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2010年9月

2010年9月30日 (木)

ノート翻訳詩1933年<3> (卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)

(卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)は
(僕の夢は破れて、其処に血を流した)と
(土を見るがいい)の2篇とともに
連続して作られたことが分かっている作品で
昭和8年(1933年)5―8月制作と推定されています

2字下げとか
同一漢字の繰り返しとか
詩の視覚的な形へのこだわりなど
ダダを思わせる手法が現れて
若き日の詩人を
思い出させる作品です

むろん
ダダそのものへ回帰したとはいえませんが
時折このように
ダダは顔をもたげ
詩に豊な表情を与えます

「逐(お)ひやらる、小さな雲」に
詩人が投影されている
と読んで
間違いはないでしょう

ああでもない
こうでもない、と
希望に満ちたばかりでもない
夢想に耽る深夜
くたびれて窓を開けると
東京の空にも
星がまたたき
星の向こうには
漆黒の蒼穹が張りつき
風が雲を追いやっています

しばらくして
窓を閉めても
詩人の脳裏には
星がまたたく漆黒の空が
残ります

その星の空? 否、否、否、
否 否 否 否 否 否 否 否 否否否否否否否否

は、その星の空が
冷たく光るだけの
無機質な「否定」としか映らない
詩人のこの日の気持ちを
明らかにし
詩人を
受け入れるものではありません

星の空は
言葉を持ちません
言葉を話しません

 *
 (卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)

卓子(テーブル)に、俯(うつむ)いてする夢想にも倦(あ)きると、
僕は窓を開けて僕はみるのだ

  星とその、背後の空と、
  石盤の、冷たさに似て、
  吹く風と、逐(お)ひやらる、小さな雲と

窓を閉めれば星の空、その星の空
その星の空? 否、否、否、
否 否 否 否 否 否 否 否 否否否否否否否否

《星は、何を、話したがつてゐたのだらう?》
《星はなんにも語らうとしてはゐない。》

《では、あれは、何を語らうとしてゐたのだらう?》
《なんにも、語らうと、してはゐない。》

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
※原作の二重パーレンは《 》で代用しています。(編者)

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2010年9月29日 (水)

ノート翻訳詩1933年<2>(土を見るがいい)

(土を見るがいい)は
(僕の夢は破れて、其処に血を流した)と
(卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)ともに
同じインク、同じ筆跡であることから
連続して書かれたと推定され
昭和8年(1933年)5月―8月制作と
推定される作品です

このころ
詩人が住んでいたのは
荏原郡馬込町北千束621淵江方で
淵江は
前年1932年(昭和7年)末に知り合った
年下の詩人・高森文夫の伯母の姓です

このころの詩人の活動を
年譜でたどっておきます

昭和7年(1932年) 25歳

4月、「山羊の歌」の編集を始める。
5月頃から自宅でフランス語の個人教授を始める。
6月、「山羊の歌」予約募集の通知を出し、10名程の申し込みがあった。
7月に第2回の予約募集を行うが結果は変わらなかった。
8月、宮崎の高森文夫宅へ行き、高森とともに青島、天草、長崎へ旅行する。この後、馬込町北千の高森文夫の伯母の淵江方に転居。高森とその弟の淳夫が同居。
9月、祖母スエ(フクの実母)が死去、74歳。母からもらった300円で「山羊の歌」の印刷にかかるが、本文を印刷しただけで資金が続かず、印刷し終えた本文と紙型を安原喜弘に預ける。
12月、「ゴッホ」(玉川大学出版部)を刊行。著者名義は安原喜弘。
このころ、高森の伯母を通じて酒場ウィンゾアーの女給洋子(坂本睦子)に結婚を申し込むが断られる。
このころ、神経衰弱が極限に達する。高森の伯母が心配して年末フクに手紙を出す。

「白痴群」の僚友・安原喜弘が
「魂の最大の惑乱時代がやがて始まる」
と記すのは
昭和7年8月23日付け中也発安原宛の書簡への
コメントの中においてであります

昭和8年(1933年) 26歳

3月、東京外国語学校専修科仏語修了。
4月、「山羊の歌」を芝書店に持ち込むが断られる。
5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人雑誌「紀元」に加わる。
6月、「春の日の夕暮」を「半仙戯」に発表。同誌に翻訳などの発表続く。
7月、「帰郷」他2篇を「四季」に発表。
同月、読売新聞の懸賞小説「東京祭」に応募したが落選。
9月頃、江川書房から「山羊の歌」を刊行する予定だったが実現しなかった。
同月、「紀元」創刊号に「凄まじき黄昏」「秋」。以降定期的に詩、翻訳を同誌に発表。
12月、遠縁の上野孝子と結婚(結婚式は湯田温泉の西村屋旅館)。四谷の花園アパートに新居を構える。同アパートには青山二郎が住んでいた。青山の部屋には小林秀雄・河上徹太郎ら文学仲間が集まり、「青山学院」と称された。
同月、三笠書房より『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を刊行。

「魂の最大の惑乱時代」は
旺盛な詩人としての活動と
ウラハラのようでした。
年末には
突然のように
結婚します。

(土を見るがいい)に登場する葱は
葱畑に生育する葱で
昭和8年当時
東京にも農家があり
農家でなくとも
民家の路地には
葱を栽培する風景が見られたはずです

その葱の揺れ方は赤ン坊の脛(はぎ)に似てゐる。

は、「葱坊主(ねぎぼうず)」からの連想ではなく
詩人の独創らしいのですが
葱の揺れ方が
赤ン坊の脛=赤ん坊のふくらはぎに似ているとは
絶妙です
ステロタイプな表現への
繊細な否定が
ここにあります

1連6行の2連の作品は
小品のうちに入るでしょうが
ピリリとひきしまった
緊張感がただよって
名品です

 *
 (土を見るがいい)

土を見るがいい、
土は水を含むで黒く
のつかつてる石ころだけは夜目にも白く、
風は吹き、頸に寒く
風は吹き、雨雲を呼び、
にぢられた草にはつらく、

風は吹き、樹の葉をそよぎ
風は吹き、黒々と吹き
葱(ねぎ)はすつぽりと立つてゐる
その葱を吹き、
その葱の揺れ方は赤ン坊の脛(はぎ)に似てゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月28日 (火)

ノート翻訳詩1933年<1>(僕の夢は破れて、其処に血を流した)

(僕の夢は破れて、其処に血を流した)は
昭和8年(1933年)5―8月制作(推定)とされ
(土を見るがいい)
(卓子に、俯いてする夢にも倦きると)とともに
連続して作られたらしいことが分かっている作品です

3篇ともに
「雲」が登場し
苦悩のシンボルのように
月を隠したり
雨雲になったり
星を追いやる小さな雲として現れたりします

「白痴群」の廃刊・解散は
詩人を苦境に立たせ
3年の歳月が流れています

前年1932年春に編集し終わった
第一詩集「山羊の歌」の出版交渉は
何度も何度も
頓挫しそうになります

僕の夢は破れて、其処に血を流した

この1行は
かなりリアルに近い状況でした

ひどい苦境にあるとき
ふっと
自分の姿を一歩引いて眺めてみる
というようなことが
起こるものといってよいでしょうか

笑えてしまいそうなくらい
泣き出しそうな自分に

《泣かないな、
俺は泣いてゐないな》

と呟いてみる瞬間を
人は人知れず
味わうことがある
といってよいでしょうか

そんなときに
おまけのように
何かの拍子に(?)
机の角にぶっつけでもして(?)
鼻血まで出してしまう
泣きっ面に蜂……

人からは
そのようにしか見えない
苦悩……

 *
 (僕の夢は破れて、其処に血を流した)

僕の夢は破れて、其処(そこ)に血を流した。
あとにはキラキラ、星が光つてゐた。

雲は流れ
月は隠され、
声はほのぼのと芒(すすき)の穂にまつはりついた。

《泣かないな、
俺は泣いてゐないな》

僕はさういつてみるのであつた。

涙も出なかつた。鼻血も出た。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月27日 (月)

ノート翻訳詩(1933年)について

「ノート翻訳詩」は
中原中也が使っていた
「ノート小年時」と同種のノートで
表表紙に詩人の筆跡で
「翻訳詩」と書かれてあるため
このノートの名を角川版編者そう呼び
広く通用しているものです

このノートには
ランボーやネルヴァルらの翻訳詩14篇のほかに
未発表詩篇8篇と
「孟夏谿行」と題された短歌4首
および断片が記されましたが
翻訳詩14篇は「翻訳」に分類され
断片は「評論・小説」に分類されるため
「未発表詩篇」には収録されません

「未発表詩篇」に
「ノート翻訳詩」として収録されるのは
これらの未発表詩篇と短歌4首だけで
いずれも昭和8年の制作と推定されますから
「ノート翻訳詩(1933年)」と表記されます

ややこしい話ですが
「ノート翻訳詩(1933年)」には
翻訳詩は収録されないのです

「ノート翻訳詩(1933年)」に
収録されている作品の内訳をみると

(僕の夢は破れて、其処に血を流した)
(土を見るがいい)
(卓子に、俯いてする夢想にも倦きると)
小景
蛙声(郊外では)
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴かうと)
Qu'est-ce que c'est?
孟夏谿行(短歌4首)

というラインナップになります

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2010年9月26日 (日)

