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2010年11月

2010年11月30日 (火)

生前発表詩篇を読む続編   <36>梅雨と弟

「梅雨と弟」は
「少女の友」の昭和12年8月号(同年8月1日付け発行)に発表された作品で
第一次形態と第二次形態があります

第一次形態は草稿として現存し
「梅雨二題」の題の詩篇の第2節にあたります
「梅雨二題」は
「少女と雨」と「梅雨と弟」で構成され
「梅雨と弟」が
「少女の友」の昭和12年8月号に発表されました

「少女と雨」は
同誌9月号に発表される予定だったものが
何かの事情で発表されず
したがって
生前未発表となりましたが
詩人没後に
「文学界」の中原中也追悼号(昭和12年12月)に
第二次形態が発表されました
(「少女と雨」はしたがって「未発表詩篇」に分類されます)

「梅雨と弟」の第一次形態
すなわち「梅雨二題」第2節は
昭和12年(1937年)の5月―6月の
制作と推定されていますから
「少女と雨」も
同時期の制作ということになります

「梅雨と弟」に現れる弟は
詩人の亡くなった弟
一人は
大正4年に死んだ次男の亜郎
一人は
昭和6年に死んだ三男の恰三が
すぐさまイメージされ
二人それぞれを回想している詩と
解釈するのは字義通りですので
いっこうにおかしくはありませんが

弟の死の上に
昨年(昭和11年)11月10日に亡くなった
長男文也のイメージが重ねられていると
受け取るのもまったく自然なことです

ならば
追悼というよりも
文也の死を
詩人は
作意(虚構)の中にとらえたということであり
「距離をおいて」
見ることができるようになったということになります

この詩の視点は
少女であるあたしにあり
詩人はあたしに託して
弟=長男・文也の思い出を歌っている
ということになります

(参考のために「少女と雨」も載せておきます)

 *
 梅雨と弟

毎日々々雨が降ります
去年の今頃梅の実を持って遊んだ弟は
去年の秋に亡くなつて
今年の梅雨(つゆ)にはゐませんのです

お母さまが おつしやいました
また今年も梅酒をこさはうね
そしたらまた来年の夏も飲物があるからね
あたしはお答へしませんでした
弟のことを思ひ出してゐましたので

去年梅酒をこしらふ時には
あたしがお手伝ひしてゐますと
弟が来て梅を放(つ)たり随分と邪魔をしました
あたしはにらんでやりましたが
あんなことをしなければよかつたと
今ではそれを悔んでをります……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 *
 少女と雨
少女がいま校庭の隅に佇(たたず)んだのは
其処(そこ)は花畑があつて菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです

菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはゐませんでした

しとしとと雨はあとからあとから降つて
花も葉も畑の土ももう諦めきつてゐます

その有様をジツと見てると
なんとも不思議な気がして来ます

山も校舎も空の下(もと)に
やがてしづかな回転をはじめ

花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月29日 (月)

生前発表詩篇を読む続編   <35>渓流

「渓流」は
「都新聞」の昭和12年7月18日付け第1面に発表された
同年(1937年)7月15日制作の作品です

同紙第1面に「日曜詩」と題した企画欄があり
そこに掲載されたものですが
この欄に並んで
菊岡久利の評論「詩の動向とその半年表(二) 詩人十数氏の業績に就いて」があり
中で菊岡は

中原中也氏がいい詩をたくさん書いたけれども、愛児を失った断腸の歌であるために、われわれ友人は詩ばかり感心するわけにゆかず真に同情した

などと記していることが
新編全集第1巻「詩Ⅰ解題篇」に案内されています

詩篇末尾に
(一九三七・七・一五)とあることから
制作日は特定されていますが
近いところで3日前に
「夏と悲運」(未発表詩篇)が
同年(1937年)7月12日に制作されていますから
詩人の心境を知る
多少の手がかりになるかもしれません

「夏と悲運」は
とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。
思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのではない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が、可笑しいといふのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑ふべきものが存在(ある)とは思つてもゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしやうもなかつた。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
然(しか)し先生がカンカンになつてゐることも事実だつたし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬことも事実だつたし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。
大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と游離してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じてゐるなぞといふのでは尚更(なおさら)ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。
どうしてそれがさうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやといふほど味はつてゐる。
                      (一九三七・七)

という詩ですが
これを作った3日後に
「渓流」は歌われました

このころの日記を
読んでおきます
文章の量が少なく
日付も飛び飛びの日記です

(7月1日) Jeudi
 田村重治著「中世欧州文学史」読了。

(7月2日) Vendredi
坊や二百日目
深田訪問。
高原来訪。

(7月4日) Diamanche
関口訪問。

(7月23日) 牧水紀行文集読了。

7月の日記は
これですべてです
4日間しかつけなかったのは
日常生活が忙しかったからでしょうか

「渓流」は
7月4日から23日の間に作られました
この間に
創作の時間の多くが割かれたのでしょうか

この間に
近辺の渓谷へ
遊んだのでしょうか

「夏と悲運」で
自身の悲運の原体験となった
小学校の唱歌の授業風景を思い出して
不覚にも笑ってしまった詩人が
渓流で冷やしたビールを
むさぼり飲んでいる詩人に
姿を変えます

2008年10月19日に
読んだ鑑賞記を
再録しておきます

渓流/悲しいビール

ここで、「生前発表詩篇」から
「渓流」を読んでおきます。
「たにがわ」と訓読みで読ませる意図が
詩人にはありました。

1937年(昭和12年)7月15日に作られ、
同7月18日付け「都新聞」に発表された作品です。
長男文也を前年11月10日に亡くし
半年以上の月日が流れました。
中也は、この頃、帰郷の意志を固め、
「在りし日の歌」原稿を小林秀雄に託すのは、9月です。
10月に発病、同月末に死亡する詩人です。

なんとも美しい響きの作品で、
多くのファンが、この詩を
一番だ! と支持する声が聞こえてきます。
現代詩壇を牽引した一人
鮎川信夫も、
この詩には参っています。

青春のやうに悲しかつた。
と、中原中也以外のだれが歌っても
違和感を感じるような……。
なかなか、こうは、歌えません

この、泣き入るやうに飲んだ。 なんて詩句は
ビールの1杯目を飲むときの
誰しもが抱く快感のリアリズムそのものです。
だから、誰にも、歌えそうですけれど……。
青春のやうに悲しかつた。 という詩句とともに、
やっぱり、誰にも、歌えません。
もし歌ったら、
テレビCMのキャッチコピーだなんて
言われてしまいそうです。

だから、
やはり、この詩が、よいのは、
最終連。

最終連があるから、
1、2、3連が生きている
中原中也の詩になっているから
よいのです。

これが
「三歳の記憶」を歌った詩人と
同じ詩人の作品です。

中也は、
実に様々な経験を積み
実に様々な詩を書いたのです。
一本調子を辿る
日本現代詩史の源流に
滔々(とうとう)と流れる多旋律を刻んだのです。

 *
 渓流

渓流(たにがわ)で冷やされたビールは、
青春のやうに悲しかつた。
峰を仰いで僕は、
泣き入るやうに飲んだ。

ビショビショに濡れて、とれさうになつてゐるレッテルも、
青春のやうに悲しかつた。
しかしみんなは、「実にいい」とばかり云つた。
僕も実は、さう云つたのだが。

湿つた苔も泡立つ水も、
日蔭も岩も悲しかつた。
やがてみんなは飲む手をやめた。
ビールはまだ、渓流(たにがわ)の中で冷やされてゐた。

水を透かして瓶の肌へをみてゐると、
僕はもう、この上歩きたいなぞとは思はなかつた。
独り失敬して、宿に行つて、
女中(ねえさん)と話をした。
    (一九三七・七・一五)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月28日 (日)

生前発表詩篇を読む続編   <34>子守唄よ

「子守唄よ」は
「新女苑」の昭和12年7月増大号に発表された作品
同号は同年7月1日付けの発行です
制作(推定)は同年(1937年)5月中旬

同じころ
「四季」7月号に
「蛙声」を発表しています

「子守唄よ」は
自選詩集「在りし日の歌」の
最終部に置かれた「蛙声」と
同じころに制作された作品ということになります

「新女苑」は
若い女性をターゲットにした雑誌で
中原中也は
すでに昭和12年2月号に
「月夜の浜辺」を発表しています

この雑誌への発表を仲立ちしたのが
小林秀雄か河上徹太郎であろうと推定されています

「月夜の浜辺」は
「在りし日の歌」にも収録され
「月夜の晩に、ボタンが一つ
波打ち際に、落ちてゐた。」の
歌いだしが馴染みやすいためか
広く一般に知られるようになるのですが
「新女苑」の読者向けに作られたことが
ありありと伝わってきますし
この「子守唄よ」も
女性の読者が意識されたことは明らかです

中原中也の詩が
女性ファンに多く支持されるのは
この詩のように
女性の心へ向けられた内容を持つ作品が
随所に散りばめられているからだと
あらためて気づかされる作品ですが……

「子守唄よ」は
母親が
声を限りに
一晩中歌う
子守唄の行方に
「?」を投げかけ

暗い
船もいる
夜の海を越えて行くのだろうけれど
いったい
だれがそれを聴き届けるのか
だれかがいるにはいるのだろうけれど
途中で消えてしまわないだろうか
波が荒くはなくとも
風はひどくなくとも
途中で消えてしまわないだろうか

きょうも
母親は
一晩中
声を限りに
子守唄を
唄っている

淋しい世の中で
それを聴くのは誰でしょう

ああ、
ぼくの
あの子は
もう
この世にいないのに
だれが
母親の
子守唄を
聴くのでしょうか
……

詩人は
母親に成り変って
子守唄を歌うのです

その歌が
夜の海を
渡っていく間に
途中で
消えてなくなりはしないかと
心配しながら
今日も
眠れ眠れと
静かに
歌うのです

子守唄よ、と
子守唄に呼びかけるのは
そのためです

詩人が歌う
歌=詩への思いを
込めているのです

 *
 子守唄よ

母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
然しその声は、どうなるのだらう?
たしかにその声は、海越えてゆくだらう?
暗い海を、船もゐる夜の海を
そして、その声を聴届けるのは誰だらう?
それは誰か、ゐるにはゐると思ふけれど
しかしその声は、途中で消えはしないだらうか?
たとへ浪は荒くはなくともたとへ風はひどくはなくとも
その声は、途中で消えはしないだらうか?

