生前発表詩篇を読む続編 <28>北沢風景
「北沢風景」は
「散文詩四篇」と題して
「郵便局」
「幻想」
「かなしみ」とともに
「四季」の昭和12年2月号(昭和12年1月20日付け発行)に
発表された
4番目の詩です
題名の北沢とは
東京世田谷の北沢のことですから
ただちに
詩人が住んでいたことのある
上北沢あたりの風景を歌った詩と推定され
制作日も限定されます
昭和3年9月から同4年1月まで
詩人は
関口隆克、石田五郎とともに
高井戸町下高井戸2-403で
共同生活していたことは
関口の回想などで広く知られたことですが
このときの最寄駅が
京王電気軌道北沢駅で
現在の京王線・上北沢駅であり
この地域は北沢の一角であることから
「北沢風景」のタイトルはつけられました
(現在の京王線は、明大前、下高井戸、桜上水、上北沢、八幡山、仙川と、長い間変わらない駅名が続いていますが、昭和初期の「高井戸町下高井戸」の最寄り駅が「下高井戸」ではなく「北沢」であったことが、新全集で案内されています。当時、「下高井戸駅」はなかったのかもしれません。あるいは、あっても「北沢駅」のほうが住居に近かったのかもしれません。このころ、井の頭線や玉電も近くを通っており、小田急と井の頭が交差する下北沢から、井の頭の代田、新松原、明大前へ、小田急と玉電、現在の東急世田谷線の交差する豪徳寺駅から山下、松原、下高井戸へと、「北沢」へはかなり密度の高い連絡網があったことが理解でき、中原中也もこの連絡網を利用していたのかもしれません。小田急・京王の下北沢、明大前、仙川、成城学園前の4駅で囲まれた世田谷北部は「北沢風景」で歌われた「北沢」の一角であり、それは「武蔵野」の一角でもありました)
下北沢ではなく
上北沢であったところに
当時のこの近辺の住宅事情や
それぞれの駅周辺の発展ぶりなどが
しのばれますが
井の頭線や
小田急線も走っていたものの
省線(現在のJR中央線)により近かった
上北沢のほうが下北沢よりも
住宅地化が進んでいたのでしょうか
夕べが来ると僕は、台所の入口の敷居の上で、使ひ残りのキャベツを軽く、鉋丁の腹で叩いてみたりするのだつた。
と歌いだされる「北沢風景」は
同人誌「白痴群」創刊前の
共同生活を素材にしていますから
詩人もたまには
食事を作る輪の中にあって
その時のことを描いたのでしょう
細葱を刻んで
ソースをかけて食べた話などが
伝わっているのも
このころの経験でしょうか
関口隆克は
のちに開成学園の学長になる
教育畑の人ですから
共同生活も
旺盛に楽しく行って
集団生活が苦手だったに違いない詩人も
面白おかしく楽しく
暮したのかもしれません
そのような詩人も
夜になれば
僕は出掛けた。僕は酒場にゐた。僕はしたたかに酒をあほつた。翌日は、おかげで空が真空だつた。真空の空に鳥が飛んだ。
と深酒し
朝をどこか飲み友達の家で迎えるのか
北沢への連絡網のどれかをたどって
夜遅く帰宅して泥のように眠り
目に沁みるような空を
仰ぎ見る時を味わいます
この詩にも
やはり
愛息の死は
映し出されていませんが
共同生活の楽しさばかりが
歌われているものでもなく
「四季」へ送る気持ちを
否定するものではありませんでした
*
北沢風景
夕べが来ると僕は、台所の入口の敷居の上で、使ひ残りのキャベツを軽く、鉋丁の腹で叩いてみたりするのだつた。
台所の入口からは、北東の空が見られた。まだ昼の明りを残した空は、此処台所から四五丁の彼方に、すすきの叢(むら)があることも思ひ出させはせぬのであつた。
——嘗て思索したといふこと、嘗て人前で元気であつたといふこと、そして今も希望はあり、そして今は台所の入口から空を見てゐるだけだといふこと、車を挽いて百姓はさもジツクリと通るのだし、——着物を着換へて市内へ向けて、出掛けることは臆怯であるし、近くのカフヱーには汚れた卓布と、飾鏡(かざりかゞみ)とボロ蓄音器、要するに腎臓疲弊に資する所のものがあるのであるし、感性過剰の斯の如き夕べには、これから落付いて、研鑽にいそしむことも難いのであるし、隣家の若い妻君は、甘ッたれ声を出すのであるし、……
僕は出掛けた。僕は酒場にゐた。僕はしたたかに酒をあほつた。翌日は、おかげで空が真空だつた。真空の空に鳥が飛んだ。
扨、悔恨とや……十一月の午後三時、空に揚つた凧ではないか? 扨、昨日(きんのふ)の夕べとや、鴫が鳴いてたといふことではないか?
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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