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2010年10月

2010年10月31日 (日)

生前発表詩篇を読む続編   <17>深更

「深更」は
「歴程」の昭和11年3月創刊号に初出の詩で
「童女」とともに掲載されました

「童女」がそうであったように
「深更」も
「歴程」発表の第一次形態と
第二次形態である草稿があり
どちらが先に
制作されたのかは確定されていません

一次形態と二次形態の二つの詩篇には
異同があるため
全集編集の過程で
綿密な考証が行われ
その結果が
詳細に掲載されていますが
いまそれをひもといて
案内する余裕も力量もありません

「生前発表詩篇」に分類されるのは
第一次形態で
制作されたのは
昭和11年(1936年)3月から7月の間と推定されています

「倦怠輓歌」のタイトルで
「閑寂」
「童女」
「白紙(ブランク)」
「お道化うた」とともに
「歴程」に発表された5篇の一つですから……

これらは
ダダイズムの時代から
歌ってきた
詩人のいわば主調音である
「倦怠(けだい)」を
真正面から歌っている詩群ということになります

「深更」は
シンコウと読むのでしょうか
真夜中(マヨナカ)
夜更け(ヨフケ)
丑満つ時(ウシミツドキ)のことです

東京の市ヶ谷谷町は
現在でも
真夜中となれば
暗闇の濃い土地柄が残りますが
昭和初期の暗闇は
今の比較にならない漆黒の闇であったことでしょう

妻・孝子、長男・文也は
とおに寝静まり
詩人は
電球の灯りの下で
原稿用紙に向かっています

省線の音も
もう聞えてこない
深更です

あーあ、くたびれてしまったもんだ
沈黙が支配し
カーテンが揺らぐこともない部屋で
詩人は
思索に耽り
煙草をふかすしかありません

過ぎ去った日々の記憶もぼんやりしてしまい
ものみな眠る大都会の
この夜ばかりは
意識も冴え冴えと
詩人だけが
目覚めているのです

私の心は動かない!
詩を歌うことに
一点の迷いはない!

机の上にある
インク瓶やら筆立てやら……
物の影ばかりが
冴えわたった私の目に飛び込んでくる
私が見ているのではないのに
机の上には
物の影があり……

思わせぶりな
姿、形であることよ
私の身の
かなしいなれの果てなのか
夜空は
暗く
霧が立ち込めて
高く……

柱時計が
時を刻む音だけが
沈黙(しじま)の世界を破っています

夜更けの倦怠
シンコウのケダイ

夜の歌の
ケダイのメロディーです

「朝の歌」を歌ってから
幾時間が流れたものでしょうか

 *
 深更

あゝあ、こんなに、疲れてしまつた……
――しづかに、夜(よる)の、沈黙(しじま)の中に、
揺るとしもないカーテンの前――
煙草喫ふより能もないのだ。

揺るとしもないカーテンの前、
過ぎにし月日の記憶も失せて、
都会も眠る、この夜さ一と夜、
我や、覚めたる……動かぬ心!

机の上なる、物々の影、
覚めたるわが目に、うつるは汝(なれ)等か?
我や、汝(なれ)等を、見るにもあらぬに、
机の上なる、物々の影。

おもはせぶりなる、それな姿態や、
これな、かなしいわが身のはてや、
夜空は、暗く、霧(けむ)りて、高く、
時計の、音のみ、沈黙(しじま)を破り。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月30日 (土)

生前発表詩篇を読む続編   <16>童女

「童女」を読むときに
いつもひっかかるのが
第2連に出てくる「クリンベルトの夢」です

どの参考書にも
意味不明な語句としてしか
案内されていませんので
未消化のまま
通り過ごさなければなりません

飛行機虫と同格に読めますから
同じような意味を表す言葉だな
ほどに済ませばよいのですが
小骨が喉にひっかかるようでもありまして
もはやどうすることもできません

「緑の帯」
つまり
グリーン・ベルトだったのだろうか
「清い帯」
つまり
クリーン・ベルトだったのだろうか

いや
英語ではなくて
フランス語の何かではないか
いやドイツ語かなどと
少しだけ考えて
素通りするのが
いつものことです

飛行機虫は
広島方言で松藻虫
奈良方言では源五郎
長野方言ではあめんぼう
と角川全集の語註で案内されていますが
ゲンゴロウとアメンボウでは
大分違いますから
詩人の生地・山口に隣接する
広島で使われている松藻虫のことではなかろうかと
語註は指摘しているようです
(考証は労作というべきで、大岡昇平、吉田凞生、中村稔ら角川版編集委員にここであらためて敬意を表しておきます)

では松藻虫とはどんな形の虫なんだと
生物学、昆虫学、民俗学……と
関心は広がっていきますが
それにしても
詩人が何をイメージしていたかは
確定できませんから
詩の流れとか
詩の文脈とかに沿って
想像するしかないわけです

小学校へあがる前か
あがったかの女の子が
すやすやと静かに眠っているのを見ている詩人は

第4連
皮肉ありげな生意気な、
奴等の顔のみえぬひま、

とあるように
俗世の中に在るのですが
風の一つも吹いてくれるなと願うように
眠れる子をいとおしんでいるのです

これは
可愛さの真っ盛りであった
長男・文也のイメージかもしれませんし
ここに
長谷川泰子への思いが
含まれているという読み方も
あり得ないわけではありませんし
そう読んでも一向に
おかしくはありません

「童女」は
昭和11年(1936年)3月5日発行の
第2次「歴程」の創刊号に初出
「閑寂」
「深更」
「白紙(ブランク)」
「お道化うた」
とともに発表されました

 *
 童女

眠れよ、眠れ、よい心、
おまへの肌へは、花粉だよ。

飛行機虫の夢をみよ、
クリンベルトの夢をみよ。

眠れよ、眠れ、よい心、
おまへの眼(まなこ)は、昆蟲(こんちゅう)だ。

皮肉ありげな生意気な、
奴等の顔のみえぬひま、

眠れよ、眠れ、よい心、
飛行機虫の、夢をみよ。

(角川ソフィア文庫版「中原中也全詩集」より)

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2010年10月28日 (木)

生前発表詩篇を読む続編   <15>詩人は辛い

「詩人は辛い」は
2009年5月26日 に
「詩人論の詩」の題で一度読みました
「現代と詩人」と
合わせて読んだもので
単純明快に
この詩は、詩人論の詩だ
と記しただけのものでした

そういう読みでいいのだと
今でも思いますが
詩人が
なぜ詩人論を歌わねばならなかったのか
なぜこの時に?という疑問が残るのは当然です

そこで状況ということが
視野に入ってくるのです

この詩は
「四季」の昭和10年11月号に発表され
制作は詩篇末尾にある通り
同年9月19日です

この制作日と同日の日記に
「詩を二篇作り一篇を四季に送る」とあって
もう1篇が
「山上のひととき」(未発表詩篇)であることが
分かっていますし
この「山上のひととき」に続けて
「四行詩(山に登つて風に吹かれた)」が制作されたことが
分かっていますから
これら3篇の詩は
似たような状況で書かれたと
想定できますが……

昭和10年の6月7日に
詩人は
四谷の花園アパートから
そう離れてはいない市ヶ谷谷町へ引っ越していまして
この引っ越しが
どうもいつもの引っ越しとは異なる感じがあるのです

新しい知人ができて
その人と深く交わりたくて
その人の住む近くに引っ越すというのと
この引っ越しは違う印象があるのですが
断言できる理由もありません

でも
そのことと
「詩人は辛い」を歌った動機とは
関係がありそうなので
印象ですが
とりあえず
そう記しておきます

2009年5月26日の読みも
そのあたりを書いているので
「現代と詩人」とともに
ここに再録しておきます

詩人論の詩/「詩人は辛い」「現代と詩人」

詩は、
その詩を歌った詩人が
どのように感じたり、
考えたりする詩人であるのかを
明らかにする
詩人論をたえず含むものでありますが、

詩は、
いつも、理解されなかったり、
同じく、詩人も、
理解されなかったりするもので、
冗談じゃないよ、と
ひとこと言いたくなることが
しばしばあるようです。

ひとことどころじゃなくて、
思いっきり言いたいときに
詩人論の詩ができます。

その意味で、
生前に発表された詩篇である
「詩人は辛い」と「現代と詩人」は、
「酒場にて」の流れの作品と
同じものと見ることができます。

この2作品は、
中原中也という詩人が、
世の中に向かって
思い切って
詩人の立場を宣言したものということになります。

未発表詩篇の流れにも
いくつか
詩人論を歌った作品が
存在しているのです

 *
 詩人は辛い

私はもう歌なぞ歌はない
誰が歌なぞ歌ふものか

みんな歌なぞ聴いてはゐない
聴いてるやうなふりだけはする

みんなたゞ冷たい心を持つてゐて
歌なぞどうだつたつてかまはないのだ

それなのに聴いてるやうなふりはする
そして盛んに拍手を送る

拍手を送るからもう一つ歌はうとすると
もう沢山といつた顔

私はもう歌なぞ歌はない
こんな御都合な世の中に歌なぞ歌はない
    ― 一九三五・九・一九―

 *
 現代と詩人

何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だつてそれだけが、私にとつては「充実」なのだから。

——そんなの古いよ、といふ人がある。
しかしさういふ人が格別新しいことをしてゐるわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いてゐれば、
それは、それでいいのだと考ふべきものはある。

とはいへそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといつてその正体が、シカと掴めたこともない。

私はそれを、好加減に推量したりはしまい。
それがハツキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまらう。
それまで私は、此処を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

われわれのゐる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持つてはゐない、持たうがものはないのだ。
さて希望を失つた人間の考へが、どんなものだか君は知つてるか?
それははや考へとさへ謂(い)へない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

私は古き代の、英国(イギリス)の春をかんがへる、春の訪れをかんがへる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがへる、旅行家の貌(かほ)をかんがへる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居への訪問をかんがへる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据えられた食卓のことをかんがへる。

