生前発表詩篇を読む続編 <23>漂々と口笛吹いて
「漂々と口笛吹いて」は
「少女画報」昭和11年11月号(同年11月1日発行)に初出した
昭和11年(1936年)9月制作(推定)の作品です
この詩の主語は
「秋」です
そう
擬人法=ギジンホウというやつです
人以外のモノを
人に
擬(なぞら)えて
人のように
記述するのです
飄々と
口笛吹いて
地平線のあたりを
歩き回る
一枝の
ポプラを担いで
ゆさゆさと
葉っぱをひるがえして
歩き回るのは
褐色の
海賊帽子
ひょろひょろした
ズボンをはいて
地平線のあたりの
森の
こちらのほうを
すれすれに
目立たぬように
歩いているのは
秋なのです
(ポプラの枝を一本担いで葉っぱを靡かせて歩き回る!)
(海賊のかぶる帽子とひょろひょろしたズボン!)
(なんともメルヘンチックな秋!)
(ワンダーランド!)
あれは何だ?
あれは何だ?
あれは単なるノンキモンか?
それとも
あれはオウチャクモンか?
地平線のあたりを口笛吹いて
ああして呑気に歩いていく
ポプラを担いで葉っぱをひるがえし
ああして呑気に歩いていく
弱げに見えるが横着そうで
だからといって
別に悪意はないのは
あれは
秋さ
ただなんとなく
お前の意欲を試しに来たのさ
あんまりあんまり
ただなんとなく
笑いに来たのさお前の意欲を
笑いを止めてもいいよと
やがてあいつが思うころ
笑うことすら止めてしまえと
やがてあいつが帰るころには
冬が来るのさ
冬が冬が
野分の色の
冬が来るのさ
逝く夏を惜しみ
もう秋が来てしまったと
季節のめぐりのスピードに驚く詩人は
訪れたばかりの秋に
早くも
冬の到来を予感するのです
詩人はすでに
擬人法の詩「秋の愁嘆」を
大正14年(1925年)10月に
あゝ、 秋が来た
眼に琺瑯(はふらう)の涙沁む。
あゝ、 秋が来た
胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おぢやつたおぢやつた。
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を蹂躪(じゆうりん)に秋がおぢやつた。
その着る着物は寒冷紗(かんれいしや)
両手の先には 軽く冷い銀の玉
薄い横皺(よこじわ)平らなお顔で
笑へば籾殻(もみがら)かしやかしやと、
へちまのやうにかすかすの
悪魔の伯父さん、おぢやつたおぢやつた。
と歌いました
秋という季節は
この詩「秋の愁嘆」のように
詩人にとって
早い時期から
特別の季節でした
大正14年(1925年)の秋
長谷川泰子が詩人の元を去り
小林秀雄と暮らしはじめる事件があったのです。
11月の事件です。
*
漂々と口笛吹いて
漂々と 口笛吹いて 地平の辺(べ)
歩き廻るは……
一枝の ポプラを肩に ゆさゆさと
葉を翻(ひるが)へし 歩き廻るは
褐色(かちいろ)の 海賊帽子 ひよろひよろの
ズボンを穿(は)いて 地平の辺
森のこちらを すれすれに
目立たぬやうに 歩いてゐるのは
あれは なんだ? あれは なんだ?
あれは 単なる呑気者か?
それともあれは 横著者(わうちやくもの)か?
あれは なんだ? あれは なんだ??
地平のあたりを口笛吹いて
ああして呑気に歩いてゆくのは
ポプラを肩に葉を翻へし
ああして呑気に歩いてゆくのは
弱げにみえて横著さうで
さりとて別に悪意もないのは
あれはサ 秋サ たゞなんとなく
おまへの 意欲を 嗤(わら)ひに 来たのサ
あんまり あんまり たゞなんとなく
嗤ひに 来たのサ おまへの 意欲を
嗤ふことさへよしてもいいと
やがてもあいつが思ふ頃には
嗤ふことさへよしてしまへと
やがてもあいつがひきとるときには
冬が来るのサ 冬が 冬が
野分(のわき)の 色の 冬が 来るのサ
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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