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2010年8月

2010年8月31日 (火)

草稿詩篇1925-1928<17> 秋の夜

「秋の夜」も
第一詩集のために清書された詩の一つで
未発表詩篇(1925―1928年)として
整理された中の最後の作品です

(「未発表詩篇(1925―1928年)」は、「秋の夜」の前に「幼かりし日」「間
奏曲」の2篇を配置していますが、第一詩集のための清書作品の一群を先
に読むことにします)

以下が
第一詩集のために清書された詩篇13篇

「夜寒の都会」
「春と恋人」
「屠殺所」
「冬の日」
「聖浄白眼」
「詩人の嘆き」
「処女詩集序」
「秋の夜」
「浮浪」
「深夜の思ひ」
「春」
「春の雨」
「夏の夜」(暗い空)

です

これらは
「春」が「在りし日の歌」に発表されたのを除いて
すべてが未発表に終わった
作品群ということになります

「秋の夜」が
昭和3年(1928年)秋制作とされるのは
詩題に秋とあるからです

前年末から
音楽集団「スルヤ」との交流がはじまり
諸井三郎や内海誓一郎を知り
3月には
大岡昇平を小林秀雄を通じて知り
5月には阿部六郎を
9月には
安原喜弘を大岡昇平を通じて知ります
小林秀雄は5月に
長谷川泰子と別れました

9月に
豊多摩郡下高井戸(現東京都杉並区)に転居
ここで
関口隆克、石田五郎と
共同生活をはじめました

武蔵野の一角を占める
昭和初期のこのあたりは
2010年現在からは想像を超えた
田園風景が広がっていたらしく
中原中也は
しばしばその自然をモチーフにして
詩を歌いました

この頃中也が書いた手紙の一つである
昭和3年の書簡28(新全集)は
一月(推定)に
河上徹太郎宛に書かれたものですが
その中に

私は自然を扱いひます、けれども非常にアルティフィシェルにです。それで象
徴は所を得ます。それで模写ではなく歌です。

と記しているのは
中也の「象徴詩法」の
片鱗を知ることが出来て
貴重といえます

(この書簡は、河上邸の被災で現存しませんが、河上が「文学界」昭和13
年10月号に発表した「中原中也の手紙」に引用したものを底本として、新
全集に収録されています)

「秋の夜」には
夜霧



草叢


竝木
……

と自然が現れますが
これらは
「アルティフィシェル」
つまり
人工的・人為的なもので
詩人に備わった
感受性とか教養とか……
言語感覚とか言語装置とか……
思想とか歴史観とか宇宙観とか……
といった主観のすべてを
通過した自然で

その自然は
もはや描写された自然とは別のものです
それは歌というほかにないものと
詩人は主張します

錬金術ならぬ
錬歌術……
錬詩術……

 *
 秋の夜

夜霧が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨む。

外燈の下(もと)に来かかれば
なにか生活めいた思ひをさせられ、
暗闇にさしかかれば、
死んだ娘達の歌声を聞く。

夜霧が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨む。

深い草叢(くさむら)に蟲(むし)が鳴いて、
深い草叢を霧が包む。
近くの原が疲れて眠り、
遠くの竝木(なみき)が疑深い。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月30日 (月)

草稿詩篇1925-1928<16> 冬の日

「冬の日」も
第一詩集のために清書された詩の一つで
制作は昭和3年(1928年)正月と推定されています

河上徹太郎が
昭和13年10月発行の「文学界」に発表した
「中原中也の手紙」の中に
この詩は全文が引用されましたが
清書された草稿との異同は
読点1カ所だけだそうです

河上徹太郎の記憶によると
昭和3年に書かれた中也の河上宛書簡に
「帰郷」とともに同封されていたことになっていますから
この2作の制作は
ほぼ同時期とされていますが
詩の中に「紙魚=たこ」とある「冬の日」は
昭和3年正月制作とされるのです

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

有名な「帰郷」の一節と
「冬の日」は同じ時期に作られた
ということを知って読めば

「私を愛する七十過ぎのお婆さん」
とは
「帰郷」の
「心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声もする」の
年増婦と同一人物なのだ! と
俄然、親しみが湧いてこようというものです

「冬の日」と「帰郷」は
同じ状況の中で
同じような心境を歌った詩と
受け取ってよく
冬のある日に帰郷した
詩人の眼差しには
故郷の景色の一つひとつが
詩人の過去という過去のいっさいを背負って
淋しげにしかしあたたかく映ったことを
あらためて知ります

70過ぎのお婆さん

たこ
……
それに、風
……

下萠(したもえ)とは
冬のさなかの小さな芽吹きのことでしょうか
緑と呼ぶには
はかな過ぎる草の芽生えの……
その色のようにか弱い風が吹いていて
「紐を結ぶやうな手付をしてゐた。」のです

風が、紐を結ぶやうな手付、とは!
(詩人は、象徴表現を手中にしています!)

その合間
口笛が聞えてくるのです
詩人には
それがだれが吹く口笛だか
分かっていたのかもしれません
ああ、あの人も達者で暮らしている
と、思っていたかもしれません

第一詩集は
刊行されていません
故郷に錦を飾るようなことは
何一つできていない詩人です

あゝ おまへはなにをして来たのだと……

向こうの空にあがる凧を眺めながら
詩人は
確かな声を聞いていました
ほかでもない
それは
自身の確かな声でした

 *
 冬の日

私を愛する七十過ぎのお婆さんが、
暗い部屋で、坐つて私を迎へた。
外では雀が樋(とい)に音をさせて、
冷たい白い冬の日だつた。

ほのかな下萠(したもえ)の色をした、
風も少しは吹いているのだつた、
紐を結ぶやうな手付をしてゐた。

とぎれとぎれの口笛が聞えるのだつた、
下萠の色の風が吹いて。

あゝ自信のないことだつた、
紙魚(たこ)が一つ、颺あがつてゐるのだつた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月29日 (日)

草稿詩篇1925-1928<15> 聖浄白眼

「聖浄白眼」の「聖浄」は
「しょうじょう」と仏教の言葉として読むのだろうか
「白眼」は、では、白眼視の白眼か
単に、白い目のことだろうか

中原中也は
山口中学時代に
「喝!」を入れられることを親に命じられ
仏教寺院への短期修行みたいなことを経験しています

大岡昇平はそのあたりのことを

中也は既に親のいうことをきかない子である。十一年八月と十二月に「思想匡正」の意味で、大分県の東陽円成師の寺へやられる。これは恐らく当時の一燈園運動と並んで、本願寺の一分派であって、中也は『歎異抄』の新解釈を吹き込まれて帰って来たものと考えてよい。暫くは便所へ通うの「なんまいだぶ」を唱えていたと伝えられている。信心がその後どこへ行ったかは分明ではないが、以来中原の詩と思想の底流をなしていたと考えることが出来るのである。
(「朝の歌」所収「京都における二人の詩人」)

と書いています。

山口中学を落第する前の年のことで
親の期待を裏切って
「思想匡正」はならず(?)
そのうえ落第となる中也ですが
大岡の言うとおり
仏教体験は
中原中也の詩および思想の底流に巣食い
この「聖浄白眼」のように
ひょっこりと顔を出すことがあるのです

「聖浄白眼」を書いた1927年から1928年にかけて
どのような経緯で
詩人の中に「聖浄」が想起されたのかといえば
それは
詩集を世に問うという段になって
詩とはなにか
詩人とはなにか
という問いへ答える必要があり
アイデンティティー
自己証明
存在証明を固める過程で
想念の中に古い経験がよみがえったからでしょう

そのために
詩論の詩
詩人論の詩は書かれ
「聖浄白眼」では

自分に
歴史に
人群に
の4項目にそれらを整理しました

この頃の中也には
神と仏とに分け隔てはないようで
かえってそれゆえに
初の詩集への意気込みが
感じられますが

面白がらせと怠惰のために、こんなになつたのでございます。

とは
神への偽らざる告白の形で
人を面白がらせること、と
自分の怠惰によるもの、と
外的と内的と
両面から
詩の動機を訴え……

貴様達は決して出納掛以上ではない!

とは
世俗に生きる人々へのメッセージの形でしょうか
「!」を添えた説教のような口調で
金の計算ばかりに終始する
衆生を唾棄する言葉の一つですが
ここに湿潤さはなく
乾いた響きがあるのは
このことは詩人がこれまでに格闘してきた
過去であるためで
そのことを乗り越えてしまった詩人の言葉であるために
軽味(かろみ)があり
高飛車さを脱しています

行末の「!」は
感情の強調であるよりは
この感情を手なずけてきた過去が
乗り越えられ
客観化された印みたいなものとして
受け取ることが可能なのです

 *
 聖浄白眼

     神に

面白がらせと怠惰のために、こんなになつたのでございます。
今では何にも分りません。
曇つた寒い日の葉繁みでございます。
眼瞼(まぶた)に蜘蛛がいとを張ります。

    (あゝ何を匿さうなにを匿さう。)

しかし何の姦計があつてからのことではないのでございます。
面白がらせをしてゐるよりほか、なかつたのでございます。
私は何にも分らないのでございます。
頭が滅茶苦茶になつたのでございます。

それなのに人は私に向つて断行的でございます。
昔は抵抗するに明知を持つてゐましたが、
明知で抵抗するのには手間を要しますので、
遂々(たうたう)人に潰されたとも考へられるのでございます。

     自分に

私の魂はたゞ優しさ求めてゐた。
それをさうと気付いてはゐなかつた。
私は面白がらせをしてゐたのだ……
みんなが俺を慰んでやれといふ顔をしたのが思ひだされる。

     歴史に

明知が群集の時間の中に丁度よく浮んで流れるのには
二つの方法がある。
一は大抵の奴が実施してゐるディレッタンティズム、
一は良心が自ら楝獄を通過すること。

なにものの前にも良心は抂げられる(まげられる)べきでない!
女・子供のだつて、乞食のだつて。

歴史は時間を空間よりも少しづつ勝たせつゝある?
おゝ、念力よ!現れよ。

     人群(じんぐん)に

貴様達は決して出納掛以上ではない!
貴様達は善いものも美しいものも求めてはをらぬのだ!
貴様達は糊付け着物だ、
貴様達は自分の目的を知つてはをらぬのだ!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月25日 (水)

草稿詩篇1925-1928<14> 詩人の嘆き

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「詩人の嘆き」も
中原中也が初めて編集し
未完に終わった第一詩集のための作品の一つ
昭和2―3年(1927―1928年)制作(推定)です

詩集を編み
詩集を発行する、ということが
詩人にとって
詩人という「職業」にとって
どのようなことなのか
どのような重み
どのような意味があるのか
想像を超えたものがあります

学究生活をしながら、とか
土方仕事のアルバイトをしながら、とか
銀行マンとして働きながら、とか
新聞記者をしながら、とか
雑誌編集者の仕事をしながら、とか
評論や雑文を書いてギャラを稼ぎながら、とか
翻訳の仕事を請け負いながら、とか……

