生前発表詩篇を読む続編 <26>幻想
「幻想」は
「散文詩四篇」と題して
「郵便局」
「かなしみ」
「北沢風景」とともに
「四季」の昭和12年2月号(昭和12年1月20日付け発行)に
発表された作品
制作は昭和11年(1936年)12月中旬と推定されていますが
初稿の制作年月は特定できません
制作日が
昭和11年12月中旬であるならば
詩人が眼に入れても痛くはないというほどに可愛がっていた
長男文也の死の直後のことであり
その衝撃や悲しみが
表現されないことのほうが
不自然と考えるのが自然ですが
「幻想」にも
その痕跡すらがありません
詩人は
深い悲しみにあって
即座には
詩を書くことができず
約束していた原稿を各所に渡すのが
精一杯のことだったのかもしれません
そのために
書きためた草稿の中から
いくつかを選んで
推敲を加えてから
各誌へと送り届けたのかもしれません
「幻想」は
愛息を失った悲しみが表れることはないのですが
アメリカ合衆国の第16代大統領リンカーンと
偶然にも同じホテルに泊って
古くからの友人ででもあるかのように
しみじみとした会話を交わす……
という設定の
不思議で
シュールで
幻想的な内容の詩ですが
これを
ソネットでも
文語詩でもなく
散文詩とし
あたかも小説の1シーンであるかのように創作したのは
そのこと自体が
悲しみを乗り越えようとした
詩人の意思の表現であったかもしれない
などと思えてきて
とりとめがありません
この詩の中で
詩人は
言葉少なげに
リンカーンに話しかけます
「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚つてゐます」
「ほんとに」
リンカーンも
言葉少なげに
応じます
詩の中の詩人と
リンカーンとが
同時に眺めいる「エヤメール」と
(「エヤーメール」は「エアーサイン=広告気球」の誤用と解釈されるのが普通です)
これを書いている詩人が見ている「エヤメール」に
悲しみの色が混じっていないとはいえませんし
悲しみの中に立ち上がる
心もとないけれど
確かである希望が
見えているのかもしれません
いや
見ようとしているだけなのかもしれません
*
幻 想
草には風が吹いてゐた。
出来たてのその郊外の駅の前には、地均機械(ローラー・エンジン)が放り出されてあつた。そのそばにはアブラハム・リンカン氏が一人立つてゐて、手帳を出して何か書き付けてゐる。
(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)
「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。
「リンカンさん」
「なんですか」
私は彼のチョッキやチョッキの釦(ボタン)や胸のあたりを見た。
「リンカンさん」
「なんですか」
やがてリンカン氏は、私がひとなつつこさのほか、何にも持合はぬのであることをみてとつた。
リンカン氏は駅から一寸行つた処の、畑の中の一瓢亭に私を伴つた。
我々はそこでビールを飲んだ。
夜が来ると窓から一つの星がみえた。
女給が去り、コックが寝、さて此の家には私達二人だけが残されたやうであつた。
すつかり夜が更けると、大地は、此の瓢亭(ひようてい)が載つかつてゐる地所だけを残して、すつかり陥没してしまつてゐた。
帰る術(すべ)もないので私達二人は、今夜一夜を此処に過ごさうといふことになつた。
私は心配であつた。
しかしリンカン氏は、私の顔を見て微笑(ほほえ)むでゐた、「大丈夫(ダイジヨブ)ですよ」
毛布も何もないので、私は先刻から消えてゐたストーブを焚付けておいてから寝ようと思つたのだが、十能も火箸もあるのに焚付(たきつけ)がない。万事諦めて私とリンカン氏とは、卓子(テーブル)を中に向き合つて、頬肘(ほおひじ)をついたまゝで眠らうとしてゐた。電燈は全く明るく、残されたビール瓶の上に光つてゐた。
目が覚めたのは八時であつた。空は晴れ、大地はすつかり旧に復し、野はレモンの色に明(あか)つてゐた。
コックは、バケツを提げたまま裏口に立つて誰かと何か話してゐた。女給は我々から三米(メートル)ばかりの所に、片足浮かして我々を見守つてゐた。
「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚つてゐます」
「ほんとに」
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
*原作品は、「ひとなつつこさ」に傍点が付されています。(編者)
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