母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月27日 (土)

生前発表詩篇を読む続編   <33>雨の朝

「雨の朝」は
「ひからびた心」
「春日狂想」に続けて
昭和12年(1937年)4月に制作(推定)された作品で
これも新作書き起こしであり
なんらか長男・文也の死の影響が見られる内容をもちます

初出は「四季」の
昭和12年6月号(同年5月20日付け発行)で
同誌へのこの年(昭和12年)の
発表は最初のものになりました

Μ(ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一(いち)…)

(ハイ、皆さん御一緒に、一二(いんに)が二(に)……)

は「春日狂想」の最終行

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう

を直ちに連想させますし
二重パーレンの使用も
両作品に共通しています

「四季」の発行日(納本日)から逆算して
4月制作と推定される作品ですから
このころ詩人は
神奈川県・鎌倉に住みはじめて間もなくのことです

4月の日記を
めくってみましょう

(4月1日) Jeudi
 呉郎と鎌倉見物。江の島へも行く。長谷の観音はバラックの中にあつた。震災でいたんでからまだ修復相叶わぬのである。大仏様は、却々よいなれど、その周囲全く趣きなし。もつと周囲に広い園を要す。江の島は、想像せし通りの所。まことに俗人むきの所なり。

(4月2日) Vendredi
 呉郎再び東京に行く。

 家賃発送。

  「催眠術講義」読了。

 「近世変態心理学大観第十巻」(狂人の心理)読了。

 夜「沓掛時次郎」(新興キネマ)をみる。「豪快男」をもみる。

 トルストイ「芸術とは何ぞや」三分の二ばかり読んでもうあとは読みたくない。然し結論には賛成である。

(4月3日) Samedi
 床屋に行く。
 小林訪問。
 午後岡田訪ねたが留守。
 林もるす。
 川端はお通夜から帰つて今ねたばかりといふので会はず。帰途深田の奥さんと三〇分だべる。

(4月4日) Dimanche
 教会欠席。
 キップリング詩集(岩波文庫)読了。

 「ケーベル博士随筆集」(岩波文庫)読了。

 高原、野田、新顔(しんがほ)の橘谷といふ男と共に来訪。
 高原偶々馴れた所をやつてみせる。こいつ勝手な奴也、「いい子」になることばかり常に探してゐる。

 発熱就床。

(4月5日) Lundi
 就床。熱高し。
 田村定雄泊まる。

(4月6日) Mardi
 前日に仝じ。
 夜十一時の汽車にて田村京都に向ふ。

(4月7日) Mercredi
 正午頃漸く下熱。
 安さんに手紙。

(4月8日) Jeudi
 熱はなけれど、猶安静を要す。
 高原に絶交状を書こうかと思ふ。
 森田正馬著精神療法講義読了。
 Caspard de la nuit. 読了。

(4月9日) Vendredi
 就床。
 読書。

(4月10日) Samedi
 床上げ。
 小林の妻君来る。
 岡田来訪。
 
(4月11日) Dimanche
 古本屋行。教会行。
 関口来訪。
 安原来訪。

(4月12日) Lundi
 一二日(午後)高原来訪し。少し思う所を披瀝した。よく通じたかどうかは知らず。蓋し、通じたとしても、何れはそれを利害関係の点より観る男ののことだから、ほんとは何も云はず、会はないがいちばんよいのだ。思へば可哀想な文学青年なぞといふものは又横著な他の一面をも持つてゐるものなので、ほんとは同上に値しないのかもしれぬ。
 一二日夕刻 海東さんの小父さん来る。金時の人形を坊やに呉れる。
 その夜泊まる。

 小林夫妻来る。(午前)

(4月13日) Mardi
 海東爺と女房とねえやと江の島に赴く。小生病弱の故に留守番なり。独りあつてまことに静か。杉田玄白翁が蘭学事始を通読す。

(4月14日)
 一四日。雨降りていやな天気なり。本を売りにゆきしも、古本屋の親爺ゐず。蕪村全集を求めて帰る。

(4月15日) Jeudi
 島森に行き、岩波文庫を求む。古本屋にゆき、ブルックハルト伊太利文芸復興、其の他を求む。からこやにてドミノを求む。林屋にて空気銃を求む。空気銃を持つて出て、雨間もなく降りだしたので大岡の下宿へ寄り、うかうかと夜の九時過ぎまで話す。帰つてみると女房心配してゐた。空気銃を持つて出て夕飯にも帰らぬこと故、山の中に倒れゐるかと思ひいたるなり。無理もないことなり。夜思郎突然上京の途立寄る。

 (新編中原中也全集第5巻「日記・書簡」より)

以上は
4月15日までの半月分の日記です
毎日欠かさず
日記をつけていたことがわかります

「坊や」は
次男・愛雅(よしまさ)のことでしょう
この15日分の日記に
亡き文也のことは記されていません

「雨の朝」は
生地・山口の
少年時代の思い出が歌われています

冒頭の

(麦湯は麦を、よく焦がした方がいいよ。)
(毎日々々、よく降りますですねえ。)
(インキはインキを、使つたらあと、栓〈(せん)〉をしとかなけあいけない。)

は、家族か近辺に暮らしていただれかの言葉で
つられて
学校の授業の風景に
場面は移ります
……

じっと
古い記憶を呼び覚ましていると
詩人は
その時間の中に入り込んでしまって

――家(うち)ではお饅ぢうが蒸(ふ)かせただらうか?
ああ、今頃もう、家ではお饅ぢうが蒸かせただらうか?

となるのですが
前の行は、少年の時
後の行は、現在

授業中に
母さんや婆やたちが作ってくれている
お饅頭ができただろうかと
楽しい想像をする少年は
その当時を思い出し
今頃お饅頭が蒸し上がっただろうかと
回想する現在の詩人に成り変っています

いわば
現在の詩人は
少年に同化しているのですが
同じことが

(ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一(いち)…)

と大きな声で
生徒たちを指導している先生に
詩人が同化しているということがいえます

いんいちがいち
と九九(掛け算)を暗記する方法を
生徒たちに教える先生の姿は
現在の詩人が
自らに要求する姿でもありました

九九を暗記するようには
生きることの難問を乗り越えられると
詩人が考えたとは
到底思えませんが
繰り返し繰り返しやってくる
同じ問いに対峙するとき
詩人は
小学校の先生の口調を真似て
苦しみや悲しみの時間を
やり過ごしていたことは
想像のできることです

それは
「春日狂想」で歌った
詩人の生き方と同様の生き方です

 *       
 雨の朝

(麦湯は麦を、よく焦がした方がいいよ。)
(毎日々々、よく降りますですねえ。)
(インキはインキを、使つたらあと、栓〈(せん)〉をしとかなけあいけない。)
(ハイ、皆さん大きい声で、一々(いんいち)が一(いち)…)
         上草履は冷え、
         バケツは雀の声を追想し、
         雨は沛然〈(はいぜん)〉と降つてゐる。
(ハイ、皆さん御一緒に、一二(いんに)が二(に)……)
       校庭は煙雨〈けぶ〉つてゐる。
       ―——どうして学校といふものはこんなに静かなんだらう?
       ——―家(うち)ではお饅ぢうが蒸(ふ)かせただらうか?
       ああ、今頃もう、家ではお饅ぢうが蒸かせただらうか?
   
  *<編注> 原作では、ルビを示すパーレン以外のパーレンは二重になっています。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月25日 (木)

生前発表詩篇を読む続編   <32>ひからびた心

「ひからびた心」は
「文芸懇話会」の昭和12年4月号に発表された
昭和12年(1937年)3月16日制作の作品です

昭和12年3月16日の日記に
「文芸懇話会に原稿発送」とあることから
制作日が推定されたものですが
この日付が
中村古峡療養所を退院した日である
同年2月15日より後であり
四谷・市ヶ谷から鎌倉へ引っ越した
2月27日よりも後であることに心引かれます

長男・文也の死以降に
各誌へ発表した詩のほとんどが
旧作の改稿だったところ
この「ひからびた心」は
どうやら新作書き起こしらしいということが
分かってきたからです

「道修山夜曲」のように
最近発見された作品で
それが
新作書き起こしであったことが
最近になってわかったというケースもありますが
「ひからびた心」は
新作であるというその上に
文也の死に直接触れている内容を持つ点で
耳目をそばだてずにはいられないものがあります

つまり
単なる新作書き下ろしなのではありません

そもそも
中村古峡療養所へ入院を余儀なくされたのは
長男・文也の突然の死が原因でしたし
このころ各誌に発表していた作品が
新作ではなく
旧作を改めたものだった理由も
文也死亡の衝撃からでした

その衝撃のために
詩人は
詩を新たに創り出すエネルギーを
失っていたとさへいえる状態でしたが
いま、ここに
新作を作り
その中で
文也の死を歌おうと試みたのでした

はじめ

ひからびたおれの心は
そこに小鳥がきて啼き
其処(そこ)に小鳥が巣を作り
卵を生むに適してゐた


文也は
小鳥として
詩人に現れて

ひからびた詩人の心を
なぐさめるものとして
存在し

……

やがては
無の中に飛んでいって
そこで
案外安楽に暮せるかもしれない
と夢想するのは
詩人です

無の中に飛んでいく
とは
死ぬということ

自ら死ぬ
自殺するということを
意味しています

ここのところは
「春日狂想」の冒頭行の
「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」
につながっています

「春日狂想」は
「ひからびた心」が作られて
1週間後の3月23日に
作られました

 *
 ひからびた心

ひからびたおれの心は
そこに小鳥がきて啼き
其処(そこ)に小鳥が巣を作り
卵を生むに適してゐた

ひからびたおれの心は
小さなものの心の動きと
握ればつぶれてしまひさうなものの動きを
掌(てのひら)に感じてゐる必要があつた

ひからびたおれの心は
贅沢(ぜいたく)にもそのやうなものを要求し
贅沢にもそのやうなものを所持したために
小さきものにはまことすまないと思ふのであつた

ひからびたおれの心は
それゆゑに何はさて謙譲であり
小さきものをいとほしみいとほしみ
むしろその暴戻(ぼうれい)を快いこととするのであつた

そして私はえたいの知れない悲しみの日を味つたのだが
小さきものはやがて大きくなり
自分の幼時を忘れてしまひ
大きなものは次第に老いて

やがて死にゆくものであるから
季節は移りかはりゆくから
ひからびたおれの心は
ひからびた上にもひからびていつて

ひからびてひからびてひからびてひからびて
――いつそ干割(ひわ)れてしまへたら
無の中へ飛び行つて
そこで案外安楽に暮せらるのかも知れぬと思つた

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月24日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <31>道修山夜曲

「道修山夜曲」は
「未発表詩篇」にも収録されていますから
そちらで
一度読みました

療養中とはいえ
詩のお手本のような
詩法の見事な実践に出会います

一筆書き(いっぴつがき)でありながら
詩の技法のエキスがほとばしるような。

以下は
2010年4月9日の記事の再録です
あくまで第一次形態の詩についての案内であることをお断りしておきます
(※作品は、「黎明」掲載の第二次形態です)

「道修山夜曲」の道修山(どうしゅうざん)は
(丘の上サあがつて、丘の上サあがつて)の
「丘」と同一の丘陵のことで
療養所が建っていた場所です

末尾に(一九三七・二・二)の日付があり、
(丘の上サあがつて、丘の上サあがつて)が書かれて
3日後に制作されたことがわかります
詩人の回復はめざましく
閉鎖病棟の精神科から
開放病棟の神経科へ移った翌日の作品です

中原中也が
中村古峡療養所に入院中に
書き残したものは、
「療養日誌」のほかに
「千葉寺雑記」があり、
詩人自らが作ったこの雑記帳に
「道修山夜曲」は記されました