ノート小年時(1928―1930) <16>湖上

「湖上」は
昭和5年(1930年)6月15日の制作で
「夏と私」と同様に
古谷綱武が編集する同人誌「桐の花」に
「夏と私」が第15号(昭和5年10月発行)に
「湖上」は第13号(同年8月号発行)に
それぞれ発表されました

「湖上」はさらに後に
「在りし日の歌」に収録されますから
「ノート小年時」に書かれた草稿は第一次形態
「桐の花」発表作品は第二次形態
「在りし日の歌」作品は第三次形態ということになります

「夏と私」で
「真ッ白い嘆かひ」の中にあった詩人は
1日おいて
恋人との至福の時間を歌います

といっても
「ノート小年時」は
詩篇の清書用に使われていたノートですから
こういうことは
起こって当然のことです
清書した日が
1日ずれただけのことですから
作品内容が常に時系列で
整理されているとは限りませんし
また作品内容が状況に
必ずしも規定されるわけでもありません

苦難の最中に
過去の幸福な思い出を
作品にする場合があっても
おかしくないということもあります

「湖上」は
昭和5年6月15日の日付をもつ
「ノート小年時」中の
最も新しい時期に書かれた作品です
「夏と私」とともに
昭和5年内の詩は
この2篇しかありません

前年と
決定的に状況が違うのは
「白痴群」が
この年の6月に廃刊された事実です

同人組織が解体し
ほとんどの同人が
詩人から離れてゆきます
詩人は
再び孤独の戦場に
立たされているのです

「桐の花」は
「白痴群」同人の古谷綱武が
責任編集者でしたから
そのよしみでの掲載ということでしたが
恋人とのボート上のひとときを歌った「湖上」や
真ッ白い嘆かひを歌った「夏と私」を発表するには
このような背景があったことを
知っておいて無駄ではありません

「湖上」が書かれた
昭和5年(1930年)の年譜を
「ノート小年時」の最後に
読んでおきましょう

昭和5年(1930) 23歳

1月、「白痴群」第5号発行。
4月、「白痴群」第6号をもって廃刊。
5月、「スルヤ」第5回発表会で「帰郷」「失せし希望」(内海誓一郎作曲)「老いたる者をして」(諸井三郎作曲)が歌われる。
8月、内海誓一郎の近く、代々木に転居。
9月、中央大学予科に編入学。フランス行きの手段として外務書記生を志し、東京外国語学校入学の資格を得ようとした。
秋、吉田秀和を知り、フランス語を教える。
12月、長谷川泰子、築地小劇場の演出家山川幸世の子茂樹を生み、中也が名付け親となる。

 *
 湖上

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

沖に出たらば暗いでせう。
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞えませう、
あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう。
われら脣(くち)づけする時に、
月は頭上にあるでせう。

あなたはなほも、語るでせう、
よしないことやすねごとや、
洩らさず私は聴くでせう。
けれど漕ぐ手はやめないで。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
        (一九三〇・六・一五)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月25日 (土)

ノート小年時(1928―1930) <15>夏と私

血を吐くやうな、倦うさ、たゆけさ
と歌ってから
ほぼ1年が過ぎて
また夏が訪れましたが
「夏と私」は
初夏の歌です

真ッ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鷗(かもめ)を見たり。

という
しょっぱなから

血を吐くような倦怠(=けだい)とは
異なる夏
真ッ白い嘆かひ(=嘆き)の中にある詩人は
海の空を飛ぶ
かもめに自分を見ます

1年経ったからといって
悲しみが遠のいたというのではなく
鏡の中の自分を見るように
少しだけ距離をおいて
眺めやることができるようになっただけで
海にかもめが飛ぶのを見るうちに
深い溜息が出てくるのを止められません

かもめは高所から急降下し
また舞い上がり
旋回し
風の中を飛んでいて
それはさながら
詩人の脳裏を
思い出の破片が旋回するのと
シンクロするのです

夏のことで
振り向けば
後ろの高い山にも
純白の嘆き
ずっと変らない高山を見て
溜息が洩れてきます

詩人は
太陽を浴びて燃える山の道を登ってゆき
頂上の風に吹かれます

(海から山へ移動する感覚!)

山の上で風に吹かれていると
自ずと
来し方(こしかた)が思われ
涙茫々……

未だ何もできていない
悔いばかり果てのないその心は
母に伝えたこともなく
友の誰一人にも明かしたことはありません

「しかすがに」は
「とはいうものの」の意味

とはいえ
望むだけで
手をこまねいて
その大きな望みに圧倒されている私です

望みは大きくて
手をこまねいているばかりの自分を見る
今年もまた夏がめぐってきて
そうした自分を見るのです
何もしてこなかった自分……

「夏と私」は
昭和5年(1930年)6月14日制作の作品で
同人誌「桐の花」第15号(昭和5年10月発行)に
発表されました

「ノート小年時」の中の
昭和5年制作の詩は
「湖上」とこの詩の2篇だけになります

 *
 夏と私

真ッ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鷗(かもめ)を見たり。

高きより、風のただ中に、
思ひ出の破片の翻転するを見たり。

夏としなれば、高山に、
真ッ白い嘆きを見たり。

燃ゆる山路を、登りゆきて
頂上の風に吹かれたり。

風に吹かれつ、わが来し方に、
茫然としぬ、涙しぬ。

はてしなき、そが心
母にも、……もとより友にも明さざりき。

しかすがにのぞみのみにて、
拱(こまね)きて、そがのぞみに圧倒さるる、

わが身を見たり、夏としなれば、
そのやうなわが身をみたり。
       (一九三〇・六・一四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月24日 (金)

ノート小年時(1928―1930) <14>夏

「夏」は
やがて「山羊の歌」に発表される詩の
第一次形態で
1929年8月20日に作られました

血を吐くやうな
倦(もの)うさ
たゆたさ

この措辞に
ガーンと
やられてしまいます

措辞とは
文字通り
辞=言葉を
措く=置くこと
Layout of wordsのことです

「ものうさ」や「たゆたさ」が
なぜ
「血を吐く」「やうな」
なのだろう、と
言葉の配列(レイアウト)に
釘付けにされます

畑に陽は照り、麦に陽は照り
なのだから
眼前に麦畑が広がっている
青い海……

ほかに何もない
風も吹いていない
眠っているかのように
何もないということの悲しさったらない
空を遠くに追いやる

血を吐くような
けだるさ、たゆたさだ

空は燃え
畑はずっと向こうの地平線にまで続き
雲が浮んで
白くまぶしく光り
太陽は燃え
大地は眠っている

血を吐くような
せつなさに

嵐のように荒れた
わたくしの心の歴史は
終わってしまったのか
この景色の何一つにも糸口はなく
燃える日の
向こうで眠っている……

わたくしは残る
脱け殻(ぬけがら)として
ここにいる

血を吐くような
せつなさ
かなしさ
……










……

現れる自然は
これほどなのに
血を吐くような
ものうさ
たゆたさ
せつなさ
かなしさ
……

どこでどうして
そうなるのだか
わからないけど

死にたいほどの
血を吐くような
この倦怠感
この虚脱感
この喪失感
わかる気がするなあ
と感じないわけがない
青春のてっぺん……

 *
 夏

血を吐くやうな 倦(もの)うさ、たゆたさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
眠るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆたさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩(まぶ)しく光り
今日の日も陽は燃ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。

嵐のやうな心の歴史は
終つてしまつたもののやうに
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののやうに
燃ゆる日の彼方(かなた)に眠る。

私は残る、亡骸(なきがら)として、
血を吐くやうなせつなさかなしさ。
     (一九二九・八・二〇)  

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月23日 (木)

ノート小年時(1928―1930) <13>追懷

さうしてあなたは私を別れた、
あの日に、おお、あの日に!

曇つて風ある日だつたその日は。その日以来、
もはやあなたは私のものではないのでした。

「追懐」は
第5連、第6連で
長谷川泰子が
小林秀雄のもとへと去った日を
まず、あの日、
次に、その日、と歌い
もはや過去のことながら

あなたが今頃笑つてゐるかどうか、

などと思い出してしまう
私=詩人の現在を歌います

もちろん詩に
個人名は現れません
あなたが泰子で
人が小林で
私(わたし)が中原中也であることは
だれもが想像できることですが
内容がリアル過ぎたためか
作品は当時
発表されませんでした

現在このようにして
この詩が読めるということが
著作権とか
時効であるとか
公人であることからとか
法律方面から説明されるようですが
実際は
角川版新旧全集に「未発表詩篇」が
編集されたからにほかなりません

個人情報とか
プライバシーとか
というよりも
文学作品としての価値が認められ
いはば公共財として
だれにも読める状態になりました

中原中也=長谷川泰子=小林秀雄の三角関係は
稀有(けう)のようでありながら
ありふれたことでもあり
その意味で
三角関係の一つの原型を提示していますから
多くの人がこぞって
その物語を紐解こうともするのです

昭和4年(1929年)7月14日の制作
ということは
あの日、大正14年(1925年)11月から
3年8か月が経過しています

この頃
詩人と小林は絶交状態にあり
泰子と詩人は京都に旅行する関係にありました
小林が泰子と別れたのは
昭和3年(1928年)5月のことです

この頃詩人は
同人誌とはいえ自らの裁量がきく「白痴群」に
泰子を歌った恋愛詩
「詩友に」(創刊号、後の「無題」第3節)
「盲目の秋」(第6号)
「時こそ今は……」(同)
などを
次々に発表するのです

 *
 追懷

あなたは私を愛し、
私はあなたを愛した。

あなたはしつかりしてをり、
わたしは真面目であつた。――

人にはそれが、嫉(ねた)ましかつたのです、多分、
そしてそれを、偸(ぬす)まうとかゝつたのだ。

嫉み羨(うらや)みから出発したくどきに、あなたは乗つたのでした、
――何故でせう?――何かの拍子……

さうしてあなたは私を別れた、
あの日に、おお、あの日に!