本職があり
その上で詩を書くというのではなく
中原中也は
詩を本職にしようとしていました
詩を生業(なりわい)にしようとしていました

東京に出てきて
数年しかたっていない
田舎出の中原中也には
伝(つて)もコネもなく
学歴も
友人知己も……
十分にはありませんでしたが

中原家は名家でしたから
東京や横浜などに
親戚があり
頼ろうとすればできないわけでもありませんでしたが
中也が辿ろうとしているのは詩の道ですから
親戚に文学方面で活動するものはなく

拠り所は何もなく
僕は詩人だ、と自己紹介しても
甘く見られるのがオチでしたから
名刺を作るのに似て
詩集を持つということは
大事なことでした

私家版「富永太郎詩集」の刊行に携わって
自選詩集の発行計画に
火がついたのでしょうか
詩集に収める
詩作品そのものに
詩人のエネルギーは費やされたのです

「詩人の嘆き」は
8―5(4―4―5)
7―5(3―4―5)
の音数律を基調にした
軽快なテンポの中に
ままならぬ詩人の道が歌われます

丘でリズムが勝手に威張つて、
そんなことは放つてしまへといふ。

は、詩なんてやめちまえ
と詩人に立ちはだかるものは多く
嘆きの一つも出てくるのですが
ここにはいまだ
ぼやきをこぼす程度の
余裕が残されてあり
ホッとします

この

丘でリズムが勝手に威張つて、

マダガスカルで出来たといふ、
このまあ紙は夏の空、

は、ダダかシンボリックか
他の言語に置き換えて
意味をとらえようとしないで
頭の中で反芻していると
いつか見えてきそうなフレーズです

 *
 詩人の嘆き

私の心よ怒るなよ、
ほんとに燃えるは独りでだ、
するとあとから何もかも、
夕星(ゆふづつ)ばかりが見えてくる。

マダガスカルで出来たといふ、
このまあ紙は夏の空、
綺麗に笑つてそのあとで、
ちつともこちらを見ないもの。

あゝ喜びや悲しみや、
みんな急いで逃げるもの。
いろいろ言ひたいことがある、
神様からの言伝(ことづて)もあるのに。

ほんにこれらの生活(なりはひ)の
日々を立派にしようと思ふのに、
丘でリズムが勝手に威張つて、
そんなことは放つてしまへといふ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月24日 (火)

草稿詩篇1925-1928<13> 処女詩集序

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「処女詩集序」の処女詩集とは
ここ何回かふれてきた
実現しなかった第一詩集のことです
その幻の詩集のために
プロローグ=序として作られたのが
この作品で
昭和2―3年(1927―1928年)の制作(推定)です

少し気負いのある
力んだ詩人宣言の詩は
過去を振り返ることにはじまり

その日私はお道化(どけ)る子供だつた。
卑少な希望達の仲間となり馬鹿笑ひをつゞけてゐた。

と、少年時代を回顧しますが

いかにその日の私の見窄(みすぼら)しかつたことか!
いかにその日の私の神聖だったことか!

と、否定と肯定が絡まりあう感懐が添えられ
否定的側面は
さらにブローアップされて

私は完(まった)き従順の中に
わづかに呼吸を見出してゐた。

と、抑制された口調ながら
呪詛のように吐き出されます

これはいつ頃のことを
指示しているのでしょうか
山口中学を落第する以前の
ある時期のことでしょうか

回想はやがて
近過去へとたどりつき
ある年の11月の日を

そうだ、私は十一月の曇り日の墓地を歩いてゐた、
柊(ひいらぎ)の葉をみながら私は歩いてゐた。

その時私は何か?たしかに失った。

と、歌われました

長谷川泰子との離別の日は
大正14年11月のことです
まだ大きな痛手として
詩人の内部にあるのです

しかし
その日から

かくて私には歌がのこつた。

と、詩の出発は告げられました

なにか大きなものを失ったときに
なにか大きなものへの出発がはじめられました

喪失の中で
詩人が誕生したことを
この詩は宣言しています

最後の1行
「どうか私の歌を聴いてくれ」には
悲痛さの気配があります

 *
 処女詩集序

かつて私は一切の「立脚点」だつた。
かつて私は一切の解釈だつた。

私は不思議な共通接線に額して
倫理の最後の点をみた。

(あゝ、それらの美しい論法の一つ一つを
いかにいまこゝに想起したいことか!)

     ※

その日私はお道化(どけ)る子供だつた。
卑少な希望達の仲間となり馬鹿笑ひをつゞけてゐた。

(いかにその日の私の見窄(みすぼら)しかつたことか!
いかにその日の私の神聖だったことか!)

     ※

私は完(まった)き従順の中に
わづかに呼吸を見出してゐた。

私は羅馬婦人(ローマをんな)の笑顔や夕立跡の雲の上を、 
膝頭(がしら)で歩いてゐたやうなものだ。

     ※

これらの忘恩な生活の罰か? はたしてさうか?
私は今日、統覚作用の一摧片(ひとかけら)をも持たぬ。

そうだ、私は十一月の曇り日の墓地を歩いてゐた、
柊(ひいらぎ)の葉をみながら私は歩いてゐた。

その時私は何か?たしかに失った。

     ※

今では私は
生命の動力学にしかすぎない――
自恃(じじ)をもつて私は、むづかる特権を感じます。

かくて私には歌がのこつた。
たつた一つ、歌といふがのこつた。

     ※

私の歌を聴いてくれ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月23日 (月)

草稿詩篇1925-1928<12> 夏の夜

「夏の夜」(暗い空に鉄橋が架かつて)も
幻の第一詩集に選ばれた作品で
昭和2―3年(1927―1928年)の制作(推定)です

同名のタイトルをもつ作品が
「在りし日の歌」にあり
両作品はしばしば対照されて読まれます

暗い空に鉄橋が架かつて、

と、はじまるこの詩は
都会の夏の夜を素材にしたもののようで

男や女がその上を通る。

とは、東京の有楽町とか御茶ノ水とか新宿や渋谷……の
ガードのある風景を思わせますし
鉄橋とは
必ずしも鉄道が走っているのでもなく
鉄鋼製の橋(ガード)のことで
歩道であったり車道であったりしてもよく
それを下から見上げているイメージがありますし

その上を歩く男女は
ゾロゾロ歩いていて
大勢の人々が行進している雰囲気ですし

その一人々々が夫々(それぞれ)の生計(なりはい)の形をみせて、
みんな黙って頷(うなず)いて歩るく。

とは
詩人らしい観察の結果を感じさせます

「都会の夏の夜」の
街頭をラアラア唄ってゆく
遊び疲れた男たちや
「正午」の
ビルの小さな出口から
ゾロゾロゾロゾロ出てくる
サラリーマンたち
……

都会の群集を
立ち止まって見ている
詩人の眼差しを
すぐさま連想してしまいます

この詩
「夏の夜」(暗い空に鉄橋が架かつて)に
特徴的なのは
しかし
第1節末尾に

それが私の憎しみやまた愛情にかゝはるのだ……。

と、あり
これを受けて
第2節が展開しているところでしょうか

夏の夜の都会の風景を観察する目は
やがて
私=詩人の心に向けられるのです

その心は
腐った薔薇のよう……
と、ズバリと象徴的にとらえられるのですが
それが
夏の夜の靄にあっては
淋しがってすすり泣くのです

しかし次の
「若い士官の母指(おやゆび)の腹」
「四十女の腓腸筋(ひちょうきん)」

では、
意味不明の
ダダっぽい「喩」に回帰して
この詩をあいまいにしてしまいますが
これを果敢に読んでみれば

「腓腸筋」とはふくらはぎの筋肉のことですから
「母指の腹」とともに
人間の四肢の柔らかい部分という意味で

「腐った薔薇」のような心は
枯れ死んでしまったわけではなく
息もたえだえではあるけれど
生きている薔薇の花なのだから
夏の夜には靄の中で淋しがってすすり泣き
男なら「母指の腹」
女なら「腓腸筋」
のような優しさ柔らかさを望む
というほどに取ればよいでしょうか

「母指の腹」や「腓腸筋」よりも
もっと好ましいのは
オルガンのある
レンガ造りの館
ツタが這いのぼり
黒々として
ホコリもうっすらとふりかかっている
教会かなにかです

広場は静かに凪ぎわたり
お堀端の水面はさざなみが立つほどにおだやかで
どんなお馬鹿さんでも
この時ばかりは静粛に
殉教者の表情を作っています

私=詩人の心は
まずは人間の生活について考えるのですが
そして私自身の仕事である詩について
一生懸命練磨するのですが
結局のところ
私=詩人は
バラ色の蜘蛛に過ぎません
夏の夕方にでもなれば
紫色になって呼吸しているのです

最後に来て
「喩」は
難解で意味不明であることからは脱するのですが
「薔薇色の蜘蛛」
「紫に息づいてゐる」
の象徴表現に戻って
意味の永劫回転をはじめます
これを受け取るのは
読み手の自由になります

 *
 夏の夜

  一

暗い空に鉄橋が架かつて、
男や女がその上を通る。
その一人々々が夫々(それぞれ)の生計(なりはい)の形をみせて、
みんな黙って頷(うなず)いて歩るく。

吊られてゐる赤や緑の薄汚いラムプは、
空いつぱいの鈍い風があたる。
それは心もなげに燈(とも)つてゐるのだが、
燃え尽した愛情のやうに美くしい。

泣きかゝかる幼児を抱いた母親の胸は、
掻乱(かきみだ)されてはゐるのだが、
「この子は自分が育てる子だ」とは知ってゐるやうに、
その胸やその知つてゐることや、夏の夜の人通りに似て、
はるか遥かの暗い空の中、星の運行そのまゝなのだが、
それが私の憎しみやまた愛情にかゝはるのだ……。

  二

私の心は腐つた薔薇(ばら)のやうで、
夏の夜の靄(もや)では淋しがって啜(すすりな)く、
若い士官の母指(おやゆび)の腹や、
四十女の腓腸筋(ひちょうきん)を慕ふ。

それにもまして好ましいのは、
オルガンのある煉瓦の館(やかた)。
蔦蔓(つたかづら)が黝々(くろぐろ)と匐(は)ひのぼつてゐる、
埃りがうつすり掛かつてゐる。

その時広場は汐(な)ぎ亙(わた)つてゐるし、
お濠(ほり)の水はさゞ波たてゝる。
どんな馬鹿者だつてこの時は殉教者の顔付をしてゐる。

私の心はまづ人間の生活のことについて燃えるのだが、
そして私自身の仕事については一生懸命練磨するのだが、
結局私は薔薇色の蜘蛛だ、夏の夕方は紫に息づいてゐる。
 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月22日 (日)

草稿詩篇1925-1928<11> 屠殺所

「屠殺所」も
未完となった第一詩集に選ばれた作品で
昭和2―3年(1927―1928年)の制作(推定)

詩人は
何かしら困難な状況にあり
体調もよくありません
後に
僚友安原喜弘がいう「市街戦」を挑んで困憊し
深夜に帰宅しては
ゴールデンバットを立て続けにふかして
酒場での言い合いを反芻する日が
何日も何日も続いて
胃の中はニコチンとアルコールで
おかしくなっていたのでしょうか