私は死んでいつた人々のことをかんがへる、——(嘗(かつ)ては彼等も地上にゐたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがへる、その校庭の、雨の日のことをかんがへる。
それらは、思ひ出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんださうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行つたことがあるやうな気がする。
世界の何処(どこ)だつて、行つたことがあるやうな気がする。
地勢と産物くらゐを聞けば、何処だつてみんな分るやうな気がする。

さあさあ僕は、詩集を読まう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあつて、とても、当今日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふかい)の、陳列みたいなものぢやない。それで心の全部が充されぬまでも、
サツパリとした、カタルシスなら遂行されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月27日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <14>夏の明方(あけがた)年長妓(としま)が歌つた

「夏の明方(あけがた)年長妓(としま)が歌つた」は
「小竹の女主人」への献呈詩です

「小竹」とは
詩人なじみの「待合」の名で
東京・芝浦にあり
「文学界」の書き手や
花園アパートの青山二郎らとともに
利用しました
「ばばあ」は
そこの女将への親しみを込めた呼び方です

初出は
「文学界」の昭和10年9月号で
同年6月6日―7月の制作と推定されています

このころ詩人は日記に

朝食がすむと間もなく野田君遊びに来て夕方まで遊ぶ。夜は青山達と銀座に出で、ジルヴェスターにて「作品」の会の二次会に出くわす。それより芝浦に行く。没個性的な奴等。個性がないための一般向きが恰かも人格の力のやうな観を呈する所では、個性といふものは却て物質の如く侘しいものに見えるかも知れぬ。とまれ芸術家社会で、おしやべりが円滑に出来さへすれば重きをなすやうではともかくダラケたことだ。芸術が世間に呑まれてゐるとしたら、例へば羅針盤が運転手に方向を指示させられてゐるといふやうなものではないか。
世間が芸術の師である程なら、芸術とは無用の長物である。

などと記しています
(11月19日)

「それより芝浦に行く」の
芝浦に「小竹」はありました
銀座で飲んで
その後
芝浦へ行き
そこでまた飲み直し
芸者を呼んで遊んだのではなくて
文学論議の続きを延々としたということです

「山羊の歌」の出版元として有名な
野々上慶一は
「お竹」の女将について
「気風のいい人で、我儘勝手な連中を気楽に遊ばせてくれていました」
と回想しています
(「小林さんとの飲み食い五十年」)

小林秀雄
河上徹太郎
青山二郎
中村光夫
大岡昇平
井伏鱒二
三好達治らにまじって
詩人もその座の中にありました

野々上によれば
「いつも七、八人で卓を囲んで、飲んで議論ばかりしていて、揚句は勝手に雑魚寝などして」いたといいますから
詩人は
合間に女将と
冗談を言いあうこともあったのでしょう
なまなかな関係では
「ばばあ」と
なかなか呼べないものです

まるでキリガミ細工ぢやないか

は、詩人が
自嘲も込めて
「ばばあ」にも
まただれかれとなく
言い放ってやりたかった
鬱憤(うっぷん)だったのかもしれません

 *
 夏の明方(あけがた)年長妓(としま)が歌つた
              ――小竹の女主人(ばばあ)に捧ぐ

うたひ歩いた揚句の果は
空が白むだ、夏の暁(あけ)だよ
随分馬鹿にしてるわねえ
一切合切(いつさいがつさい)キリガミ細工
銹(さ)び付いたやうなところをみると
随分鉄分には富んでるとみえる
林にしたつて森にしたつて
みんな怖(お)づ怖づしがみついてる
夜露が下りてゐるとこなんぞ
だつてま、しほらしいぢやあないの
棄(す)てられた紙や板切れだつて
あんなに神妙、地面にへたばり
植えられたばかりの苗だつて
ずいぶんつましく風にゆらぐ
まるでこつちを見向きもしないで
あんまりいぢらしい小娘みたい
あれだつて都に連れて帰つて
みがきをかければなんとかならうに
左程々々(さうさう)こつちもかまつちやられない
――随分馬鹿にしてるわねえ
うたひ歩いた揚句の果は
空が白むで、夏の暁(あけ)だと
まるでキリガミ細工ぢやないか
昼間(ひるま)は毎日あんなに暑いに
まるでぺちやんこぢやあないか
 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月26日 (火)

生前発表詩篇を読む続編   <13>女給達

「女給達」は
「日本歌人」の昭和10年(1935年)9月号に発表されました
発行は昭和10年9月1日付けです

詩篇末尾の「一九三五、六、六」で
制作日は
1935年(昭和10年)6月6日と確定されます

同日制作の作品として
「初夏の夜」(在りし日の歌)
「吾子よ吾子」(未発表詩篇)があります

女給を歌った詩を
詩人は
いくつか作っていますが
これを作った当時住んでいた
四谷・花園アパ-トには
女給も住んでいましたし
彼女らの往来も頻繁にありましたから
カフェに行かなくとも
詩人は女給と接触する機会があったはずです

昭和7年
京橋のバー「ウィンゾアー」の女給坂本睦子に
詩人は高森文夫の伯母を通じて求婚し
断られた経歴があることは
年譜に載るほどよく知られたことですし
坂口安吾の小説「二十七歳」には
このころの詩人が
フィクションではありますが
ビビッドに描かれています

この「女給達」にも
坂本睦子の面影があるのかも知れません

冒頭のエピグラフ
「なにがなにやらわからないのよ――流行歌」は
昭和4年8月に封切られた
映画「愛して頂戴」の主題歌からの引用

西条八十の作詞
蒲田音楽部(実際は中山晋平)の作曲
佐藤千夜子の歌唱で
映画の封切りと同時に
映画小唄「愛して頂戴」のタイトルの
レコードが発売されヒットしたそうです

ひと目見たとき、好きになったの、よ
なにがなんだか、わからないの、よ
日ぐれになると、涙が出るの、よ
知らず知らずに、泣けてくるの、よ
     ねえ、ねえ、愛して頂戴ね、
     ねえ、ねえ、愛して頂戴ね。

の歌詞の第1番が
「新全集第1巻解題篇」に案内されています

ちなみにこのレコードは
「懐かしの流行歌集『戦前戦中1』」として
日本ビクターから
平成7年に復刻発売されているそうです

「の、よ」の行末
「愛して頂戴ね」の繰り返しが
いかにも流行歌らしく
しかし
詩人が引用したのは
第2行「なにがなんだかないのよわからないの、よ」の
読点を省略したものでした

この流行歌の
第2行に
詩人の感性は
動いたのでしょうか

「女給達」は
センセーショナルに
好奇の目で見られがちな女給を
憐れむでなく
高見から見下す眼差しがなく
同悲同苦の位置から歌っているところに
やはり
詩人ならではの非凡さがあり
そこを読み過ごすことはできない作品です

 *
 女給達

      なにがなにやらわからないのよ――流行歌

彼女等が、どんな暮しをしてゐるか、
彼女等が、どんな心で生きてゐるか、
私は此の目でよく見たのです、
はつきりと、見て来たのです。

彼女等は、幸福ではない、
彼女等は、悲しんでゐる、
彼女等は、悲しんでゐるけれどその悲しみを
ごまかして、幸福さうに見せかけてゐる。

なかなか派手さうに事を行ひ、
なかなか気の利いた風にも立廻り、
楽観してゐるやうにさへみえるけれど、
或ひは、十分図太くくらゐは成れてゐるやうだけれど、

彼女等は、悲しんでゐる、
内心は、心配してゐる、
そして時に他の不幸を聞及びでもしようものなら、
「可哀相に」と云ひながら、大声を出して喜んだりするのです。
                     一九三五、六、六

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月22日 (金)

生前発表詩篇を読む続編   <12>倦怠(倦怠の谷間に落つる)

「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」は
「四季」の昭和10年(1935年)7月号に掲載されました
発行は同年6月20日付けです

草稿が
「ノート小年時」に記され
昭和4年(1929年)6月制作と推定されていますが
これを第一次形態として
「四季」に発表するときに
若干の推敲が加えられました
これが本作で第二次形態です

第一次形態の詩を1度
「ノート小年時(1928―1930)<7>」として読みました(2010年9月16日)
その一部を
修正を加えて再録します

「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」は
「身過ぎ」と
「夏は青い空に……」とともに
筆記具、
文字の大きさ、
筆跡、
インクが
同一であることから
同時期の制作と推定されている作品

このうち
「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」と
「夏は青い空に……」の2篇は
詩人が河上徹太郎に宛てた
昭和4年6月27日付書簡の末尾に付されていたものなので
制作日は3篇ともに
昭和4年(1929年)6月27日以前と
絞られて推定されています

「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」は
後に「四季」の昭和10年7月号に
発表された詩の第一次形態でもありますから
「生前発表詩篇」中にも
ほぼ同じ作品が収録されています

他人に読ませるということは
発表したことと同然の意味をもちますし
「四季」に発表した1篇なのですから
ほかの2篇にくらべて
自信作であったことが想像されます

それを証(あか)すかのように
萩原朔太郎は
昭和10年「四季」夏号の「詩壇時感」で

中原中也君の詩は、前に寄贈された詩集で拝見して居た。その詩集の中では、巻尾の方に収められた感想詩体のものが、僕にとつて最も興味深く感じられた。
(中略)しかし今度の「倦怠」はこれとちがひ、相当技巧的にも凝った作品だが、前の詩集(山羊の歌)とは大に変つて、非常に緊張した表現であり、この詩人の所有する本質性がよく現れて居る。特に第三聯の「人はただ寝転ぶより仕方がないのだ。同時に、果されずに過ぎる義務の数々を、悔いながら数へなければならないのだ。」の三行がよく抒情的な美しい効果をあげてる。
(角川新全集・第1巻詩Ⅰ解題篇より)