この詩は
「黎明」という、
療養所発行の月刊誌の
昭和12年4月号に掲載された
作品の第一次形態です
「生前発表詩篇」にも分類・所収されていますが、
両作品の違いは
句読点の有無だけの
わずかなものです

満天の星が降り注ぐ
快晴の日の夜だったのでしょう
道修山にあった松林に入り、
下草の生えるあたりにしゃがんで
耳を澄ませば
聞こえてくる汽車の音……

その他には
なにも聞こえてこない……
松には今夜風もなく、 
土はジツトリ湿つてる。 
遠く近くの笹の葉も、 
しづもりかへつてゐるばかり。
静かな夜でした

静かな夜を
たまたま通った汽車に
「外界」への思いを馳せたのですが
すぐさま
沈黙の世界が戻ります
ここは
道修山……
山の上なのです

しかし
それ以上のことを
詩人は歌いませんでした


 道修山夜曲

星の降るよな夜(よる)でした
松の林のその中に、
僕は蹲(しやが)んでをりました。

星の明りに照らされて
折しも通るあの汽車は、
今夜何処(どこ)までゆくのやら。

松には今夜風もなく
土はジツトリ湿つてる。
遠く近くの笹の葉も
しづもりかへつてゐるばかり。

星の降るよな夜でした、
松の林のその中に
僕は蹲んでをりました。
        ―― 一九三七、二、二――

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月23日 (火)

生前発表詩篇を読む続編   <30>聞こえぬ悲鳴

「聞こえぬ悲鳴」は
「改造」の昭和12年春季特大号(同年4月1日付け発行)に
初出した作品で
第一次形態と第二次形態が存在します

第一次形態は草稿で
第二次形態が「改造」発表の作品で
制作日は
どちらにも記載がありますが
第一次形態のほうが詳しく
月日の記載があることなどから
昭和10年(1935年)4月23日をとります
両者に内容の異同はありません

現存する草稿(つまり第一次形態)と
同じ原稿用紙を使って書かれた作品に
未発表詩篇「十二月の幻想」があり
いっぽう
昭和10年4月23日の日記に
「昨夜二時迄読書。それより二篇の詩を物し、終ること四時半」と
記されていることから
この「二篇」が
「聞こえぬ悲鳴」と
「十二月の幻想」であることが推定されています

この詩は
このような素性をもつものですが
このようなことを知った上で
これが発表された時点の
詩人の状況がどんなだったかに注目すると……

昭和12年4月1日付けを発行日とする「改造」は
印刷が同年3月18日とわかっていますから
逆算すれば
作品が送付されたのは
昭和12年2月中旬と推定されます

このころ
詩人は
千葉県にある中村古峡療養所で
1か月強にわたる入院生活を終えた直後でした

同じころ
「文学界」に発表された詩篇に
有名な「冬の長門峡」があり
これが2月16日から26日の間に
旧稿を改めて「文学界」へ
送付されたことがわかっていますから
「聞こえぬ悲鳴」も
同じように
作り置きの作品を整えて
「改造」へ送ったものであろうと推定されています

詩人は
不本意な入院生活を余儀なくされ
入院中は
新規書き下ろしも禁止されている状態でしたし
1か月以上のブランクから
詩人活動を復旧するために
自主的な「リハビリ期間」を作ったようです

この期間に
旧作を整理したり
改稿したりして
コンディションを整えていたことを想像することができますし
そのことこそは
長男・文也の死の衝撃を
まともに受けていたことの反映でした

「聞こえぬ悲鳴」の内容が
療養所の体験を
直接に反映するものでなく
文也の死をストレートに
悼んだものでもないことは
確かなことですが

悲しい 夜更は 腐つた花弁(はなびら)——
   噛んでも 噛んでも 歯跡〈はあと〉もつかぬ
   それで いつまで 噛んではゐたら
   しらじらじらと 夜は明けた

と歌った悲しみは
これをはじめて歌った
昭和10年4月23日時点の悲しみとばかり限定されない
この時点
中村古峡療養所を退院した直後
昭和12年2月中旬ころ
詩人を襲っていた悲しみに
オーバーラップしている
ということができそうなのです

古い草稿をノートから引っ張り出し
そこに書かれた悲しみが
現在の悲しみに重なっていることを自覚しても
この悲しみは
よって来るところが異なるから
発表を控えるというようなことにはならないはずです

人の悲しみの声は
なんと
聞えないものか……

 *
 聞こえぬ悲鳴

悲しい 夜更が 訪れて
菫(すみれ)の 花が 腐れる 時に
神様 僕は 何を想出したらよいんでしよ?

痩せた 大きな 露西亜の婦(をんな)?
彼女の 手ですか? それとも横顔?
それとも ぼやけた フイルム ですか?
それとも前世紀の 海の夜明け?

あゝ 悲しい! 悲しい……
神様 あんまり これでは 悲しい
疲れ 疲れた 僕の心に……
いつたい 何が 想ひ出せましよ?

悲しい 夜更は 腐つた花弁(はなびら)——
   噛んでも 噛んでも 歯跡〈はあと〉もつかぬ
   それで いつまで 噛んではゐたら
   しらじらじらと 夜は明けた
                  —— 一九三五、四——

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月22日 (月)

生前発表詩篇を読む続編   <29>或る夜の幻想(1・3)

「或る夜の幻想(1・3)」は
「四季」の昭和12年3月号(同年2月20日付け発行)に発表された
昭和8年(1933年)10月10日制作の作品です

と案内すると
妙にすっきりしますが
この詩の来歴は
少し複雑なものをもっていますので
簡単に
それを説明してみますと

はじめは
短詩6篇を連作に仕立てた
6節構成の詩「或る夜の幻想」が
作られました
それが
昭和8年10月10日の制作日を
末尾にもつ
第一次形態です

この第一次形態の詩の
第2節「村の時計」と
第4―6節「或る男の肖像」は
「在りし日の歌」に収録されますが
第1節と第3節は
「四季」発表後に
ほかのどこにも発表されなかったのです

という事情で
第一次形態が発表されている
「四季」昭和12年3月号の作品は
生前発表詩篇ということになりますが
この詩篇から
「村の時計」と「或る男の肖像」を除いた
「或る夜の幻想」は
「或る夜の幻想(1・3)」として
「生前発表詩篇」に掲出するのが
角川全集の考え方なのです

となれば
「或る夜の幻想」は
「四季」に
生前発表されたにもかかわらず
「或る夜の幻想」の第3節と第4節だけを
「或る夜の幻想(3・4)」として掲出するということになり
「或る夜の幻想」という作品は
「四季」の中にしか存在しないことになります

「或る夜の幻想(1・3)」という詩篇は
そういう来歴の詩篇です

と、この詩の来歴をひも解いたところで
なんの面白みもありませんが
この詩のように
短詩を連作構成で作ったり
作り直したり
散文詩を作ったり
作り直したりと
これまでにない詩の作り方を実践するのは
昭和11年後期に集中していることで
このことがなんらか
長男・文也の死の影響が感じられるという点です

新全集が明らかにしている
短詩連作や散文詩は
「ゆきてかへらぬ」(未定稿)
「散文詩四篇」として発表された
「郵便局」
「幻想」
「かなしみ」
「北沢風景」
の「四季」発表作品ほかに

「文学界」へ載せた連作形式の「詩三篇」
「また来ん春……」
「月の光」
「月の光 その二」
です

以上のうち
「文学界」発表の「詩三篇」は
文也の死以後に作られたことが判然としているのですが
「或る夜の幻想(1・3)」の末尾

  夢の中で、彼女の臍(おへそ)は、
  背中にあつた。

といふフレーズの
物騒といえば物騒な
シュールといえばシュールな
不気味であり
滑稽であり
狂気を含んだ終わり方は
明らかに

お庭の隅の草叢に
隠れてゐるのは死んだ児だ
(「月の光」)

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲んでる
(「月の光 その二」)

など
一連の晩年作へと
つながっているようです

(参考に第一次形態も載せておきます)

 *
 或る夜の幻想(1・3)

 1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥(ようふくだんす)があつた
その箪笥は
かはたれどきの色をしてゐた

彼女には
書物や
其(そ)の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた

  それで洋服箪笥の中は
  本でいつぱいだつた

3 彼 女

野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳(そび)えてゐた。

或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。

それでも彼女は、媚態(びたい)を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりで
  夢の中で、彼女の臍(おへそ)は、
  背中にあつた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)


「或る夜の幻想」

    1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があつた
その箪笥は
かはたれどきの色をしてゐた

彼女には
書物や
其(そ)の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた

  それで洋服箪笥の中は
  本でいつぱいだつた

     2 村の時計

村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた

その字板のペンキは、
もう艶が消えてゐた

近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか、
僕にも、誰にも分からなかつた

    3 彼 女

野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳(そび)えてゐた。

或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。

それでも彼女は、媚態(びたい)を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりで
  夢の中で、彼女の臍(おへそ)は、
  背中にあつた。

    4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢をとつても髪にはポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらはれて、
其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。

死んだと聞いては、
いつさうあはれであつた。

    5 無題
       ――幻滅は鋼のいろ。

髪毛の艶と、ラムプの金との夕まぐれ、
庭に向って、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。

剃りたての、頸条も手頸も、
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。

読書も、しむみりした恋も、
暖かい、お茶も黄昏の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。

    6 壁

彼女は
壁の中に這入つてしまつた
それで彼は独り、
部屋で卓子を拭いてゐた。
       (一九三三・一〇・一〇)

(新編中原中也全集第1巻「詩Ⅰ解題篇」より)
ルビを省略してあります。編者。

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2010年11月21日 (日)

生前発表詩篇を読む続編   <28>北沢風景

「北沢風景」は
「散文詩四篇」と題して
「郵便局」
「幻想」
「かなしみ」とともに
「四季」の昭和12年2月号(昭和12年1月20日付け発行)に
発表された
4番目の詩です

題名の北沢とは
東京世田谷の北沢のことですから
ただちに
詩人が住んでいたことのある
上北沢あたりの風景を歌った詩と推定され
制作日も限定されます

昭和3年9月から同4年1月まで
詩人は
関口隆克、石田五郎とともに
高井戸町下高井戸2-403で
共同生活していたことは
関口の回想などで広く知られたことですが
このときの最寄駅が
京王電気軌道北沢駅で
現在の京王線・上北沢駅であり
この地域は北沢の一角であることから
「北沢風景」のタイトルはつけられました

(現在の京王線は、明大前、下高井戸、桜上水、上北沢、八幡山、仙川と、長い間変わらない駅名が続いていますが、昭和初期の「高井戸町下高井戸」の最寄り駅が「下高井戸」ではなく「北沢」であったことが、新全集で案内されています。当時、「下高井戸駅」はなかったのかもしれません。あるいは、あっても「北沢駅」のほうが住居に近かったのかもしれません。このころ、井の頭線や玉電も近くを通っており、小田急と井の頭が交差する下北沢から、井の頭の代田、新松原、明大前へ、小田急と玉電、現在の東急世田谷線の交差する豪徳寺駅から山下、松原、下高井戸へと、「北沢」へはかなり密度の高い連絡網があったことが理解でき、中原中也もこの連絡網を利用していたのかもしれません。小田急・京王の下北沢、明大前、仙川、成城学園前の4駅で囲まれた世田谷北部は「北沢風景」で歌われた「北沢」の一角であり、それは「武蔵野」の一角でもありました) 