曇つて風ある日だつたその日は。その日以来、
もはやあなたは私のものではないのでした。

私は此処(ここ)にゐます、黄色い灯影に、
あなたが今頃笑つてゐるかどうか、――いや、ともすればそんなこと、想つてゐたりするのです
       (一九二九・七・一四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月22日 (水)

ノート小年時(1928―1930) <12>消えし希望

「消えし希望」は
はじめ「ノート小年時」に清書され
それが推敲されて
「白痴群」第6号(昭和5年4月発行)に発表され
それがまた後に改題されて
「失せし希望」となり
「山羊の歌」に収録される作品です

「ノート小年時」に清書された草稿が
第一次形態であり
「白痴群」に発表されたものが第二次形態であり
「失せし希望」が第三次形態です
第一次形態は
昭和4年(1929年)7月14日の制作

この詩は
昭和5年5月7日に行われた
「スルヤ」の第5回発表演奏会で
内海誓一郎作曲の歌曲として
「失せし希望」のタイトルで初演されました

昭和4年後半のある日
詩人は内海にこの詩の原稿を渡して
作曲を依頼しましたが
それに応えて作られた曲です

詩人は
この曲を気に入り
一部ながら
メロディーを覚え
酔ったときに
鼻歌で歌ったことが伝わっています

「スルヤ」とは
河上徹太郎を通じて知った
諸井三郎らとの交流が
昭和2年11月にはじまりましたが
「白痴群」(創刊は昭和4年4月)にも
「スルヤ」のメンバーである
河上や内海誓一郎がいましたから
内海の作曲は
自然の成り行きといってもおかしくはない流れでした

これより前の
昭和3年5月には
「スルヤ」の第2回発表会で
「臨終」と「朝の歌」が
諸井三郎の作曲で
長井維理(ながい・ういり)によって歌われていました

大岡昇平によれば
「中原中期の傑作は大体昭和4年の6月から暮までに作られている」のですが
まさしくこの期間に
「消えし希望」は作られました

暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日を燃えし希望は。

で、はじまる「青春の喪失感」は
ほかの誰でもない
中原中也であるからこそ歌になり
地中海的というか
瀬戸内海的というか
湿り気のない
からっとした悲しみのフレーズとして流布し
2010年現在も
受け止められている所以(ゆえん)です

 *
 消えし希望
 
暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日を燃えし希望は。

夏の夜の星の如くは今もなほ
遠きみ空に見え隠る、今もなほ。

暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日を燃えし希望は。

今はた此処(ここ)に打伏して
獣の如くも、暗き思ひす。

そが暗き思ひ何時(いつ)の日
晴れんとの知るよしなくて、

溺れたる夜の海より
空の月、望むが如し。

其の浪はあまりに深く
その月は、あまりにきよく。

あはれわが、若き日を燃えし希望の
今はや暗き空へと消えゆきぬ。
       (一九二九・七・一四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月21日 (火)

ノート小年時(1928―1930) <11>頌歌

「頌歌」は
「夏の海」の3日後の
昭和4年(1929年)7月13日に作られました
詩末尾に日付が記されています

この月末に
北豊島郡長崎町1037黒沢方から
豊多摩郡高井戸町中高井戸37の
高田博厚のアトリエ近くに転居する詩人ですから
小さな旅立ちを
自ら祝う気持ちが生まれたのでしょうか

それとも
「白痴群」がなんとか軌道にのり
第2号を発行し、
第3号への準備で
なにかを称賛したく思うことができたのでしょうか

それとも
その逆の気持ちがあって
それを鎮めるために
自らを鼓舞する詩を歌ったのでしょうか

それとも
これはやはり
詩人のアイデンティティーを
自らに問うた結果の歌なのでしょうか

それとも
ほかに理由があったのでしょうか

「自由」を
詩人が使ったのは
この詩「頌歌」が
ダダ詩以外では
きっと初めてのことです

夏の夜ですから
霧と野と星の世界へ
旅立とう!
一人して
身も世も軽くなって
旅立とう!

一人であるということの
ああ、なんという自由!
信仰心なき世の中のいさかいも
おしゃべりや御託ばっかりの思想も放ってしまって
真底身に沁みる空の中へ行こう
(この「空」には、神が込められているはずです)

悲しみと喜びとを
つつましくそして豊かに
歌いましょう古き調べにのせて

霧と野と星とともに
歌いましょう、夏の夜は
ひとりで
古くからあたためてきた思いを
存分に歌いましょう
……

頌歌は
歌うことの自由の歌であり
歌うことの決意表明の歌でもありそうです

 *
 頌 歌

出で発(た)たん!夏の夜は
霧と野と星とに向つて。
出で発たん、夏の夜は
一人して、身も世も軽く!

この自由、おゝ!この自由!
心なき世のいさかひと
多忙なる思想を放ち、
身に沁みるみ空の中に

悲しみと喜びをもて、
つつましく、かつはゆたけく、
歌はなん古きしらべを

霧と野と星とに伴(つ)れて、
歌はなん、夏の夜は
一人して、古きおもひを!
    (一九二九・七・一三)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月20日 (月)

ノート小年時(1928―1930) <10>夏の海

「夏の海」は
「木蔭」と同じ日付をもつ作品で
昭和4年(1929年)7月10日に作られました

年譜から
7月10日前後の
詩人の状況を見ておきますと

5月、泰子と京都へ行く。
7月、古谷綱武の紹介で彫刻家高田博厚を知る。高田のアトリエの近く、中高井戸に移転後頻繁にアトリエに通う。
高田の紹介で「生活者」9月号に、「月」他6篇、続いて10月号に「無題」(後、「サーカス)」と解題)他5篇を掲載。これらのほとんどは「山羊の歌」に収録。

となっています
4月に満22歳になった詩人です

中高井戸とは
豊多摩郡高井戸町中高井戸37(現杉並区松庵3丁目)で
例によって
新しくできた知人である
彫刻家・高田博厚の住まいの近くへ
引越したのです

高田は
倉田百三が編集人だった「生活者」の
同人であるよしみで
中原中也に発表を薦め
後に「山羊の歌」へ収録されるいくつかの詩が
同誌に掲載されました

うちわけを見ると
9月号に
「月」
「都会の夏の夜」
「黄昏」
「逝く夏の歌」
「悲しき朝」
「夏の夜」
「春」
の7篇

10月号に
「無題」(後に「サーカス」と解題)
「春の夜」
「朝の歌」
「港市の秋」
「春の思ひ出」
「秋の夜空」
の6篇と
名作・傑作が犇(ひしめ)いています

「夏の海」は
浪が輝いて美しく
空は静か
人のいない海
夏の昼
……と

夏の昼の海の情景を歌うだけのようですが
第1連第2行に
空は静かに「慈しむ」とあり
ここにこの詩が
単なる叙景詩とは
異なる詩であることが指示されます

第2連、第3連へ進むにつれ
この風景そのものが
先年亡くなった父の眼と思えてきて
しばらく忘れていた眼が
今はっきりと見えてなつかしく
昔のことが思い出されてくる
という展開になります

走馬灯のように
父と過ごした時間が
詩人の脳裏を
駆け巡ったのでしょうか
父のことばかりでなく
ほかのさまざまな故郷での思い出が
浮んでは消えていったのでしょうか

思い出にひたろうとする間もなく
打ち寄せる波が
詩人の脳裏に結ばれようとするイメージを粉砕し
波間に運んでいってしまったのでしょうか

人気のない
夏の
昼の海です

 *
 夏の海
 
輝(かがや)く浪の美しさ
空は静かに慈しむ、
耀く浪の美しさ。
人なき海の夏の昼。

心の喘(あえ)ぎしづめとや
浪はやさしく打寄する、
古き悲しみ洗へとや
浪は金色、打寄する。

そは和やかに穏やかに
昔に聴きし声なるか、
あまりに近く響くなる
この物云はぬ風景は、

見守りつつは死にゆきし
父の眼(まなこ)とおもはるる
忘れゐたりしその眼
今しは見出で、なつかしき。

耀く浪の美しさ
空は静かに慈しむ、
耀く浪の美しさ。
人なき海の夏の昼。
    (一九二九・七・一〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月18日 (土)

ノート小年時(1928―1930) <9>木蔭

「木蔭」は
詩の末尾に
(一九二九・七・一〇)の日付をもつ作品
昭和4年7月10日に作られました
後に「山羊の歌」に収録される詩の
第一次形態です

「夏(血を吐くやうな)」とともに
「詩二篇」として
「白痴群」第3号(昭和4年9月)の
巻頭ページに発表されました

第一次形態の詩とは
初めに作られた作品のことで
推敲されて独立し
第二次形態となり
場合によっては
どこかのメディアに発表されますが
それがまた推敲され
ほかのメディアに発表されたり
友人に献呈されたりして
独立した第三次形態となり……
この「木蔭」のような
経緯をたどる作品になります

