡は、14日の富永の葬式の後、小林を見舞う。泰子がこの病室にいた。小林は富永の死を、泰子か正岡かどちらかに知らされる
11月下旬、泰子は小林と天沼で暮らしはじめる

大岡昇平の「友情」は
1、中原が生前した談話
2、長谷川泰子の談話
3、小林が彼女の手許に残した当時の手紙断片
という、三つの資料から
中原中也が「口惜しき人」になって以後の
生活記録の穴を埋める(近づく)ために
説き起こされていることを
大岡自身が中に記していますが

実際に
大岡は
この三つの資料のほか
集められる限りの情報を収集して
「科学者の実証的な眼差し」を失うまいとするかのように
中原中也の経験に迫ります

たとえば
正岡忠三郎の日記や書簡、回想記は
その一つです

正岡忠三郎氏は母方の親類加藤氏より入って、子規の二代あとを継いだ人で、やはり二高で富永の同級である。十三年四月京都帝大経済学部に移り、渋谷富ヶ谷の家で、不眠に悩まされている富永に、蒲団持参を条件に、貸間の同室を提供した。
正岡氏は大正十年以来富永に献身的愛情を持ち続けている方である。日記をつけるという貴重な習慣を持っておられたので、我々は大正十年以来正岡氏と一緒にいる限り、富永太郎の動静を殆ど逐日知り得るのである。
(「京都における二人の詩人」)
※明治の俳人、正岡子規の「従兄弟(いとこ)」ということになります(編者)

とか

正岡氏は富永に献身的な友情を持ち、多少放浪の趣味も感染していたが、文学に志を持っておられなかった。富永と中原の話を、きいていただけだったといっている。二人の間に非常に緊張したものがあったことを憶えておられるだけである。
(「離合」)

とか
富永太郎の終焉記は正岡氏によって、詳細に記録されている。日記ではないが、富永に対する愛情から、死の直後誌しておいたものが残っているのである。
(「富永の死、その前後」)

など、
あちこちで紹介され
正岡の書いた記録が引用されています

ほかに
富永太郎の日記、書簡、筆談メモ
中原中也の書簡、詩篇、回想記
小林秀雄の回想記、メモ
などがじっくり読み込まれたことは
言うまでもありません

しかし
大岡昇平が書くのは
中原中也の人生経験ではありませんし
生活記録にとどまるものでもありません
単に事実を追跡するだけではなく
やがて「朝の歌」を歌う
中原中也の足取りを追い
詩人誕生の物語を提案することにあります

 *
 秋の愁嘆

あゝ、 秋が来た
眼に琺瑯(はふらう)の涙沁む。
あゝ、 秋が来た
胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を蹂躪(じゆうりん)に秋がおぢやつた。

その着る着物は寒冷紗(かんれいしや)
両手の先には 軽く冷い銀の玉
薄い横皺(よこじわ)平らなお顔で
笑へば籾殻(もみがら)かしやかしやと、
へちまのやうにかすかすの
悪魔の伯父さん、おぢやつたおぢやつた。
           (一九二五・一〇・七)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

  ※原作には、「かしやかしや」と「へちま」には傍点「、」が付されていますが、ここでは省略しました。(編者)

Senpuki04
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