下北沢ではなく
上北沢であったところに
当時のこの近辺の住宅事情や
それぞれの駅周辺の発展ぶりなどが
しのばれますが
井の頭線や
小田急線も走っていたものの
省線(現在のJR中央線)により近かった
上北沢のほうが下北沢よりも
住宅地化が進んでいたのでしょうか

夕べが来ると僕は、台所の入口の敷居の上で、使ひ残りのキャベツを軽く、鉋丁の腹で叩いてみたりするのだつた。

と歌いだされる「北沢風景」は
同人誌「白痴群」創刊前の
共同生活を素材にしていますから
詩人もたまには
食事を作る輪の中にあって
その時のことを描いたのでしょう

細葱を刻んで
ソースをかけて食べた話などが
伝わっているのも
このころの経験でしょうか
関口隆克は
のちに開成学園の学長になる
教育畑の人ですから
共同生活も
旺盛に楽しく行って
集団生活が苦手だったに違いない詩人も
面白おかしく楽しく
暮したのかもしれません

そのような詩人も
夜になれば

僕は出掛けた。僕は酒場にゐた。僕はしたたかに酒をあほつた。翌日は、おかげで空が真空だつた。真空の空に鳥が飛んだ。

と深酒し
朝をどこか飲み友達の家で迎えるのか
北沢への連絡網のどれかをたどって
夜遅く帰宅して泥のように眠り
目に沁みるような空を
仰ぎ見る時を味わいます

この詩にも
やはり
愛息の死は
映し出されていませんが
共同生活の楽しさばかりが
歌われているものでもなく
「四季」へ送る気持ちを
否定するものではありませんでした

 *
 北沢風景

 夕べが来ると僕は、台所の入口の敷居の上で、使ひ残りのキャベツを軽く、鉋丁の腹で叩いてみたりするのだつた。
 台所の入口からは、北東の空が見られた。まだ昼の明りを残した空は、此処台所から四五丁の彼方に、すすきの叢(むら)があることも思ひ出させはせぬのであつた。
 ——嘗て思索したといふこと、嘗て人前で元気であつたといふこと、そして今も希望はあり、そして今は台所の入口から空を見てゐるだけだといふこと、車を挽いて百姓はさもジツクリと通るのだし、——着物を着換へて市内へ向けて、出掛けることは臆怯であるし、近くのカフヱーには汚れた卓布と、飾鏡(かざりかゞみ)とボロ蓄音器、要するに腎臓疲弊に資する所のものがあるのであるし、感性過剰の斯の如き夕べには、これから落付いて、研鑽にいそしむことも難いのであるし、隣家の若い妻君は、甘ッたれ声を出すのであるし、……
 僕は出掛けた。僕は酒場にゐた。僕はしたたかに酒をあほつた。翌日は、おかげで空が真空だつた。真空の空に鳥が飛んだ。
 扨、悔恨とや……十一月の午後三時、空に揚つた凧ではないか? 扨、昨日(きんのふ)の夕べとや、鴫が鳴いてたといふことではないか?

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月17日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <27>かなしみ

「かなしみ」は
「散文詩四篇」と題して
「幻想」
「郵便局」
「北沢風景」とともに
「四季」の昭和12年2月号(昭和12年1月20日付け発行)に
発表されました

制作は昭和11年(1936年)12月中旬と推定され
初稿の制作年月が特定できないのは
ほかの3篇と同様ですが
詩の終わり近くに

幼な児ばかりいとほしくして、はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け

とある「幼な児」が
長男文也のことであるとすれば
その死以前に
初稿が作られたことが確認できます

(「幼な児」を、長谷川泰子が生んだ演出家・山川幸世との子・茂樹と推測する考え方もあります。そう考えると、初稿の制作日は茂樹が生まれた昭和5年12月以降とさらに限定されてきますが、特定はできません)

詩のはじめのほうに出てくる
「悲しみ呆け」=カナシミボケは
そうなると
愛息の死を原因とするものではなく
ある夏の朝の目覚めに
抱かれたより倦怠(けだい)に近い
悲しみということになるようです

「朝の歌」や
「汚れつちまつた悲しみに……」の
倦怠の調べに
連なっている
悲しみの感情です

そうであるからといって
この悲しみが
文也の死による悲しみと
無縁のものであるなどということでもありません

文也の死の直後に
古い草稿の中から
この「かなしみ」を取り出して
そのままか
散文詩の形に整えたかして
ほかの3篇とともに
「四季」に送ったからには
送った現在と
詩作品の現在が
まったく無関係なものではないことをも
明らかにしているはずだからです

「四季」に送稿した直前に
旧稿を改めたか
わずかの推敲を加えただけだったかはわかりませんが
このころを制作日と推定するならば
まさにこのころ
詩人は
文也の死に
詩人としてはじめて向き合い
「文也の一生」を
日記に記したのです

それは
昭和11年12月12日のことです

 *
 かなしみ

 白き敷布のかなしさよ夏の朝明け、なほ仄暗(ほのぐら)い一室に、時計の音〈おと〉のしじにする。
 目覚めたは僕の心の悲しみか、世に慾呆(よくぼ)けといふけれど、夢もなく手仕事もなく、何事もなくたゞ沈湎(ちんめん)の一色に打続く僕の心は、悲しみ呆けといふべきもの。
 人笑ひ、人は囁き、人色々に言ふけれど、青い卵か僕の心、何かかはらうすべもなく、朝空よ! 汝(なれ)は知る僕の眼(まなこ)の一瞥(いちべつ)を。フリュートよ、汝(なれ)は知る、僕の心の悲しみを。
 朝の巷(ちまた)や物音は、人の言葉は、真白き時計の文字板に、いたづらにわけの分らぬ条(すぢ)を引く。
 半ば困乱(こんらん)しながらに、瞶(みは)る私の聴官よ、泌(し)みるごと物を覚えて、人竝(ひとなみ)に物え覚えぬ不安さよ、悲しみばかり藍(あい)の色、ほそぼそとながながと朝の野辺空の涯(はて)まで、うちつづくこの悲しみの、なつかしくはては不安に、幼な児ばかりいとほしくして、はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け、祈る祈りは朝空よ、野辺の草露、汝(なれ)等呼ぶ淡(あは)き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月16日 (火)

生前発表詩篇を読む続編   <26>幻想

「幻想」は
「散文詩四篇」と題して
「郵便局」
「かなしみ」
「北沢風景」とともに
「四季」の昭和12年2月号(昭和12年1月20日付け発行)に
発表された作品
制作は昭和11年(1936年)12月中旬と推定されていますが
初稿の制作年月は特定できません

制作日が
昭和11年12月中旬であるならば
詩人が眼に入れても痛くはないというほどに可愛がっていた
長男文也の死の直後のことであり
その衝撃や悲しみが
表現されないことのほうが
不自然と考えるのが自然ですが
「幻想」にも
その痕跡すらがありません

詩人は
深い悲しみにあって
即座には
詩を書くことができず
約束していた原稿を各所に渡すのが
精一杯のことだったのかもしれません

そのために
書きためた草稿の中から
いくつかを選んで
推敲を加えてから
各誌へと送り届けたのかもしれません

「幻想」は
愛息を失った悲しみが表れることはないのですが
アメリカ合衆国の第16代大統領リンカーンと
偶然にも同じホテルに泊って
古くからの友人ででもあるかのように
しみじみとした会話を交わす……

という設定の
不思議で
シュールで
幻想的な内容の詩ですが
これを
ソネットでも
文語詩でもなく
散文詩とし
あたかも小説の1シーンであるかのように創作したのは

そのこと自体が
悲しみを乗り越えようとした
詩人の意思の表現であったかもしれない
などと思えてきて
とりとめがありません

この詩の中で
詩人は
言葉少なげに
リンカーンに話しかけます

「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚つてゐます」
「ほんとに」

リンカーンも
言葉少なげに
応じます

詩の中の詩人と
リンカーンとが
同時に眺めいる「エヤメール」と
(「エヤーメール」は「エアーサイン=広告気球」の誤用と解釈されるのが普通です)
これを書いている詩人が見ている「エヤメール」に
悲しみの色が混じっていないとはいえませんし
悲しみの中に立ち上がる
心もとないけれど
確かである希望が
見えているのかもしれません
いや
見ようとしているだけなのかもしれません

 *
 幻 想

 草には風が吹いてゐた。
 出来たてのその郊外の駅の前には、地均機械(ローラー・エンジン)が放り出されてあつた。そのそばにはアブラハム・リンカン氏が一人立つてゐて、手帳を出して何か書き付けてゐる。
(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)
「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。
「リンカンさん」
「なんですか」
 私は彼のチョッキやチョッキの釦(ボタン)や胸のあたりを見た。
「リンカンさん」
「なんですか」
 やがてリンカン氏は、私がひとなつつこさのほか、何にも持合はぬのであることをみてとつた。
 リンカン氏は駅から一寸行つた処の、畑の中の一瓢亭に私を伴つた。
 我々はそこでビールを飲んだ。
 夜が来ると窓から一つの星がみえた。
 女給が去り、コックが寝、さて此の家には私達二人だけが残されたやうであつた。
 すつかり夜が更けると、大地は、此の瓢亭(ひようてい)が載つかつてゐる地所だけを残して、すつかり陥没してしまつてゐた。
 帰る術(すべ)もないので私達二人は、今夜一夜を此処に過ごさうといふことになつた。
 私は心配であつた。
 しかしリンカン氏は、私の顔を見て微笑(ほほえ)むでゐた、「大丈夫(ダイジヨブ)ですよ」
 毛布も何もないので、私は先刻から消えてゐたストーブを焚付けておいてから寝ようと思つたのだが、十能も火箸もあるのに焚付(たきつけ)がない。万事諦めて私とリンカン氏とは、卓子(テーブル)を中に向き合つて、頬肘(ほおひじ)をついたまゝで眠らうとしてゐた。電燈は全く明るく、残されたビール瓶の上に光つてゐた。
 目が覚めたのは八時であつた。空は晴れ、大地はすつかり旧に復し、野はレモンの色に明(あか)つてゐた。
 コックは、バケツを提げたまま裏口に立つて誰かと何か話してゐた。女給は我々から三米(メートル)ばかりの所に、片足浮かして我々を見守つてゐた。
「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚つてゐます」
「ほんとに」

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*原作品は、「ひとなつつこさ」に傍点が付されています。(編者)

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2010年11月15日 (月)

生前発表詩篇を読む続編   <25>郵便局

「郵便局」は
中原中也が参加していた詩誌「四季」の
昭和12年2月号(昭和12年1月20日付け発行)に発表された作品で
制作は昭和11年(1936年)12月中旬と推定されていますが
初稿の制作年月は特定できません