これらの作品は
字句の修正や
句読点の追加削除などの結果
それぞれが
わずかながらでも違いがあるため
独立した詩として扱われ
「未発表詩篇」にも
分類・収容されるのです

「ノート小年時」のここにきて
「未発表詩篇」でありながら
やがては
「白痴群」や
「山羊の歌」や
ほかの同人誌などに
発表されて
広く読まれる作品が
やや多く現れるようになりました

「木蔭」のほかには
「消えし希望」(「山羊の歌」では「失せし希望」に改題)
「夏(血を吐くやうな)」(「山羊の歌」)
「夏と私」(同人誌「桐の花」)
「湖上」(同)が
やがて発表され
詩としてのポピュラリティーを得ます

「木蔭」の推敲の跡をたどってみると
第一次形態の
第1連第3行と
第4連第3行の「木蔭」が
第二次形態では「木陰」に変更され
第二次形態の句読点をすべて削除したものが
第三次形態になりました

「木蔭」は
有名な「帰郷」の
「ああ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ」を想起させますが
こちらには
東京での詩人としての暮らしに起因する
深い疲労から解放されず
忍従の日々を送る詩人がいますが……

帰郷が詩人に与えた慰藉(いしゃ)に
重心があります
故郷の神社の
楡の木蔭が
くたびれた詩人をなぐさめるのです

 *
 木蔭

神社の鳥居が光をうけて
楡(にれ)の葉が小さく揺すれる。
夏の昼の青々した木陰は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる。

暗い後悔、いつでも附纏ふ後悔、
馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は
やがて涙つぽい晦暝(かいめい)となり
やがて根強い疲労となつた。

かくて今では朝から夜まで
忍従することの他に生活を持たない。
怨みもなく喪心したやうに
空を見上げる、私の眼(まなこ)――

神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる。
夏の昼の青々した木陰は
私の後悔を宥めてくれる。
      (一九二九・七・一〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*破笑 思わず笑うこと。
*晦暝 暗闇。

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2010年9月17日 (金)

ノート小年時(1928―1930) <8>夏は青い空に……

「夏は青い空に……」は
「身過ぎ」
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」とともに
昭和4年(1929年)6月の27日以前に
制作(推定)された作品です

この3篇は
筆記具、文字の大きさ、筆跡、インクが同じで
「夏は青い空に……」と
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」の2篇は
昭和4年6月27日付の河上徹太郎宛書簡に
同封されてもいましたが
こちらは「ノート小年時」からの
清書稿であると推定されています

中原中也が河上に宛てたこの書簡は
「河上に呈する詩論」と題がつけられていましたが
この二人は
同人誌「白痴群」を牽引(けんいん)する両輪でしたから
互いに詩論や文学論を交換する場面が
多々あったに違いなく
この書簡もそのシーンの一つといえるでしょう

この機会に
「河上に呈する詩論」全文を
読んでおきましょう

34 6月27日 河上徹太郎宛
  河上に呈する詩論

 幼時来、深く感じてゐたもの、――それを現はさうとしてあまりに散文的になるのを悲しむでゐたものが、今日、歌となつて実現する。
 元来、言葉は説明するためのものなのを、それをそのまゝうたふに用うるといふことは、非常に難事であつて、その間の理論づけは可能でない。
 大抵の詩人は、物語にゆくか感覚に堕する。

 短歌が、ただ擦過するだけの謂はば哀感しか持たないのはそれを作す人に、ハアモニーがないからだ。彼は空間的、人事的である。短歌詩人は、せいぜい汎神論にまでしか行き得ない。人間のあの、最後の円転性、個にして全てなる無意識に持続する欣怡(きんい)の情が彼にはあり得ぬ。彼を、私は今、「自然詩人」と呼ぶ。

 真の「人間詩人」ベルレーヌの如きと、自然詩人の間には無限の段階がある。それを私は仮りに多くの詩人と呼ばう。
 「多くの詩人」が他の二種の詩人と異るのは、彼等にはディストリビッションが詩の中枢をなすといふことである。
 彼等は、認識能力或は意識によつて、己が受働する感興を翻訳する。この時「自然詩人」は感興の対象なる事象物象をセンチメンタルに、書き付ける。又此の時「人間詩人」は、――否、彼は常に概念を俟たざる自覚の裡に呼吸せる「彼自身」なのである。
    ――――――――――――――
 5年来、僕は恐怖のために一種の半意識家にされたる無意識家であつた。――暫く天を忘れてゐた、といふ気がする。然し今日古ぼけた軒廂(ひさし)が退く。
 どうかよく、僕の詩を観賞してみてくれたまへ。そこには穏やかな味と、やさしいリリシスムがあるだらう。そこに利害に汚されなかつた、自由を知つてる魂があるだらう。そして僕は云ふことが出来る。
 芸術とは、自然の模倣ではない、神の模倣である!(なんとなら、神は理論を持つてはしなかつたからである。而も猶動物ではなかつたからである。)
   1929年6月27日                      Glorieux 中也
(角川新全集第5巻「日記・書簡」より)
※漢数字を洋数字に改めたほか、一部に傍点があるのを省略しました。(編者)

このように詩論は書かれ
同じ封筒の中に
添えられた実作の一つが
「夏は青い空に……」でした


青い空
白い雲
という、
たった三つの自然を歌うことによって
わが嘆き=詩人の嘆きが
歌われているではありませんか!

青い空が白い雲を呼ぶだけで
わが嘆き=わが悲しみが
どのようにして
歌われてしまうのでしょうか!

これは
マジックです!
ここには
マジックが在ります!

ああ、神様、これがすべてでございます、
 尽すなく尽さるるなく、
心のまゝにうたへる心こそ
 これがすべてでございます!

心のまゝにうたへる心こそ
と詩人のいう1行に
このマジックの秘密は在るでしょうか

どのようにすれば

青い空
白い雲
という三つの自然が
悲しみを歌うのでしょうか

「河上に呈する詩論」は
その秘密を
きっと明かしていることでしょう……

 *
 夏は青い空に……

夏は青い空に、白い雲を浮ばせ、
 わが嘆きをうたふ。
わが知らぬ、とほきとほきとほき深みにて
 青空は、白い雲を呼ぶ。

わが嘆きわが悲しみよ、かうべを昂(あ)げよ。
 ―― 記憶も、去るにあらずや……
湧き起る歓喜のためには
 人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや

ああ、神様、これがすべてでございます、
 尽すなく尽さるるなく、
心のまゝにうたへる心こそ
 これがすべてでございます!

空のもと林の中に、たゆけくも
 仰(あほ)ざまに眼(まなこ)をつむり、
白き雲、汝(な)が胸の上(へ)を流れもゆけば、
 はてもなき平和の、汝がものとなるにあらずや

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月16日 (木)

ノート小年時(1928―1930) <7>倦怠(倦怠の谷間に落つる)

「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」は
この前に書かれたであろう「身過ぎ」と
次に書かれたであろう「夏は青い空に……」とともに
筆記具、
文字の大きさ、
筆跡、
インクが
同一であることから
同時期の制作と推定されている作品で
ともに昭和4年(1929年)6月に作られました

このうち
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」と
「夏は青い空に……」の2篇は
詩人が河上徹太郎に宛てた
昭和4年6月27日付書簡の末尾に付されていたものなので
制作日は3篇ともに
昭和4年(1929年)6月27日以前と
絞られて推定されています

「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」は
後に「四季」の昭和10年7月号に
発表された詩の第一次形態でもありますから
「生前発表詩篇」中にも
ほぼ同じ作品が収録されています

同時期に制作した3篇のうち
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」は
河上徹太郎に読ませた2篇の一つであり
(他人に読ませるということは、発表したことと同然の意味をもちます)
「四季」に発表した1篇なのですから
ほかの2篇にくらべて
自信作であったことが想像されます

それを証(あか)すかのように
後年、萩原朔太郎は
昭和10年「四季」夏号の「詩壇時感」で

中原中也君の詩は、前に寄贈された詩集で拝見して居た。その詩集の中では、巻尾の方に収められた感想詩体のものが、僕にとつて最も興味深く感じられた。(中略)しかし今度の「倦怠」はこれとちがひ、相当技巧的にも凝った作品だが、前の詩集(山羊の歌)とは大に変つて、非常に緊張した表現であり、この詩人の所有する本質性がよく現れて居る。特に第三聯の「人はただ寝転ぶより仕方がないのだ。同時に、果されずに過ぎる義務の数々を、悔いながら数へなければならないのだ。」の三行がよく抒情的な美しい効果をあげてる。
(角川新全集・第1巻詩Ⅰ解題篇より)

などと述べています

昭和4年以前のダダの時代から
詩人はすでに
倦怠=けだいを歌っているのですが
朔太郎もまさしくそこに引かれたようです
「寝転ぶより仕方なく、と同時に悔いながら」という倦怠に
叙情を感じ
技巧を見たのです

 *
 倦怠(倦怠の谷間に落つる)

倦怠の谷間に落つる
この真つ白い光は、
私の心を悲しませ、
私の心を苦しくする。

真つ白い光は、沢山の
倦怠の呟(つぶや)きを掻消(かきけ)してしまひ、
倦怠は、やがて憎怨となる
かの無言なる惨(いた)ましき憎怨……

忽(たちま)ちにそれは心を石となし
人はただ寝転ぶより仕方がないのだ
と同時に、果されずに過ぎる義務の数々を
悔いながら、数へなければならないのだ。

やがて世の中が偶然ばかりで出来てるやうにみえてきて、
人はただ絶えず慄(ふる)へる、木の葉のやうに、
午睡から覚めたばかりのやうに、
呆然(ぼうぜん)たる意識の中に、眼(まなこ)光らし死んでゆくのだ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月15日 (水)