東京を歩きはじめてまだ約3年です

あれやこれや考え込む底から
逃げてしまった女の笑い声や
あの男の言った言葉が
唐突によみがえったりしたでしょうか

そんなことはもう忘れてしまったでしょうか

あたかも
凸凹の道をつまずきつまづき
歩いているようでした
胃の痛みを腹に抱え
ひたすら堪えるしかない時を
やり過ごすためにだけ歩いていました

ふっと
牛がモーーーッと啼く声が聞えました
6月の明るい野原
草の間に露出する赤土
はるか向こうの地平に
真っ白な雲がポカンと浮いている

モーッとまた一つ牛が啼きました

詩人が
実在する屠殺所を
見たことがあるかどうかはわかりません
きっと見ていないことでしょう

ではこのシーンは
絵空事(えそらごと)ということになるでしょうか
いいえ
絵空事ではありません

詩人はいま
悪路を歩いています
つまずきそうになりながら
切り込んでくる痛みを堪えて
東京の道を歩いています

偶然か必然か
偶然といえば偶然
必然といえば必然
詩人の想像の世界に
牛がモーと啼きました
死にゆく牛の声です
屠殺所に引かれてゆく牛です

詩人の想像の世界は
絵空事を描写するものではありません
答えのない問いに答えを出そうとするのに似た
困難な道を行く詩人の心に
モーという牛の声は
実際に聞こえ
実在した、というべきはずのものです

 *
 屠殺所

屠殺所に、
死んでゆく牛はモーと啼いた。
六月の野の土赫(あか)く、
地平に雲が浮いてゐた。

  道は躓(つまず)きさうにわるく、
  私はその頃胃を病んでゐた。

屠殺所に、
死んでゆく牛はモーと啼いた。
六月の野の土赫く、
地平に雲が浮いてゐた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月21日 (土)

草稿詩篇1925-1928<10> 春の雨

幻となった第一詩集には
タイトルらしきものの候補が
詩人によって日記の中にメモされて残っています

昭和2年3月9日の日記に
「題なき歌」
「無軌」
「乱航星」
「生命の歌」
「浪」
「空の歌」
「瑠璃玉」
「青玉」
「瑠璃夜」
などが記され

ほかにも
日記帳の裏表紙に
「無題詩集」
「空の餓鬼」
「孤独の底」
と記され
詩人の筆名らしき「深川鉄也」というメモも見られる、
ということです

また、
大岡昇平は
やがて「山羊の歌」第2章の章題となる
「少年時」を幻の第一詩集のタイトルと
推定しています
(新全集第一巻・詩Ⅰ解題篇)

「春の雨」は
原稿用紙に清書された
昭和2―3年制作(推定)の作品で
この清書は
幻となった第一詩集のためのものと
考えられています
第1連にある「胸ぬち」は
「胸の内」の意味

詩人の歩行は続けられ

昨日は喜び、今日は死に、
明日は戦ひ?……

と歌われるのは
酒交じりの席での意気投合や
論争や口論や取っ組み合い(?)の日々が
明日も続くかと恐れる気持ちの発露でしょうか

詩をめぐる談論風発ならまだしも
そこに
「愛」はなかったものでしょうか

酔いを回して歌えば心地よく
弁舌を聞かせれば心苦しく
春の夜に
詩人の心は切り裂かれ
こんなんじゃないやい
ぼくを愛する人よ、やって来いやい

喜びをともにしよう
恋人よ 友よ

ぼくの心が狭いばかりに
怒りがどうも先に立つ

その上
こんな時だというのに雨だ雨だ
ああ 雨の音だ

 *
 春の雨

昨日は喜び、今日は死に、
明日は戦ひ?……
ほの紅の胸ぬちはあまりに清く、
道に踏まれて消えてゆく。

歌ひしほどに心地よく、
聞かせしほどにわれ喘(あえ)ぐ。
春わが心をつき裂きぬ、
たれか来りてわを愛せ。

あゝ喜びはともにせん、
わが恋人よはらからよ。

われの心の幼くて、
われの心に怒りもあり。

さてもこの日に雨が降る、
雨の音きけ、雨の音。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月20日 (金)

草稿詩篇1925-1928<9> 浮浪

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昭和2、3年頃
中原中也は
初めての自選詩集を発行する計画に力を注ぎ
いくつかの詩を原稿用紙に清書しました
「浮浪」は
そのときに清書された原稿の一つで
昭和2年(1927年)晩秋の制作と
推定されている作品です

食べたいものもないし
行くとこもない。
停車場の水を撒いたホームが
……恋しい。

東京の街を
友人知人を頼りに
歩き迷った詩人ですが
貧乏過ぎてひもじい思いをしているわけでもなく
心うちとける友人知人が数多(あまた)いるわけではなく
富永太郎が亡くなり
長谷川泰子に逃げられ
小林秀雄との「奇妙な三角関係」は継続し
……

新しく知った友人知人の
思い当たるところには
手当たり次第行って
目当ての相手に会えれば
とことん飲み
とことん話し込む
……
というような暮らしは

「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり。」

と、後に
「詩的履歴書」に書いた通りに
この頃の詩人の日常でありました

中原中也の詩の多くが
歩いた結果に作られ
歩くことが詩を作ることであり
歩くことが詩であるという
「歩く詩人」である由来はここにありますが
この詩には
望郷の思いが告白されていて
目を引きます

「浮浪」は
歩くことを
もろに歌った詩であり
それも
早い時期の作品であり
なおかつ
この詩が
未完に終わった第一詩集に選ばれていたということは
銘記しておきたい第一のことです

結果的には
ようやく昭和9年(1934年)になって
「山羊の歌」が公刊され
これが第一詩集となるのですが
昭和2年から3年の間に計画され、
公刊に至らなかった幻の詩集に
選ばれた作品をすべて列挙しますと

「夜寒の都会」
「春と恋人」
「屠殺所」
「冬の日」
「聖浄白眼」
「詩人の嘆き」
「処女詩集序」
「秋の夜」
「浮浪」
「深夜の思ひ」
「春」
「春の雨」
「夏の夜」

の13篇です

この中のいくつかは
「山羊の歌」にも収められますが
最近の研究では
この13篇のほかに
「愛の詩」と
彫刻家・高田博厚が呼んだ
詩の一群があることが分っていて
この一群も幻の詩集を構成していたものと
推測されているのですが
確証はなく
想像は掻きたてられるばかりです

「これは誰にも見せない、あいつにも見せないんだけど、僕が死んだら、あいつに読ませたいんです。」(高田博厚「中原中也」「人間の風景」)

と言って、
中原中也が高田に渡した詩篇が
どれであるかは特定されていませんが
「あいつ」とはいうまでもなく
長谷川泰子のことで
この「愛の詩」が
泰子を歌った詩である可能性は高く
後に
「山羊の歌」に選ばれる恋愛詩も
この「愛の詩」と同じものなのかも知れず
興味は尽きることがありません

*
浮浪

私は出て来た、
街に灯がともつて
電車がとほつてゆく。
今夜人通も多い。

私も歩いてゆく。
もうだいぶ冬らしくなつて
人の心はせはしい。なんとなく
きらびやかで淋しい。

建物の上の深い空に
霧が黙つてただよつてゐる。
一切合財(いっさいがっさい)が昔の元気で
拵(こしら)へた笑(ゑみ)をたたへてゐる。

食べたいものもないし
行くとこもない。
停車場の水を撒いたホームが
……恋しい。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月19日 (木)

草稿詩篇1925-1928<8> 無題(疲れた魂と)

「無題」(疲れた魂と)に
「良夜(あたらよ)」とあるのは
どうやら夏の夜のことらしいのは
この詩の制作日が
(一九二七・八・二九)と記されていたり
「在りし日の歌」の「初夏の夜」には
「されば今夜六月の良夜なりとはいへ、」とあったりすることから
想像できることです

1927年(昭和2年)は
中原中也が20歳になる年ですが
すでに「朝の歌」は制作され
「詩人として専心」する決意いよいよ固まったものの
中野町桃園での孤独な暮しに変りはありません

「あたらよ」は
朝が来るのが惜しく感じられるほど
すばらしい夜のことのはずなのですが
詩人には
「疲れた魂と心の上に、訪れる夜」なのでした

そのために
詩人が眠りに就こうとしている
額(ひたい)の上のほうには小児がいて
詩人をさきほどから見守っているのです

その小児は色が白く
水草の青い色の中で揺れて
瞼は赤く充血して
何ものかを恐れているようでした

その小児が自殺すれば
美しい唐縮緬(とうちりめん)が飛び出すはずでしたが……

(この詩句に仕掛けられた
中也独特のサプライズ!)

実際は何事もなく
あたらよの闇は豊かに黒く青ずんでいました
私=詩人は木の葉に止まった一匹の昆虫か何かのようでしたが……
それなのに心は悲しみで一杯でした

額のつるつるした小さいお婆さんがいまして
慈愛に満ちた表情は小川の春のさざ波でした
けれども時々お婆さんは怒り散らすことがありました
そのお婆さんは今死のうとしていました……

神様は遠くにいるのでした
素晴らしい夜に空気は動かずに、神様は遠くにいるのでした
私はお婆さんの過去にあったことをなるべく語ろうと思っていました
私はお婆さんの過去にあったことを、なるべく語ろうと思っていました

(そうだよ、お婆さん! たまには怒り散らすことはいいことなんですよ)

ダダというより
シュールな
フランス象徴詩というより
シュールな
ベルレーヌでも
ランボーでもない……
「朝の歌」でもない
独特の世界があります

中原中也の年譜の
大正15年・昭和元年(1926年)と
昭和2年(1927年)の2年間を
もう一度見ておくと……

大正15・昭和元年(1926) 19歳

2月「むなしさ」を書く。
4月、日本大学予科文科に入学。
5-8月にかけて「朝の歌」を書く。
9月、家に無断で日大を退学。その後、アテネ・フランセに通う。
11月「夭折した富永」を「山繭」に発表。
この年「臨終」を書く。

昭和2年(1927年) 20歳

春、河上徹太郎を知る。
8月20日、「富永太郎詩集」(私家版)刊行。
「無題」(疲れた魂と心の上に……)」。
9月に辻潤、10月に高橋新吉を訪問。
11月、河上の紹介で作曲家諸井三郎を知り、音楽団体「スルヤ」との交流始まる。
この年、「ノート小年時」の使用を開始。

と、なっていますが
これを整理しますと

1、詩作をはじめとした制作方面は
「むなしさ」
「朝の歌」
「夭折した富永」
「臨終」
「富永太郎詩集」(私家版)刊行
「無題」(疲れた魂と心の上に……)

2、学校関係および交友関係は
日本大学予科文科
アテネ・フランセ
「山繭」
河上徹太郎
辻潤
高橋新吉
作曲家諸井三郎
音楽団体「スルヤ」

となりますが
ここに小林秀雄の名前がなくても

河上徹太郎
「朝の歌」
「夭折した富永」
「富永太郎詩集」(私家版)刊行
「山繭」
音楽団体「スルヤ」……などで

中原中也と小林秀雄は
接触していました
一時断絶していた交流は
再開されています

ほかにも1927年には
1、日記をつけ始めました
2、第一詩集の編集を試みました
3、「歩く」習慣が定まりました

そのうえ
4、辻潤、高橋新吉を忘れずに、訪問しました
5、フランス行きの願望を抱きました
6、音楽団体「スルヤ」との交流をはじめました

実にたくさんのことを
はじめています
「無題」(疲れた魂と)は
この頃に制作されていながら
第一詩集にも選ばれなかった
(計画終了後に制作したからか?)
数少ない作品の一つということになります

 *
 無題

疲れた魂と心の上に、
訪れる夜が良夜(あたらよ)であつた……
そして額のはるか彼方(かなた)に、
私を看守(みまも)る小児があつた……

その小児は色白く、水草の青みに揺れた、
その瞼(まぶた)は赤く、その眼(まなこ)は恐れてゐた。
その小児が急にナイフで自殺すれば、
美しい唐縮緬(とうちりめん)が飛び出すのであつた!

