ノート翻訳詩1933年<7> (蛙等が、どんなに鳴かうと)
(蛙等が、どんなに鳴かうと)も
(蛙等は月を見ない)に続いて
蛙を歌いますから
「蛙声(郊外では)」にはじまる蛙の歌の3番手の詩になります
制作も昭和8年(1933年)5―8月の推定
前作(蛙等は月を見ない)は
4行3連ですが
(蛙等が、どんなに鳴かうと)は
5行3連の詩ですから
新たに独立した詩が作られたということになります
前作で
詩人はいったいどこにいるのだろうかとの
疑問が湧きましたが
その答えのヒントになるかのように
第3連の
僕はどちらかといふと蛙であるか
どちらかといへば月であるか
沼をにらむ僕こそ狂人
という、抹消された詩句を読みましたが
この詩句を引き受けるように
(蛙等が、どんなに鳴かうと)で
詩人は
蛙も月も忘れようと述べ
もっと営々としたいとなみが
どこかにあるような気がすると
蛙でも月でもない世界のスタンスを
歌い出すのです
しかし
営々と働きたい仕事が
どんな仕事であるのか
どのようにすれば見つかるのか
いっこうに分かりません
蛙の尽きるともない合唱を聴き
月を眺め
月の前を通りすぎてゆく雲を眺めて
僕はいつまでも立っているのです
いつかは営々と働くことのできる
甲斐のある仕事があるだろうという
あいまいな気持ちを抱えたまま……。
*
(蛙等が、どんなに鳴かうと)
蛙等が、どんなに鳴かうと
月が、どんなに空の遊泳術に秀でてゐようと、
僕はそれらを忘れたいものと思つてゐる
もつと営々と、営々といとなみたいいとなみが
もつとどこかにあるといふやうな気がしてゐる。
月が、どんなに空の遊泳術に秀でてゐようと、
蛙等がどんなに鳴かうと、
僕は営々と、もつと営々と働きたいと思つてゐる。
それが何の仕事か、どうしてみつけたものか、
僕はいつかうに知らないでゐる
僕は蛙を聴き
月を見、月の前を過ぎる雲を見て、
僕は立つてゐる、何時までも立つてゐる。
そして自分にも、何時かは仕事が、
甲斐のある仕事があるだらうといふやうな気持がしてゐる。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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