ノート小年時(1928―1930) <6>身過ぎ

「身過ぎ」は
昭和4年(1929年)6月制作の作品
「白痴群」は4月に創刊されましたから
第2号が出る直前のある日の制作でしょうか

創刊号に
中原中也の詩は
「詩友に」
「寒い夜の自我像」の2篇が発表されました

第2号は
昭和4年7月1日に発行され
「或る秋の日」(「山羊の歌」では「秋の一日」に改題)
「深夜の思ひ」
「ためいき」
「凄じき黄昏」
「夕照」の5篇が発表されました

身過ぎとは
「身過ぎ世過ぎ」の身過ぎのことで
生活とか生計の意味です
この場合
「詩人渡世」といったニュアンスでしょうか
詩人を生業にするということが
「白痴群」という発表の場を得て
より現実味を帯びた「テーマ」になりました

「白痴群」が売れて
それで生業が成立する
などということはあり得ませんが
詩で食っていく、
ということが
いかに不可能であるかを含めて
視野に入ったということで
ここでもまた
詩人論を
自らに確かめる必要に詩人は迫られました

で、どんな風に
ということになりますが……

導入が唐突な感じで
だ、で終止する行が多く
漢字の抽象名詞が目立ち
措辞は未熟
音数律は完全でなく
ルフランもなく
リズムも整わない
めずらしく単調で
面白味のない詩になりました

そのことがかえって
詩人渡世の困難さを想像させます

世の中は
面白半分に生きるヤツか
何事かをたくらんで
今に見ていろと
虎視眈々うかがうヤツか
瀬戸物がこすれるようにやかましく
カラ騒ぎして
はしゃぎ過ぎかしょげ過ぎか
どっちにしても
骨の折れることですな

だれもかれも不幸なのに
何食わぬ顔で澄ましてるか
騒いでまぎらわしているかの違いだけで
辛さに変りはないのさ

だから私は
瞑想や
籠居や
信義などを編み出して試してみたのだが
ぜんぶ駄目だった
信義に立ってみたものの
相手が信義に立たないのだから
駄目だったよ

こうして
私は無抵抗を決め込み
ただ真実を愛し
浮世のことを恐れずにいればよいものだったのですが
どっこい
いい女に惚れてしまって
いまだに忘れられない
いっそのこと
死んでしまおうかと思うほど苦しいことも事実あるのですが
それも本気とまではいかない
もてあそんでいるに留まっている
ああ辛いよ辛い

最終行末尾に来て
辛い辛い、に
リアルが浮かびあがります

 *
 身過ぎ

面白半分や、企略(たくらみ)で、
世の中は瀬戸物の音をたてては喜ぶ。
躁(はしゃ)ぎすぎたり、悄気(しょげ)すぎたり、
さても世の中は骨の折れることだ。

誰も彼もが不幸で、
ただ澄ましてゐるのと騒いでゐるのとの違ひだ。
その辛さ加減はおんなしで、
羨(うらや)みあふがものはないのだ。

さてそこで私は瞑想や籠居(ろうきょ)や信義を発明したが、
瞑想はいつでも続いてゐるものではなし、
籠居は空つぽだし、私は信義するのだが
相手の方が不信義で、やつぱりそれも駄目なんだ。

かくて無抵抗となり、ただ真実を愛し、
浮世のことを恐れなければよいのだが、
あだな女をまだ忘れ得ず、えェいつそ死なうかなぞと
思つたりする――それもふざけだ。辛い辛い。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月14日 (火)

ノート小年時(1928―1930) <5>雪が降ってゐる……

「雪が降ってゐる……」は
末尾に(一九二九・二・一八)とあるように
1929年2月18日制作の詩です

1929年は昭和4年で
世界史の上では
10月24日のニューヨーク証券取引所の株価暴落を機に
世界恐慌が起こった年として
広く知られます

その年の初めに
この国の詩人が歌った詩が
「遠く」に「雪が降っている」情景でした

しかし
「遠くに」ではなく
「とほくを=遠くを」
「雪が降ってゐる」と
歌ったのは
雪の降る様を自然描写したものでないからであることは
すぐさま理解できることでしょう

遠くを雪が降っている
ああ 美しい! と
称えているのではなく
ここで降っている雪は
まずは
捨てられた羊か何かのようなのです

読み手は
「降る雪」が
「捨てられた羊」に
喩(たと)えられるだけで
特別な世界の中に
誘(いざな)われてしまいます

これは
「汚れつちまつた悲しみ」が
「狐の皮裘(かわごろも)」に
喩えられたのと似ていますし
(「汚れつちまつた悲しみに……」)

「私の上に降る雪は
真綿のやうでありました」
(「生い立ちの歌」)とも

「ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか」
(「雪の宵」)とも通じる
象徴詩法の一つです

その上、
世界に巻き起こりつつある暗雲を
見透かしたかのように
とほくを
捨てられた羊かなにかのように
高い空から
お寺の屋根にも
お寺の森にも
絶え間なく
兵営につながる道にも
日が暮れかかり
ラッパの音が聞える
とほくを
雪が降っている

と歌ったのですから
詩人の
時代をとらえる感覚の繊細さには
瞠目(どうもく)すべきものがあります

1936年の2.26事件は
まだ7年も後の話です
しかし
その兆しが
この詩にとらえられていることは
歌人・福島泰樹が感じるだけのことではなさそうです

「ノート小年時」に書きつけられた草稿には
赤いインキによる推敲の跡が残り
それは
「在りし日の歌」の第3次編集期(昭和12年春)のものと考証されていますから
長男・文也の死以後に
この詩に手が入れられたことを物語っています

雪が降っている「とほく」とは
空の奥の方
空の空……
であって
そこには
文也の影があるのです

詩人は
とてちてたトテチテターと
兵営ラッパの音が聞えてくる道を
よちよち歩きの文也の手を引いて
歩いたことがあったのかもしれませんし

そのようにリアルな場面を
イメージするまでもなく
漠然とした不安のようなものが
詩世界の中に
充満しています

 *
 雪が降ってゐる……

雪が降ってゐる、
  とほくを。
雪が降ってゐる、
  とほくを。
捨てられた羊かなんぞのように
  とほくを、
雪が降ってゐる、
  とほくを。
たかい空から、
  とほくを、
とほくを
  とほくを、
お寺の屋根にも、
  それから、
お寺の森にも、
  それから、
たえまもなしに。
  空から、
雪が降ってゐる
  それから、
兵営にゆく道にも、
  それから、
日が暮れかゝる、
  それから、
喇叭(らつぱ)がきこえる。
  それから、
雪が降ってゐる、
  なほも。
  (一九二九・二・一八)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月12日 (日)

ノート小年時(1928―1930) <4>冷酷の歌

「冷酷の歌」は
昭和4年(1929年)1月20日~2月18日制作と推定される作品
「ノート小年時」中の
「寒い夜の自我像」の制作が1月20日で
「雪が降つてゐる……」の制作が2月18日で
この二つの詩の間のページに書かれていることから
両日の間に書かれたものと推定されています

「白痴群」は
まだ創刊されていませんが
その準備に明け暮れていた頃です

音楽集団「スルヤ」の人々との交流とは異なって
「白痴群」は文学集団ですから
詩人の主戦場です
それゆえの厳しさが
それゆえの満足感とともに
はねかえってきたに違いのない場でした

酒場での談論風発が
時には激越に過ぎて
口論に発展することもあったことでしょう
口論ならまだしも
取っ組み合いの喧嘩になったようなこともあったようです

「ノート小年時」に書かれた
「冷酷の歌」の草稿には
鉛筆によって推敲された跡があり
同じように
「ノート小年時」の中に
鉛筆で推敲された草稿を探すと
「雪が降つてゐる……」
「追懐」
「夏の海」があり
さらに「ノート小年時」とは
異なるノートである「早大ノート」の冒頭の
「酒場にて」初稿が
鉛筆で書かれていることから
「冷酷の歌」と「酒場にて」は
同時期の制作の可能性を想定されるのですが
断定できるまでの確証は見つかりません

とはいうものの
「酒場にて」の
初稿(昭和11年9月末~10月1日制作推定)も
定稿(昭和11年10月1日制作定)も
その内容が
「冷酷の歌」と類似する部分が多いため
三つの詩を参照しながら読むと
味わいは深まるかもしれません

「酒場にて」は
かつて
「詩の外観と詩人の内部」(2009年5月22日)
「詩人論が生まれる」(2009年5月24日)の
題で読みましたが
ここで再び目を通しておきます

 *
 冷酷の歌

  1

ああ、神よ、罪とは冷酷のことでございました。
泣きわめいてゐる心のそばで、
買物を夢みてゐるあの裕福な売笑婦達は、
罪でございます、罪以外の何者でもございません。

そしてそれが恰度(ちやうど)私に似てをります、
貪婪(どんらん)の限りに夢をみながら
一番分りのいい俗な瀟洒(しようしや)の中を泳ぎながら、
今にも天に昇りさうな、枠(わく)のやうな胸で思ひあがつてをります。

伸びたいだけ伸(の)んで、拡がりたいだけ拡がつて、
恰度紫の朝顔の花かなんぞのやうに、
朝は露に沾(うるほ)ひ、朝日のもとに笑(ゑみ)をひろげ、

夕は泣くのでございます、獣のやうに。
獣のやうに嗜慾(しよく)のうごめくまゝにうごいて、
その末は泣くのでございます、肉の痛みをだけ感じながら。

  2

絶えざる呵責(かしやく)といふものが、それが
どんなに辛いものかが分るか?