しかし何事も起ることなく、
良夜の闇は潤んでゐた。
私は木の葉にとまつた一匹の昆蟲(こんちゅう)……‥
それなのに私の心は悲しみで一杯だつた。

額のつるつるした小さいお婆さんがゐた、
その慈愛は小川の春の小波だつた。
けれども時としてお婆さんは怒りを愉しむことがあつた。
そのお婆さんがいま死なうとしてゐるのであつた……

神様は遠くにゐた、
良夜の空気は動かなく、神様は遠くにゐた。
私はお婆さんの過ぎた日にあつたことをなるべく語ろうとしてゐるのであつた、
私はお婆さんの過ぎた日にあつたことを、なるべく語ろうとしてゐるのであつた……

(いかにお婆さん、怒りを愉しむことは好ましい!)

                (一九二七・八・二九)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月16日 (月)

草稿詩篇1925-1928<7-2>地極の天使

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「地極の天使」は
河上徹太郎への
いはば献呈詩に近いものですから
献呈された本人の鑑賞が
詩の外で交わされたであろう
諸々の会話を含めて
読み込まれたことが想像できて
他の読みは不能になりそうですが

やはりここには
詩の宣言や
詩人論が
込められているのであって
ダダっぽい「喩」に回帰しながら
中原中也が
「地極の天使」に「詩」を託した
というところに
注目しておきましょう

詩人=地極の天使からみると
対比は
「家族旅行と木箱」と
「マグデブルグの半球、レトルト」にとどまらず

われ
星に甘え、太陽に倣岸になろうとする
夢のうちなる遠近法、夏の夜風の小槌の重量
笑える陽炎、空を匿して笑へる歯
マグデブルグの半球、レトルト
讃ふべきわが従者
……
という語句群

人々
「夕暮」なき競走、油と蟲となる理想
蜂の尾と、ラム酒
家族旅行と木箱との過剰
理知にて笑はしめ、感情にて判断せしむる
御身等を呪ふ
……
という語句群

それぞれは
同義語もしくは同類語の群を構成している
と考えてもよく
しかし
一つひとつの語句は
微妙に意味を逸脱しながら
意味の重複もあるけれど
単純な同義反復になることを避けて
少しずつ意味を広げていくというような語句が選ばれ
にもかかわらず
二つの語句群の対比が
二項対立化されることに慎重であり
二分法でとらえられることをもまた牽制していることに
注意しておきたいものです

詩人が
「この詩には沢山の思想、沢山の暗示があります。もつと平明に、もつと普通の文章法で、語られるものなら語りたいのですが、それは叶ひません」と、

この詩を書き送った河上徹太郎に
コメントしているのは、
このあたりのことです

簡単にいえば
平明にも
普通の文章法でも
作ることができなかったのは
平明で普通な書き方を
下等なものと見る風潮があり
河上にも
その趣味があり
その河上に敬意を表する意図もあって
インテリゲンチャー好みの詩を
作ってみせたまでのことです

そのために
ダダは強い味方になりましたし
河上は
それをダダとはとらえずに
アバンギャルドと言いました

星に甘える、とは
死の世界を想う、ということであり
太陽に倣岸であろうとする、とは
旺盛な生命を生きようとする、ということであり
どちらも
詩人のレゾン・デートルを
暗示して
河上にはピンとくるものがあったはずです

マグデブルグの半球、も
同じことです
河上には
すこぶる気に入った表現であったに違いありません

中原中也は
いずれ
思う存分ではないにしても
詩人についての詩
詩人論の詩
詩人宣言の詩を
いくつも書くことになりますが
河上との邂逅(かいこう)は
富永太郎や小林秀雄らとの邂逅にまして
詩人のレゾン・デートルを固める上での
バネになったことは間違いありません

 *
 地極の天使

 われ星に甘え、われ太陽に倣岸(ごうがん)ならん時、人々自らを死物と観念してあらんことを! われは御身等を呪ふ。
 心は腐れ、器物は穢(けが)れぬ。「夕暮」なき競走、油と蟲(むし)となる理想!――言葉は既に無益なるのみ。われは世界の壊滅を願ふ!
 蜂の尾と、ラム酒とに、世界は分解されしなり。夢のうちなる遠近法、夏の夜風の小槌(こづち)の重量、それ等は既になし。
 陣営の野に笑える陽炎(かげろう)、空を匿(かく)して笑へる歯、――おゝ古代!――心は寧ろ笛にまで、堕落すべきなり。
 家族旅行と木箱との過剰は最早、世界をして理知にて笑はしめ、感情にて判断せしむるなり。――われは世界の壊滅を願ふ!
 マグデブルグの半球よ、おゝレトルトよ! 汝等祝福されてあるべきなり、其(そ)の他はすべて分解しければ。
 マグデブルグの半球よ、おゝレトルトよ! われ星に甘え、われ太陽に倣岸ならん時、汝等ぞ、讃ふべきわが従者!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月15日 (日)

草稿詩篇1925-1928<7> 地極の天使

草稿は存在しないけれど
印刷物に発表された紹介文の中に
全文が引用されたために残った作品が
「地極の天使」で
昭和2年(1927年)春に
制作されたものと推定されています

この作品を論じたのは
評論家・河上徹太郎で
この詩を引用したのは
「中原中也の手紙」というタイトルで
「文学界」昭和13年10月号誌上に発表したものですが
元になったのは
中原中也の河上宛書簡に同封されていた草稿で
これは戦災で書簡もろとも
焼失してしまいました

年譜にあるように
中原中也は、
昭和2年(1927年)の春に、
河上徹太郎を知りました
河上は後に
中原中也との初対面の様子を

 初対面の日、彼は機嫌よく、又慇懃であつた。そして紳士の初訪問の如く、短時間で辞した。立ち去る時、君には今度 出来た詩を見て貰ひたい、といった。
 その次に数日してやってきた時見せてくれた詩は、確か忘れない積りだが、「地獄の天使」という題で、(以下略)

などと、記しました
(「私の詩と真実」所収「詩人との邂逅」講談社文芸文庫)

河上はこのとき
「地獄の天使」と誤記しましたが
原作は「地極の天使」です

「中原中也の手紙」は
河上宛てに中也が書いた手紙に言及したもので
その手紙には「地極の天使に添えて」とあり
中也が自作にコメントしたものでした

中也は
「この詩には沢山の思想、沢山の暗示があります。もつと平明に、もつと普通の文章法で、語られるものなら語りたいのですが、それは叶ひません」と
河上に説明しています

河上のこの詩への鑑賞は
当時、原作者詩人とよく会話した人ならではの読みがあり
戦後に書かれた
「日本のアウトサイダー」中の「中原中也」や
「私の詩と真実」中の「詩人との邂逅」で
広く知られることになりましたから
ここでもその読みにふれておきますと……

河上徹太郎は
ざっと要約すれば
この詩の中の
「家族旅行と木箱」と
「マグデブルグの半球とレトルト」
という対比に注目し
この対比は
河上の対社会的意識の中の混淆を
一挙に解決したアバンギャルドだった、
という感想を述べます
(「詩人との邂逅」)

わかったような
わかりにくいような
それこそ中也の欲するように
もう少し「平明に」語れないものかと
文句の一つを言いたくなるような
インテリゲンチャーの言葉ですが

平たく言えば
河上の対社会意識の中に存在した
「家族旅行と木箱」と
「マグデブルグの半球とレトルト」が
混淆していて絡まりあい
未分化なまま自覚されずにあったものが
この詩のように言われてみて
(というのは、河上に向けて言われた言葉であることを河上自身が認識していて)
二つのものへと分化したため
「スカッと」し
「魂の中まで見透された気がした」
ということを河上は告白しました

もっと平たく言うと
河上さん
あなたは
「家族旅行」を目指しているのか
「マグデブルグの半球」へ向かうのか
いったいどっちなんだい?
と中原中也に問われて
頭の中がスッキリした、と
河上徹太郎は告白しているのです

まもなく同人誌「白痴群」では
中也とともに両輪となり
ずっと後の戦後10数年を経ては
「日本のアウトサイダー」の著者となる河上徹太郎です

昭和初期に
その河上が
中原中也から
少なからぬ教示(河上は「暗示」と言っています)を受けたことを
これら「地極の天使」への評言は
自ら物語っていることになります

 *
 地極の天使

 われ星に甘え、われ太陽に倣岸(ごうがん)ならん時、人々自らを死物と観念してあらんことを! われは御身等を呪ふ。
 心は腐れ、器物は穢(けが)れぬ。「夕暮」なき競走、油と蟲(むし)となる理想!――言葉は既に無益なるのみ。われは世界の壊滅を願ふ!
 蜂の尾と、ラム酒とに、世界は分解されしなり。夢のうちなる遠近法、夏の夜風の小槌(こづち)の重量、それ等は既になし。
 陣営の野に笑える陽炎(かげろう)、空を匿(かく)して笑へる歯、――おゝ古代!――心は寧ろ笛にまで、堕落すべきなり。
 家族旅行と木箱との過剰は最早、世界をして理知にて笑はしめ、感情にて判断せしむるなり。――われは世界の壊滅を願ふ!
 マグデブルグの半球よ、おゝレトルトよ! 汝等祝福されてあるべきなり、其(そ)の他はすべて分解しければ。
 マグデブルグの半球よ、おゝレトルトよ! われ星に甘え、われ太陽に倣岸ならん時、汝等ぞ、讃ふべきわが従者!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月13日 (金)

草稿詩篇1925-1928<6> 夜寒の都会

同じ原稿用紙に書かれ
筆記具、インクも同じであるため
「夜寒の都会」は
「少年時」(母は父を送り出すと)と同じ制作日
1927年(昭和2年)1月と、
推定されている作品です

上京してまもなく2年、
泰子に逃げられてから
1年と少しの年月がたっています
「詩に専心」する
中原中也20歳です

年号は
大正から昭和に変わりました
大正15年12月25日に大正天皇が崩御し
同日に皇太子裕仁親王が践祚したため
12月25日から昭和と改元されました
昭和元年は
7日間しかありませんでした