「散文詩四篇」と題して
同じ号に
「幻想」
「かなしみ」
「北沢風景」とともに
掲載されました

昭和11年11月10日に
愛息・文也を亡くした詩人です
その影響が
「郵便局」の内容に反映されているのか
断定的なことはいえませんが

繰り返し読んでみて
突然見舞われた悲しみ
といったような感情はかけらも見つけられず
冒頭行の
ガランとした所で遊んで来たい
にも
詩人の日常的な倦怠(けだい)が
感じ取れるばかりです

長男文也の死以前に作りおいた詩篇の
散文詩ばかりを選んだのか
定型詩を4篇引っ張り出して
散文詩に作り直してから
「四季」に送ったものなのか
そのどちらかと考えるのが自然でしょうか

ほかの作品も一律に
そういうことがいえるわけではありませんが
「郵便局」は

わが部屋わが机特有の厭悪

とあるように
慣れ親しんだ詩作の場から
時には
逃げ出したくなるほどの
「嫌気」を覚えるものであることを歌っているもので
ここにも倦怠(けだい)があって
なんらかの事件の匂いはありません

かつて読んだ時には
「正午―丸ビル風景」との類縁性を感じたのですが
それは
この郵便局が
東京丸の内にある
中央郵便局を思い出させたからで
そう思い出させた理由は何もなく
ひらめいただけだったのです

今読んでみても
この郵便局が
正午の丸の内ビルの一角にあっても
おかしくはなく
それならば中央郵便局としてもよいのですが
市ヶ谷谷町あたりの
もう少し小さな規模の郵便局を想定しても
的外れではありませんし
違った味わいが出てくるかもしれません

初稿の制作が特定できないのですから
市ヶ谷でも丸の内でもない
ほかの郵便局である可能性もあり
場所を限定する意味は薄れてきます

   *    
 郵便局

 私は今日郵便局のやうな、ガランとした所で遊んで来たい。それは今日のお午(ひる)からが小春日和で、私が今欲してゐるものといつたらみたところ冷たさうな、板の厚い卓子(テーブル)と、シガーだけであるから。おおそれから、最も単純なことを、毎日繰返してゐる局員の横顔!——それをしばらくみてゐたら、きつと私だつて「何かお手伝ひがあれば」と、一寸(ちよつと)口からシガーを外して云つてみる位な気軽な気持になるだらう。局員がクスリと笑ひながら、でも忙しさうに、言葉をかけた私の方を見向きもしないで事務を取りつづけてゐたら、そしたら私は安心して自分の椅子に返つて来て、向うの壁の高い所にある、ストーブの煙突孔でも眺めながら、椅子の背にどつかと背中を押し付けて、二服ほどは特別ゆつくり吹かせばよいのである。
 すつかり好い気持になつてる中に、日暮は近づくだらうし、ポケットのシガーも尽きよう。局員等の、機械的な表情も段々に薄らぐだらう。彼等の頭の中 に各々(めいめい)の家の夕飯仕度の有様が、知らず知らずに湧き出すであらうから。
 さあ彼等の他方見(よそみ)が始まる。そこで私は帰らざなるまい。
 帰つてから今日の日の疲れを、ジツクリと覚えなければならない私は、わが部屋とわが机に対し、わが部屋わが机特有の厭悪(えんお)をも覚えねばなるまい……。ああ、何か好い方法はないか?——さうだ、手をお医者さんの手のやうにまで、浅い白い洗面器で洗ひ、それからカフスを取換へること!
 それから、暖簾(のれん)に夕風のあたるところを胸に浮べながら、食堂に行くとするであらう……

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月14日 (日)

生前発表詩篇を読む続編   <24>現代と詩人

「現代と詩人」は
昭和11年(1936年)12月1日付け発行の
「作品」12月号に発表された
同年10月制作(推定)の作品です

このころの日記を
読んでおきましょう

10月8日
 草野に誘われて高村氏訪問。そこへ尾崎喜八現れ4人で葛飾区柴又にゆく。尾崎という男はチョコチョコする男。草野は又妙な奴。甚だ面白くなかった。

10月10日
 終日ラヂオにて野球とチルデン対ヴァインズの庭球を聴く。名人というものはしなやかで、それでいてセンチメンタルでないものだ。けれどもそこの所の味を、観衆中の1パーセントが理解したかどうかは甚だ疑問である。(原文のヴァインズのヴァはワに濁点。)

 くせのないということは、難のない平凡ということではないのだ。

10月11日
 拾郎戸塚の方の下宿に越す。

コンスタンのアドルフ読みぬ秋の暮
みの虫がかぜに吹かれてをれりけり
   かくして秋は深まれりけり

10月15日
 朝起きたらば、とにかくその日の前半を読書に、後半を書くことにきめた。朝から書こうとしていると、書けない日は遂に読書も出来ない。
 恐らく右の掟は、あらゆる創造的な性質の人間に有益なことであろう。

 拾郎が遊びに来た。今日から1週間休校の由。今度の下宿も亦ぢきに変りたくなったと云っていた。退屈しているんだ。
 環境について文句を云ってればきりがないぞ。

10月18日
 文也の誕生日。雨天なので、動物園行きをやめる。

 フランソワ・コッペの「悲哀の娘」を読了。

10月30日
 先達から読んだ本。リッケルトの「認識の対象」。コフマンの「世界人類史物語」。「三富朽葉全集」。「パスカル随想録(抄訳)」。「小林秀雄文学読本」。「深淵の諸相」。「芭蕉の紀行」少し。
 いよいよ今日からまた語学に入る。来春からはフランスの詩集が自在に読めるように、神に祈る。次第に、詩一天張に勉強していればよいという気持になる。
 モツアルト、ヴァイオリン・コンチェルト第5番イ長調をラヂオで聴いて感銘す。
 もうもう誰が何と云っても振向かぬこと。詩だけでもすることは多過ぎるのだ。
 22日以来外出せず。坊やでも大きくなったら、もっと映画でも見るべし。
 詩に全身挙げて精進するものなきは寧ろ妙なことなり。斯くも二律背反的なものを容易に扱えると思えるは、愚鈍の極みというべきだ。
 語学をやらねばならぬ。このことだけが大切なり。

※現代仮名遣いに改めたほか、漢数字を洋数字に直すなどの書き換えをしてあります。編者。

以上
昭和11年(1936年)10月の日記を
角川新全集第5巻「日記・書簡」から
すべて引用してみました

11月3日は
晴。午後阿部六郎訪問。夕刻より渋谷に出て飲む。渋谷で飲んだのは多分昭和5年以来のことだ。だいぶ変わっている。

と続き
ずっと読み続けたい気分になりますが
ここでは打ち切って
このころの社会や
世界情勢に
目を向けておきます

この年の2月に
帝国陸軍の将校による「反乱」
2.26事件が起こりました

ドイツではヒトラーのナチスが台頭
3月には非武装地帯ライン川左岸へ侵攻します
7月には
スペイン内戦が勃発

8月には
「前畑ガンバレ」のアナウンスで有名な
ベルリン五輪が開かれています

同月、日本陸軍に
後の「731部隊」である
関東軍防疫給水部本部が組織されます

ソ連では
9月ごろから
スターリンによる粛清が
本格化しました

アメリカでは
11月に
フランクリン・ルーズベルトが
大統領選で再選されます

詩人の近くでは
交流のあった作家・牧野信一が
生地小田原で自殺したのが
3月24日です

先に案内した
中原中也の詩「秋を呼ぶ雨」が発表された
文芸懇話会が発足したのは
1934年でした

2.26事件は
この事件が単独に起こったものでなく
1932年の5.15事件などの流れが
必然的に誘発したものであるように
文芸懇話会も
文学芸術の領域における
思想統制の流れの必然でした

この流れは
15年戦争という
大きな歴史の中において把握すべき
歴史認識の問題ですが
文学芸術のいとなみは
やがて
1940年の大政翼賛会
1942年の文学報国会などと
戦争の渦の中に巻き込まれてゆきます

詩人・中原中也も
こうした時代の大きなうねりの中に
生きていて
「いやなムード」を敏感に
感じ取っていました

「現代と詩人」は
戦争へ戦争へと
突き進んでゆく時勢を
明確に意識した感性を歌ったものであるとは
だれもいわない詩ですが

だれもそういわないことのほうに
この詩人への無理解が
集中的に表現されている
とひとこと言っておきたい作品です

そのように
無理解にさらされている
詩の一つです

 *
 現代と詩人

何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だつてそれだけが、私にとつては「充実」なのだから。

——そんなの古いよ、といふ人がある。
しかしさういふ人が格別新しいことをしてゐるわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いてゐれば、
それは、それでいいのだと考ふべきものはある。

とはいへそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといつてその正体が、シカと掴めたこともない。

私はそれを、好加減に推量したりはしまい。
それがハツキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまらう。
それまで私は、此処を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

われわれのゐる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持つてはゐない、持たうがものはないのだ。
さて希望を失つた人間の考へが、どんなものだか君は知つてるか?
それははや考へとさへ謂(い)へない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

私は古き代の、英国(イギリス)の春をかんがへる、春の訪れをかんがへる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがへる、旅行家の貌(かほ)をかんがへる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居への訪問をかんがへる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据えられた食卓のことをかんがへる。

私は死んでいつた人々のことをかんがへる、——(嘗(かつ)ては彼等も地上にゐたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがへる、その校庭の、雨の日のことをかんがへる。
それらは、思ひ出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんださうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行つたことがあるやうな気がする。
世界の何処(どこ)だつて、行つたことがあるやうな気がする。
地勢と産物くらゐを聞けば、何処だつてみんな分るやうな気がする。

さあさあ僕は、詩集を読まう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあつて、とても、当今日本の雑誌の牽強附会の、陳列みた
  いなものぢやない。それで心の全部が充されぬまでも、サツパリとした、カタルシ
  スなら遂行されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月 9日 (火)

生前発表詩篇を読む続編   <23>漂々と口笛吹いて

「漂々と口笛吹いて」は
「少女画報」昭和11年11月号(同年11月1日発行)に初出した
昭和11年(1936年)9月制作(推定)の作品です

この詩の主語は
「秋」です
そう
擬人法=ギジンホウというやつです

人以外のモノを
人に
擬(なぞら)えて
人のように
記述するのです

飄々と
口笛吹いて
地平線のあたりを
歩き回る

一枝の
ポプラを担いで
ゆさゆさと
葉っぱをひるがえして
歩き回るのは

褐色の
海賊帽子
ひょろひょろした
ズボンをはいて
地平線のあたりの
森の
こちらのほうを
すれすれに
目立たぬように
歩いているのは

秋なのです

(ポプラの枝を一本担いで葉っぱを靡かせて歩き回る!)
(海賊のかぶる帽子とひょろひょろしたズボン!)
(なんともメルヘンチックな秋!)
(ワンダーランド!)

あれは何だ?
あれは何だ?
あれは単なるノンキモンか?
それとも
あれはオウチャクモンか?