などと好意的な感想を述べています

昭和4年以前のダダの時代から
詩人はすでに
倦怠=けだいを歌っているのですが
朔太郎もまさしくそこに引かれたようです

「寝転ぶより仕方なく、と同時に悔いながら」という倦怠に
叙情を感じ
技巧を見たのです

第一次形態では
「真つ白い光」としていたものを
第二次形態では
「真ッ白い光」とするなど
わずかな推敲が加えられていますから
ここに両作品を
掲載しておきます

「真つ白い光」とは
倦怠を照射する
朝日のことでしょうか
容赦なく
炙(あぶ)り出し
その光に晒されなければ
見えようにもなく
存在すら感覚できない……

<第一次形態>

 倦 怠

倦怠の谷間に落つる
この真つ白い光は、
私の心を悲しませ、
私の心を苦しくする。

真つ白い光は、沢山の
倦怠の呟(つぶや)きを掻消(かきけ)してしまひ、
倦怠は、やがて憎怨となる
かの無言なる惨(いた)ましき憎怨……

忽(たちま)ちにそれは心を石となし
人はただ寝転ぶより仕方がないのだ
と同時に、果されずに過ぎる義務の数々を
悔いながら、数へなければならないのだ。

やがて世の中が偶然ばかりで出来てるやうにみえてきて、
人はただ絶えず慄(ふる)へる、木の葉のやうに、
午睡から覚めたばかりのやうに、
呆然(ぼうぜん)たる意識の中に、眼(まなこ)光らし死んでゆくのだ。

<第二次形態>
      
 倦 怠

倦怠の谷間に落つる
この真ッ白い光は、
私の心を悲しませ、
私の心を苦しくする。

真ッ白い光は、沢山の
倦怠の呟(つぶや)きを掻消(かきけ)してしまひ、
倦怠は、やがて憎怨となる
かの無言なる惨(いた)ましき憎怨………

忽(たちま)ちにそれは心を石と化し
人はただ寝転ぶより仕方もないのだ
同時に、果されずに過ぎる義務の数々を
悔いながらにかぞへなければならないのだ。

はては世の中が偶然ばかりとみえてきて、
人はただ、絶えず慄(ふる)へる、木の葉のやうに
午睡から覚めたばかりのやうに
呆然(ぼうぜん)たる意識の裡(うち)に、眼(まなこ)光らせ死んでゆくのだ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月21日 (木)

生前発表詩篇を読む続編   <11>落日

「落日」も
昭和10年(1935年)5月15日発行の
早稲田大学新聞学芸欄に掲載された作品
同新聞には
「詩二篇」の題で
「雨の降るのに」も掲載されました

作られたのは
発行日の2週間から2か月前の計算になりますから
昭和10年4月中旬―5月初旬ということになります(推定)

おなじころ
帝国大学新聞(昭和10年5月13日付け)に
「春日閑居」が発表されていますから
「雨の降るのに」
「落日」
「春日閑居」
の3作は
同時期の制作と考えられています

「落日」も
「雨の降るのに」や
「春日閑居」と同様に
編集部の無知・無神経な扱いを受けた作品で
5行の詩として提出したものが
無断で改行を加えられ
7行の詩として掲載されてしまいました

詩人は
印刷物になった詩の切り抜きを
「SCRAP BOOK」に貼付して
「詩の行を勝手に切るくらゐ平気なり 蛮人が多いといふことなり」と
大学生の編集部を批判しています

この詩も
「雨の降るのに」同様
「SCRAP BOOK」上の書き込みを
著者校正とみなして
2行3行の2連構成の詩として
掲出する慣わしになっています

読者が大学生であることを意識したのか
説明をそぎ落として
簡明な詩句を選んでいるような作品ですが
大学生の心に届いたのか
これも今となっては
まったく分からないことになってしまいました

第4行の
「褐(かち)のかひな」は
茶色く日焼けした腕のこと

詩人は
赤銅色(しゃくどうしょく)に日焼けした
労働者が
筋肉隆々の腕に
スコップで土を掘り起こす光景を
落日の中に目撃したのでしょうか

早稲田界隈の
活気溢れる街並みを
詩人は
異邦人さながら
歩いているかのようですが

この街(まち)は、見知らぬ街ぞ、
この郷(くに)は、見知らぬ郷ぞ

とある街そして郷は
東京であるよりは
旅先の見知らぬ土地に違いなく
異邦人の心を持って歩くなら
やはり旅先での心境と
受け取ったほうが無理がありません

この年の3月
詩人は
長門峡に遊んでいますから
その行き帰りに見た風景なのかもしれません
赤銅色のかいなを振り回すのは
きっと漁師でしょう
艪を漕ぐ仕草か
網を投げる仕草か
夕陽を浴びて
働いている漁師の姿が浮かびます

 *
 落日

この街(まち)は、見知らぬ街ぞ、
この郷(くに)は、見知らぬ郷ぞ

落日は、目に沁(し)み人はけふもまた
褐(かち)のかひなをふりまはし、ふりまはし、
はたらきて、ゐるよなアー。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月20日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <10>雨の降るのに

「雨の降るのに」は
昭和10年(1935年)5月15日発行の
早稲田大学新聞学芸欄に掲載された作品で
作られたのは
発行日の2週間から2か月前の計算になりますから
昭和10年4月中旬―5月初旬ということになります(推定)

同新聞には
「詩二篇」の題で
「落日」も掲載されました

おなじころ
帝国大学新聞(昭和10年5月13日付け)に
「春日閑居」が発表されていますから
「雨の降るのに」
「落日」
「春日閑居」
の3作は
同時期の制作と考えられています

詩人は
この3作を切り抜いて
「SCRAP BOOK」に貼付した上で
赤インクによる校正を入れています

「雨の降るのに」は
早稲田大学新聞紙上では
4-4-6-2の変則4連構成の詩として掲載されましたが
それを切り抜いて貼り付け
4行4連の詩に直す指示を書き込んでいるのです
自分の作品が
無残にも改竄(かいざん)されてしまったことへの
抗議であり怒りでもあります

「落日」も同じで
詩人が5行の詩として提出したものが
7行の詩として掲載されてしまい
その切り抜きを貼付した
「SCRAP BOOK」に
「詩の行を勝手に切るくらゐ平気なり 蛮人が多いといふことなり」と
大学生の編集部に批判をぶちまけています

帝国大学新聞掲載の
「春日閑居」にも
後によく知られるようになった
詩人と編集部員のやりとりがありました

詩人が
はじめ帝国大学新聞編集部に送った詩は
「早春の風」でしたが
「もう時季が早春ではないから何とか変へてくれと云ふ」ので
仕方なく「春日閑居」と改題に応じたのですが
これも印刷物の切り抜きを貼った「SCRAPBOOK」上に
「帝国大学新聞が詩を浴衣の売出しかなんかのやうに心得ているとはけしからん。文化の程度が低いのである」と
赤インクで書きつけた
という事件です

無神経な改題の要望と
無謀な改竄(かいざん)と
著作権思想が
浸透していなかった時代ではあるにせよ
早稲田大学と帝国大学(現東大)と
大学新聞の編集部の無知と無神経を
垣間見るような出来事が続きました

編集という仕事が分かっていない
新人の編集部員の担当だった
とかという弁明も聞えてきそうですが
新聞発行機関としては
お粗末の一語に尽きます

「雨の降るのに」は
このような経緯から
詩人による「SCRAP BOOK」上の訂正を
「著者校正」とみなすことになり
4行4連の詩として掲出することになっています

作品のほうは
ややダダっぽく
象徴詩法も自在に

雨降る街に
豆腐売りの笛の音
そして
どこからともなく漂ってくる
夕餉(ゆうげ)の香

このステロタイプと呼んでいいほどに
微温的な
庶民的な
平和な風景であるのにもかかわらず
肩が凝る
という

雨が降るから
肩が凝る
ではなくて
雨が降るのに
肩が凝る
という「逆接=のに」を使って
雨降る景色を
逆説的に歌っている
作品です

当時の大学生が
この逆接
この逆説を
どのように理解したか
今となっては
何の手掛かりもありません

 *
 雨の降るのに

雨の降るのに
肩が凝る
てもまあいやみな
風景よ

顔はしらむで
あぶらぎり
あばたも少しは
あらうもの

チェッ、お豆腐屋の
笛の声――
風に揺られる
炊煙よ

炊煙に降る
雨の脚
雨の降るのに
肩が凝る

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月19日 (火)

生前発表詩篇を読む続編   <9>寒い!

「寒い!」は
「歴程」第1巻第1号(昭和10年5月1日発行)に発表された作品
制作は
詩末尾に(一九三五・二)とあり
1935年2月が確定されますから
帰省中の作であることがわかります
詩人は
昭和9年12月9日から同10年3月末の間
故郷山口に帰省していました

「歴程」の同じ号に
「北の海」が載りましたが
この詩の末尾にも
(一九三五・二)とあり
制作時期が同一であることがわかりますが
ほかにも「我がヂレンマ」が
同時期の制作で
山口で作られたことになります

「我がヂレンマ」で
村落共同体で暮すことの
息苦しさを歌った詩人が
今度は
「寒い」と表現を変えて歌うのは
何に関してなのでしょうか


小鳥

飛礫
地面
自動車 
タイヤ



……

これらが
この詩では
みな「寒い」の主語です
「寒い」を誘発する原因です

寒いとは
そもそも
村落共同体の属性ではありません
詩人の身体が受容する
自然現象に過ぎませんが
では
詩人は自然現象を歌ったのかといえば
そうではありますまい
「喩」として
「寒い」といっているだけです

目に見える
なんでもかんでもが「寒い」のですから
これではやりきれないのは当然で
こうなっては
お行儀のよい人々に
笑われてバカにされようが
構いはしないから
ワーッと大声を出して
春を呼び寄せましょう

詩人を「寒い」と感じさせている
冬の景色……
街も山も
みんな打ち解けてこない
応えてこない
馴染んでこない

叫び出したいほどに
寒いと感じさせるものの正体は
いったい
何者(物)でしょうか

同じ時期に歌われた
「北の海」の
人魚ではない
海の浪の
空への呪いに通じていく何かでしょうか

 * 
 寒い!