中原中也の年譜の
大正15年・昭和元年(1926年)と
昭和2年(1927年)の2年間を
見ておきましょう

大正15・昭和元年(1926) 19歳

2月「むなしさ」を書く。
4月、日本大学予科文科に入学。
5-8月にかけて「朝の歌」を書く。
9月、家に無断で日大を退学。その後、アテネ・フランセに通う。
11月「夭折した富永」を「山繭」に発表。
この年「臨終」を書く。

昭和2年(1927年) 20歳

春、河上徹太郎を知る。
8月20日、「富永太郎詩集」(私家版)刊行。
「無題」(疲れた魂と心の上に……)」。
9月に辻潤、10月に高橋新吉を訪問。
11月、河上の紹介で作曲家諸井三郎を知り、音楽団体「スルヤ」との交流始まる。
この年、「ノート小年時」の使用を開始。

「夜寒の都会」が歌っているのは
冬の夜の都会です
その風景なのですが
ダダに戻ったのか
象徴表現なのか
歌い方に異変が起きています

星の子供は声をかぎりに、
たゞよふ靄(もや)をコロイドとする。
(小さな星星が精一杯声を出して
空は靄が漂ってコロイド状になっている)

とか

亡国に来て元気になつた、
この洟(はな)色の目の婦、
今夜こそ心もない、魂もない。
(亡国みたいな東京にやってきて元気になった
このハナミズの色をした目をもつ女
今夜という今夜、心も魂もない)

とか

舗道の上には勇ましく、
黄銅の胸像が歩いて行つた。
(舗道を勇ましく
黄銅色の胸像のようにして軍人が歩いていった)

とか
……

冒頭の

外燈に誘出された長い板塀、
人々は影を連れて歩く。

だけが
ストレートな風景描写のほか
全連、全行が
「喩(ゆ)」により
シンボライズされた表現になっています

第2連の
洟(はな)色の目の婦には
泰子の影があります

私=詩人は、
沈黙から
紫がかつた数箇の苺を受け取ります、
が、これがどんなものだか
シンボル表現の無限の中に
投げ出されるようで
イメージは回転し続けますが

回転し続ける中で
詩人が受け取った
紫色のイチゴに接近します。
接近することがありますが
それは直ぐにも遠ざかってゆきます

こうなってきては
最終連

ガリラヤの湖にしたりながら、
天子は自分の胯(また)を裂いて、
ずたずたに甘えてすべてを呪つた。

は、想像の世界です

天子は
詩人ではないのでしょうか
天子は
どのような存在でしょうか

天子が、自分の胯を裂き
ずたずたに甘えて
すべてを呪った

は、シンボリック表現というより
ダダイスティックではないでしょうか

ずたずたに甘えて、という
レトリックに撹乱されて
不可能なイメージの世界に迷い出しますが
迷っているうちに
ぼんやりと
キリストの物語が見えてきます

ああ
主よ!

冬の都会の夜
詩人は
神を望んだのかもしれません

一度
失恋の歌として読んだことがある作品ですが
失恋はやがて神を願う詩を
詩人にたくさん作らせることになりますから
当たるとも遠からずの読みでしたかな?

 *
 夜寒の都会

外燈に誘出された長い板塀、
人々は影を連れて歩く。

星の子供は声をかぎりに、
たゞよふ靄(もや)をコロイドとする。

亡国に来て元気になつた、
この洟(はな)色の目の婦、
今夜こそ心もない、魂もない。

舗道の上には勇ましく、
黄銅の胸像が歩いて行つた。

私は沈黙から紫がかつた、
数箇の苺(いちご)を受けとつた。

ガリラヤの湖にしたりながら、
天子は自分の胯(また)を裂いて、
ずたずたに甘えてすべてを呪つた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月12日 (木)

草稿詩篇1925-1928<5> 少年時

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昭和2年(1927年)1月制作と
推定されているのは「少年時」(母は父を送り出すと)――。
中原中也が上京してから
もう2年が過ぎようとしています

「山羊の歌」に選定された
同名の有名な詩があります
もろにランボーを感じさせる詩句とともに
タイトルそのものがランボーです

中原中也は
大正13年に翻訳出版された
鈴木信太郎訳「近代仏蘭西象徴詩抄」から
ランボーの散文詩「少年時」を筆写してしています
富永太郎から知ったのでしょうか
小林秀雄からでしょうか
ほかの、正岡忠三郎とか
冨倉徳次郎とかからでしょうか
中也自身がランボーの翻訳を探し当てたのでしょうか

夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!

という第5、第6連あたりは
こちらの「少年時」(母は父を送り出すと)に
通じるものがありますが
二つの詩のうちで
一つが自選詩集に選ばれ
一つは外された理由は歴然としています

少年時というテーマで
一つ書き
しばらくして
また同じテーマで書いたら
後で書いたほうの出来がよかったので
そちらを自選詩集に選んだ
という関係に
二つの詩はあるようです
つまり
「少年時」(母は父を送り出すと)が
先に書かれたのです

「山羊の歌」に選ばれなかった
この「少年時」(母は父を送り出すと)は
上京中に書かれたものか
帰省中に書かれたものか
意見が分かれているようですが
書かれた内容は
父と母の思い出……にはじまって
父と母のすれ違いの間にはさまって悩む僕

父と母の間に立っていると
次第にいらいらしてくる僕
いらいらいらいらして
今にも爆発しそうになるのですが
考えれば父と母とどちらにも罪があるわけではないし

爆発して何か言ったとしても
父と母にためになることを言ってあげることにもならないから
自分を磨くしかない、
自分を磨こう
そのかわり後生ですから
僕には何も言ってくださるな
と、結局はそう思い直すのが常だった

いつもそうだった
それだから
僕は孤独になったんだ、と
ずっと孤独だったのはそういうことなのさ

冒頭連の母の描写

母は父を送り出すと、部屋に帰つて来て溜息をした。
彼の女の溜息にはピンクの竹紙。
それが少し藤色がゝつて匂ふので、
私は母から顔を反向(そむ)ける。

母は独りで、案じ込んでる。
私は気の毒だが、滑稽でもある。
  母の愁(うれ)ひは美しい、
  母の愁ひは愚かしい。

に、ランボーの激しさはなく
詩人の優しさがにじみ出ているような作品です

 *
 少年時

母は父を送り出すと、部屋に帰つて来て溜息をした。
彼の女の溜息にはピンクの竹紙。
それが少し藤色がゝつて匂ふので、
私は母から顔を反向(そむ)ける。

母は独りで、案じ込んでる。
私は気の毒だが、滑稽でもある。
  母の愁(うれ)ひは美しい、
  母の愁ひは愚かしい。

父は今頃もう行き先で、
にこにこ笑つて話してるだらう。
  父の怒りに罪はない、
  父の怒りは障碍(しょうがい)だ。

私は間で悩ましい、
私は間で悩ましい、僕はただもういらいらとする。
私はむやみにいらいらしだす。
何方(どちら)も罪がないので、云つてやる言葉もない。

(では、あゝ、僕は、僕を磨かう。
ですから僕に、何も言ふな!)
と、結局何時も、僕はさう思つた。
由来僕は、孤独なんだ……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月11日 (水)

草稿詩篇1925-1928<4-2>かの女

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 大正十四年以降「朝の歌」までに書かれた詩で、日附がはっきりしているのは、「秋の愁嘆」(一九二五、一〇、7)「むなしさ」(『在りし日の歌』一九二六、二)の二編だけであるが、『山羊の歌』冒頭の「春の夕暮」「月」「サーカス」「春の夜」の四篇も、それらが「朝の歌」の前に配列されているという理由によって、それ以前に書かれたと考えることが許されるであろう。ほかに同じ時期と推測される詩篇がないでもないが、一応右の六篇をもって、ダダイズムの詩から「朝の歌」に到る経路を探るに十分ということにする。

と大岡昇平が「朝の歌」に書いたのは
1956年(昭和31年)5月号「世界」誌上のことですから
以後、研究・考証が進んで
新たな考えが生れているかもしれません

「かの女」は
この群れの中に入れておかしくはない
1925年制作(推定)の詩で
特に
「むなしさ」と共通するのは
横浜をモチーフにしているところです

中原は十四年以来、横浜のエキゾチックな頽廃的な雰囲気を好み、よく遊びに行った。この地で客死した祖父助之(政熊の兄、福の実父である)の墓に詣り、横浜橋停留所附近の私娼のところへ通った。「臨終」は馴染みの娼婦が死んだのを歌ったものだ、といっていた。よほど気に入った女がいたのである。「かの女」がその女を歌ったものと見ることが出来るが、「臨終」と同じく長谷川泰子の影もまた落ちているのである。
(旧全集解説・詩Ⅰ、1967.10)

と大岡は、ほかのところで
中原中也の横浜行きを
解説しています

「気に入った女」とは
どんな女だったのでしょうか
「かの女」には

千の華燈よりとほくはなれ、
きらびやかなネオンサインから遠く離れて

笑める巷(ちまた)よりとほくはなれ、
嬌声さんざめく街中から遠く離れて

露じめる夜のかぐろき空に、
今にも降り出しそうな暗黒の夜空に

かの女はうたふ。
一人のうかれ女が歌っている

と、
いかにも「場末の女」が登場しますが
彼女は
長谷川泰子の面影でもあり
ついには
太陽となる女でもあります
ここに
ランボー詩の影はあるでしょうか

文語調
ソネット
難漢字の多用
……
ダダイズムは引っ込んでいます

そして
第2連

「月汞(げつこう)はなし、
低声(こごゑ)誇りし男は死せり。
皮肉によりて瀆(けが)されたりし、
生よ歓喜よ!」かの女はうたふ。

の、
「月汞」(げっこう)という語は
宮沢賢治の「風の偏倚」(「春と修羅」)に使用例があり
「水銀のような月あかり」を意味する
賢治の造語らしいのですが
中也は
水銀のように輝く月
月明かり
月光などの意味を含ませ
独自に使っているようです
(新全集・詩Ⅱ解題)

中原中也が
宮沢賢治の「春と修羅」を購入したのは
1925年暮れから翌年にかけてのいつかですから
これを読んでいた公算は大きいものがあります

「いよいよ詩に専心しようと大体決まる」(「詩的履歴書」)と
詩人として生きていく覚悟を決めた
中原中也18歳
新たな出発に
ランボーはあり
宮沢賢治はあり

一人、東京に投げ出されたにしては
力強い味方を
すでに
手中にしていたように感じられますが
詩人の心を慰めるのは
横浜の女だったのかもしれません

いわゆる
「横浜もの」とも呼ばれる
横浜を歌った一群の作品には
「かの女」
「臨終」
「むなしさ」のほかに
「秋の一日」(山羊の歌)
「港市の秋」(同)
「春と恋人」(在りし日の歌)があります

泰子に逃げられて
1年が過ぎたころです
それまで住んでいた
中野町大字西町小字桃園三四六五篠田方の下宿から
中野町大字上町の理髪店二階へ(10月)
中野町大字西町小字桃園三三九八関根方へ(11月)へ
引っ越しを繰り返します