地平線のあたりを口笛吹いて
ああして呑気に歩いていく
ポプラを担いで葉っぱをひるがえし
ああして呑気に歩いていく
弱げに見えるが横着そうで
だからといって
別に悪意はないのは

あれは
秋さ
ただなんとなく
お前の意欲を試しに来たのさ
あんまりあんまり
ただなんとなく
笑いに来たのさお前の意欲を

笑いを止めてもいいよと
やがてあいつが思うころ
笑うことすら止めてしまえと
やがてあいつが帰るころには

冬が来るのさ
冬が冬が
野分の色の
冬が来るのさ

逝く夏を惜しみ
もう秋が来てしまったと
季節のめぐりのスピードに驚く詩人は
訪れたばかりの秋に
早くも
冬の到来を予感するのです

詩人はすでに
擬人法の詩「秋の愁嘆」を
大正14年(1925年)10月に

あゝ、 秋が来た
眼に琺瑯(はふらう)の涙沁む。
あゝ、 秋が来た
胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を蹂躪(じゆうりん)に秋がおぢやつた。

その着る着物は寒冷紗(かんれいしや)
両手の先には 軽く冷い銀の玉
薄い横皺(よこじわ)平らなお顔で
笑へば籾殻(もみがら)かしやかしやと、
へちまのやうにかすかすの
悪魔の伯父さん、おぢやつたおぢやつた。

と歌いました

秋という季節は
この詩「秋の愁嘆」のように
詩人にとって
早い時期から
特別の季節でした

大正14年(1925年)の秋

長谷川泰子が詩人の元を去り

小林秀雄と暮らしはじめる事件があったのです。

11月の事件です。

 *
 漂々と口笛吹いて

漂々と 口笛吹いて 地平の辺(べ)
  歩き廻るは……
一枝の ポプラを肩に ゆさゆさと
葉を翻(ひるが)へし 歩き廻るは

褐色(かちいろ)の 海賊帽子 ひよろひよろの
ズボンを穿(は)いて 地平の辺
  森のこちらを すれすれに
目立たぬやうに 歩いてゐるのは

あれは なんだ? あれは なんだ?
あれは 単なる呑気者か?
それともあれは 横著者(わうちやくもの)か?
あれは なんだ? あれは なんだ??

  地平のあたりを口笛吹いて
  ああして呑気に歩いてゆくのは
  ポプラを肩に葉を翻へし
  ああして呑気に歩いてゆくのは
  弱げにみえて横著さうで
  さりとて別に悪意もないのは

あれはサ 秋サ たゞなんとなく
おまへの 意欲を 嗤(わら)ひに 来たのサ
あんまり あんまり たゞなんとなく
嗤ひに 来たのサ おまへの 意欲を

  嗤ふことさへよしてもいいと
  やがてもあいつが思ふ頃には
  嗤ふことさへよしてしまへと
  やがてもあいつがひきとるときには

冬が来るのサ 冬が 冬が
野分(のわき)の 色の 冬が 来るのサ

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月 8日 (月)

生前発表詩篇を読む続編   <22>はるかぜ

「はるかぜ」は
「歴程」第3次創刊号に初出した作品
昭和11年(1936年)10月1日付けの発行で
制作は同年3月と推定されているものです

「歴程」の創刊が
3度も繰り返された事情について
主宰者の草野心平は

「歴程」の発端は一昨々年の夏で、それから六ヶ月目に創刊された。その一冊のまゝ永い事休刊して、第二号を――といふよりは再度の創刊を今年の三月にし、翌四月と続いて二冊出したが、再び種々の事情からしばらく休刊の止むなきに至り、此度は即ち第三回目の創刊である。

と同号(第3次創刊号)に記していますが
第3次「歴程」も
第2号(昭和11年11月1日発行)を出して休刊
第4次「歴程」は
昭和14年4月に刊行されるといったように
ジグザグの道をたどります

裏表紙(うらびょうし)いわゆる「表4」に

尾崎喜八
岡崎清一郎
河田誠一
金子光晴
菊岡久利
草野心平
宍戸儀一
高村光太郎
高橋新吉
田村泰次郎
中原中也
逸見猶吉
土方定一
菱山修三
藤原定
松永延造
宮沢賢治
山の口獏

の同人18名が列記されています

第2次「歴程」の第3号の発行に合わせて
「歴程」編集の草野へ送付されたが
3号は発行されなかったため
再々創刊号である
第3次「歴程」に掲載されたものと推定され
制作も
第2次「歴程」第3号(未刊行)の発行日の2月前である
昭和11年3月とされているものです

第2次「歴程」第2号(4月発行)には
「冬の明方」(「在りし日の歌」では「冬の明け方」)が発表され
引き続いて発表されるはずの作品が
「はるかぜ」でしたから
制作日を推定できるわけです
(以上、新全集・第1巻「詩・改題篇」より)

「はるかぜ」が作られたころ
詩人は
市谷・谷町に住んでいたはずですから
近辺に建築中の家が見えたのでしょうか

部屋にゐるのは憂鬱で、
出掛けるあてもみつからぬ。

とありますから
外出中に見かけたのではなく
部屋にいながらにして
目に入ってきた
家作りの風景なのでしょう

俺も家がほしいな
などという小市民的欲望を感じさせることはないのですが
このころ
長男文也は可愛さ盛りで
妻孝子ともども
親子水入らずの時間を
旺盛な詩活動の合間に持てたことが想像できます

「春、文也を連れて動物園に行く」と
年譜にあるのは
この年の春ですし
このことをやがて
文也の突然の死去により
「文也の一生」に記すのも
この春のことです

詩人は
来るべき不幸を
一抹も感じることなく

鉋(かんな)の音は春風に、
散つて名残はとめませぬ。

と歌っていたのです

傍らには
言葉を喋り始めた
幼子(おさなご)がいて
その子を甲斐甲斐しく世話する
孝子の姿があったかもしれません

かすかに感じられるだけですが
このころの詩人に
短い幸福の
ドメスティックな時間がありました

 *
 はるかぜ

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
   空は曇つてはなぐもり、
   風のすこしく荒い日に。

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
   部屋にゐるのは憂鬱で、
   出掛けるあてもみつからぬ。

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
   鉋(かんな)の音は春風に、
   散つて名残はとめませぬ。
   
   風吹く今日の春の日に、
   あゝ、家が建つ家が建つ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月 7日 (日)

生前発表詩篇を読む続編   <21-2>秋を呼ぶ雨

「秋を呼ぶ雨」のつづきを
読んでいきます

僕=詩人は
「灰のばらまかれた部屋」にいます
そこに
蹲(うずくま)ったり
座ったり
寝転(ねころ)んだりして
暮していました

(倦怠=ケダイのモード)

季節の変わり目の
ある夜明け
秋のはじまりを告げる雨の中から
コケコッコーと鶏鳴が一つ……
しばらくしてまた一つ……

(鶏鳴は、詩人に汽笛を思い出させます)
(へとへとにくたびれている詩人)
(傍らの恋愛物語をパラパラめくる詩人)
(女の愛があっても、いま、僕は立ち上がれない……)

<2>にはいります

女の愛などに
心が動くこともないのを
世間の水の冷たさを味わいつくしたお前は
性根(しょうこん)尽き果ててしまったのだ

弾力を失ったこのような思いを
告白してみたところで
面白くありませんし
さっぱりするものでもありません
それほどに
僕という生存は
汚れてしまっていたのです

それこそが
かつて欺かれたことによって
もろもろ残された灰燼のせいだと分かっても……

(私を欺いたあの事件がその後そのことを思うたびに灰として堆積していったのです!)

詩の冒頭

畳の上に、灰は撒(ま)き散らされてあつたのです。

の「灰」の正体が
ここで明らかにされます

欺かれたというのは
長谷川泰子が
小林秀雄のもとへと去った事件のことでありそうですが
その後その事件を
幾万回となく思い出しても
憤ることもなく
ただ淋しさと怖れという感情を抱えて
夜明け前の灰だらけの部屋にいるのです

(あれこれと思い出した結果、残る言葉の残骸が灰燼となって堆積する)
(弾力も光沢(つや)も色香(いろか)もない思索の脱け殻が灰となる)
(考えれば考えた分だけ積もっていく灰……)

そうしていま
こんなことを思い出すのです
やさしくて
理不尽なだけではない僕の心に
雨よ
雨ばかりは
少しは楽しく響いたってよかろうものなのに!
土砂降りじゃないか……

(この絶望的な深淵にあり)
それでもなお
僕の心は
面白くもない
最後の壁の何の味もしないのを嘗(な)めては
死のうかなどと考えることもなく
なんとも陰鬱な1日1日を
うわべを整えてやり過ごしてきたのです

<3>に入って

屋根のトタンは雨に洗われ
裏の店のたくましい女将さんを思わせたりしました
それ(トタン)は酸っぱくてつるつるしていても
意地悪でだけはないのでした
雨はその女将さんのうちの箒(ほうき)のように
だらだらだらだらと降り続きました

瓦は不平そうでした
含まれる限りの雨を含んで
それは怒りっぽい老地主の不平のようでしたが
それにしても、持って廻った趣味などより
傷つき果てた私の心には
かえって健康なものに映りました

(雨やトタンや瓦を描いて、詩人は内面を投影しようとしています)

もはや人の癇症や癖などに
まるで動じることもないほどに
僕は伸びきって腐っていたのです
人の嘘だけは癪(しゃく)に障りましたが……
人の性向(癇癖)に好き嫌いをいうことなどはもう
早朝のビル街のような
凶悪な逞しさを要することに思えるのでした
(そんなパワーは僕にはない)

――そう
僕は伸びきったゴムの話をしたのです
だらだらだらだらと降る生ぬるい朝の雨の話を。
冷たく合羽に降りつけ
デッキをたたく雨の話なら
まだしも清々しい思いを抱かせることもできるのになどと思いながら……

<4>

どこまで続くのでしょう、この長い一本の道は
(どこまで続く泥濘=ぬかるみぞ)
(ロング・アンド・ワインディング・ロードよ)
かつてはそれを少しづつ片付けてゆくということが楽しみでした
いまやその
コツコツと麦稈真田(ばくかんさなだ)を編むというような楽しみも
残っていないほどに僕は疲れてしまっているのです

眠れば悪夢ばかり
もしそれに同情してくれる人があるにしても
その人に済まないと感じるくらいです
だって、自分で諦(あきら)めきっているその一本道を……

つまり
あらゆるモラリティーの影は消えてなくなってしまったのです
墓石のように灰色で
雨をいくらでも吸う石のようで
だらだらだらだらと降り続けるこの不幸は
もう終わるとも思えない
秋を告げるこの朝の雨のように
ジトジトとジャージャーと
降るのでした

<5>に入り
詩人の「現在」が明かされます

僕の心が
あの精悍(せいかん)な人々に出くわさないようにと念じながら
僕は
傘をさして雨の中を歩いていたのです

(あの精悍な人とは誰のことを指すのでしょうか)
(謎です)
(爆弾のような謎です)

現在
詩人は雨の中を
傘をさして歩いていますが
振り返った「過去」が
詩人の現在ではない
などということではありません

 *       
 秋を呼ぶ雨

   1

畳の上に、灰は撒(ま)き散らされてあつたのです。
僕はその中に、蹲(うずく)まつたり、坐つたり、寝ころんだりしてゐたのです。
秋を告げる雨は、夜明け前に降り出して、
窓が白む頃、鶏の声はそのどしやぶりの中に起つたのです。

僕は遠い海の上で、警笛を鳴らしてゐる船を思ひ出したりするのでした。
その煙突は白く、太くつて、傾いてゐて、
ふてぶてしくもまた、可憐なものに思へるのでした。
沖の方の空は、煙つてゐて見えないで。

僕はもうへとへとなつて、何一つしようともしませんでした。
純心な恋物語を読みながら、僕は自分に訊〈(たず)〉ねるのでした、
もしかばかりの愛を享(う)けたら、自分も再び元気になるだらうか?

