「秋を呼ぶ雨」のつづきを
読んでいきます
僕=詩人は
「灰のばらまかれた部屋」にいます
そこに
蹲(うずくま)ったり
座ったり
寝転(ねころ)んだりして
暮していました
(倦怠=ケダイのモード)
季節の変わり目の
ある夜明け
秋のはじまりを告げる雨の中から
コケコッコーと鶏鳴が一つ……
しばらくしてまた一つ……
(鶏鳴は、詩人に汽笛を思い出させます)
(へとへとにくたびれている詩人)
(傍らの恋愛物語をパラパラめくる詩人)
(女の愛があっても、いま、僕は立ち上がれない……)
<2>にはいります
女の愛などに
心が動くこともないのを
世間の水の冷たさを味わいつくしたお前は
性根(しょうこん)尽き果ててしまったのだ
弾力を失ったこのような思いを
告白してみたところで
面白くありませんし
さっぱりするものでもありません
それほどに
僕という生存は
汚れてしまっていたのです
それこそが
かつて欺かれたことによって
もろもろ残された灰燼のせいだと分かっても……
(私を欺いたあの事件がその後そのことを思うたびに灰として堆積していったのです!)
詩の冒頭
畳の上に、灰は撒(ま)き散らされてあつたのです。
の「灰」の正体が
ここで明らかにされます
欺かれたというのは
長谷川泰子が
小林秀雄のもとへと去った事件のことでありそうですが
その後その事件を
幾万回となく思い出しても
憤ることもなく
ただ淋しさと怖れという感情を抱えて
夜明け前の灰だらけの部屋にいるのです
(あれこれと思い出した結果、残る言葉の残骸が灰燼となって堆積する)
(弾力も光沢(つや)も色香(いろか)もない思索の脱け殻が灰となる)
(考えれば考えた分だけ積もっていく灰……)
そうしていま
こんなことを思い出すのです
やさしくて
理不尽なだけではない僕の心に
雨よ
雨ばかりは
少しは楽しく響いたってよかろうものなのに!
土砂降りじゃないか……
(この絶望的な深淵にあり)
それでもなお
僕の心は
面白くもない
最後の壁の何の味もしないのを嘗(な)めては
死のうかなどと考えることもなく
なんとも陰鬱な1日1日を
うわべを整えてやり過ごしてきたのです
<3>に入って
屋根のトタンは雨に洗われ
裏の店のたくましい女将さんを思わせたりしました
それ(トタン)は酸っぱくてつるつるしていても
意地悪でだけはないのでした
雨はその女将さんのうちの箒(ほうき)のように
だらだらだらだらと降り続きました
瓦は不平そうでした
含まれる限りの雨を含んで
それは怒りっぽい老地主の不平のようでしたが
それにしても、持って廻った趣味などより
傷つき果てた私の心には
かえって健康なものに映りました
(雨やトタンや瓦を描いて、詩人は内面を投影しようとしています)
もはや人の癇症や癖などに
まるで動じることもないほどに
僕は伸びきって腐っていたのです
人の嘘だけは癪(しゃく)に障りましたが……
人の性向(癇癖)に好き嫌いをいうことなどはもう
早朝のビル街のような
凶悪な逞しさを要することに思えるのでした
(そんなパワーは僕にはない)
――そう
僕は伸びきったゴムの話をしたのです
だらだらだらだらと降る生ぬるい朝の雨の話を。
冷たく合羽に降りつけ
デッキをたたく雨の話なら
まだしも清々しい思いを抱かせることもできるのになどと思いながら……
<4>
どこまで続くのでしょう、この長い一本の道は
(どこまで続く泥濘=ぬかるみぞ)
(ロング・アンド・ワインディング・ロードよ)
かつてはそれを少しづつ片付けてゆくということが楽しみでした
いまやその
コツコツと麦稈真田(ばくかんさなだ)を編むというような楽しみも
残っていないほどに僕は疲れてしまっているのです
眠れば悪夢ばかり
もしそれに同情してくれる人があるにしても
その人に済まないと感じるくらいです
だって、自分で諦(あきら)めきっているその一本道を……
つまり
あらゆるモラリティーの影は消えてなくなってしまったのです
墓石のように灰色で
雨をいくらでも吸う石のようで
だらだらだらだらと降り続けるこの不幸は
もう終わるとも思えない
秋を告げるこの朝の雨のように
ジトジトとジャージャーと
降るのでした
<5>に入り
詩人の「現在」が明かされます
僕の心が
あの精悍(せいかん)な人々に出くわさないようにと念じながら
僕は
傘をさして雨の中を歩いていたのです
(あの精悍な人とは誰のことを指すのでしょうか)
(謎です)
(爆弾のような謎です)
現在
詩人は雨の中を
傘をさして歩いていますが
振り返った「過去」が
詩人の現在ではない
などということではありません
*
秋を呼ぶ雨
1
畳の上に、灰は撒(ま)き散らされてあつたのです。
僕はその中に、蹲(うずく)まつたり、坐つたり、寝ころんだりしてゐたのです。
秋を告げる雨は、夜明け前に降り出して、
窓が白む頃、鶏の声はそのどしやぶりの中に起つたのです。
僕は遠い海の上で、警笛を鳴らしてゐる船を思ひ出したりするのでした。
その煙突は白く、太くつて、傾いてゐて、
ふてぶてしくもまた、可憐なものに思へるのでした。
沖の方の空は、煙つてゐて見えないで。
僕はもうへとへとなつて、何一つしようともしませんでした。
純心な恋物語を読みながら、僕は自分に訊〈(たず)〉ねるのでした、
もしかばかりの愛を享(う)けたら、自分も再び元気になるだらうか?