毎日寒くてやりきれぬ。
瓦もしらけて物云はぬ。
小鳥も啼かないくせにして
犬なぞ啼きます風の中。

飛礫(つぶて)とびます往還は、
地面は乾いて艶(つや)もない。
自動車の、タイヤの色も寒々と
僕を追ひ越し走りゆく。

山もいたつて殺風景、
鈍色(にびいろ)の空にあつけらかん。
部屋は籠(こも)れば僕なぞは
愚痴つぽくなるばかりです。

かう寒くてはやりきれぬ。
お行儀のよい人々が、
笑はうとなんとかまはない
わめいて春を呼びませう……
     (一九三五・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月18日 (月)

生前発表詩篇を読む続編   <8>我がヂレンマ・再

「我がヂレンマ」は
「四季」昭和10年(1935年)4月号(同年3月20日発行)に発表された
詩末尾に二・一九三五とある作品です
昭和10年2月に制作されたことが確定される詩です

「曇天」までのいくつかの詩<25>として
2009年5月12日に
一度読みました

詩人は
昭和9年12月9日から
翌10年3月末まで帰省し
ランボーの翻訳に取り組みましたが
この期間中の制作ということになります

同じころの制作として
「春と赤ン坊」
「寒い!」
「北の海」が知られています

「我がヂレンマ」が
帰省中に作られた詩だからといって
歌われた内容が
帰省中の事象を歌っているものであるとは
直ちにはいえないことですが

東京で感じられていた孤独は
友人知人を求めて外出し
酒場での談論風発へと向ったのに対し
故郷では
孤独を求めているのに
誘われてはいつしか座談の中にいるという
意図しないジレンマの原因であったようでした

東京における孤独と
故郷における孤独とは
決定的に異なる位相の中にあり
やっぱり
「我がヂレンマ」は
故郷で作られた詩であることを感じさせます

故郷は
村落共同体の網の目であり
東京には
もはやそれがなく
東京には
隣は何をする人ぞ、の
孤立はあり
それは身勝手とも自由ともいえる
漂流者、遊民の天下であり

故郷にあって
意に反する寄り合いへの参加は
いつも後悔の種になったけれども
参加しないで
孤独に浸ってばかりいることも
恐怖の種でした

それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。

というジレンマに
詩人は陥らざるを得ず
息苦しい日々……
生きるのが苦痛なほどに
うっとおしい共同体内生存……

遊ぼうとすれば
それは
社会=共同体からの離反を意味したから
そんなことできるわけもなく
だから畢竟
書斎にこもりがちになり
不貞腐れてばかりいることになるのでした

Dilemmaは、
もとギリシア語で、
diは、二つのこと、
lemmaは、仮説のこと。
現代日本語では、ジレンマだが、
中也は、ヂレンマとしました。
板挟み(イタバサミ)の状態を表します。

 *
 我がヂレンマ

僕の血はもう、孤独をばかり望んでゐた。
それなのに僕は、屡々(しばしば)人と対坐してゐた。
僕の血は為(な)す所を知らなかつた。
気のよさが、独りで勝手に話をしてゐた。

後では何時でも後悔された。
それなのに孤独に浸ることは、亦(また)怖いのであつた。
それなのに孤独を棄(す)てることは、亦出来ないのであつた。
かくて生きることは、それを考へみる限りに於て苦痛であつた。

野原は僕に、遊べと云つた!
遊ばうと、僕は思つた。――しかしさう思ふことは僕にとつて、
既に余りに社会を離れることを意味してゐるのであつた。

かくて僕は野原にゐることもやめるのであつたが、
又、人の所にもゐなかつた……僕は書斎にゐた。
そしてくされる限りにくさつてゐた、そしてそれをどうすることも出来なかつた。
                 ――二・一九三五――

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月17日 (日)

生前発表詩篇を読む続編   <7>ピチベの哲学・再

「ピチベの哲学」は
「紀元」昭和9年(1934年)2月号(昭和9年2月1日発行)に
発表された作品

昭和8年12月13日―下旬の制作と推定されているのは
中原中也が
山口の湯田温泉で結婚式をあげた後
昭和8年12月13日に妻・孝子と上京し
四谷・花園アパートに新居をもった日以後に書かれ
詩内容も
結婚について歌われているという理由からです

上京後に作成されたもの
と考えられていますから
新宿・花園アパートでの暮しを
はじめた中での制作ということになります

1度「ダダのデザイン」<10>で読みましたが
そのときは「ダダ詩」のテーマの影になって
結婚について
触れませんでした
詩内容というよりも
表現方法としてのダダに目を向けたため
結婚を通り過ぎてしまいました

詩人は
自らの結婚について
多くを語っていませんから
この詩が
結婚のあいさつみたいな位置にあるのなら
特別な意味があります

詩友・安原喜弘宛の昭和8年11月10日付書簡に

僕女房貰ふことにしましたので 何かと雑用があり 来ていただくことが出来ません 上京は来年半ば頃になるだらうと思ひます 

と記したのが
最初で最後のはずです

傍目には
突然のように見えた結婚ですから
詩人は
結婚について何がしかのことを
歌う要請を感じたのかもしれませんし
歌う欲求もあったかもしれません

古代ローマ帝国の一兵士の名か何か
古代ギリシアの哲学者の名か何か
太宰治の「走れメロス」の主人公のような名か
フランス語の文献のどこかから引っ張り出した
物語のヒーローであるかもしれませんが
だれそれと特定できない
ピチベの口を借りて
しかも
煙(けむ)に巻くように
意味不明の呪文みたいなのを織り交ぜて



お姫様
チャールストン
美しい

これらの「喩」を使って
詩人が表明した哲学とは
言い換えれば
詩人論
詩論への展開のはずです

新しい生活のはじまりに
詩人は
新しい思想を
見出したかのように
「ピチベの哲学」を歌い
孝子との新生活を
寿(ことほ)ぎました

 *
 ピチベの哲学

チヨンザイチヨンザイピーフービー
俺は愁(かな)しいのだよ。
――あの月の中にはな、
色蒼ざめたお姫様がゐて……
それがチャールストンを踊つてゐるのだ。
けれどもそれは見えないので、
それで月は、あのやうに静かなのさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
チャールストンといふのはとてもあのお姫様が踊るやふな踊りではないけれども、
そこがまた月の世界の神秘であつて、
却々(なかなか)六ヶ敷(むつかし)いところさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
だがまたとつくと見てゐるうちには、
それがさうだと分つても来るさ。
迅(はや)いといへば迅い、緩(おそ)いといへば緩(おそ)いテムポで、
ああしてお姫様が踊つてゐられるからこそ、
月はあやしくも美しいのである。
真珠のやうに美しいのである。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
ゆるやかなものがゆるやかだと思ふのは間違つてゐるぞォ。
さて俺は落付かう、なんてな、
さういふのが間違つてゐるぞォ。
イライラしてゐる時にはイライラ、
のんびりしてゐる時にはのんびり、
あのお月様の中のお姫様のやうに、
なんにも考へずに絶えずもう踊つてゐれあ
それがハタから見れあ美しいのさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
真珠のやうに美しいのさ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月16日 (土)

生前発表詩篇を読む続編   <6>夏と私

「夏と私」は
「ノート小年時」に記された草稿が第一次形態で
昭和5年(1930年)10月1日発行の
「桐の花」第15号に発表された作品が第二次形態で
制作は
第一次形態の末尾にあるとおり
昭和5年(1930年)6月14日です

ただし
発表された第二次形態では
(一九三〇・六・一四)の日付は
削除されたほか
第5連に「……」が追加され
茫然としぬ、……涙しぬ。
とした訂正が加えられています

この詩を制作したころ
彫刻家・高田博厚がフランスに発ち
詩人は少なからぬ衝撃を受けました
自身も
フランス行きの願望を強くしたのです
それで
「来し方」を振り返ると
悔いの残る日々の堆積に
茫然……涙も出てきます

「ノート小年時」で
一度読んだところを
ここで読み返しておきます
(以下、再録)

血を吐くやうな、倦うさ、たゆけさ
と歌ってから
ほぼ1年が過ぎて
また夏が訪れましたが
「夏と私」は
初夏の歌です

真ッ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鷗(かもめ)を見たり。

という
しょっぱなから

血を吐くような倦怠(=けだい)とは
異なる夏
真ッ白い嘆かひ(=嘆き)の中にある詩人は
海の空を飛ぶ
かもめに自分を見ます

1年経ったからといって
悲しみが遠のいたというのではなく
鏡の中の自分を見るように
少しだけ距離をおいて
眺めやることができるようになっただけで
海にかもめが飛ぶのを見るうちに
深い溜息が出てくるのを止められません

かもめは高所から急降下し
また舞い上がり
旋回し
風の中を飛んでいて
それはさながら
詩人の脳裏を
思い出の破片が旋回するのと
シンクロするのです

夏のことで
振り向けば
後ろの高い山にも
純白の嘆き
ずっと変らない高山を見て
溜息が洩れてきます

詩人は
太陽を浴びて燃える山の道を登ってゆき
頂上の風に吹かれます

(海から山へ移動する感覚!)