かばかりの女の純情を享けたならば、自分にもまた希望は返つて来るだらうか?
然し……と僕は思ふのでした、おまへはもう女の愛にも動きはしまい、
おまへはもう、此の世のたよりなさに、いやといふ程やつつけられて了つたのだ!

   2

弾力も何も失くなつたこのやうな思ひは、
それを告白してみたところで、つまらないものでした。
それを告白したからとて、さつぱりするといふやうなこともない、
それ程までに自分の生存はもう、けがらはしいものになつてゐたのです。

それが嘗(かつ)て欺かれたことの、私に残した灰燼(かいじん)のせゐだと決つたところで、
僕はその欺かれたことを、思ひ出しても、はや憤りさへしなかつたのです。
僕はたゞ淋しさと怖れとを胸に抱いて、
灰の撒き散らされた薄明の部屋の中にゐるのでした。

そしてたゞ時々一寸(ちよつと)、こんなことを思ひ出すのでした。
それにしてもやさしくて、理不尽でだけはない自分の心には、
雨だつて、もう少しは怡(たの)しく響いたつてよからう…………

それなのに、自分の心は、索然と最後の壁の無味を甞(な)め、
死なうかと考へてみることもなく、いやはやなんとも
隠鬱なその日その日を、糊塗してゐるにすぎないのでした。

   3

トタンは雨に洗はれて、裏店の逞しいおかみを想はせたりしました。
それは酸つぱく、つるつるとして、尤(もつと)も、意地悪でだけはないのでした。
雨はそのおかみのうちの、箒(ほうき)のやうに、だらだらと降続きました。
雨はだらだらと、だらだらと、だらだらと降続きました。

瓦は不平さうでありました、含まれるだけの雨を含んで、
それは怒り易い老地主の、不平にも似てをりました。
それにしてもそれは、持つて廻つた趣味なぞよりは、
傷み果てた私の心には、却(かえつ)て健康なものとして映るのでした。

もはや人の癇癖(かんぺき)なぞにも、まるで平気である程に僕は伸び朽ちてゐたのです。
尤も、嘘だけは癪(しやく)に障(さわ)るのでしたが…………
人の性向を撰択するなぞといふことももう、
早朝のビル街のやうに、何か兇悪な逞しさとのみ思へるのでした。

——僕は伸びきつた、ゴムの話をしたのです。
だらだらと降る、微温の朝の雨の話を。
ひえびえと合羽(かつぱ)に降り、甲板(デツキ)に降る雨の話なら、
せめてもまだ、爽々(すがすが)しい思ひを抱かせるのに、なぞ思ひながら。

   4

何処(どこ)まで続くのでせう、この長い一本道は。
嘗てはそれを、少しづつ片附けてゆくといふことは楽しみでした。
今や麦稈真田(ばつかんさなだ)を編むといふそのやうな楽しみも
残つてはゐない程、疲れてしまつてゐるのです。

眠れば悪夢をばかりみて、
もしそれを同情してくれる人があるとしても、
その人に、済まないと感ずるくらゐなものでした。
だつて、自分で諦めきつてゐるその一本道…………。

つまり、あらゆる道徳(モラリテ)の影は、消えちまつてゐたのです。
墓石のやうに灰色に、雨をいくらでも吸ふその石のやうに、
だらだらとだらだらと、降続くこの不幸は、
もうやむものとも思へない、秋告げるこの朝の雨のやうに降るのでした。

   5

僕の心が、あの精悍(せいかん)な人々を見ないやうにと、
そのやうな祈念をしながら、僕は傘さして雨の中を歩いてゐた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月 6日 (土)

生前発表詩篇を読む続編   <21-1>秋を呼ぶ雨

畳の上に、灰は撒(ま)き散らされてあつたのです。

のっけから
詩のコアとなっている詩句が飛び出す
「秋を呼ぶ雨」は
昭和11年(1936年)7月の制作(推定)です

灰が畳の上に撒き散らされていた
とは
事件ですが……
 
読んでいくと
実際に
室内の畳の部屋が
灰で汚されている情景を歌っているのではなく
これはメタファーであることがわかります

何かが
灰のようなものになってしまって
その灰が
部屋の中いっぱいに撒き散らされて
火山灰が積もったような状態

その中で
うずくまったり
座ったり
寝転んだりして
生活していたのですから
灰だらけの真っ白な人間になったのかといえば
そういうことではなく
まるでそのように
灰の中で暮しているようだったという比喩なのです

その灰の正体は
やがて
明らかになるのですが
灰の散らばるような部屋で暮していた
ある日の夜明けに
秋を告げる
長々しい雨が降りはじめ
やむ気配も見せずに
どんどんどんどん降り続き
空が白むころには土砂降りになったのですが
ちょうどその激しい土砂降りにさ中に
鶏が鬨(とき)の声をあげたのです

倦怠=ケダイは
いまや
真夜中を越して
明け方を迎えています
それも霖雨の季節
土砂降りの雨
その上、その雨の中から
鶏鳴(けいめい)が聞こえてきたのです

こんな時刻に
覚醒しているものへ
詩人は
特別の感情を動かさざるを得ませんでした
詩人の思索は
遠い海を行く汽船の警笛へと
つながっていきます
鶏鳴が警笛を連想させ
やがて白く太く傾いた煙突を思い出させたのです
ふてぶてしくも可憐な煙突……
沖のほうの空は
霧か雨かで煙って
よくは見えないのですが

僕=詩人はへとへとでした
何一つやる気が起こりませんでした
そばに置いてある
純愛物語を読んで
その中の主人公のように
愛というものを享受したら
自分も元気を取り戻すのだろうか

希望は返ってくるだろうか
と思うものの
女の愛などというものにも
お前はもう動かされるということもないだろう
お前は
この世の頼りなさに
いやというほど
痛めつけられてきたではないか!

ここまでが
<1> です
<5>まである詩の一部です
序奏です

「秋を呼ぶ雨」は
文芸懇話会の機関紙である
「文芸懇話会」の昭和11年9月号(同9月1日発行)に
発表されました

(つづく)

 *       
 秋を呼ぶ雨

   1

畳の上に、灰は撒(ま)き散らされてあつたのです。
僕はその中に、蹲(うずく)まつたり、坐つたり、寝ころんだりしてゐたのです。
秋を告げる雨は、夜明け前に降り出して、
窓が白む頃、鶏の声はそのどしやぶりの中に起つたのです。

僕は遠い海の上で、警笛を鳴らしてゐる船を思ひ出したりするのでした。
その煙突は白く、太くつて、傾いてゐて、
ふてぶてしくもまた、可憐なものに思へるのでした。
沖の方の空は、煙つてゐて見えないで。

僕はもうへとへとなつて、何一つしようともしませんでした。
純心な恋物語を読みながら、僕は自分に訊〈(たず)〉ねるのでした、
もしかばかりの愛を享(う)けたら、自分も再び元気になるだらうか?

かばかりの女の純情を享けたならば、自分にもまた希望は返つて来るだらうか?
然し……と僕は思ふのでした、おまへはもう女の愛にも動きはしまい、
おまへはもう、此の世のたよりなさに、いやといふ程やつつけられて了つたのだ!

   2

弾力も何も失くなつたこのやうな思ひは、
それを告白してみたところで、つまらないものでした。
それを告白したからとて、さつぱりするといふやうなこともない、
それ程までに自分の生存はもう、けがらはしいものになつてゐたのです。

それが嘗(かつ)て欺かれたことの、私に残した灰燼(かいじん)のせゐだと決つたところで、
僕はその欺かれたことを、思ひ出しても、はや憤りさへしなかつたのです。
僕はたゞ淋しさと怖れとを胸に抱いて、
灰の撒き散らされた薄明の部屋の中にゐるのでした。

そしてたゞ時々一寸(ちよつと)、こんなことを思ひ出すのでした。
それにしてもやさしくて、理不尽でだけはない自分の心には、
雨だつて、もう少しは怡(たの)しく響いたつてよからう…………

それなのに、自分の心は、索然と最後の壁の無味を甞(な)め、
死なうかと考へてみることもなく、いやはやなんとも
隠鬱なその日その日を、糊塗してゐるにすぎないのでした。

   3

トタンは雨に洗はれて、裏店の逞しいおかみを想はせたりしました。
それは酸つぱく、つるつるとして、尤(もつと)も、意地悪でだけはないのでした。
雨はそのおかみのうちの、箒(ほうき)のやうに、だらだらと降続きました。
雨はだらだらと、だらだらと、だらだらと降続きました。

瓦は不平さうでありました、含まれるだけの雨を含んで、
それは怒り易い老地主の、不平にも似てをりました。
それにしてもそれは、持つて廻つた趣味なぞよりは、
傷み果てた私の心には、却(かえつ)て健康なものとして映るのでした。

もはや人の癇癖(かんぺき)なぞにも、まるで平気である程に僕は伸び朽ちてゐたのです。
尤も、嘘だけは癪(しやく)に障(さわ)るのでしたが…………
人の性向を撰択するなぞといふことももう、
早朝のビル街のやうに、何か兇悪な逞しさとのみ思へるのでした。

——僕は伸びきつた、ゴムの話をしたのです。
だらだらと降る、微温の朝の雨の話を。
ひえびえと合羽(かつぱ)に降り、甲板(デツキ)に降る雨の話なら、
せめてもまだ、爽々(すがすが)しい思ひを抱かせるのに、なぞ思ひながら。

   4

何処(どこ)まで続くのでせう、この長い一本道は。
嘗てはそれを、少しづつ片附けてゆくといふことは楽しみでした。
今や麦稈真田(ばつかんさなだ)を編むといふそのやうな楽しみも
残つてはゐない程、疲れてしまつてゐるのです。

眠れば悪夢をばかりみて、
もしそれを同情してくれる人があるとしても、
その人に、済まないと感ずるくらゐなものでした。
だつて、自分で諦めきつてゐるその一本道…………。

つまり、あらゆる道徳(モラリテ)の影は、消えちまつてゐたのです。
墓石のやうに灰色に、雨をいくらでも吸ふその石のやうに、
だらだらとだらだらと、降続くこの不幸は、
もうやむものとも思へない、秋告げるこの朝の雨のやうに降るのでした。

   5

僕の心が、あの精悍(せいかん)な人々を見ないやうにと、
そのやうな祈念をしながら、僕は傘さして雨の中を歩いてゐた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月 3日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <20>夢