かばかりの女の純情を享けたならば、自分にもまた希望は返つて来るだらうか?
然し……と僕は思ふのでした、おまへはもう女の愛にも動きはしまい、
おまへはもう、此の世のたよりなさに、いやといふ程やつつけられて了つたのだ!
2
弾力も何も失くなつたこのやうな思ひは、
それを告白してみたところで、つまらないものでした。
それを告白したからとて、さつぱりするといふやうなこともない、
それ程までに自分の生存はもう、けがらはしいものになつてゐたのです。
それが嘗(かつ)て欺かれたことの、私に残した灰燼(かいじん)のせゐだと決つたところで、
僕はその欺かれたことを、思ひ出しても、はや憤りさへしなかつたのです。
僕はたゞ淋しさと怖れとを胸に抱いて、
灰の撒き散らされた薄明の部屋の中にゐるのでした。
そしてたゞ時々一寸(ちよつと)、こんなことを思ひ出すのでした。
それにしてもやさしくて、理不尽でだけはない自分の心には、
雨だつて、もう少しは怡(たの)しく響いたつてよからう…………
それなのに、自分の心は、索然と最後の壁の無味を甞(な)め、
死なうかと考へてみることもなく、いやはやなんとも
隠鬱なその日その日を、糊塗してゐるにすぎないのでした。
3
トタンは雨に洗はれて、裏店の逞しいおかみを想はせたりしました。
それは酸つぱく、つるつるとして、尤(もつと)も、意地悪でだけはないのでした。
雨はそのおかみのうちの、箒(ほうき)のやうに、だらだらと降続きました。
雨はだらだらと、だらだらと、だらだらと降続きました。
瓦は不平さうでありました、含まれるだけの雨を含んで、
それは怒り易い老地主の、不平にも似てをりました。
それにしてもそれは、持つて廻つた趣味なぞよりは、
傷み果てた私の心には、却(かえつ)て健康なものとして映るのでした。
もはや人の癇癖(かんぺき)なぞにも、まるで平気である程に僕は伸び朽ちてゐたのです。
尤も、嘘だけは癪(しやく)に障(さわ)るのでしたが…………
人の性向を撰択するなぞといふことももう、
早朝のビル街のやうに、何か兇悪な逞しさとのみ思へるのでした。
——僕は伸びきつた、ゴムの話をしたのです。
だらだらと降る、微温の朝の雨の話を。
ひえびえと合羽(かつぱ)に降り、甲板(デツキ)に降る雨の話なら、
せめてもまだ、爽々(すがすが)しい思ひを抱かせるのに、なぞ思ひながら。
4
何処(どこ)まで続くのでせう、この長い一本道は。
嘗てはそれを、少しづつ片附けてゆくといふことは楽しみでした。
今や麦稈真田(ばつかんさなだ)を編むといふそのやうな楽しみも
残つてはゐない程、疲れてしまつてゐるのです。
眠れば悪夢をばかりみて、
もしそれを同情してくれる人があるとしても、
その人に、済まないと感ずるくらゐなものでした。
だつて、自分で諦めきつてゐるその一本道…………。
つまり、あらゆる道徳(モラリテ)の影は、消えちまつてゐたのです。
墓石のやうに灰色に、雨をいくらでも吸ふその石のやうに、
だらだらとだらだらと、降続くこの不幸は、
もうやむものとも思へない、秋告げるこの朝の雨のやうに降るのでした。
5
僕の心が、あの精悍(せいかん)な人々を見ないやうにと、
そのやうな祈念をしながら、僕は傘さして雨の中を歩いてゐた。
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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