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2010年12月

2010年12月27日 (月)

ダダ詩「ノート1924」の世界<3>不可入性

「不可入性」は
フカニュウセイで
「入れない性質」という意味の造語でしょうか

よく使われる語句では
「不可侵」「不可侵性」が
近いかもしれません
「立ち入り禁止」とか「進入禁止」とか
そういう「性質」のものであるといいたいらしく
あらかじめそなわったものであることを
「性」を加えて示したかったらしい

男と女が
互いに「入ることのできないもの」を抱えていて
「入れない」状態になっている
「入れない」性質のものであることを示しているみたいです

付いていけない
入っていけない
深い溝があり
高い壁があり
……
不可解で
不可能で
不可思議で
不可触で
不可欠で
不可避で
……
不可入な

比較的長い詩で
くどいほど
ロジカルに
女について
男について
恋について
伝えようとしています

自分
感情
欲しい
好き
嫌い
明白
漠然
空想
現実
弁解
植物性
女の一生
取る
取るな
闘牛師


盲目
理窟
束縛
反省
別れる
ヒステリー
無縁の衆生
時間
音楽
空間
意志
浮気


このように
詩を分解してしまえば
語句の使われている傾向が
一目瞭然となります

このように
分析するまでもなく
「 」でくくられた
会話体の部分は
実際に
中也と泰子が交わした
生の会話が
そのまま記録されているかのようで
大変にスリリングですし
この部分を読むだけで
「不可入性」ということの実態は
推察できてしまいますから
この詩のだいたいは
読んだことになりそうです

この会話体の結末の

「恋の世界で人間は
みんな
みんな
無縁の衆生となる」


詩人が
この時点で到達した恋愛観が
垣間見られるようですが
17歳での到達点でありますから
これがどのような変更を
以後迫られることになるのか
見守っていたいところです

 *
 不可入性

自分の感情に自分で作用される奴は
なんとまあ 伽藍なんだ
欲しくても
取つてはならぬ気もあります
好きと嫌ひで生きてゐる女には
一番明白なものが一番漠然たるものでした
空想は植物性です
女は空想なんです
女の一生は空想と現実との間隙(かんげき)の弁解で一杯です
取れといふ時は植物的な萎縮をし
取らなくても好いといへば煩悶し
取るなといへば闘牛師の夫を夢みます
それから次の日の夕方に何といひました
「あなたはあたしを理解して呉(く)れないからいや……」
それから男の返事は如何(どう)でした
「兎(と)に角(かく)俺には何にも分らないよ――もつとお前盲目になつて呉れ……」
「盲目になつて如何するの」
「お前は立場の立場を気付き過ぎる」
「あゝでもあなたこそ理窟をやめて、盲目におなんなさい」
「俺等の話は毎日同しことだ」
「もう変りますまいよ」
「そして出来あがつた話が何時までも消えずに、今後の生活を束縛するだらうよ。殊に女には今日の表現が明日の存在になるんだ。そしてヒステリーは現実よりも表現を名称を吟味したがるんだ。兎に角おまへを反省させた俺が悪かつた」
「だつてあなたにはあたしが反省するやうな話をしかけずにはゐられなかつたんです」
「默つてればよかつた」
「やつぱり何時かは別れることを日に日により意識しながら、もうそのあとは時間に賴むばかりです」
「恋の世界で人間は
みんな
みんな
無縁の衆生となる」
無縁の衆生も時間には運ばれる
音楽にでも泣きつき給へ
音楽は空間の世界だけのものだと僕は信じます
恋はその実音楽なんです
けれども時間を着けた音楽でした
これでも意志を叫ぶ奴がありますか!
だつて君そこに浮気があります
浮気は悲しい音楽をヒヨツと
忘れさせること度々です
空 空 空
やつぱり壁は土で造つたものでした。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年12月25日 (土)

ダダ詩「ノート1924」の世界<2>恋の後悔

1924年は大正13年
中原中也は
この年の4月
旧制の立命館中学の4学年に進級しました
4月29日の誕生日には
満17歳になります

このころに
長谷川泰子と同棲するのですから
大胆といえば大胆
早熟といえば早熟
……

しかし
そんなに突飛なことでもなかったはずなのは
2010年現在でも
日本の婚姻適齢は
男性18歳以上、
女性は16歳以上と
民法で定められていることですし
大正時代の早婚傾向を考えれば
中也17歳、泰子19歳――は
それほど不自然であったことでもありません

「恋の後悔」は
「ノート1924」の2番目に記録された詩ですが
中原中也の詩作品の中で
初めて「女」という文字が
現れた詩ということは
記憶に留めておいて無駄ではないでしょう