「夢」は
昭和11年7月15日を発行日とする
「鵲」第10号に発表されました

「鵲」は
「かささぎ」と読み
カラスの仲間の鳥のことです

当時
満州の大連市で発行されていた
文学同人誌で
大分・国東出身の詩人・滝口武士が編集人
目次がなく
代わりに執筆者一覧があり

春山行夫
中原中也
安西冬衛
立原道造
阪本越郎
村野四郎

といった
知る人ぞ知る
錚々(そうそう)たるメンバーが
名を連ねていました

昭和11年6月23日の日記に
文学界八月号と「鵲」第十輯に詩稿発送
とあることから
制作日もこの日
昭和11年(1936年)6月23日と推定されています

一見して
「分かち書き」の詩であることが
目に飛び込んできますが
これは
当時、岩野泡鳴が提唱し
広まっていた詩の表記法で
中原中也も
これを「曇天」などで
実践していることは有名です

2-3-4音を
基本にした音数律ですが
詩人はここで
第7行、8行に
5音を交えて
オリジナリティーを打ち出し
破調を楽しんでいるかのようなつくりです

詩の内容といえば
これも
詩人が時々作るフィクションか
古代神話か何かの一つで

ある夜のこと
鉄の扉の隙間を覗(のぞ)くと
大荒れの海は轟(とどろ)き
私の髪の毛は強風に靡(なび)いて
炎が揺れては消えていったのが見えた

炎が消える直前
子どもとその母親が
荒れる海の波間にさらわれ
真っ白い腕をもがれて
消えて行くのを見た
という物語の断片です

それを
夢として
歌っている詩です

メディアに合わせて
色々な試みを工夫したようですが
音感を重んじた詩人のことで
ここでは

ヒトヨ
カネドノ
スキヨリ
ミレバ

ウミハ
トドロキ
ナミハ
オドリ

ワタシノ
カミゲノ
ナビクガ
ママニ

ホノオハ
ユレタ
ホノオハ
キエタ

この音数律を
味わうだけでも
楽しいものです

 *
 夢

一夜 鉄扉(かねど)の 隙より 見れば、
 海は轟(とどろ)き、浪は躍り、
私の 髪毛(かみげ)の なびくが まゝに、
 炎は 揺れた、炎は 消えた。

私は その燭(ひ)の 消ゆるが 直前(まへ)に
 黒い 浪間に 小児と 母の、
白い 腕(かひな)の 踠(もが)けるを 見た。
 その きえぎえの 声さへ 聞いた。

一夜 鉄扉の 隙より 見れば、
 海は 轟き、浪は 躍り、
私の 髪毛の なびくが まゝに、
 炎は 揺れた、炎は 消えた。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月 2日 (火)

生前発表詩篇を読む続編   <19>倦怠(へとへとの、わたしの肉体よ)

「倦怠(へとへとの、わたしの肉体よ)」は
「詩人時代」の昭和11年(1936年)4月号に
発表されたのが初出で
同年2月中旬の制作と推定されていますが
草稿は現存しないので
この初出誌を
底本とすることになっている作品です

「歴程」に寄せた
アンソロジー「倦怠輓歌」5作品の流れは
持続しています
メディアを移して
「詩人時代」に発表しても
倦怠=ケダイのメロディーは
引き続いて奏でられています

この詩の作られた昭和11年(1936年)初頭の前後に
詩人はどのような状況にあったか
ここで
年譜を見ておきますと……

昭和10年(1935年) 28歳
4月、大島に一泊旅行。このころから翌年7月まで、高森淳夫が同居。
6月、日本歌曲新作発表会で「妹よ」「春と赤ン坊」(諸井三郎作曲)が歌われる。
同月、市谷に転居。
7月、このころ、宮崎県日向の高森文夫を訪ね、3、4日滞在。
8月、孝子と文也を連れて上京。
11月、「妹よ」(諸井三郎作曲)がJOBKで放送される。
12月、「四季」同人となる。

昭和11年(1936年) 29歳
「四季」「文学界」「紀元」などに詩・翻訳を多数発表。
1月「含羞(はじらひ)」、
6月「六月の雨」(「文学界賞」佳作第一席)、
7月「曇天」など。
春、文也を連れて動物園に行く。
6月、「ランボウ詩抄」を山本書店より刊行。

四谷・市谷に住まい
高森淳夫が同居し
妻・孝子と長男・文也と暮らし
旅に出て
詩作・翻訳も活発な
安定した詩人の生き様が
見て取れるような時期ですが

このような実生活の推移と
個別の詩作品とが
直接的な因果関係にあるケースは
めったにあるものではありません

年譜でいえば
1月「含羞(はじらひ)」、
6月「六月の雨」(「文学界賞」佳作第一席)、
の2行の「行間」に当たる時期に
「倦怠(へとへとの、わたしの肉体よ)」は
歌われたことになります

日記を読むと

2月20日 カロッサ作「ドクトル・ビュゲル(ママ)の運命」読了。フランソワ・コッペ“Lettres d‘Amour”
2月24日 ラミエル読了。
2月27日 アナトール・フランス「追憶の薔薇」読了。

と、2月はわずか3日分の読書記録が
残されているだけです

もっとも
メモ程度の日記は
前年12月25日から
この年の3月6日まで続きますから
2月に特有のことではありませんが
2月および2月前後に
「倦怠のメロディー」が
より頻繁に作られたのだとすれば
この時期の詩人の活動への
特別な関心は深まるばかりです

「四季」
「文学界」
「紀元」などに
詩・翻訳を多数発表
とあるように
創作活動が活発になるのと反比例して
日記をつける時間が
少なくなったということも考えられますから
この時期に
旺盛な詩作が行われたために
倦怠=ケダイのメロディーが
いちだんとボリューム・アップしたのかもしれません

いまや
倦怠=けだいは
真夜中から午後の日射しの下にあります

洗ひざらした石
市民館の狭い空地
子供は遊ぶ
フットボール
子供のジャケツ
お隣り
ソプラノの稽古
オルガン
混凝土(コンクリート)の上なる砂粒(さりふ)
放課後の小学校
下駄箱

これらの語句が
都会の風景を写していることに
間違いはありません

思いつくだけで
「春の日の夕暮」
「倦怠に握られた男」
「倦怠者の持つ意志」の
ダダ詩にはじまり

「朝の歌」や
「汚れつちまつた悲しみに…」で
格調高く歌われ

「倦怠(倦怠の谷間に落つる)」や
「倦怠挽歌」の5作品を経て
この「倦怠(へとへとの、わたしの肉体よ)」へと
さまざまなバリエーションをみせながら

「倦怠=ケダイ」が歌われてきた
形跡をたどることができます

これらの形跡をたどることにより
「倦怠=ケダイ」が
中原中也という詩人の
辿ってきた長い道のりに
途絶えることなく
歌われてきた
主旋律であることがわかります

(「倦怠(へとへとの、わたしの肉体よ)」は、2009年6月22日に1度
読んだことがありますから、そちらもあわせてお読みください)

 *
 倦 怠

へとへとの、わたしの肉体(からだ)よ、
まだ、それでも希望があるといふのか?
(洗ひざらした石の上(へ)に、
今日も日が照る、午後の日射しよ!)

市民館の狭い空地(あきち)で、
子供は遊ぶ、フットボールよ。
子供のジャケツはひどく安物、
それに夕陽はあたるのだ。

へとへとの、わたしの肉体(からだ)よ、
まだ、それでも希望があるといふのか?
(オヤ、お隣りでは、ソプラノの稽古、
たまらなく、可笑(おか)しくなるがいいものか?)

オルガンよ!混凝土(コンクリート)の上なる砂粒(さりふ)よ!
放課後の小学校よ! 下駄箱よ!
おお君等聖なるものの上に、
——僕は夕陽を拝みましたよ!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年11月 1日 (月)

生前発表詩篇を読む続編   <18>白紙(ブランク)

「白紙(ブランク)」は
第二次「歴程」の創刊号に
「倦怠輓歌」のタイトルで
「童女」
「閑寂」
「深更」
「お道化うた」とともに
アンソロジーとして発表された作品です

この5作のうち
「閑寂」と「お道化うた」は
やがて「在りし日の歌」に収録されます

制作年月日については
「歴程」の発行事情との関係で
複雑な考証が行われ
「白紙(ブランク)」は
「閑寂」と同時期の
昭和10年11月14日―同11年1月と推定されていますが

「歴程」は
草野心平が主宰して
昭和10年5月1日付けで第1号が発行されましたが
第2号は発行されないまま休刊し
同年12月ごろに
第二次「歴程」が再刊される計画でした

この再刊予定の「歴程」のために
中原中也は
いくつかの詩篇を
「歴程」に送ったのですが
主宰者の草野の
原稿が不足しているのでもっと作品を寄せてほしい
との求めに応じて
追加の原稿を送ったのですが
このときの再刊計画は実現しませんでした

第二次「歴程」は
昭和11年に入ってから再刊の見通しがつき
その創刊号(3月発行)に
「倦怠輓歌」5篇のほかに
書評・菊岡久利著「貧時交」や
評論「作家と孤独」が掲載されました

この経過の中で
いつどの作品が作られ
いつどの作品が「歴程」に送付されたものか
よくわからないままになってしまいました

書評・菊岡久利著「貧時交」の末尾に
(一九三六、一、二八)とあることや
使用されているインク
原稿用紙
筆跡などから
制作日を推定するほかにない状態になっています

このようなことが
「角川新全集・第一巻・詩Ⅰ解題篇」に
記されている考証の一部ですが
制作日がわからないからといって
詩は読めないわけではありませんし
読んではいけないわけでもありませんし
読まないわけにもいきません

想像の羽根を
めいっぱい広げて
詩を味わう楽しみが
詩の制作日が不明だからといって
奪われる筋合いのものでもありません

「白紙(ブランク)」は
前回読んだばかりの
「深更」から
さほど時間をおかないで
作られたものであろうという想像は
自然の流れの中に生まれてきます

詩人は
「深更」で
真夜中に自室の机に向かって
「物々の影」を凝視する人でした
いや
凝視というより
物が目に入ってくるという状態にありました

「物々」は
いま
さらに眼前に迫り
書物として
インクとして
詩人の前に現れています
詩人に現前していますが
詩人がそれに心を動かすということはなく
かえって
物のほうが詩人がそこに在るということに
驚いているほどに
別個に存在しています

深更より
一刻
時は過ぎ去ったのかもしれません
夜は
盛りを越えて
くだちはじめても
私は
眠らないのです

私は
目の前に
皓皓として
広がる
白紙の中に
いつものように
います
息づいています

 *
 白紙(ブランク)

書物は、書物の在る処。
インキは、インキの在る処。

   私は、何にも驚かぬ。
   却(かえっ)て、物が私に驚く。

私はもはや、眠くはならぬ。
私の背後に、夜空は彳(た)つてる。

   書物は、書物の在る処。
   インキは、インキの在る処。

しづかに、しづかに、夜はくだち、
得知れぬ、悩みに、私は眠らぬ。

   書物は、書物の在る処。
   インキは、インキの在る処。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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