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2010年12月 1日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <37>道化の臨終(Etude Dadaistique)

「生前発表詩篇」は
残り4篇となり
大作「道化の臨終(Etude Dadaistique)」に
たどりつきました

この作品については
かつて
「ダダのデザイン」のタイトルで
やや長々しい鑑賞を試みました

ここでは
それを引っ張り出して
一挙に再録することにしました
表記上の若干の修正を加えましたが
大意に変わるところはまったくありません

<以下再録>

ダダのデザイン<2>

道化の臨終(1)

中原中也が
「山羊の歌」の編集にかかったのは
1932年(昭和7年)4月
といわれていますから
ほとんどダダ詩が記された
「ノート1924」が
書き出された頃から7、8年
その間
詩人は
様々な経験をしました。

京都に住み
長谷川泰子と同棲
そして上京
詩人富永太郎との邂逅および死別
泰子の離反
小林秀雄と泰子をめぐる三角関係
音楽集団「スルヤ」との親交
「白痴群」創刊と廃刊
東京での孤絶した暮らし……

ダダイズムの詩「春の夕暮」は
詩人が経験したこれらの時代を経て
7、8年後に
詩集「山羊の歌」の編集をはじめた頃に
ふたたび
詩人によって
ピックアップされ

読者へ届けられるための
新たなデザインをほどこされて
「春の日の夕暮」として
再生しました。

「ノート1924」に書かれたこの作品は
この間
詩人によって
読み返されたことがあったのでしょうか
放りっぱなしにされていたのでしょうか
7、8年の間、眠っていたのでしょうか……

この疑問は
ただちに
ダダイズムは
中原中也の中で
どのような状態にあったのか
眠っていただけなのか
絶えず活動を続ける活火山のようではなかったにせよ
休火山のようなものだったのか
というような問いへと繋がっていきます

そこで
しばしば引き合いに出されるのが
1934年(昭和9年)年に作られた
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」です

タイトルを補足するかのように
「ダダイスティックな練習曲」
という意味の副題をつけられた
この作品は
中原中也のダダイズムのその後を探る
手がかりになる
重要な位置にあります。

(つづく)

道化の臨終(2)

大岡昇平が、

「道化の臨終」は、ダダ的なのであって、ダダそのものではない

と言ったからといって
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」が
ダダイズムの詩ではない
ということにはなりません

大岡昇平の考えるダダイズムと
中原中也の考えるダダイズムとは
同じモノであるとは言えないのですし
そもそも
大岡昇平は
なにを「ダダ的」と言い
なにを「ダダイズムそのもの」と言っているのか
あいまいなところがあります

中原中也は
この詩を
Etude Dadaistiqueと副題をつけたのですから
これを
ダダ風の練習曲
と訳すか
ダダの練習曲
と訳すのか
という問題ではなく、
この詩は
ダダの詩と解するのが自然です

中原中也は
この詩を
ダダの詩の練習曲と
「謙遜」して副題をつけたのだ
と積極的に解する方が自然です

「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
もはや
1924年ころのダダイズムの詩とは
かけ離れたものになっていますが
そのことは
1924年当時のダダイズムと
異なるダダイズムの詩であることを示しはするものの
1934年のダダイズムの詩であることを
否定するものではなく
それを
ダダイズムの詩であり、
その練習曲であったと
受け取れる作品と言っても
おかしくありません

とにかく
読んでみましょう

なにやら
物語を期待させる
はじまり……

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に
火を吹く龍がゐるかもしれぬと

火を吹くドラゴンが
海の沖に住んでいる
ということを、
キミ、想像してみたまえ

荒野の果てに
暮らしている姉妹のことを
思ってみたまえ

永遠の夜の海で
繰り返す波
そこで泣く
形のない生き物
そこで見開かれた形のない瞳……を
キミは、思ってみたことがあるか

心を揺する
ときめかす
嗚咽し哄笑し
肝に染みいる
このうえなく清浄な暗闇(くらやみ)、漆黒(しっこく)
暖かい紺碧のそら……を
想像してみたまえ!

これを語っているのは
道化です

(つづく)

道化の臨終(3)

序曲が終わり、
始まるのは、
第1章なのでしょうか

空の下には池があった。
池の周りには花々が咲き
風に揺らいでいた
空には香りがあふれ
遙かな向こうまでかすみがかかったようだ

今年も春がやってきて
土が鮮やかに色づいている
雲雀が空に舞いのぼり
子どもは池に落っこちた

穏やかな春の風景に
ドラマが突如生じます
子どもが池に落ちるのです

菜の花畑で眠つてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?
という
「春と赤ン坊」のモチーフと
どこか似ているのか
似ていないのか……