桃園三三九八関根方は
泰子が逃げた直後に住んでいた場所でした
転居を頻繁に行った期間に
横浜通いも盛んなようでした

 *
 かの女

千の華燈よりとほくはなれ、
笑める巷(ちまた)よりとほくはなれ、
露じめる夜のかぐろき空に、
かの女はうたふ。

「月汞(げつこう)はなし、
低声(こごゑ)誇りし男は死せり。
皮肉によりて瀆(けが)されたりし、
生よ歓喜よ!」かの女はうたふ。

鬱悒(ゆう)のほか訴ふるなき、
翁(おきな)よいましかの女を抱け。
自覚なかりしことによりて、

いたましかりし純美の心よ。
かの女よ憔(じ)らせ、狂ひ、踊れ、
汝(なれ)こそはげに、太陽となる!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月10日 (火)

草稿詩篇1925-1928<4-1>かの女

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富永太郎が
京都の生活を引き上げ、
帰京したのは
1924年(大正13年)12月のこと
同年10月11日初めて喀血し
次第に悪化する病状に不安を感じてのものでした

中原中也が泰子とともに上京するのは
1925年3月10日、
富永の紹介で
この春
東大仏文科に入学したばかりの
小林秀雄を知るのは4月

大岡昇平が
「富永は五月三日に片瀬を引き上げ、代々木富ヶ谷の家へ帰った。交友は富永を交えて三人で始められたと考えてよい。」(「朝の歌」所収「友情」)
と記した
中原中也、小林秀雄、富永太郎の交友は
富永の「死の病」が
進行する中でのことでした
(富永は上京後、藤沢・片瀬海岸で転地療養していた)

しかし
富永は病気の進行をほとんど口外せず
親密だった正岡忠三郎でさえ
「タロウキトク」の電報を受けて
急遽、冨倉徳次郎とともに上京したのが11月6日でしたし
小林は富永が小康状態のときにしか会わなかったためか
富永の病気を楽観していた節があるし
中原中也は
富永から病状を隠されていた様子だし
富永自身ですら死病を自覚していなかった
というような事情の中で
11月12日に富永は死んでしまいます

小林秀雄は盲腸炎の手術で入院中のことで
富永の葬式の後で
小林を見舞った正岡から死を知らされます
中原中也は電報で富永の死を知ります

富永太郎は
「死の床」にあっても
書簡やメモをよく書いて
最期には「きたない」といって
酸素吸入のためのゴム管を
自分の手ではずしてしまう意思の強さ
一種の潔さの表明があり
死の直前まで表現者でありました

これらのことが克明に
正岡によって
富永の死の直後に記録され
その一部が
大岡昇平の「富永の死、その前後」に
案内されていることは
少しだけ紹介したところです

大岡昇平は、
同じところで

中原が「いよいよ詩に専心しようと大体決まる」(「詩的履歴書」)のは、こういう雰囲気の中だったのである。

とも書いていますが
そう書くことによって
「朝の歌」制作への端緒を
中原中也がつかんでいった
物語のはじまりを告げているのです

泰子を失ったのをはじめ
富永太郎が死去し
小林秀雄とも断絶していては
中原中也には
東京での友人関係はゼロであり
まさに
大都会東京に一人投げ出された状態でした
ここに
詩人が新たに出発する物語を
大岡昇平は見出しました

「かの女」は
1925年制作と
日月を特定されない
制作日の推定幅がとられた作品ですが
ダダイズムからの脱却を告げる詩のはじまりであり
新たな詩人の誕生の
その兆しを告げる詩の位置を主張する
作品の一つでもあります

 *
 かの女

千の華燈よりとほくはなれ、
笑める巷(ちまた)よりとほくはなれ、
露じめる夜のかぐろき空に、
かの女はうたふ。

「月汞(げつこう)はなし、
低声(こごゑ)誇りし男は死せり。
皮肉によりて瀆(けが)されたりし、
生よ歓喜よ!」かの女はうたふ。

鬱悒(ゆう)のほか訴ふるなき、
翁(おきな)よいましかの女を抱け。
自覚なかりしことによりて、

いたましかりし純美の心よ。
かの女よ憔(じ)らせ、狂ひ、踊れ、
汝(なれ)こそはげに、太陽となる!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月 9日 (月)

草稿詩篇1925-1928<3-3>秋の愁嘆・補遺

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 中原が富永太郎の紹介で小林を訪れたのは、大正十四年四月初旬である。四月十日から小林は小笠原へ旅行、五月一日帰る。
 富永は五月三日に片瀬を引き上げ、代々木富ヶ谷の家へ帰った。交友は富永を交えて三人で始められたと考えてよい。中原が泰子と共に四月から五月へかけて中野、次に高円寺に引越したのは、馬橋の小林の家に近いためであろう。六月富永の病気が悪化し、面会謝絶が続くようになってからは、二人だけの往来ははげしくなったと思われる。中原が「いよいよ詩に専心しようと大体決まる」(「詩的履歴書」)のは、こういう雰囲気の中だったのである。
 七月中原は山口へ帰った。九月最初の媾曳。小林は二十三歳、泰子二十一歳である。
(大岡昇平「朝の歌」所収の「友情」より)
※上記「媾曳」とあるのは、「あいびき=逢い引き」のこと。(編者)

「秋の愁嘆」を読み終える前に
この頃、大正14年(1925年)
18歳の中原中也の経験について
もう少し見ておきましょう

先に、
「或る心の一季節」を読んだときに見た年譜では

4月、富永太郎の紹介で小林秀雄を知る。
5月、小林の家の近く、高円寺に転居。
10月、「秋の愁嘆」を書く。
11月、泰子、小林のもとへ去る。中也は中野に転居。しかし、その後も中也・小林・泰子の「奇妙な三角関係」(小林秀雄)は続く。
この年の暮か翌年初めごろ、宮沢賢治の詩集「春と修羅」を購入、以後愛読書となる。

と、あったあたりのことです

この頃の経過を
「角川新全集」などで補いながら
ざっと整理すると
……

小林と泰子が最初の逢い引きをしたのが9月
中原中也が「秋の愁嘆」を書いたのが10月7日
小林と泰子が大島行きを企て、泰子が遅刻して小林一人での大島行きとなったのが10月8日
大島から帰った小林が盲腸炎で京橋の病院に入院し、その病室を泰子が見舞ったのが10月中旬から11月上旬のいつか。この時、小林から「一緒に住もう」と言われた
富永の病状が悪化したのが6月、次第に面会謝絶状態が多くなり
11月5日に、正岡忠三郎は「タロウキトク」の電報を京都で受け、富永家に駆けつけたのが翌6日
11月12日に富永太郎は死去した
中原中也と長谷川泰子は電報で富永の死を知る
中原中也は富永の死後2日して遺体と面接
正岡は、14日の富永の葬式の後、小林を見舞う。泰子がこの病室にいた。小林は富永の死を、泰子か正岡かどちらかに知らされる
11月下旬、泰子は小林と天沼で暮らしはじめる

大岡昇平の「友情」は
1、中原が生前した談話
2、長谷川泰子の談話
3、小林が彼女の手許に残した当時の手紙断片
という、三つの資料から
中原中也が「口惜しき人」になって以後の
生活記録の穴を埋める(近づく)ために
説き起こされていることを
大岡自身が中に記していますが

実際に
大岡は
この三つの資料のほか
集められる限りの情報を収集して
「科学者の実証的な眼差し」を失うまいとするかのように
中原中也の経験に迫ります

たとえば
正岡忠三郎の日記や書簡、回想記は
その一つです

正岡忠三郎氏は母方の親類加藤氏より入って、子規の二代あとを継いだ人で、やはり二高で富永の同級である。十三年四月京都帝大経済学部に移り、渋谷富ヶ谷の家で、不眠に悩まされている富永に、蒲団持参を条件に、貸間の同室を提供した。
正岡氏は大正十年以来富永に献身的愛情を持ち続けている方である。日記をつけるという貴重な習慣を持っておられたので、我々は大正十年以来正岡氏と一緒にいる限り、富永太郎の動静を殆ど逐日知り得るのである。
(「京都における二人の詩人」)
※明治の俳人、正岡子規の「従兄弟(いとこ)」ということになります(編者)

とか

正岡氏は富永に献身的な友情を持ち、多少放浪の趣味も感染していたが、文学に志を持っておられなかった。富永と中原の話を、きいていただけだったといっている。二人の間に非常に緊張したものがあったことを憶えておられるだけである。
(「離合」)

とか
富永太郎の終焉記は正岡氏によって、詳細に記録されている。日記ではないが、富永に対する愛情から、死の直後誌しておいたものが残っているのである。
(「富永の死、その前後」)

など、
あちこちで紹介され
正岡の書いた記録が引用されています

ほかに
富永太郎の日記、書簡、筆談メモ
中原中也の書簡、詩篇、回想記
小林秀雄の回想記、メモ
などがじっくり読み込まれたことは
言うまでもありません

しかし
大岡昇平が書くのは
中原中也の人生経験ではありませんし
生活記録にとどまるものでもありません
単に事実を追跡するだけではなく
やがて「朝の歌」を歌う
中原中也の足取りを追い
詩人誕生の物語を提案することにあります

 *
 秋の愁嘆

あゝ、 秋が来た
眼に琺瑯(はふらう)の涙沁む。
あゝ、 秋が来た
胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を蹂躪(じゆうりん)に秋がおぢやつた。

その着る着物は寒冷紗(かんれいしや)
両手の先には 軽く冷い銀の玉
薄い横皺(よこじわ)平らなお顔で
笑へば籾殻(もみがら)かしやかしやと、
へちまのやうにかすかすの
悪魔の伯父さん、おぢやつたおぢやつた。
           (一九二五・一〇・七)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

  ※原作には、「かしやかしや」と「へちま」には傍点「、」が付されていますが、ここでは省略しました。(編者)

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2010年8月 8日 (日)

草稿詩篇1925-1928<3-2>秋の愁嘆

「秋の愁嘆」が作られたのは
1925年(大正14年)10月7日のことですが
この頃
まさに「事実は小説より奇なり」という
ことわざのような現実が
「詩」の外で進行していました

当時、この事態の全貌を
俯瞰して見ることができる立場があったなら
ヒチコックの映画を見るような
スリルとサスペンスに満ちた
男女のドラマを見るような思いをしたことでしょう

緊迫して胸を騒がせる物語が
日々刻々と進行していましたが
全貌を知ることのできたのは
「神」のみのことのはずでした

ドラマの登場人物は
小林秀雄
長谷川泰子
富永太郎
中原中也
……
表面には出てきませんが
正岡忠三郎
冨倉徳次郎
……

富永太郎が
危篤状態に入る11月初めより
およそ1か月前の10月8日は
「秋の愁嘆」を中原中也が書いた
翌日ということになりますが
この日……

小林秀雄は
中原中也には知らせないで
長谷川泰子と品川駅で落ち合い
大島へ行く手はずでしたが
泰子は約束の時間に遅れ
小林一人がやむなく出発したのでした

この日を回想する長谷川泰子の言葉は
昭和49年(1974年)のものながら
なまなましく
また、
泰子という女性の面影が漂い
想像を掻きたてます

「私は10月のある日の午後1時に、小林と品川駅で落ち合うことにしておりました。その日、中原は朝から出かけていましたから、私は何もいわないで、そのまま出かけようとしたんです。そのとき、ポツリポツリと雨が降ってきて、ちょっと空模様をながめてと思っていると、出かけていた中原が帰って来ました。こうなると、さっさと出にくくなって、しばらく、しばらくと出発を渋っていたんですけど、約束の時間のほうはもっと気になりました。(略)」(「中原中也との愛―ゆきてかへらぬ」 長谷川泰子・述、村上護・編、角川文庫)