山の上で風に吹かれていると
自ずと
来し方(こしかた)が思われ
涙茫々……

未だ何もできていない
悔いばかり果てのないその心は
母に伝えたこともなく
友の誰一人にも明かしたことはありません

「しかすがに」は
「とはいうものの」の意味

とはいえ
望むだけで
手をこまねいて
その大きな望みに圧倒されている私です

望みは大きくて
手をこまねいているばかりの自分を見る
今年もまた夏がめぐってきて
そうした自分を見るのです
何もしてこなかった自分……

ああ
僕も
フランスへ行きたい

 *
 夏と私

真ッ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鷗(かもめ)を見たり。

高きより、風のただ中に、
思ひ出の破片の翻転するを見たり。

夏としなれば、高山に、
真ッ白い嘆きを見たり。

燃ゆる山路を、登りゆきて
頂上の風に吹かれたり。

風に吹かれつ、わが来し方に、
茫然としぬ、……涙しぬ。

はてしなき、そが心
母にも、……もとより友にも明さざりき。

しかすがにのぞみのみにて、
拱(こまぬ)きて、そがのぞみに圧倒さるる、

わが身を見たり、夏としなれば、
そのやうなわが身をみたり。
      
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月15日 (金)

生前発表詩篇を読む続編   <5>或る女の子

「或る女の子」も
「白痴群」第6号に発表された作品で
「生ひ立ちの歌」というタイトルで選ばれた
5篇の中の1篇で
「夜更け」とともに
「山羊の歌」に収録されなかった詩篇です

昭和5年(1930年)1―2月に制作(推定)されましたが
このころ詩人は
中高井戸の高田博厚のアトリエの近くに住み
高田との交流を深めていました
高田は彫刻家でしたから
詩人の顔の塑像を作りまして
その塑像は消失したものの
写真が「歴程」の中原中也追悼号(昭和13年)に載ったため
後年そのコピーが印刷物として出回ったことなどで
広く知られるようになりました

大岡昇平はこの塑像を
「この時期の中原の凸凹な顔の感じをよく捉えていた」と
評しています
(「在りし日の歌」)

詩人のこのころの暮しは
大岡昇平以後の研究でも
いろいろと新しいことが分かってきたようですが
大岡によれば

(前略)長谷川泰子と同棲の体制を整えていたわけで、古谷綱武の証言によると、箸でも茶碗でも、みんな二つずつ揃えているのが、いじらしいようだったという。
 泰子は時たま中原の住居を訪れることがあり、中高井戸の家ではしばらく一緒に暮したことがあったのではないかと推測されるのだが、昭和5年12月には、中原ではない男の子供を生む。
(同上書)

と記すように
泰子との距離が
縮まった時期があったようです

「或る女の子」は
この時期の作ですから
女の子とは
長谷川泰子のことに
違いありません

この作品は
「白痴群」に掲載されても
「山羊の歌」には選ばれなかったために
ポピュラーにはなりませんでしたが

「白痴群」第6号に載った
「盲目の秋」
「更くる夜」
「わが喫煙」
「汚れつちまつた悲しみに……」
「妹よ」
「つみびとの歌」
「無題」
「失せし希望」
「生ひ立ちの歌」
「夜更け」
「雪の宵」
「或る女の子」
「時こそ今は……」
の13篇は同格の作品であることに思い致せば
また味わいも深まるということになります

泰子を歌った
ほかの作品とともに
恋愛詩の名品の一つといえます

 
 *
 或る女の子

この利己一偏の女の子は、
この小つちや脳味噌は、

少しでもやさしくすれば、
おほよろこびで……

少しでも素気なくすれば、
すぐもう逃げる……

そこで私が、「ひどくみえてても
やさしいのだよ」といつてやると、

ほんとにひどい時でも
やさしいのだと思つてゐる……

この利己一偏の女の子は、
この小つちや脳味噌は、

――この小つちやな脳味噌のために道の平らかならんことを……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月14日 (木)

生前発表詩篇を読む続編   <4>夜更け

「夜更け」は
「白痴群」第6号への発表作品
昭和5年(1930年)1―2月制作(推定)です

「白痴群」第6号は
最終号となったもので
全64ページのうちの38ページを
中原中也の作品が占めました

「落穂集」のタイトルで
「盲目の秋」
「更くる夜」
「わが喫煙」
「汚れつちまつた悲しみに……」
「妹よ」
「つみびとの歌」
「無題」
「失せし希望」の8篇

「生ひ立ちの歌」のタイトルで
「生ひ立ちの歌」
「夜更け」
「雪の宵」
「或る女の子」
「時こそ今は……」の5篇

このほかに
評論「詩に関する話」を
掲載しました

これらの詩篇のほとんどは
やがて第一詩集「山羊の歌」に収録されますが
この「夜更け」と
「或る女の子」の2篇だけは
収録されませんでした

それにしても
詩人の名を高からしめた
名作の数々が
「白痴群」最終号に
惜しげもなく投入された観があります

「夜更け」が制作された
昭和5年(1930年)1―2月に
詩人は中高井戸に住んでいましたから
チャルメラの音が聞えてくる丘は
現在の杉並区近辺のどこかのことでしょうか
夜遅くにも通っている電車とは
現在の中央線のことでしょうか
どことなく
武蔵野の面影が
行間から漂い出ています

詩人は
銀座あたりの酒場で飲んで
省線を新宿経由で帰り
西荻窪駅で下車して南方面へ
家路をたどった冬の遅い夜に
屋台のラーメンを食べたことがあったのでしょうか

ラーメンの汁を啜りながら
思いがけず浮んできた
亡き父の顔は
悲しみに歪んで……

 *
 夜更け

夜が更けて帰つてくると、
丘の方でチャルメラの音が……

         夜が更けて帰つて来ても、
         電車はまだある。

……かくて私はこの冬も
夜毎を飲むで更かすならひか……

         かうした性(さが)を悲しむだ
         父こそ今は世になくて、

夜が更けて帰つて来ると、
丘の方でチャルメラの音が……

         電車はまだある、
         夜は更ける……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月13日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <3>我が祈り・小林秀雄に

「我が祈り」は
ヴェルレーヌ「ポーヴル・レリアン」の訳出と
「修羅街輓歌」
「暗い天候三つ」
「みちこ」
「嘘つきに」の4篇の詩篇とともに
「白痴群」第5号に発表されました

詩篇末尾に
「一九二九、一二、一二」とあることから
1929年(昭和4年)12月12日の制作と確定しています

小林秀雄への献呈詩です

長谷川泰子が
中原中也から去って
小林秀雄と暮しはじめたのは
大正14年(1925年)11月

それから2年半後の昭和3年5月
小林秀雄は
長谷川泰子から逃げるようにして
奈良におよそ1年間暮し
再び東京に戻ってきました
昭和4年(1929年)春のことです

この上京で
小林秀雄と中原中也との交友関係は
復活したとみる見方が一般的ですが

ここで大岡昇平の
発言を読んでおくと

昭和4年4月には小林秀雄の「様々なる意匠」が改造の懸賞論文に当選し、5年から「文芸春秋」に文芸時評「アシルと亀の子」が好評で1年続いた。力で文壇を押しまくって行く人間が、我々の仲間から出て来たのである。「白痴群」なんて、ケチな名前で寄り合ってる必要はないのである。河上はやがて小林を通して、堀辰雄、井伏鱒二などを知り、「セザール・フランク」は昭和5年「文学」に載る。小林は東京へ帰って来ていた。しかし中原は小林を訪ねる手がかりがない。
(「朝の歌」中の「白痴群」)

と記していて
微妙に食い違っていますが

中也が小林と再会するのは
さほど難しかったわけでもなさそうで
一方は「白痴群」の創刊
一方は文芸評論家デビューへのステップアップと
話題に事欠くことはなかったこともあり
昭和4年の春には実現しているようです

歌人・前川佐美雄は
高橋新吉の案内で中原中也と初対面したとき
日本橋の酒場で
小林秀雄と河上徹太郎を紹介されていることを
角川新全集(第1巻詩Ⅰ解題篇)は明らかにしていますが
この日は昭和4年4月のある日です

大岡は
文壇=メジャーに比べれば
「白痴群」などという同人誌なんて
名前からしてケチな寄り合いで
問題外といわんばかりに矮小化していますが
いかがなものでしょうか
この時期を記録するには
「白痴群」解散のきっかけの一つでもあった
中原中也との喧嘩が生々しくて
客観的なスタンスを保てていない書きっぷりです

中原は小林を訪ねる手がかりがない。

とは「予断」というもののようで
手がかりは
いくらでもありましたから
さっそく
日本橋の酒場での酒席となったのであろうことが
想像できますし
この日が再会初日であったかどうかも
疑わしいものです

「我が祈り」は
小林秀雄を文学上の師友として認める詩人が

歌はうともしない
叫ばうともしない
描(えが)かうともしない
説明しようともしない

そういうところ=此所(ここ)に立っているということ
つまりは
神の御前にあるということを誓うなかで
神の恵みがもしもあるものであれば
歌いたい

夜の歌と
櫂歌(かいうた)とを歌いたい
と告白している詩で
この詩自体を
小林秀雄に献呈しているものです

感想は
さまざまなことを述べることができましょうが
詩人が
本当に歌いたいのは
夜の歌と
櫂歌(かいうた)であるということは
心して聞いておきたいことですし
ここに至って
そのように歌う詩人に
拍手を送りたい気持ちにもなろうというものです

 *
 我が祈り
    小林秀雄に

神よ、私は俗人の奸策(かんさく)ともない奸策が
いかに細き糸目もて編みなされるかを知つてをります。
神よ、しかしそれがよく編みなされてゐればゐる程、
破れる時には却(かえっ)て速(すみや)かに乱離(らんり)することを知つてをります。

神よ、私は人の世の事象が
いかに微細に織られるかを心理的にも知つてをります。
しかし私はそれらのことを、
一も知らないかの如く生きてをります。

私は此所(ここ)に立つてをります!………
私はもはや歌はうとも叫ばうとも、
描(えが)かうとも説明しようとも致しません!