おまへの愚かな精力が尽きるまで、
恐らくそれはおまへに分りはしない。

けれどもいづれおまへにも分る時は来るわけなのだが、
その時に辛からうよ、おまへ、辛からうよ、

絶えざる呵責といふものが、それが
どんなに辛いか、もう既(すで)に辛い私を

おまへ、見るがいい、よく見るがいい、
ろくろく笑へもしない私を見るがいい!

  3

人には自分を紛らはす力があるので、
人はまづみんな幸福さうに見えるのだが、

人には早晩紛らはせない悲しみがくるのだ。
悲しみが自分で、自分が悲しみの時がくるのだ。

長い懶(ものう)い、それかといつて自滅することも出来ない、
さういふ惨(いたま)しい時が来るのだ。

悲しみ執(しつ)ツ固(こ)くてなほも悲しみ尽さうとするから、
悲しみに入つたら最後休(や)むときがない!

理由がどうであれ、人がなんと謂(い)へ、
悲しみが自分であり、自分が悲しみとなつた時、

人は思ひだすだらう、その白けた面の上に
涙と微笑とを浮べながら、聖人たちの古い言葉を。

そして今猶(なほ)走り廻る若者達を見る時に、
忌(いま)はしくも忌はしい気持に浸ることだらう、

嗚呼!その時に、人よ苦しいよ、絶えいるばかり、
人よ、苦しいよ、絶えいるばかり……

  4

夕暮が来て、空気が冷える、
物音が微妙にいりまじつて、しかもその一つ一つが聞える。
お茶を注ぐ、煙草を吹かす、薬鑵(やくわん)が物憂い唸りをあげる。
床や壁や柱が目に入る、そしてそれだけだ、それだけだ。

神様、これが私の只今でございます。
薔薇(ばら)と金毛とは、もはや煙のやうに空にゆきました。

いいえ、もはやそれのあつたことさへが信じきれないで、
私は疑ひぶかくなりました。

萎(しを)れた葱(ねぎ)か韮(にら)のやうに、ああ神様、
私は疑ひのために死ぬるでございませう。

 *
 酒場にて(初稿)

今晩ああして元気に語り合つてゐる人々も、
実は元気ではないのです。

諸君は僕を「ほがらか」でないといふ。
然(しか)し、そんな定規みたいな「ほがらか」は棄て給へ。

ほんとのほがらかは、
悲しい時に悲しいだけ悲しんでゐられることでこそあれ。

さて、諸君の或(ある)者は僕の書いた物を見ていふ、
「あんな泣き面で書けるものかねえ?」

が、冗談ぢやない、
僕は僕が書くやうに生きてゐたのだ。

 *
 酒場にて(定稿)

今晩あゝして元気に語り合つてゐる人々も、
実は、元気ではないのです。

近代(いま)といふ今は尠(すくな)くとも、
あんな具合な元気さで
ゐられる時代(とき)ではないのです。

ほがらかとは、恐らくは、
悲しい時には悲しいだけ
悲しんでられることでせう?

されば今晩かなしげに、かうして沈んでゐる僕が、
輝き出でる時もある。

さて、輝き出でるや、諸君は云ひます、
「あれでああなのかねぇ、
不思議みたいなもんだねえ」。

が、冗談やない、
僕は僕が輝けるやうに生きてゐた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月 8日 (水)

ノート小年時(1928―1930) <3>寒い夜の自我像

「寒い夜の自我像」は
1929年(昭和4年)1月20日に制作された
全3節の作品ですが
うちの第1節だけが
この年の4月創刊の「白痴群」に
発表されました

よく間違えられるのですが
普通は「自画像」と書くところを
詩人は「自我像」としています
自ら描く像=Self-portraitというより
自我の像=Ego-imagesという意味を込めたかったのでしょうか

「白痴群」に発表した「寒い夜の自我像」は
中原中也の「詩」が
活字になった初めての作品として
記憶されるべきもの、
ということになっています

それは
「朝の歌」や「臨終」が
すでに「スルヤ」誌上で「歌詞」として活字になったり
短歌集「末黒野」の発行などがあったりしたのとは異なって
「寒い夜の自我像」は
詩が詩として掲載された、
という意味で初めてのことであるからです

詩人自身が
そのように自覚したという記録は
存在しないようですが
「寒い夜の自我像」は
記念碑的作品といえる作品に間違いありません

その第一次形態が
「ノート小年時」に書きとどめられているこの作品です
後に「山羊の歌」に収められるのも
「白痴群」掲載の詩と同様に
第2節、第3節を省略した形態のものですから
ここで
原形が読めるということになります

第1節だけであるなら
詩人宣言というべき
意志表明の詩句で貫かれていますが
第2節には
長谷川泰子とおぼしき「恋人」が登場し
彼女への忠告、同情、希望……を歌い
第3節では
神への祈りの言葉が歌われますから
第2節、第3節の存在は
詩人宣言としてのメッセージを弱めると判断して
第1節だけを独立した詩として
提供することにしたようです

きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!

その志明らかなれば
冬の夜を、我は嘆かず、

人々の憔懆(しょうそう)のみの悲しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を、
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いさ)か儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諌(いさ)める、
寒月の下を往きながら、

陽気で坦々として、しかも己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!……


第1節のすべての行が
詩人の生き方を歌っていて
これを
詩人デビュー作とした意図があったとすれば
的中したものといえるではないでしょうか

詩人はしかし
長谷川泰子という女性をめぐって
不本意の中にありました
離別の状態でありながら
交友関係を保ち
失われた恋を恋するかのような
「エターナル・トライアングル」(永遠の三角関係)の中にありました
そのため
恋は歌われました

詩人の心の底には
恋の苦しみとは異なって
深い悲しみがありました
その悲しみが表に出てくるようなとき
何ものも頼りにできるものはなく
悲しみを言葉に換えて
やり過ごそうとするのですが
たいていは
堅くなり過ぎるか
自堕落になり過ぎるかが落ちで
その場しのぎのことにしかなりません
なんとか
なんとかこの悲しみを
吹き飛ばしてしまいたいと
切に思います

そんなときに
神は
詩人の前に現れます
たいていは
真夜中のことです
そして
詩人が神に望むのは
悲しみを消してほしいという願いなどではなくて……

日光と仕事でした
明るい陽射しと
詩人の仕事を欲していたのです

これが
詩人が自ら描いた自我像でした

 *
 寒い夜の自我像

  1

きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を、我は嘆かず、
人々の憔懆(しょうそう)のみの悲しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を、
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。
蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いさ)か儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諌(いさ)める、
寒月の下を往きながら、

陽気で坦々として、しかも己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!……

  2

恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
おまへの魂がいらいらするので、
そんな歌をうたひだすのだ。
しかもおまへはわがままに
親しい人だと歌つてきかせる。

ああ、それは不可(いけ)ないことだ!
降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じ倣(な)し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……

  3

神よ私をお憐れみ下さい!

 私は弱いので、
 悲しみに出遇(であ)ふごとに自分が支へきれずに、
 生活を言葉に換へてしまひます。
 そして堅くなりすぎるか
 自堕落になりすぎるかしなければ、
 自分を保つすべがないやうな破目(はめ)になります。

神よ私をお憐れみ下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たして下さい。
ああ神よ、私が先づ、自分自身であれるやう
日光と仕事とをお与へ下さい!
              (一九二九・一・二〇)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月 7日 (火)

ノート小年時(1928―1930) <2>幼年囚の歌

「幼年囚の歌」は
「女よ」から半月の後
1929年1月4日に作られた詩です

年が明け
この日の4日後の
昭和4年(1929年)1月8日に
渋谷町神山23林方へ引っ越します

高井戸町下高井戸での
関口隆克、石田五郎との共同生活が
終わりに近づく中で書かれた作品ということになります

「白痴群」創刊へ向けて
身辺がざわざわとしてきた中で
詩論、文学論、芸術論……で
対立する場面も多く生じたのかもしれません

昭和4年(1929年)の年譜を見ておきます

昭和4年(1929年) 22歳
1月 「幼年囚の歌」。
同月、阿部六郎の近く、渋谷に転居。
4月、河上徹太郎・阿部六郎・安原喜弘・古谷綱武・大岡昇平らと同人誌「白痴群」を創刊。翌年6月発行の6号で廃刊になるまで、「寒い夜の自我像」「修羅街輓歌」「妹よ」など、後に「山羊の歌」に収録される二十余篇を発表。
4月中旬、渋谷百軒店で飲食後、帰宅途中で民家の軒灯のガラスを割り、渋谷警察署の留置所に15日間拘留される。
5月、泰子と京都へ行く。
7月、古谷綱武の紹介で彫刻家高田博厚を知る。高田のアトリエの近く、中高井戸に移転後頻繁にアトリエに通う。
高田の紹介で「生活者」9月号に、「月」他6篇、続いて10月号に「無題」(後、「サーカス)」と解題)他5篇を掲載。これらのほとんどは「山羊の歌」に収録。
この年から、ヴェルレーヌの「トリスタン・コルビエール」(「社会及国家」11月号)など、翻訳の発表始まる。
この年、「ノート翻訳詩」の使用開始。
(「角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」)

一瞥(いちべつ)して
第一詩集「山羊の歌」の作品のほとんどが
この1、2年の間に
制作され発表されたことが分ります
その舞台は
「白痴群」と「生活者」です

自作の詩を発表する場をもった詩人は
意気揚々として
得意気でもありそうですが
順風満帆(じゅんぷうまんぱん)なわけではありません
ストレスは普通にたまり
ときには爆発して
警察の厄介になることもありました

忌はしい憶い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!