女を御覧なさい
正直過ぎ親切過ぎて
男を何時も苦しめます


第1連後半に
「女」は登場するのですが
このくだり
ダダの詩としては
いかにもストレートなものいいです

第3連になって

思想と行為が弾劾し合ひ
知情意の三分法がウソになり
カンテラの灯と酒宴との間に
人の心がさ迷ひます


ダダらしさはようやく露出します

ここはそうむずかしく考えることはなく
詩人自身の分裂的状態
もしくは
詩人と女とがすれ違う様子が
思想と行為
知情意の三分法
カンテラと酒宴と表現されているだけのことでしょう
さ迷うのは
詩人および女という
一対の人
つまりペアです

女は
あきらかに
泰子のことでしょうが
恋は
ぬかるみにはまっているほどではなく
さ迷う程度でありました

最終連

あゝ恋が形とならない前
その時失恋をしとけばよかつたのです


恋が成就する以前を振り返り
あのころ失恋してしまえば
現在のこの苦しさはないはずだったのに、と
苦しさを歌いながら
苦しさよりも
恋=女を得て得意気な
現在の詩人の顔をのぞかせて
隠しようにありません

「ノート1924」のダダ詩は
冒頭の「春の日の怒」
この「恋の後悔」
次の「不可入性」
その次の(天才が一度恋をすると)までの4篇は
同一の筆記具
同一の筆跡で記されているところから
同一の状況で作られたことが推察されるのですが
すべて「女」がらみ
すべて「恋愛詩」ということになります

 *
 恋の後悔

正直過ぎては不可(いけ)ません
親切過ぎては不可ません
女を御覧なさい
正直過ぎ親切過ぎて
男を何時も苦しめます

だが女から
正直にみえ親切にみえた男は
最も偉いエゴイストでした

思想と行為が弾劾し合ひ
知情意の三分法がウソになり
カンテラの灯と酒宴との間に
人の心がさ迷ひます

あゝ恋が形とならない前
その時失恋をしとけばよかつたのです

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年12月23日 (木)

ダダ詩「ノート1924」の世界<1-2>春の日の怒・再

ひょっとして
「春の日の怒」の第1連は
起承転結の伝統を踏んでいるのかもしれません

起:田の中にテニスコートがありますかい?
承:春風です
転:よろこびやがれ凡俗!
結:名詞の換言で日が暮れよう

と読めるのかもしれません
その流れに沿って
読んでみるとどうなりますか
……

田んぼの中にテニスコートでもあるというのかい?
そりゃまた愉快な!
春風が吹いてくるね
春だね
冗談ばっかりいって
カマボコはオトトだなんて
みんな喜んでいりゃいいさ
名詞の取り替えっこして
1日が暮れていけばいいんだ

ここまでは
そう無理ではなさそうですが
……

第2連は
起承転結じゃなくて
起承転々ってことになりますか

凡人は
1連に出てくる凡俗と同じですから
繋がっています
凡人は
特定の個人なのではなく
ゾロゾロゾロゾロ
街を歩いているのでした

京都の街を行き交っている
群集を
詩人は
自らも
群集の人でありながら
観察しているのです

なんとまあ
色々な人間がいるものだ!
と思ったのか
なんとまあ
同じような顔をしているもんだ!
と思えたのか

毎日毎日歩き回っている街に
倦み疲れてはいるものの
詩人の目を楽しませるものは
次から次に現れるので
群集の波の中を
歩き続けます

1924年の春のある日
石版刷りの上等なポスターが
めくれあがって
中に描かれた
子ども向けの木下駄が
カランコロンと
春が怒ったような
のんびりとした音を立てました

こんな読みも
可能かもしれません

木履=ぽっくりが
長谷川泰子のものとすれば
読みは
また変化し
深まります

 *
 春の日の怒

田の中にテニスコートがありますかい?
春風です
よろこびやがれ凡俗!
名詞の換言で日が暮れよう

アスファルトの上は凡人がゆく
顔 顔 顔
石版刷りのポスターに
木履の音は這ひ込まう

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年12月15日 (水)