しかし、噫(ああ)! やがてお恵みが下ります時には、
やさしくうつくしい夜の歌と
櫂歌(かいうた)とをうたはうと思つてをります………
               一九二九、一二、一二

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月12日 (火)

生前発表詩篇を読む続編   <2>嘘つきに

「嘘つきに」は
「暗い天候三つ」
「修羅街挽歌」
「みちこ」
「我が祈り」
ヴェルレーヌ「ポーヴル・レリアン」の中也訳とともに
「白痴群」第5号に発表された作品で
昭和4年(1929年)11月に
制作されたものと推定されています

「白痴群」を4回出して
5回目も印刷所に回し終えて
ほとんど独擅場だったこの同人誌に
詩人は満足感と同時に
不満も蓄積させていたのでしょう

不満は
同人誌に起因するものばかりでもなく
高邁(こうまい)な芸術論に発する行き違いばかりからでもなく
人のいとなみの卑小で些細な日常にあるのであれば
酒の勢いでの衝突は
飲む度に起こっても不思議ではありません
酒癖(さけぐせ)の悪いヤツという風評が
詩人に向けてどこからともなく立ちました

詩人は自らそのことを自覚し

自分に挑戦することがまるで人に挑戦してるやうなふうになつて、済まないことです 
以後謹みます。

 二伸。打開けて云へば、先達から二三の人が自分のフィリスティン根性のために、僕を酒くせの悪い奴といふことにしてやれと思つたことを憤慨してゐた矢先、――だから初めて一緒に飲む君の前では尚更気を付けようといふやうな気持が最初起つた。(さういふ気持は、僕自身思ふに僕に昔からあつたものではない!)その自分の気持に腹が立つたので、遂々反対をやつてしまつた。
 斯く今日弁解するやうでは、alone with Godでもないわけだが、今僕はむしやうに悲しいので此の手紙を書くまでだ。

と、小出直三郎という知人に書き送っています。
(37 11月25日 小出直三郎宛 封書)

小出直三郎は、
当時、成城高校のドイツ語教師で、
阿部六郎の同僚でした
文中の「フィリスティン」は
「俗物」の意味の英語です

この書簡が書かれた前日あたりに
どんな酔興(すいきょう)に及んでしまったというのでしょうか
後年、小出は
「何も私に謝るようなことを一つとして言ったりしたりしていないのに、ひどく後悔しているのがおかしかった」と
詩人の思い過ごしを回想しています
(旧全集月報Ⅳ)

「嘘つきに」は
悪酒の後の反省というより
「自分への嘘」を歌います

心から慈しむこともないのに
ビクビクしたり
面白半分ばかりで
理屈つけている
深く了解してもいなければ
自分のことを分かってもいないのに
意地をはり
理屈をつけ
何一つ役立つことも出来ないのに
他人をおひゃらかしてばかりいる

自分を偽っている自分へ
嘘をついている自分へ
自己欺瞞する自分へ……

悔悟する自分に目を向けるとは
根源的なものへ向かうことですが
歌い方は道化調を帯びます

私はもう、嘘をつく心には倦(あ)きはてた。

と歌う口調は
一種の作意を含んだ
道化調であるゆえに
宗教的と紙一重……

alone with God(神の前に一人)の位置関係にあります

詩人は
こうして
悪酒を飲むたびに
神に近づいていったのかも知れません

 *
 嘘つきに

私はもう、嘘をつく心には倦(あ)きはてた。
なんにも慈(いつくし)むことがなく、うすつぺらな心をもち、
そのくせビクビクしながら、面白半分ばかりして、
それにまことしやかな理屈をつける。

私はもう、嘘をつく心には倦きはてた。
なんにも了解したためしはなく、もとより自分を知りはしないで
意地つぱりで退屈で、何一つ出来もしないに
人ごとのおひやらかしばかりしてゐる。

私はもう、嘘をつく心には倦き果てた!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月11日 (月)

生前発表詩篇を読む続編   <1>暗い天候(二・三)

「暗い天候(二・三)」は
昭和5年1月1日発行の「白痴群」第5号に
「暗い天候三つ」というタイトルで発表された
3節構成の詩でしたが
「山羊の歌」に第1節が
「冬の雨の夜」のタイトルで収録されて以後
独立した詩として扱われるようになりました
「暗い天候(二・三)」と表記される由来です

「白痴群」第5号には
「暗い天候三つ」とともに
「修羅街輓歌」
「みちこ」
「嘘つきに」の3篇が掲載され
別に「我が祈り」と
ヴェルレーヌ「ポーヴル・レリアン」の中也訳も掲載されています

「暗い天候(二・三)」は
「白痴群」が昭和5年1月の発行であり
「二」に「秋の夜」
「三」に「暗い冬の日」とあることから
昭和4年(1929年)11月に
制作されたものと推定されます

秋の夜に降る雨が
何日も何日もやむ気配もなく続いた
長雨の季節だったのでしょうか

原形詩の第1節である「冬の雨の夜」には
「萎れ大根の陰惨さ」のフレーズがあり
死んだ乙女達の
「aé,ao,aé,ao,aéo,éo!」の唱和が鮮烈ですが
これらの詩句の暗鬱な気分が
「暗い天候(二・三)」にも続いています

しかし

こんなにフケが落ちる、

とは、暗鬱にしても
ダダっぽいですね

そして
トタンを叩く雨の音は
お道化ているように聞えながら
哀しすぎる
と、暗鬱一本槍に走りません

着物一枚持たずに、
   俺も生きてみたいんだよ。

と、犬や虫に向って
叫んでいるのも
やぶれかぶれの響きがありますし

やい、豚、寝ろ!

も、酔っ払って
誰彼となくほざいているみたいな
捨て鉢な感じでありますが
哀しすぎるのです

「白痴群」は
この詩が載った第5号の納会で
詩人と大岡昇平の喧嘩があったことで
有名です

富永次郎に罵声を浴びせた詩人が
いまにも取っ組み合いをはじめようとしていたところに
大岡が間に入って
「表へ出ろ」となった喧嘩のくだりは
大岡昇平の「朝の歌」中「白痴群」に
詳しく記録されています

この事件も一つの原因となって
「白痴群」は次の第6号を発行して
廃刊となってしまいます

「暗い天候(二・三)」にも
「白痴群」内部のストレスが
反映されていないはずがありません

赤ン坊の泣声や、
おひきずりの靴の音や、
昆布や
烏賊(するめ)や
洟紙(はながみ)や
首巻や、

と、さらにダダっぽい語句を
織り交ぜて
笑い飛ばしてみたいような哀しさ苦しさを
お道化て
追いやってみたいのだけれど
昨日という日が天気だったか
忘れてしまうほどのぬかるみは
「白痴群」の状況そのものだったのかもしれません

 * 
 暗い天候(二・三)

   二

こんなにフケが落ちる、
   秋の夜に、雨の音は
トタン屋根の上でしてゐる……
   お道化(どけ)てゐるな————
しかしあんまり哀しすぎる。

犬が吠える、蟲(むし)が鳴く、
   畜生! おまへ達には社交界も世間も、
ないだろ。着物一枚持たずに、
   俺も生きてみたいんだよ。

吠えるなら吠えろ、
   鳴くなら鳴け、
目に涙を湛(たた)えて俺は仰臥さ。
   さて、俺は何時死ぬるのか、明日か明後日か……
————やい、豚、寝ろ!

こんなにフケが落ちる、
   秋の夜に、雨の音は
トタン屋根の上でしてゐる。
   なんだかお道化てゐるな
しかしあんまり哀しすぎる。

   三

この穢(けが)れた涙に汚れて、
今日も一日、過ごしたんだ。

暗い冬の日が梁(はり)や壁を搾(し)めつけるやうに、
私も搾められてゐるんだ。

赤ン坊の泣声や、おひきずりの靴の音や、
昆布や烏賊(するめ)や洟紙(はながみ)や首巻や、

みんなみんな、街道沿ひの電線の方へ
荷馬車の音も耳に入らずに、舞ひ颺(あが)り舞ひ颺り

吁(ああ)! はたして昨日が晴日(おてんき)であつたかどうかも、
私は思ひ出せないのであつた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月10日 (日)

生前発表詩篇を読む前に

中原中也の詩作品は
翻訳詩以外の詩が
短歌を含めて一括された上で
「山羊の歌」
「在りし日の歌」
「生前発表詩篇」
「末黒野(温泉集)」
「未発表詩篇」
の5グループに分類されます

「未発表詩篇」は
「ノート1924」をのぞいて全篇を
読み終えましたところで
「生前発表詩篇」へ移っていきますが
これは半数ほどをすでに読みましたから
「生前発表詩篇を読む続編」とします

これを読み終わると
短歌をのぞけば
残るはダダイズム詩「ノート1924」だけになります

「生前発表詩篇」の
ラインナップとそれぞれの初出誌を
ざっと見ておきましょう
これらの作品は
詩人生存中に雑誌・新聞などに発表されたものですから
詩人が実際に印刷物を手にとったことのあるものばかりです

暗い天候(二・三)      「白痴群」第5号
嘘つきに            同
我が祈り            同
夜更け             同第6号
或る女の子           同
夏と私             「桐の花」第15号
ピチベの哲学         「紀元」昭和9年2月号
我がヂレンマ         「四季」昭和10年4月号
寒い!            「歴程」第1巻第1号
雨の降るのに         「早稲田大学新聞」第4号
落日              同
倦怠(倦怠の谷間に)    「四季」昭和10年7月号
女給達            「日本歌人」昭和10年9月号
夏の明方年長妓が歌つた 「文学界」昭和10年9月号
詩人は辛い         「四季」昭和10年11月号
童女             「歴程」昭和11年3月創刊号
深更               同
白紙(ブランク)        同
倦怠(へとへと)       「詩人時代」昭和11年4月号
夢               「鵲」第10号
秋を呼ぶ雨         「文芸懇話会」昭和11年9月号
はるかぜ           「歴程」第1号
漂々と口笛吹いて     「少女画報」昭和11年1月号
現代と詩人         「作品」昭和11年12月号
郵便局            「四季」昭和12年2月号
幻想(草には風が)      同
かなしみ             同
北沢風景            同
或る夜の幻想(1・3)   「四季」昭和11年3月号
聞こえぬ悲鳴        「改造」昭和12年春季特大号
道修山夜曲         「黎明」昭和12年4月号
ひからびた心        「文芸懇話会」昭和12年4月号
雨の朝           「四季」昭和12年6月号
子守唄よ          「新女苑」昭和12年7月増大号
渓流             「都新聞」第17851号
梅雨と弟          「少女の友」昭和12年8月号
道化の臨終(Etude Dadaistique)「日本歌人」昭和12年9月号
夏(僕は卓子の上に)   「詩報」第1年第2号
初夏の夜に         「四季」昭和12年10月号
夏日静閑          「文芸汎論」昭和12年10月特大号