このように
長谷川泰子が回想している
10月のある日の前日が
10月7日にあたり
その日に
「秋の愁嘆」を書き
もう少し前に
「ある心の一季節」で

だが、その自由の不快を、私は私の唯一つの仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰つて来、夜の一点を囲ふ生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見懸ける時に、泌々(しみじみ)知る。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然耳をかしながら私は私の過去の要求の買ひ集めた書物の重なりに目を呉れる、又私の燈に向つて瞼を見据える。
(中略)
 私は友を訪れることを避けた。そして砂埃の立ち上がり巻き返る広場の縁(フチ)をすぐつて歩いた。
 今日もそれをした。そして今もう夜中が来てゐる。終列車を当てに停車場の待合室にチヨコンと坐つてゐる自分自身である。此所から二里近く離れた私の住居である一室は、夜空の下に細い赤い口をして待つてゐるやうに思へる――

などと、歌ったのです

詩人は
すでに、散歩を強いられていました
散歩は詩人の好むところではあり
詩を作り、詩を生きる詩人に
命のようなものでありましたから
「私は私の唯一つの仕事である散歩」と記しますが
この詩では、強いられたという響きがともない
散歩は苦行のようでもあります

詩人は
散歩を
「自由の不快」と同列のものと感じざるを得ず
「友を訪れることを避けた」のです

中原中也が
この時、
富永太郎による忌避や
小林秀雄からの絶交宣告に
無傷でいられたなんてことは
考えられないということを示す一節です

いったい
京都で富永太郎と知り合って以来
このときまで
二人は何を話してきたのでしょうか
どんなことを話したのでしょうか

胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。

には、舞踏の興奮がおさまらぬうちに
はやくも冷たい風が吹きはじめ
秋になってしまった、と
夏の思い出の不全感が歌われ
まだ話し足りないのだがなあ
という声が隠れているようですし

蹂躙
寒冷紗
冷い銀の玉
薄い横皺
平らなお顔
籾殻へちま
かすかす
悪魔……と
詩句化され、
現れたのは
どうみても負性の
詩人を脅かしかねない
何か不吉ですらあるものであり
しかし
詩人はめげることはなく
それを道化調に表現しますから
客観化の意志は失われず
冷静なことがあきらかです

小粒ながら佳品
といえるような詩になりました

 *
 秋の愁嘆

あゝ、 秋が来た
眼に琺瑯(はふらう)の涙沁む。
あゝ、 秋が来た
胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を蹂躪(じゆうりん)に秋がおぢやつた。

その着る着物は寒冷紗(かんれいしや)
両手の先には 軽く冷い銀の玉
薄い横皺(よこじわ)平らなお顔で
笑へば籾殻(もみがら)かしやかしやと、
へちまのやうにかすかすの
悪魔の伯父さん、おぢやつたおぢやつた。
           (一九二五・一〇・七)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 ※原作には、「かしやかしや」と「へちま」には傍点「、」が付されていますが、ここでは省略しました。(編者)

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2010年8月 5日 (木)

草稿詩篇1925-1928<3-1>秋の愁嘆

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 小林は当時盲腸炎手術のため、入院中であった。富永が「きたない」といって、酸素吸入管を取り去った話を聞き、「富永らしい」といったという。
 この病室に長谷川泰子がいたことから、新しい物語が始まるのである。
 
大岡昇平は「中原中也」の中の
「Ⅱ朝の歌」の「富永の死、その前後」
(初出は「別冊文芸春秋」第50号「詩人の死まで」1956年3月刊)を
このように結んで
次の「友情」で
長谷川泰子が中原中也を捨て
小林秀雄の元へと去った事件の
クライマックスへと言及していきますが
ここで「病室」とあるのは
小林秀雄が入院していた京橋の病院のことで
富永太郎が危篤状態になる
11月初旬より少し前の
10月下旬頃のこと
泰子と一緒に行くはずだった大島行きから帰った直後に
盲腸炎になり入院したことを指しています

このころ
富永太郎の病状は悪化する一方で
その臨終の始終を
克明に記録していたのは
富永の京大の学友、正岡忠三郎で
家族の知らせで急遽上京し
富永の病室に入室できる許可を与えられていましたから
記録を残すことができたのです

大岡はこれを引用して
富永太郎終焉記として
「富永の死、その前後」に
載せていますが
この正岡が
富永の代々木富ヶ谷の実家に
着いたのは11月6日で

「秋の愁嘆」は
(一九二五・一〇・七)の日付をもちますから
この日より
1か月前に制作されたことになります
この頃の中也は
富永の容態を知らないでいましたから
「富永はその後大分よくなりました。もう後は楽に癒るのでせう」などと
正岡宛の書簡に記すほどでした

富永の死の1か月前に
中原中也は
富永の死を予想だにできなかったのは
富永自身に忌避されていて
小林秀雄からも絶交されていて
危篤状態になった11月初めにも
「dadaさんにはないしょ」と
危篤を知って駆けつけた正岡に
筆談で富永が示したことが分かっているほど
富永に関する情報から
隔絶されていたからです

この詩も
富永太郎の「秋の悲歎」の「戯画化」と
大岡昇平が評しているように
富永作品との関連の中で
読まれる慣わしですから
再び「秋の悲歎」を引用しておきますが
「ある心の一季節」と同様に
ここ「秋の愁嘆」にも
中原中也が存在するばかりなことは
くれぐれも銘記して読んだほうがよく
あくまで中原中也の詩を
味わってほしいものです

「戯画化」であったとしても
詩としての作品の価値が損なわれるものではなく
「優れた戯画化」である価値さえもっていることも間違いなく
これを富永太郎が読んだ上で
中原中也を忌避する一因になったとしたのなら
富永のこの時点での消耗が
苛烈であったことを思うばかりです

それにしても
「悪魔の伯父さん」と
季節の秋を
擬人化するなんて
フランス象徴詩の技でしょうか
レトリックを自分のものにしてしまう
詩人の貪欲を感じさせますし
ああ
若くて元気だった詩人がここにいる、と
感激しないではいられません

秋の悲歎  富永太郎

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
 私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の顎に、私は千の静かな接吻を惜しみはしない。今はあの銅(あかゞね)色の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……
 夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうか?
 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。
(「現代詩文庫 富永太郎詩集(思潮社)」より)

 *
 秋の愁嘆

あゝ、 秋が来た
眼に琺瑯(はふらう)の涙沁む。
あゝ、 秋が来た
胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を蹂躪(じゆうりん)に秋がおぢやつた。

その着る着物は寒冷紗(かんれいしや)
両手の先には 軽く冷い銀の玉
薄い横皺(よこじわ)平らなお顔で
笑へば籾殻(もみがら)かしやかしやと、
へちまのやうにかすかすの
悪魔の伯父さん、おぢやつたおぢやつた。
           (一九二五・一〇・七)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 ※原作には、「かしやかしや」と「へちま」には傍点「、」が付されていますが、ここでは省略しました。(編者)

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2010年8月 4日 (水)

草稿詩篇1925-1928<2-2>或る心の一季節

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富永太郎によって
フランス象徴詩の存在を知り
富永太郎の詩によって
ダダイズム以外に詩の道があることを知って
中原中也は
自身の実作の方向転換を試みようとしたことに
違いはありません

立命館中学4年に進級した直後の
1924年4月
講師だった冨倉徳次郎を知り
冨倉を通じて正岡忠三郎を知り
正岡を通じて7月には富永太郎を知る
偶然のようでありながら
中原中也の詩塊が
その希求の強度ゆえに
必然的に探り当てていった鉱脈……

長谷川泰子との同棲もはじめて
10月には
富永太郎の下宿近くへ
泰子ともども転居します
中也の下宿には
富永も足を運び
頻繁な往来が集中的に行われましたが
富永は、この間のことを振り返って
11月には
村井康男に宛てた書簡に
「ダダイストとのDegoutに満ちたamitie
に淫して四十日を徒費した」
と記すのです

Degout(デグゥ)はフランス語で
不快とか嫌悪
Amitie(アミティエ)は同じく
友情とか友好関係という意味です
富永は
中也とのわずか5か月のうちの
その40日間の激越な交友を
「Degoutに満ちたamitieに淫して四十日」と
京大の学友に報告せざるを得なかったのです

中也のほうでは
後年
「ゆきてかへらぬ 京都」(「在りし日の歌」)の中で

名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

などと歌ったり
「断片」(1936年11月中旬制作推定)では

十二年前の恰度(ちょうど)今夜
その男と火鉢を囲んで煙草を吸つてゐた
その煙草が今夜は私独りで吸つてゐるゴールデンバットで、
ゴールデンバットと私とは猶(なお)存続してるに
あの男だけゐないといふのだから不思議でたまらぬ

などと歌ったりしています

また、
富永太郎は
中原中也と知り合って約1年半後の
翌1925年11月に亡くなってしまうのですが
この時
中也は
追悼文「夭折した富永」を
「山繭」(1926年11月号)に寄せ

友人の目にも、俗人の目にも、ともに大人しい人といふ印象を与へて、富永は逝つた。そしてそれが、全てを語るやうだ。

などと記し
富永への不快感を表明することはありませんでした

少年時代に
神童と呼ばれた中原中也です
人一倍、勉強する人でしたし
富永太郎から学んだものの大きさは
後になっても
忘れることはなかったはずですから
多少は批判がましいことをも
追悼文の中に記しましたが
それも抑制の利いたものになっていますし
京都時代を振り返った「ゆきてかへらぬ」に
「希望は胸に高鳴つてゐた。」と歌ったのも
心底、そう感じていたからでありましょう

「或る心の一季節」は
富永太郎の影響が
多々見られる作品ではありますが
しかし
これは中也の詩であることを
感覚を研ぎ澄まして
読まないことには
この詩を読んだことにはなりません

そのような眼(まなざし)を
失わないで
冒頭行の

 最早、あらゆるものが目を覚ました、黎明(れいめい)は来た。私の中に住む幾多のフエアリー達は、朝露の傍では草の葉つぱのすがすがしい線を描いた。

と、
「秋の悲歎」の冒頭行

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

を読んでみれば
この二つの詩は
似ているようで
全く異なる詩であることは
誰が読んでも分ることです
というか
「或る心の一季節」の私は
中原中也でしかなく
ほかの誰でもありません

あえて言えば
ダダイスト中也が
尻尾(しっぽ)を隠しきらずに
あちこちに登場しますし

 だが、その自由の不快を、私は私の唯一つの仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰つて来、夜の一点を囲ふ生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見懸ける時に、泌々(しみじみ)知る。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然耳をかしながら私は私の過去の要求の買ひ集めた書物の重なりに目を呉れる、又私の燈に向つて瞼を見据える。

という詩句の中には
当たり前のことですが
包み隠しもしない
中原中也という詩人がいるだけです

 *
 或る心の一季節
     ――散文詩

 最早、あらゆるものが目を覚ました、黎明(れいめい)は来た。私の中に住む幾多のフエアリー達は、朝露の傍では草の葉つぱのすがすがしい線を描いた。
 私は過去の夢を訝(いぶか)しげな眼で見返る………何故(ナニユエ)に夢であつたかはまだ知らない。其処(そこ)に安座した大饒舌で漸(ようや)く癒る程暑苦しい口腔を、又整頓を知らぬ口角を、樺色の勝負部屋を、私は懐しみを以て心より胸にと汲み出だす。だが次の瞬間に、私の心ははや、懐しみを棄てゝ慈しみに変つてゐる。これは如何(どう)したことだ?………けれども、私の心に今は残像に過ぎない、大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔、整頓を知らぬ口角、樺色の勝負部屋……それ等の上にも、幸ひあれ!幸ひあれ!
 併(しか)し此の願ひは、卑屈な生活の中では「あゝ昇天は私に涙である」といふ、計らない、素気なき呟(つぶやき)きとなつて出て来るのみだ。それは何故か?