ダダ詩「ノート1924」の世界<1>春の日の怒

一番目にある「春の日の怒」を
読んでみます
読めるかどうかわかりませんが
とにかく
読んでみます

中原中也という詩人が
短歌をやめて
詩を書きはじめた初期に
どのような詩を書いていたのか
現存する草稿の中の
最も古い作品ということになります

 *
「春の日の怒」

田の中にテニスコートがありますかい?
春風です
よろこびやがれ凡俗!
名詞の換言で日が暮れよう

アスファルトの上は凡人がゆく
顔 顔 顔
石版刷りのポスターに
木履の音は這ひ込まう

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

どうですか
これが
中原中也が書いた
ダダイズムの詩といわれる詩で
現在も肉筆の草稿が残っている
最も古い作品の一つです

4行1連の
全2連の詩という「形」があり
タイトルも付けられた完成作です
「春の日の怒」と題されたからには
春の日の怒りということが
歌われている詩のようです

春の日の怒りといっても
怒りの主体が春の日なのか
春の日に作者である詩人が怒ったものなのか
よくわかりません

一通り読んでみると
1行1行は単純明快な詩句ですが
それぞれの行の関連がわかりにくい詩
ということがわかります

この詩は
1行目と2行目につながりはないのでしょうか
2行目と3行目につながりはないのでしょうか
……

という問いには
あるといえばあるし
ないといえばない
ということしかいえないという答えが一番になります

1行1行は
まったく関係がなく
因果関係もなければ
空間関係もない
勝手に独立しているだけで
いかに無関係な行を作れるかを実験した
出鱈目な詩と
受け取る向きもありますが

田の中のテニスコート
春風
凡俗
名詞の換言
……

アスファルトの上の凡人
顔 顔 顔
石版刷りのポスター
木履の音
……

これらの行間には
省略された語句があり
それを読み取り
隠された意味を受け取るように作られた詩であるから
そのパズルを解くような営みが
詩を読むということになる
と考えることもできます

どちらを取るかは
読者の勝手ですが
前者を取った場合
出鱈目な詩句なんて
味わいたくもありませんから
もうこの詩から逃げ出さざるを得ません

というふうになって
後者の考えの読者になって
この詩に立ち向かうことになりますが
……


テニスコート
春風
凡俗
名詞の換言
アスファルトの上の凡人
顔 顔 顔
石版刷りのポスター
木履の音
……

これらの語句が
どのように
春の日の怒りを
表しているのだろうかと
立ち止まって考え込むことになります

田の中にテニスコートがありますかい?

この冒頭行の調子は
どのように感じられますか?
えばった、高飛車な感じですか?
謙虚な感じですか?
ほかの感じですか?
皮肉っぽい感じ?

そもそも
この1行
田んぼの中にテニスコートなんてあるとでも思いますか
ねえ、あんたって感じですか

あるわけないでしょ
そんな不合理で
トンチンカンなことってあるわけないでしょって
詩人はこの1行に
込めたかったのでしょうか?

挑発的な感じはありますかね
田んぼの中にテニスコートを欲しがったり
夢想したり
無茶苦茶な想像や欲望をいだいて当たり前の
普通にヘンテコリンな平凡な人が
いきなり
そんな質問されても困りますよね

少しオロオロしているところへ
第2行

春風です

そして立て続けに

よろこびやがれ凡俗!
名詞の換言で日が暮れよう

です
やっぱり詩人は
高見に立っているようです
凡俗たちを
笑っているようです

田は、たとえば畑
テニスコートは、たとえばプール
でもOKなのです

平凡な人々は
名詞を置き換えて
永遠に交換可能な世界を生きている
とでも言いたいばかりに
よろこびやがれ!と
誉め殺しているかのようです

日常の繰り返し
日常は繰り返し

詩人は
京都の街並みを眺めています
アスファルト道路を行く
顔顔顔……は
どれも同じ

街を眺める詩人は
やがて
東京に出て
「都会の夏の夜」で

遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。

ただもうラアラアと唱つてゆくのだ。

と歌い
「正午」で

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

と歌うのにつながってゆく
サラリーマン観察者の目と
同じ目をしています

石版刷りのポスターには
ぽっくりの音

この2行の読みに
苦戦することはありません
これも
名詞の換言です
田にテニスコートと同じで
ポスターにぽっくりなのです

なのですが
ここには
泰子を得て得意気な
詩人が隠れているようにも感じられますが……

泰子と詩人の恋は
そう簡単なことでもなく
「よろこび」は
一瞬のうちに「怒」に転じ
その逆も真であった
交換可能の運動の中に
あったということなのかもしれません

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2010年12月14日 (火)

「ノート1924」のダダ詩について<2>

「ノート1924」のラインアップを
ざーっとながめてみます
ながめるだけです

( )のあるものは
詩人によってタイトルが付けられていないものです
これらは
詩の第1行をとって( )内に表記する慣わしです
無題とあるのは
詩人によって無題と付けられたものです