 * 
 暗い天候(二・三)

   二

こんなにフケが落ちる、
   秋の夜に、雨の音は
トタン屋根の上でしてゐる……
   お道化(どけ)てゐるな————
しかしあんまり哀しすぎる。

犬が吠える、蟲(むし)が鳴く、
   畜生! おまへ達には社交界も世間も、
ないだろ。着物一枚持たずに、
   俺も生きてみたいんだよ。

吠えるなら吠えろ、
   鳴くなら鳴け、
目に涙を湛(たた)えて俺は仰臥さ。
   さて、俺は何時死ぬるのか、明日か明後日か……
————やい、豚、寝ろ!

こんなにフケが落ちる、
   秋の夜に、雨の音は
トタン屋根の上でしてゐる。
   なんだかお道化てゐるな
しかしあんまり哀しすぎる。

   三

この穢(けが)れた涙に汚れて、
今日も一日、過ごしたんだ。

暗い冬の日が梁(はり)や壁を搾(し)めつけるやうに、
私も搾められてゐるんだ。

赤ン坊の泣声や、おひきずりの靴の音や、
昆布や烏賊(するめ)や洟紙(はながみ)や首巻や、

みんなみんな、街道沿ひの電線の方へ
荷馬車の音も耳に入らずに、舞ひ颺(あが)り舞ひ颺り

吁(ああ)! はたして昨日が晴日(おてんき)であつたかどうかも、
私は思ひ出せないのであつた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月 9日 (土)

ノート翻訳詩1933年<9>  孟夏谿行

「孟夏谿行」は
「モウカケイコウ」と音読みし
「孟夏」は、初夏のことで
「猛烈な夏」のことではありません
夏の早い時期に渓谷に遊んだ記録を
短歌4首に残しました
昭和8年(1933年)5―8月の制作(推定)です

渓谷は
東京近辺のものではなく
山口県のどこかのものでしょうか

この年の8月
詩人は神経衰弱状態に陥り
下宿先である高森文夫の伯母が心配して
詩人の実家に報せると
故郷から弟の思郎が急遽上京して
詩人を連れ帰ったという事件が起こります

角川文庫版「中原中也全詩集」所収の年譜の
昭和8年(1933年)の項では
この件を記録していませんが
この帰郷の期間中に
湯田温泉近くの渓流へ
足を運んだことは
容易に想像されることですが

8月は孟夏ではなく盛夏ですから
この帰郷で作られた歌の可能性は低く
いったいこの「谿」は
どこにあるのだろう
いつ行ったのだろう
という疑問は残り続けます

中原中也の詩の朗読を
40年以上も続けている
歌人・福島泰樹は
「誰も語らなかった中原中也」の中で
「孟夏谿行」は
宮崎県東臼杵の高森文夫の実家を訪ねた
昭和7年(1932年)8月の旅から生まれた、
という推論を押しすすめ
ついには
中原中也が特定できないある時
この地を再訪したことがあるのではないか
という想像にまで発展させています

想像の羽は
自由に飛んでいきます

宮崎県は
歌人、若山牧水の生地でもあります
有名な

幾山河 越えさり行かば 寂しさの終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく

は、明治40年(1907年)
早稲田大学生だった牧水が
故郷宮崎への帰途
岡山県北部の哲西町にある二本松峠で
詠んだ歌といわれています

山口と岡山は
中国山地で繋がっていますから
山並みに似ているところがあった
と想像するのは無謀すぎることでしょうか

宮崎県東臼杵の山並みと
岡山県の中国山地の景色と
山口県の山並みと……

牧水の「幾山河」と
「孟夏谿行」の最終歌の「山竝」が
たとえ同じ景色を歌ったものでなかったしても
極めて近い風景であるとする想像を
だれも止め立てすることはできません

「事件」に近かった
昭和8年8月の帰郷は
2週間に満たない短いものでしたが
この4か月後に
詩人は再び帰郷し
上野孝子と見合い結婚します

 *
 孟夏谿行

この水は、いづれに行くや夏の日の、
山は繁れり、しずもりかへる

瀬の音は、とほに消えゆき
乗れる馬車、馬車の音のみ聞こえゐるかも

この橋は、土橋、木橋か、石橋か、
蹄の音に耳傾くる

山竝は、しだいにあまた、移りゆく
展望のたびにあらたなるかも

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月 5日 (火)

ノート翻訳詩1933年<8>  Qu'est-ce que c'est?

「Qu'est-ce que c'est?」は
「ケ ス クセ?」と発音する
フランス語で「それは何?」の意味です
英語の「What is it?」に相当します

昭和8年(1933年)5―8月制作(推定)で
前3作に続いて
「ノート翻訳詩」の中で蛙を歌った詩の
最後の作品になります

フランス語の修得をはじめてから
何年ほどの月日を経たのでしょうか
詩人は
この詩を書いた年
昭和8年(1933年)の3月に
東京外国語専修科(仏語)を修了しました
同校への入学は昭和6年(1931年)4月でした

前年昭和7年(1932年)5月ころからは
自宅でフランス語の個人教授をはじめています
その前々年の昭和5年(1930年)秋には
阿部六郎の家に寄宿していた吉田秀和を知り
フランス語を教えた
という有名な話もあります

昭和4年(1929年)夏には
彫刻家・高田博厚を知りますが
その高田が渡仏するのは昭和6年(1931年)2月で
このことで詩人は
フランス行きの願望をいやましに募らせました

古くは
京都で富永太郎らに
フランス象徴詩の存在を教わったのにはじまります

上京後は富永を通じて知った
小林秀雄をはじめ
当時、東大仏文科の学生であり
のちに文学、学術、文化、芸術、政治……
各方面で活躍することになる
錚々(そうそう)たる顔ぶれとも接点をもち
学生のみならず辰野隆、阿部六郎ら
教授との交流も広めます

音楽集団「スルヤ」も
文学同人誌「白痴群」も
知的文化的エリートの集まりでした

上京翌年の大正15年・昭和元年(1926年)9月には
日本大学予科へ入学
すぐに退学してしまいますが
またすぐにアテネ・フランセへ通いはじめ
河上徹太郎を知るのもこのころですし
ベルレーヌの翻訳の発表は
昭和4年(1929年)にはじめています

この詩「Qu'est-ce que c'est?」を作ったころには
同人誌などに盛んに翻訳を発表
12月には
「ランボオ詩集(学校時代の詩)」(三笠書房)を刊行します

おおざっぱに見ても
詩人のフランス熱は
思いつきといったものではなく
詩を書くことと
直に結びついていました

詩人として生きていく経歴の中で
詩作だけでは生業(なりわい)が成り立たないことを
骨身にしみて感じ続けた詩人ですから
フランス(フランス語)は
生きる糧(かて)になり得るという
希望のようなものでした

さて
「Qu'est-ce que c'est?」という
蛙を歌ったはずの詩は
いま
蛙の声が喚起する「何か」について
言い及んでいます

その「何か」とは

蛙が鳴くこと
月が空を泳ぐこと
僕がかうして何時までも立つてゐること
黒々と森が彼方(かなた)にあること
……

のような
常住坐臥(じょうじゅうざが)のこととも異なる
もっと違う何かです

詩人という存在
というよりも
詩人が、人間が、
生きているということの
核心にあるものへ
触れてくる何かのことのようです

名づけ得ないその「何か」は
Qu'est-ce que c'est?と
フランス語で問うしかないほどに
遠くにあるような
近くにあるような……
とらえがたいもの? こと?

 *
 Qu'est-ce que c'est?

蛙が鳴くことも、
月が空を泳ぐことも、
僕がかうして何時までも立つてゐることも、
黒々と森が彼方(かなた)にあることも、
これはみんな暗がりでとある時出つくはす、
見知越(みしりご)しであるやうな初見であるやうな、
あの歯の抜けた妖婆(ようば)のやうに、
それはのつぴきならぬことでまた
逃れようと思へば何時でも逃れてゐられる
さういふふうなことなんだ、あゝさうだと思つて、
坐臥常住の常識観に、
僕はすばらしい籐椅子にでも倚つかゝるやうに倚つかゝり、
とにかくまづ羞恥の感を押鎮(おしし)づめ、
ともかくも和やかに誰彼のへだてもなくお辞儀を致すことを覚え、
なに、平和にはやつてゐるが、
蛙の声を聞く時は、
何かを僕はおもひ出す。何か、何かを、
おもひだす。

Qu'est-ce que c'est?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月 4日 (月)

ノート翻訳詩1933年<7>  (蛙等が、どんなに鳴かうと)

(蛙等が、どんなに鳴かうと)も
(蛙等は月を見ない)に続いて
蛙を歌いますから
「蛙声(郊外では)」にはじまる蛙の歌の3番手の詩になります
制作も昭和8年(1933年)5―8月の推定