 私の過去の環境が、私に強請した誤れる持物は、釈放さるべきアルコールの朝(アシタ)の海を昨日得てゐる。だが、それを得たる者の胸に訪れる筈の天使はまだ私の黄色の糜爛(びらん)の病床に来ては呉(く)れない。――(私は風車の上の空を見上げる)――私の唸(うめ)きは今や美(うる)はしく強き血漿であるに、その最も親はしき友にも了解されずにゐる。………
 私はそれが苦しい。――「私は過去の夢を訝しげな眼で見返る………何故(ナニユエ)に夢であつたかはまだ知らない。其所に安座した大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔を、又整頓を知らぬ口角を、樺色の勝負部屋を、私は懐しみを以て心より胸にと汲み出す」――さればこそ私は恥辱を忘れることによつての自由を求めた。
 友よ、それを徒らな天真爛漫と見過(みあやま)るな。
 だが、その自由の不快を、私は私の唯一つの仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰つて来、夜の一点を囲ふ生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見懸ける時に、泌々(しみじみ)知る。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然耳をかしながら私は私の過去の要求の買ひ集めた書物の重なりに目を呉れる、又私の燈に向つて瞼を見据える。
 間もなく、疲労が軽く意識され始めるや、私は今日一日の巫戯(ふざ)けた自分の行蹟の数々が、赤面と後悔を伴つて私の心に蘇るのを感ずる。――まあ其処(そこ)にある俺は、哄笑(こうしょう)と落胆との取留なき混交の放射体ではなかつたか!――だが併し、私のした私らしくない事も如何にか私の意図したことになつてるのは不思議だ………「私の過去の環境が、私に強請した誤れる私の持物は、釈放さるべきアルコールの朝の海を昨日得てゐる。だが、それを得たる者の胸に訪れる筈の天使はまだ私の黄色の糜爛の病床に来ては呉れない。――(私は風車の上の空を見上げる)――私の唸きは今や美はしく強き血漿であるに、その最も親はしき友にも了解されずにゐる」………さうだ、焦点の明確でないこと以外に、私は私に欠点を見出すことはもう出来ない。

 私は友を訪れることを避けた。そして砂埃の立ち上がり巻き返る広場の縁(フチ)をすぐつて歩いた。
 今日もそれをした。そして今もう夜中が来てゐる。終列車を当てに停車場の待合室にチヨコンと坐つてゐる自分自身である。此所から二里近く離れた私の住居である一室は、夜空の下に細い赤い口をして待つてゐるやうに思へる――

 私は夜、眠いリノリュームの、停車場の待合室では、沸き返る一抱きの蒸気釜を要求した。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年8月 1日 (日)

草稿詩篇1925―1928<2> 或る心の一季節

「或る心の一季節」は
現存する詩篇の中で
上京後に作られた初の作品であり
中原中也全作品の中で初の散文詩でもあり
色々な意味で
背景を豊富にもつ詩です

中でも
詩人が上京する意志を固めた理由の
最も大きかった一つに
富永太郎との交友があり
この詩そのものにも
富永太郎を通じて知った
フランス象徴詩の影響や
富永太郎その人の作品の影響が
随所に見られるのですから

富永太郎の物語を
ここで
すこしでもひもといておかなくては
中原中也の物語を
前に進むことができません

まず
中原中也の年譜の
1924年と1925年の項を見て
二人の詩人の物語のアウトラインを
つかんでおくことからはじめましょう

大正13年(1924) 17歳

4月、立命館中学第4学年に進級。
この月、北区大将軍西町椿寺南裏に転居。立命館中学講師 冨倉徳次
郎を知る。
同月、長谷川泰子と同棲を始める。「ノート1924」の使用を開始。
このころ、正岡忠三郎を知る。
7月、正岡の紹介で京都に来た詩人富永太郎を知る。「彼より仏国詩人
等の存在学ぶ」(「詩的履歴書」)。
10月、このころ、富永太郎の下宿近くに転居。以後頻繁に往来。この年、
ダダイズムの詩や、小説、戯曲の習作がある。
秋、「詩の宣言」を執筆。
11月、富永の村井康男宛書簡に「ダダイストとのDegoutに満ちたamitie
に淫して四十日を徒費した」との言及があり、このころから二人の関係は悪
くなっていく。
12月、富永太郎帰京。

大正14年(1925) 18歳

3月10日、長谷川泰子とともに上京。戸塚に下宿。早稲田高等学院、日
本大学予科を受験する予定だったが、受験日に遅刻するなどして受けられ
なかった。その後帰省して、東京で予備校に通う許可を得る。
4月、富永太郎の紹介で小林秀雄を知る。
5月、小林の家の近く、高円寺に転居。
10月、「秋の愁嘆」を書く。
11月、泰子、小林のもとへ去る。中也は中野に転居。しかし、その後も中
也・小林・泰子の「奇妙な三角関係」(小林秀雄)は続く。
この年の暮か翌年初めごろ、宮沢賢治の詩集「春と修羅」を購入、以後愛
読書となる。

1924年7月に
京都で二人が知り合って以来
富永太郎は
中原中也の行動を突き動かす
動機のような存在であった
ということが見えるでしょうか

中原中也という詩人は
自身の詩作に有益な知人ができると
その知人の住む近くに住居を移し
毎日毎夜
その知人の住まいを襲っては
「骨までしゃぶる」ように交友を深める
という流儀を実践したことで知られていますが
この頃、
その相手は富永太郎でした

中原中也の炯眼(けいがん)は
富永太郎に出会って
ランボーやベルレーヌや
ボードレールやラフォルグを知って
そして、彼の作った詩「秋の悲歎」に出会って
金か銀か
何か地下鉱脈を突いたような衝撃
地下鉱脈を突いた
という感触を得るのに敏感でした

ここで
富永太郎の詩を読んでみるのは
自然の成り行きというものでしょうから
長い詩ですが
「秋の悲歎」を引いておきます

秋の悲歎  富永太郎

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
 私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の顎に、私は千の静かな接吻を惜しみはしない。今はあの銅(あかゞね)色の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……
 夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうか?
 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

(「現代詩文庫 富永太郎詩集(思潮社)」より)

(つづく)

 *
 或る心の一季節
     ――散文詩

 最早、あらゆるものが目を覚ました、黎明(れいめい)は来た。私の中に住む幾多のフエアリー達は、朝露の傍では草の葉つぱのすがすがしい線を描いた。
 私は過去の夢を訝(いぶか)しげな眼で見返る………何故(ナニユエ)に夢であつたかはまだ知らない。其処(そこ)に安座した大饒舌で漸(ようや)く癒る程暑苦しい口腔を、又整頓を知らぬ口角を、樺色の勝負部屋を、私は懐しみを以て心より胸にと汲み出だす。だが次の瞬間に、私の心ははや、懐しみを棄てゝ慈しみに変つてゐる。これは如何(どう)したことだ?………けれども、私の心に今は残像に過ぎない、大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔、整頓を知らぬ口角、樺色の勝負部屋……それ等の上にも、幸ひあれ!幸ひあれ!
 併(しか)し此の願ひは、卑屈な生活の中では「あゝ昇天は私に涙である」といふ、計らない、素気なき呟(つぶやき)きとなつて出て来るのみだ。それは何故か?

 私の過去の環境が、私に強請した誤れる持物は、釈放さるべきアルコールの朝(アシタ)の海を昨日得てゐる。だが、それを得たる者の胸に訪れる筈の天使はまだ私の黄色の糜爛(びらん)の病床に来ては呉(く)れない。――(私は風車の上の空を見上げる)――私の唸(うめ)きは今や美(うる)はしく強き血漿であるに、その最も親はしき友にも了解されずにゐる。………
 私はそれが苦しい。――「私は過去の夢を訝しげな眼で見返る………何故(ナニユエ)に夢であつたかはまだ知らない。其所に安座した大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔を、又整頓を知らぬ口角を、樺色の勝負部屋を、私は懐しみを以て心より胸にと汲み出す」――さればこそ私は恥辱を忘れることによつての自由を求めた。
 友よ、それを徒らな天真爛漫と見過(みあやま)るな。
 だが、その自由の不快を、私は私の唯一つの仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰つて来、夜の一点を囲ふ生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見懸ける時に、泌々(しみじみ)知る。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然耳をかしながら私は私の過去の要求の買ひ集めた書物の重なりに目を呉れる、又私の燈に向つて瞼を見据える。
 間もなく、疲労が軽く意識され始めるや、私は今日一日の巫戯(ふざ)けた自分の行蹟の数々が、赤面と後悔を伴つて私の心に蘇るのを感ずる。――まあ其処(そこ)にある俺は、哄笑(こうしょう)と落胆との取留なき混交の放射体ではなかつたか!――だが併し、私のした私らしくない事も如何にか私の意図したことになつてるのは不思議だ………「私の過去の環境が、私に強請した誤れる私の持物は、釈放さるべきアルコールの朝の海を昨日得てゐる。だが、それを得たる者の胸に訪れる筈の天使はまだ私の黄色の糜爛の病床に来ては呉れない。――(私は風車の上の空を見上げる)――私の唸きは今や美はしく強き血漿であるに、その最も親はしき友にも了解されずにゐる」………さうだ、焦点の明確でないこと以外に、私は私に欠点を見出すことはもう出来ない。

 私は友を訪れることを避けた。そして砂埃の立ち上がり巻き返る広場の縁(フチ)をすぐつて歩いた。
 今日もそれをした。そして今もう夜中が来てゐる。終列車を当てに停車場の待合室にチヨコンと坐つてゐる自分自身である。此所から二里近く離れた私の住居である一室は、夜空の下に細い赤い口をして待つてゐるやうに思へる――

 私は夜、眠いリノリュームの、停車場の待合室では、沸き返る一抱きの蒸気釜を要求した。

 ※原作には、各所に傍点「、」が付されていますが、ここでは省略しています。(編者)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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