穏やかなものが
その頂点に達し破裂し……
ここに死のイメージが忍び込む……

子どもは、
池に仰向けになって
空を仰ぐように
池の縁を枕にして
あわあわあわてふためいて
空なんて見ていられなくなって
泣き出したよ

しかし
ここでテーマは
僕です
そして、僕とは
詩人のことでしょう
道化である僕であり
詩人である僕……
その心は、

残酷で
優しい
単に優しいというほどではなく
優婉な優しさで
涙も出さないで泣きました
空につむじを向けて
というのは、
さして意味を追わなくていいのですが
空の方には向かないで
一心に
紫色になるほど
赤黒い顔を作って
泣きました

泣きましたけれど
僕は何も言うことができない
発言できない
言おうとするのだけれど
ギリギリのところでできないのでした
来る日も来る日も
肘をついて
砂に照りつける陽光だの
風に吹かれて揺れる草だのを
じっと眺めているばかりでした

(つづく)

道化の臨終(4)

いよいよ
道化の僕が語り出します
第3章あたり
起承転結の転あたりから結へと進みます

どうぞ皆さん、という語りかけの口調は
これも
ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう
という「春日狂想」の
語り口調と同じものです

どうぞみなさん、僕という
バカやさしい、痴呆症とか
抑揚を知らない、母なし子とか
岬の浜の不死身貝とか……
その他にもいろいろ呼び名はありまして

お得意の地口(じぐち)が
しばらく続きます
あんまり意味はなさそうですが
設定が臨終ですから
人の命のはかなさについて
延々延々と

命題、反対命題の
トコトン、弁証し、止揚した場所とか
天下の「衛生無害」とか
昔ながらのバラの花とか
馬鹿げたものでございますが
どうぞ大目にみていただきたく……

このように申しますわけと言えばですが
泣くも笑うも、朝露の命でありまして
人の命ははかないものでありまして
星の中の、星の星の、その一つ
砂の中の、砂の砂の、その一つ
舌がもつれてしまいますな

浮くも沈むも
波間のヒョウタンみたいなもので
格別になにも必要としませんので
笛の中の、笛の笛の
段々、舌がもつれてきますね

至上至福の、
ご臨終の時、いまわの際を
いやはや、なんと申しましょうか
一番お世話になりながら
一番忘れていられるもの
あの、あれです、とかいっても
これじゃあ、どなたもピンとこないですよね
お分かりにならないですよね

じゃあ、忘恩を後悔する涙、とか?
ええ、まあ、それでもよいのですけれど……

では……、では……
えい、じれったいなあ
これやこれ、行くも帰るも
別れては、消える移り香(うつりが)
追い回して、くたびれて
秋の夜長に、目が覚めて
天井の板の木目に目を凝らし
ああ、と叫び声さえあげて
呆然と……昔のことを思い出し……

ああ、ここにも、
泰子さんが出てきましたねえ!

はっと、我に返りはするものの
野辺の草葉に、盗賊が
疲れて眠っていて、その腰に
インゲン豆の形をした刀が差してあって
こりゃあ、こりゃあ、何者ぞ
切るぞー、と声をあげると
戸の外に、丹下左膳がこちらを向いて

狂った心の仕業だからって
われながら何を言い出すことやら

そうかそうならば
人よ、あなたの永遠の命を
恋することが、もしないのだったら
シネマを見たからといってドッコイショノショ
ダンスをしたからといってドッコイショノショ
などと言ったら、笑われてしまって
ちっとも聞いてもらえない

そうならば僕
どうせ明日は死ぬ身
いまここに、要領を得ないままですが……
とにもかくにも、書き付けましたのは
これはほんとに、心の一部分です
どうぞ不備の点は、お許しお願いしたく
願わくは、僕、おどけおどけて
生き長らえてきた、小者(こもの)ですので
死んだら、冥福も大きいものと
神さまに、祈ってやってくださいませんか

(つづく)

道化の臨終<5>

「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
1934年(昭和9年)に作られ
1937年(昭和12年)「日本歌人」9月号に発表されました

制作された1934年は
中也27歳の年ですが
制作の年よりも
発表された1937年は
詩人が死去する年である
ということには
おやっと
思わずにいられないものがあります

世の中に向けて発表するということは
その作品が遠い過去に作られたものであっても
その作品の現在を示すものである以上
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
中原中也という詩人の
最晩年の作品に属するということなのですから……

ダダイズムの詩が
詩人の死去する3年前に作られ
死去するおよそ2か月前に発表された
ということは大変興味深いことです
詩人の死は
1937年10月22日です

大岡昇平は
やや驚愕気味に
この事実をもって
中原中也はダダイストであったか、どうか
という問いを自ら立て
中也評伝では最後になった「中原中也・1」を
1971年から書きはじめましたが
途中でプツンとやめてしまいました