前作(蛙等は月を見ない)は
4行3連ですが
(蛙等が、どんなに鳴かうと)は
5行3連の詩ですから
新たに独立した詩が作られたということになります

前作で
詩人はいったいどこにいるのだろうかとの
疑問が湧きましたが
その答えのヒントになるかのように

第3連の

僕はどちらかといふと蛙であるか
どちらかといへば月であるか
沼をにらむ僕こそ狂人

という、抹消された詩句を読みましたが
この詩句を引き受けるように
(蛙等が、どんなに鳴かうと)で
詩人は
蛙も月も忘れようと述べ
もっと営々としたいとなみが
どこかにあるような気がすると
蛙でも月でもない世界のスタンスを
歌い出すのです

しかし
営々と働きたい仕事が
どんな仕事であるのか
どのようにすれば見つかるのか
いっこうに分かりません

蛙の尽きるともない合唱を聴き
月を眺め
月の前を通りすぎてゆく雲を眺めて
僕はいつまでも立っているのです

いつかは営々と働くことのできる
甲斐のある仕事があるだろうという
あいまいな気持ちを抱えたまま……。

 *
 (蛙等が、どんなに鳴かうと)

蛙等が、どんなに鳴かうと
月が、どんなに空の遊泳術に秀でてゐようと、
僕はそれらを忘れたいものと思つてゐる
もつと営々と、営々といとなみたいいとなみが
もつとどこかにあるといふやうな気がしてゐる。

月が、どんなに空の遊泳術に秀でてゐようと、
蛙等がどんなに鳴かうと、
僕は営々と、もつと営々と働きたいと思つてゐる。
それが何の仕事か、どうしてみつけたものか、
僕はいつかうに知らないでゐる

僕は蛙を聴き
月を見、月の前を過ぎる雲を見て、
僕は立つてゐる、何時までも立つてゐる。
そして自分にも、何時かは仕事が、
甲斐のある仕事があるだらうといふやうな気持がしてゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月 3日 (日)

ノート翻訳詩1933年<6>  (蛙等は月を見ない)

(蛙等は月を見ない)は
「ノート翻訳詩」中の
蛙を歌った詩では2番手の作品で
昭和8年(1933)5―8月制作(推定)

蛙(沼)
月(雲)
僕=詩人

この3者の関係が
くっきりと
詩の構造を形づくる
わかりやすい詩ですが……

僕=詩人がいる此処は月(雲)の世界であり
僕は月と雲のどちらでもなく
どちらかでもありそうで
でも、月そのものではなく
雲そのものでもなく

僕が此処にいるのを
蛙等は
知りもしないで
ただ蛙同志で鳴いている

ということを歌っているのは分かりますが
蛙(沼)に託されたメタファーは何か
月(雲)に託されたメタファーは何か
ということが疑問として残ります

イソップの
「蟻とキリギリス」の物語を思わせもしますが
こちらは物語とまではなっていないし
蛙等と月(雲)と僕の位置を描写しているだけだから
存在論とか関係論とかの範囲なのかなあと
考えてしまうところですですが……

詩人はどこにいるのかと
読み直してみると
雲なのかと思えもしますが
やがて月ではないかと見えてきます

月は
蛙等の存在など思ってみたこともなく
美しく着飾り
真っ直ぐな姿勢を保ち
歌うのにいそがしいのですから
これは詩人のスタンスのようですが……
いやそうではなくて

月と雲がある世界に
詩人はいるのは確かですが
月でも雲でもない存在で
僕と月と雲は同じ仲間であっても
相容れない異なる存在なのです

そうして
此処=月も雲もあるところにいる詩人=僕を
地上の沼にいる蛙等は知らないで
いっせいに鳴いているのです

だからどうしたの?
と問うことは
この詩にとって無意味なことのはずですが
もしそう問えば
一つのヒントとして
「ノート翻訳詩」に書かれたこの詩篇への
詩人本人による加筆訂正の跡が
答えてくれるかもしれません

第3連には

僕はどちらかといふと蛙であるか
どちらかといへば月であるか
沼をにらむ僕こそ狂人

という詩句が書かれ
推敲段階で抹消されているそうです
(新全集第2巻・解題篇)

ということは
これまでの推論をひっくり返すようですが
詩人は蛙に自身を投影する心をも
持ち合わせていたということになります

 *
 (蛙等は月を見ない)

蛙等は月を見ない
恐らく月の存在を知らない
彼等は彼等同志暗い沼の上で
蛙同志いつせいに鳴いてゐる。

月は彼等を知らない
恐らく彼等の存在を思つてみたこともない
月は緞子(どんす)の着物を着て
姿勢を正し、月は長嘯(ちょうしょう)に忙がしい。

月は雲にかくれ、月は雲をわけてあらはれ、
雲と雲とは離れ、雲と雲とは近づくものを、
僕はゐる、此処(ここ)にゐるのを、彼等は、
いつせいに、蛙等は蛙同志で鳴いてゐる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*長嘯(ちょうしょう) 声を長く引いて詩や歌を吟ずること。

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2010年10月 2日 (土)

ノート翻訳詩1933年<5> 蛙声(郊外では)

「蛙声(郊外では)」は
カワズゴエか
カエルゴエか
アセイか
読み方についての詩人本人の指示はなく
どう読んでいいのか
確定できません

(「井の蛙、大海を知らず」ということわざがあり、見聞の狭い人をあざける意味がありますが、井の中の蛙を「井蛙=セイア」といいます。「蛙」は音読みで「ア」ですから、蛙声は「アセイ」と読めますが、中原中也がそう読ませたかったのかは分かりません)

「在りし日の歌」の最終詩篇に
同名タイトル「蛙声」で
「天は地を蓋ひ、そして、地には偶々池がある。」と
はじまる有名な作品があり
「その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いているのであらう?」と
蛙が登場することも広く知られたことです
(「四季」昭和12年7月号初出)

「桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた」と
3回のルフランで歌われる
「桑名の駅」の蛙も心に残ります
(「文学界」昭和12年12月号発表、
昭和12年8月12日制作)

蛙が現れる詩は
ほかにもあるかもしれませんが
「ノート翻訳詩」中にも
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴かうと)
「Qu'est-ce que c'est?」
の3篇があり
この「蛙声(郊外では)」に続きますが
これら4篇すべてが
昭和8年(1933年)5―8月の制作(推定)という点は
大変、興味を引かれるところです

蛙の鳴く声が
特別に詩想を掻き立てる理由があったのでしょうか
詩人は
蛙をモチーフにした詩を
集中して4篇も歌ったのです
その1番手が
「蛙声(郊外に)」ですが
はじめですから

夜の沼のような野原で
蛙が鳴くのを
毎年の
残酷な
夏の宿命のような
月のある晩もない晩も
儀式のように
義務のように
地の果てにまで
月の中にまでしみこめとばかり
廃墟礼賛の唱歌のように
蛙は鳴く

と遠景で蛙をとらえ
外側から蛙にアプローチしていきます

この作品には
「在りし日の歌」の「後記」の前に置かれ
詩集の最終詩篇である「蛙声」の
沈鬱さはありませんが
やがてはそこに通じていく
序奏のような響きが流れています

 *
 蛙声(郊外では)

郊外では、
夜は沼のやうに見える野原の中に、
蛙が鳴く。

それは残酷な、
消極も積極もない夏の夜の宿命のやうに、
毎年のことだ。

郊外では、
毎年のことだ今時分になると沼のやうな野原の中に、
蛙が鳴く。

月のある晩もない晩も、
いちやうに厳かな儀式のやうに義務のやうに、
地平の果にまで、

月の中にまで、
しみこめとばかりに廃墟礼讃の唱歌のやうに、
蛙が鳴く。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年10月 1日 (金)

ノート翻訳詩1933年<4> 小景

「小景」は
ここに至る3作品が
太字用ペン、黒インクで書かれていたのと異なり
太字用ペン、ブルーブラックのインクで書かれ
筆跡は同じながら
文字が小ぶりになり
以後、「ノート翻訳詩」の未発表詩篇は
すべてこれと同様の書かれ方になります

ということが
角川新旧全集編集委員会の考証で
判明しているのです

ペンを複数持っていたのか
インクだけ取り替えることができたのか
詩人が
インクの色を変える作業をしている姿が
目に浮びます

インクを変えて
作られた詩は
さて、どこの景色なのでしょうか

第1連第3行の「荷足」は
「荷足り船(にたりぶね)」のことで
関東の河川や江戸湾で
小荷物の運搬に使われた
小形の和船を指します
船という字が省略されて
「荷足=にたり」といえば
「荷足り船」を指すことが多かったようです

この詩を書いた当時
詩人は
荏原郡馬込町北千束に住んでいましたから
東京湾方面へ足を運んだことが
あったに違いなく
そこで荷足り船を見かけたのでしょうか

あるいは
隅田川方面への散策で
運河を通行する
荷足り船を
目撃したのでしょうか

詩人の眼差しは
そのときに見た
「船頭」へと向けられてゆくのが
いかにも詩人好みのモチーフにつながり
「荷足」は実は
船頭を登場させるための
動機にほかならないことが後で分かってきます

船頭が単身で船を操る動きを
詩人は追いかけます

周到で
細心で
大胆で
軽妙で
権力的で
ずるがしそうでもあり
誠実そうでもあり
ゆるぎない
……

詩人に
どこか似ているものをも
見つけたのでしょうか
船頭の動きを見る眼には
人間を観察する眼があります

 *
 小景

河の水は濁つて
夕陽を映して錆色をしてゐる。
荷足(にたり)はしづしづとやつて来る。
竿さしてやつて来る。
その船頭の足の皮は、
乾いた舟板の上を往つたり来たりする。

荷足はしづしづと下つてゆく。
竿さして下つてゆく。
船頭は時偶(ときたま)一寸(ちょっと)よそ見して、
竿さすことは忘れない。
船頭は竿さしてゆく。
船頭は、夕焼のそらさして下る。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*第3行「しづしづ」の原文は、前の「しづ」に2倍文字の繰り返し記号「く」が連なった表記です。(編者)

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