と、「修羅街輓歌」に歌ったのも
この頃のことです

詩人の目には
東京が
否! 世界が
修羅でした
修羅の街でした
「対外意識にだけ生きる人々」の元気な街でした

この詩を献呈された
関口隆克こそ
当時、詩人に共同生活の場を提供していて
東京帝国大学の3年生でしたが
やがて文部省官僚から開成学園の校長になった人です

この関口が、後年、
この頃の詩人を回想して

中原はどこにでも構わず押しかけていって、議論するんですね。人が真に従順であるべきなのは真理と神に対してであって、人間に対して従順である必要はないっていうのが中原の考えなんです。だからみんな 閉口する。解決がつかなければ、三日でも五日でも十日でも、寝させないで議論する

中原は寝床で泣きながら書いているんです。ベッドにロウソクをともして、書いちゃあ泣いている。私はくたびれて寝てしまったんですが、朝起きたら、私の枕もとに涙ながらの原稿が置いてあった
(「NHK私のこだわり人物伝 中原中也 町田康」より抜粋・引用)

などと、語っています

まさしくこれが
「幼年囚の歌」の世界であり
背景です

1の第3連

君達は知らないのだ、神のほか、地上にはもうよるべのない、
冬の夜は夜空のもとに目も耳もないこの悲しみを。

と、最終連

われとわが身にあらそへば
人の喜び、悲しみも、
ゼラチン透かし見るごとく
かなしくもまたおどけたり。

との連なりが
絶妙です

 *
 幼年囚の歌

  1

こんなに酷(ひど)く後悔する自分を、
それでも人は、苛(いぢ)めなければならないのか?
でもそれは、苛めるわけではないのか?
さうせざるを得ないといふのか?

人よ、君達は私の弱さを知らなさすぎる。
夜も眠れずに、自らを嘆くこの男を、
君達は知らないのだ、嘆きのために、
果物にもパンにももう飽かしめられたこの男を。

君達は知らないのだ、神のほか、地上にはもうよるべのない、
冬の夜は夜空のもとに目も耳もないこの悲しみを。
それにしてもと私は思ふ、

この明瞭なことが、どうして君達には見えないのだらう?
どうしてだ? どうしてだ?
君達は、自疑してるのだと私は思ふ……

  2

今夜(こよ)はまた、かくて呻吟(しんぎん)するものを、
明日の日は、また罪犯す吾なるぞ。
かくて幾たび幾そたび繰返すとも悟らぬは、
いかなる呪ひのためならむ。

かくは烈しく呻吟し
かくは間なくし罪つくる。
繰返せども返せども、
つねに新し、たびたびに。

かくは烈しく呻吟し、
などてはまたも繰返す?
かくはたびたび繰返し、
などては進みもなきものか?

われとわが身にあらそへば
人の喜び、悲しみも、
ゼラチン透かし見るごとく
かなしくもまたおどけたり。
       (一九二九・一・四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月 6日 (月)

ノート小年時(1928―1930) <1>女よ

「女よ」は
詩の末尾に (一九二八・一二・一八)とあるように
昭和3年(1928年)の12月18日に作られました
「ノート小年時」冒頭の作品です

中原中也は
この詩を書いた頃
豊多摩郡高井戸町下高井戸に
関口隆克、石田五郎と共同で生活していました

「女」は
明らかに長谷川泰子のことで
泰子と小林秀雄の暮しが破綻したのは
同年5月でした
泰子は
「中野町谷戸2405松本方」に住み
9月頃には
松竹の蒲田撮影所に入り
「陸礼子」という名のニューフェースでした
やや本格的な女優の仕事で生計を立てていたのです

大岡昇平は
この頃の泰子と詩人の関係について

時代はトーキーに切り替りかけていたので、その広島訛りが障害となり、伸びなかった。この年の末、前から知っていた山岸光吉と同棲する。ただし例えば郷里から山岸の母親が出て来た場合、中原の下宿に泊りに来るという風に親密な関係は続いている。(旧全集解説「詩Ⅱ」)

と、記しています

「女よ」は
泰子を歌ったものであることは確かなことですが
泰子そのものであるというより
泰子を通じて普遍化された女を歌った、ということのようで
これが
ヴェルレーヌの「智慧」の
影響を色濃く受けた詩であることが
大岡以来、多くの評者によって
論じられているところでもあります

大岡は

(略)彼がメッサン版ヴェルレーヌ全集第一巻を買ったのは大正15年5月で、堀口大学訳『ヴェルレーヌ詩抄』が出たのが昭和2年1月である。訳詩集『月下の一群』は大正15年に出ており、象徴派の詩人ではヴェルレーヌが圧倒的に多い。

「女よ」の調子は「智慧」の第一部の五「女たちの美しさ、そのかよわさ、さうして時にはよいこともするが、またどんな悪いことでも出来るその白い手」とかなり似ている。

「君が為にと啜り泣く。やさしき歌にきき入れよ」(十六)は中原の泰子に対する訴えを代弁しているように聞える。
(前掲書、改行を加えてあります=編者)

と書いていますし

河上徹太郎は

初稿ができたのは、はっきりしないが、昭和2、3年頃である。とにかく昭和4年に私が最初の文芸評論「ヴェルレーヌの愛国詩」を書いたのは、この訳を一応完了した時の感動に基いたものだからだ。当時中原中也が人づてに聞いて来て、この訳稿を見せろといふから貸したら、返しに来た時、色々ヴェルレーヌについて感想を述べた揚句、「時に君の訳にはいふにいはれぬまづさがあるね、」といって帰った
(ダヴィッド社版「叡智」の「序」、新全集第2巻・詩Ⅱ解題篇より孫引きです)

と書いています

河上は
ヴェルレーヌの翻訳を
早くから手がけ
昭和10年に邦訳本「叡智」を芝書店から
昭和22年には同書の改訂版を穂高書店から
昭和31年に決定版をダヴィッド社から刊行しましたが
昭和初期の
中原中也とのやりとりを回想した
昭和31年のダヴィッド版の「序」の一部は
河上には辛辣(しんらつ)な批判であったにもかかわらず
鷹揚(おうよう)にこれを受け止めて
ノンシャランとした感じがあるのは
さすが「白痴群」の同志です

「いふにいはれぬまづさがある」と
指摘された訳詩の一部が
「角川新全集・詩Ⅱ解題篇」に掲載されていますが
いまさらながらに
中也の指摘に軍配があがるのは明白で
いまやむしろ
二人の間のやりとりを想像できるだけで
貴重でかつほほえましくもあります

「女よ」の最終行
おゝ、忘恩なものよ、可愛いいものよ、おゝ、可愛いいものよ、忘恩なものよ!
が、数々の和訳「叡智」と並べてみたとき
リアルさにおいて
ほかに抜きん出るものがあるのかどうか
中原中也のこの頃の「女」が
飛び抜けて
コンテンポラリーな「日本語」で
女を歌っていることは確かです

じっくりと味わいたい恋愛詩の名作ですね。

 *
 女よ

女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやつておいでよ。
笑ひでもせよ、嘆きでも、愛らしいものよ。
妙に大人ぶるかと思ふと、すぐまた子供になつてしまふ
女よ、そのくだらない可愛いい夢のままに、
私の許にやつておいで。嘆きでも、笑ひでもせよ。

どんなに私がおまへを愛すか、
それはおまへにわかりはしない。けれどもだ、
さあ、やつておいでよ、奇麗な無知よ、
おまへにわからぬ私の慈悲は、
おまへを愛すに、かへつてすばらしいこまやかさとはなるのです。

さて、そのこまやかさが何処(どこ)からくるともしらないおまへは、
欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫のやうにも戯(じゃ)れるのだが、
やがてもそれに飽いてしまふと、そのこまやかさのゆゑに
却(かえつ)ておまへは憎みだしたり疑ひ出したり、つひに私に叛(そむ)くやうにさへもなるのだ、
おゝ、忘恩なものよ、可愛いいものよ、おゝ、可愛いいものよ、忘恩なものよ!
                    (一九二八・一二・一八)

 (角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月 5日 (日)

ノート小年時(1928―1930)を読む前に

「ノート小年時」とは
中原中也が詩の清書用に使っていたノートで
表表紙(おもてびょうし)に
詩人の手で「小年時」と記され
その回りが菱形の罫線で飾られてあることから
そう呼んでいるもので
全部で16篇の詩が
このノートに残されました

詩人が
このノートのタイトルを「小年時」と
アルチュール・ランボーの
散文詩「少年時」(Enfance)にヒントを得てつけたのは
単なる偶然ではなく
「運命的で必然的」といえるような出会いがあったからで
さまざまなエピソードが伝わっています