この論考「中原中也・1」を所収している
「中原中也」(1974年初版、角川書店)のあとがきには
この間の経緯が次のように記されています

私は本巻五巻を通して解説を書き、また新しい観点を強いられる結果になりました。例えば『朝の歌』に「日本のダダイスムは中原がそこから出て来たも のとしてしか興味はない」と書きましたが、案外そこに中原の生に対する基本的態度があるのではないか、という疑問が生じました。そこで一九七一年から再出 発したのが「中原中也・1」ですが、ここで私の根気はぷっつり切れた感じになりました。

かくて、結論は出されずじまいになったのですが
「道化の臨終」について
「ダダ的ではあるが、ダダイズムそのものではない」と
書いたのはこの「中原中也・1」の中でのことでした

中也のダダイズムへの関わりについて
例によって
骨までしゃぶるような論究が展開されたのですが
「道化の臨終」については
(Etude Dadaistique)の
傍題があるにもかかわらず
最後まで
「ダダ的」とし
そのほかの「朝の歌」以降の作品についても
「ダダ的」とする以上の断言をしませんでした

(つづく)

道化の臨終<6>

中也が
「山羊の歌」の編集にかかったのは
1932年(昭和7年)4月
それから
丸3年
「白痴群」の盟友、安原喜弘の
献身的なサポートを得ながら
いくつかの出版社に原稿を持ち込みますが
OKの声は容易には聞けませんでした
しかし
1934年(昭和9年)
青山二郎の仲立ちもあり
文圃堂から
「山羊の歌」は出版されました

長男文也が誕生するのも
この頃で
ランボーの翻訳のために帰省し
辞書と首っ引きで
その詩世界と格闘
しばらく
東京の喧噪から遠ざかる生活を送るのも
この年ですし
「道化の臨終」が作られたのも
この年でした

詩人が詩人として世に立つためには
詩集を持つこと
詩集を発行することが大きな証となりますが
その第1詩集が
公刊されたこの年

1934年、昭和9年という年は
中原中也27歳
大きな区切りの年であるようでした

この節目の年に
中也の中で
ダダイズムはどのように生きていたのか
どのような形をとっていたのか……
その答が
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」にあります

「道化の臨終」は
中原中也という詩人の
ダダのデザインの実践の
1934年という時点の現在形ということになり
その核心にあるのは
道化という存在です

 *      
 道化の臨終(Etude Dadaistique)

   序 曲

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。
君ら想はないか、曠野(こうや)の果に、
夜毎姉妹の灯ともしてゐると。

君等想はないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎやう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形(むぎやう)の瞳、
かの、かにかくに底の底……

心をゆすり、ときめかし、
嗚咽(おえつ)・哄笑一時(いつとき)に、肝に銘じて到るもの、
清浄こよなき漆黒のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……

     *     *
        *

空の下(もと)には 池があつた。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかほりと はるけくて、
今年も春は 土肥やし、
雲雀(ひばり)は空に 舞ひのぼり、
小児が池に 落つこつた。

小児は池に仰向(あおむ)けに、
池の縁〈ふち〉をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びつくり)し、
空もみないで 泣きだした。

僕の心は 残酷な、
僕の心は 優婉(ゆうえん)な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。

僕には何も 云はれない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、
僕は砂粒に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジツと瞶(みつ)めて をりました。

どうぞ皆さん僕といふ、
はてなくやさしい 痴呆症、
抑揚の神の 母無(おやな)し子(ご)、
岬の浜の 不死身貝、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能(あた)ふかぎりの 止揚場(しやうぢやう)、
天(あめ)が下なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
ばかげたものでも ござりませうが、
大目にあづかる 為体(ていたらく)。

かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、
泣くも笑ふも 朝露の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故、
笛のうちなる 笛の笛、
——次第に舌は 縺れてまゐる——
至上至福の 臨終(いまは)の時を、
いやいや なんといはうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れてゐられるもの……
あの あれを……といつて、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩悔ゆる涙とか?
えゝまあ それでもござりまするが……
では——
えイ、じれつたや
これやこの、ゆくもかへるも
別れては、消ゆる移り香、
追ひまはし、くたびれて、
秋の夜更に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……
さて われに返りはするものの、
野辺の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳がこつち向き、
——狂つた心としたことが、
何を云ひ出すことぢややら……
さはさりながら さらばとて、
正気の構へを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドツコイシヨのシヨ、
ダンスしたとてドツコイシヨのシヨ。
なぞと云つたら 笑はれて、
ささも聴いては 貰へない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今茲(ここ)に 不得要領……
かにかくに 書付けましたる、
ほんのこれ、心の片端〈はしくれ〉、
不備の点 恕(ゆる)され給ひて、
希(ねが)はくは お道化(どけ)お道化て、
ながらへし 小者にはあれ、
冥福の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給へ。
             (一九三四・六・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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