そもそも
後に「山羊の歌」中に
「少年時」という章題をもつ
第2章が設けられているのは
だれでもが知っていることでしょうが
「山羊の歌」の編集は
昭和7年4月―6月のことですから
「ノート小年時」の最後の詩「湖上」が制作されてから
2年後のことになります

中原中也が
ランボーの名を初めて知ったのは
京都時代に
正岡忠三郎や冨倉徳次郎や
とりわけ富永太郎との交友をはじめてからでしょうか
上京して
太郎を介して知った小林秀雄ら
東大仏文科の学生に
ランボーを知らない者は
多くはありませんでしたし……

昭和3年ごろには
中原中也と大岡昇平は
ランボーの「少年時」を
共同で訳そうとしたことがあったと
大岡昇平は記憶していますし……

大正14年後半には
鈴木信太郎訳「近代仏蘭西象徴詩抄」に収められた
ランボーの「少年時」を
原稿用紙7枚に筆写していますし……

目を丸くしたり
輝かせかせたり
ランボーに取り組んだ詩人の姿が
彷彿(ほうふつ)としてきます

ノートは
昭和2年(1927年)から
使われはじめたことが推定されていますが
詩篇としては
昭和3年(1928年)12月18日制作の「女よ」が最も古く
昭和5年(1930年)6月15日制作の「湖上」が最新です

ノートの使用の最古は
昭和2年にさかのぼることができ
昭和5年以降も
詩人はこのノートを開いては
発表のために推敲を加えたり
後の詩集発行のために
作品にチェックを入れたりしていますが
新全集編集では
詩篇の制作日を基準にして
このノートを案内する場合には
「ノート小年時」(1928年―1930年)と表記するのです

全部で
16篇の詩が記されていますが
そのうちわけは次の通りです

女よ
幼年囚の歌
寒い夜の自我像
冷酷の歌
雪が降つている……
身過ぎ
倦怠(倦怠の谷間に落つる)
夏は青い空に……
木蔭
夏の海
頌歌
消えし希望
追懐
夏(血を吐くやうな 倦うさ、たゆたさ)
夏と私
湖上

ここでは
「山羊の歌」中の「少年時」に
目を通しておきます
詩人はもろにランボーそのものです

 *
 少年時

黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。

地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。

麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。

翔(と)びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月 4日 (土)

草稿詩篇1925-1928<19> 間奏曲

「間奏曲」は
昭和3年(1928年)春の制作(推定)です
春とされるのは
詩の中に「春の祭」とあるからです

この祭は
都会の祭でしょうか
そうならば
都会の街の春の祭とは
銀座あたりの
商店街の売り出しのような祭でしょうか
そうではなくて
釈迦の生誕を祭る花祭りの類でしょうか
近くの神社で行われた節句の祭りでしょうか

色々想像できますが
やはり
その前に

私は自然を扱いひます、けれども非常にアルティフィシェルにです。それで象
徴は所を得ます。それで模写ではなく歌です。

と、昭和3年1月(推定)に
河上徹太郎宛の書簡の中に
書かれた詩人の創作方法論を
思い出しながら読めば
どこの祭りのことかなどという疑問は
吹っ飛んでしまうのかもしれません

この詩では
降りはじめた雨が幼児の顔に落ちた
とい事象がまずあり(第1連)

それが
百合の花のような少女の瞼の縁(ふち)に
露の玉が現れた
という別のイメージに変化し(第2連)

さらには
一歩引いたところに視点を移して
春祭りでにぎわう街に
空から石が降ってきたので
人々が逃げまどっている!
という街の描写に転じます(第3連)

これらは
幼児の顔の上に
雨がポタッと一つ落ちた
という情景のシンボリックな転移です
同じことの
異なる表現です

ことによると
春祭りの街に「雨」が降ってきた
という事象が
先に存在したのかもしれません

第3連のように
空から石が降ってくる
というようなことは
自然現象というより何かの事故ですから
普通には起こらないことで
ここでは雨が石に変化していることが明らかです

自然現象としては
雨が降っただけのことで
その雨が
いとけない子の顔に当たった
それはまるで
美しい少女の瞼のふちから
露の玉が出てきたようだ

それはまた
祭りでにぎわう街に
石でも降ってきたようで
人々は逃げ惑うように雨を避けた
というように
想像の中でのバリエーションになっていきます

「雨」という自然現象の
描写にはじまり
その描写は
自然の単なる模写ではなく
シンボライズされた自然へと
変形されるのです

幼児の顔に雨が落ちる
というイメージは
どこか
「汚れつちまつた悲しみに……」に
似ていると思いませんか

特に
前半の2連

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

小雪→風→狐の革裘(かはごろも)と
展開するイメージの流れと
似ていると思いませんか
この流れは
いとけない顔→百合の少女→春の祭の街
という流れと構造が同じなのです

 *
 間奏曲

いとけない顔のうへに、
降りはじめの雨が、ぽたつと落ちた……

百合の少女(をとめ)の眼瞼(まぶた)の縁に、
露の玉が一つ、あらはれた……

春の祭の街(まち)の上に空から石が降つて来た
人がみんなとび退(の)いた!

いとけない顔の上に、
雨が一つ、落ちた……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年9月 1日 (水)

草稿詩篇1925-1928<18> 幼なかりし日

「幼なかりし日」は
昭和3年(1928年)1月25日の日付をもつ作品

後に
「在りし日の歌」のタイトルにとられる
「在りし日」という言葉が
冒頭にあり
続けて「幼かりし日」とあることから
この二つの言葉は
同格、同義に使われていることがわかります
さらに「過ぎし日」も出てきますから
これも同義語として使われていることがわかります

大岡昇平による
「在りし日」に関する追究が
大変に有名ですが
この詩「幼なかりし日」で
初めて「在りし日」が使われたことは
記憶にとどめておいてよいことかもしれません

幼い時の思い出が
やがて
在りし日の歌へと進化し深化してゆく
晩年の詩を読むときに
必ずや
この詩を想起する機会が
訪れるに違いありませんから。

大岡昇平はこの詩を

 これはいつも中原について多少の留保をもって語った三好達治も、「空しき秋」「夕照」と共に賞めている作品である。望郷の情感を文語荘重体で述べたもので、朔太郎「郷土望景詩」と共通の声調を持っている。

と案内しています。
(「中原中也」所収「在りし日、幼なかりし日」)

二度とは戻ってこない
幼なかりし日を
詩人のみならず
人はみな
死者の位置から振り返るというような
生前という意味での「在りし日」を振り返るというような
いはば錯覚を
リアルに感じることがあるものなのでしょうか

あの日
クローバーの咲く
野の道を踏みしめ
青空を追いかけるようにして遊んだのに
あの至福の時は
どこへ行ってしまったのか
というような喪失感覚は
人はみないつかどこかで経験するのが普通なことでしょうが

幼かりし日よ
在りし日よ
と、二度とはあり得ぬ過去を
望郷のまなざしで見返すとき
懐かしさが加わって
その至福の時を封印しようとする欲求(所有欲に近い?)は強まり
いきおい死者のまなざしになっているという
一種リスキーな地平へと
踏み込んでいくものものなのでしょうか

昭和3年1月
詩人20歳
帰省して
再び上京して
歌われた対象には
都会と田舎の風景が
混在しているかの感じがあります

いま
あの草(クローバー)は
どこの野でそよいでいるか
電線は
涼やかに、昔とは違う音でつぶやいて
空に飛んで行ってしまったのではないか
……

再び
大岡昇平の発言に
耳を傾ければ

 詩篇は未定稿で措辞は整っていないが、「在りし日」と「過ぎし日」ははっきり同義に用いられている。しかもただの「失われし時」ではなく、まるで一つの生き物のように、どこかの「里」をいそぎ、そよいでいる。「その心、疑惧のごとし」の句に接して、われわれは中原の精神の健康に、多少の疑いを挟まざるを得ないが、とにかく下宿独居の苦悩の瞬間、喚起された過去が、少し歪んだ形を持つのは止むを得ない。
(同・上掲書)

との読みに出遭いますが
「その心、疑惧のごとし」の行にふれて
「精神の健康に、多少の疑いを挟まざるを得ない」と
コメントする断言口調には
どのように読んだかの説明が不足していて
今様にいう「上から目線」を
感じざるを得ません

「まるで一つの生き物のように、どこかの「里」をいそぎ、そよいでいる。」と
「幼なかりし日」を歌う詩の不思議さ
そのユニークさを読んだ評言の後では
蛇足でしょう

詩人は
今日
子どもらが背を丸めて
俊敏に走り去る姿を
目にしています

 *
 幼なかりし日

・・・・・・・・・・
在りし日よ、幼なかりし日よ!
春の日は、苜蓿(うまごやし)踏み
青空を、追ひてゆきしにあらざるか?

いまははた、その日その草の、
何方(いづち)の里を急げるか、何方の里にそよげるか?
すずやかの、昔ならぬ音は呟(つぶや)き
電線は、心とともに空にゆきしにあらざるか?

町々は、あやに翳(かげ)りて、
厨房(ちゅうぼう)は、整ひたりしにあらざるか?
過ぎし日は、あやにかしこく、
その心、疑惧(うたがひ)のごとし。

さはれ人けふもみるがごとくに、
   子等の背はまろく
   子等の足ははやし。
………人けふも、けふも見るごとくに。
          (一九二八・一・二五)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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