まずは
これら難解で
不可解で
消化の悪そうで
とっつきにくい作品の
タイトルをながめるだけにして
近づいていくことにしましょう

ぜんぶで51作品があります

春の日の怒
恋の後悔
不可入性
天才が一度恋すると
風船玉の衝突
自滅
(あなたが生まれたその日に)
倦怠に握られた男
倦怠者の持つ意識
初恋
想像力の悲歌
古代土器の印象
初夏
情欲
迷つてゐます
春の夕暮
幼き恋の回顧
(題を附けるのが無理です)
(何と物酷いのです)
(テンピにかけて)
(仮定はないぞよ!)
(酒は誰でも酔はす)
(名詞の扱ひに)
(酒)
(最も純粋に意地悪い奴)
(バルザック)
(ダツク ドツク ダクン)
(古る摺れた)
一度
(ツツケンドンに)
(女)
(頁 頁 頁)
(ダダイストが大砲だのに)
(概念が明白となれば)
(成程)
(過程に興味が存するばかりです)
(58号の電車で女郎買に行つた男が)
(汽車が聞える)
(不随意筋のケンクワ)

呪詛
真夏昼思索
(人々は空を仰いだ)
冬と孤独と
浮浪歌
涙語
無題(あゝ雲はさかしらに笑ひ)
(秋の日は歩み疲れて)
(かつては私も)
秋の日
無題(緋のいろに心はなごみ)

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2010年12月13日 (月)

「ノート1924」のダダ詩について<1>

中原中也が
旧制山口中学3年を落第し
京都の立命館中学第3学年に編入学したのは
1923年4月のことでした

このことを詩人は後年
「文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校する。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」(「詩的履歴書」)と記したのは有名な話です

中原中也の現存するノートの中で
最も古いもので
本文は大正13年(1924年)春に
書き始められました
表紙に「1924」と書かれてあることから
角川版編者が「ノート1924」と呼称したのが定着しています

立命館は旧制中学であり
第3学年を無事に修了した詩人は
4学年になってすぐの4月17日から
北区大将軍西町椿寺南裏の部屋で
「運命の女性」長谷川泰子と同棲します
17歳の誕生日を迎える少し前のことです
泰子とは前年に
大空詩人と呼ばれていた永井淑(ながい・よし)を通じて知りました

前年に「ダダイスト新吉の詩」を読んでいた影響もあり
詩人はダダイズムの詩を盛んに作っており
そのいくつかを泰子に賞賛されたのがきっかけです

立命館中学の講師をしていた冨倉徳次郎を知り
冨倉を知った機縁で
冨倉の二高時代の後輩・富永太郎を知り
今度は富永の二高の同級・正岡忠三郎を知ったのも
4、5月の間のことでした
(正岡忠三郎は、正岡子規の妹・律の養子となり、正岡家を継いだ人。司馬遼太郎の「ひとびとの跫音」には、忠三郎の父君・加藤恒忠と「坂の上の雲」のヒーロー・秋山好古が竹馬の友だった当時のことが書かれています)

「ノート1924」には
このころ作られたダダの詩が記録されているのですが
これらの詩の隣り合わせに
長谷川泰子との同棲生活があったことを
見過ごすことはできません

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2010年12月 5日 (日)

生前発表詩篇を読む続編   <40>夏日静閑

「夏日静閑」は
カジツセイカンと読むのでしょうか
夏休みに入った街の風景と
所在なさげで
「倦怠(けだい)」の中にある詩人を歌った詩です
昭和12年(1937年)8月5日の制作日が
詩末尾に記されてあり確定できます

「生前発表詩篇」の最後の詩で
発表されたのは
「文芸汎論」の昭和12年10月特大号で
同年10月1日付けの発行です

ということは
町とは
このころ住んでいた
鎌倉の町のことでしょうか

隣りの家からピアノが聞こえ
散水車が陽を浴びて通り
たまに通る自動車には
白い服の紳士が乗り
買物に入った店では
いまどき何を買いに来たのって
怪訝に思われ
暖簾が揺れ
ビラが揺れ
写真店のウィンドーには
いつも飾ってある女性の顔のアップ
……

ガランとした
鎌倉の町の夏が
見えるようです

詩人は
ここ鎌倉へ
千葉の中村古峡療養所を退院してすぐの
2月下旬に引っ越してきました
年上の僚友・関口隆克のはからいもあって
寿福寺境内に建つ一軒家を
借りることができたのです

鎌倉には
小林秀雄
大岡昇平
佐藤正彰
今日出海ら旧知をはじめ

川端康成
林房雄
島木健作
深田久弥ら「文学界」同人らが住んでいましたし

文也亡き後に
文也と暮した市ヶ谷・谷町から
早く離れたかったからです

ということで
鎌倉で暮らして
およそ半年が経過して
はじめて迎える夏に
この詩は作られました

半年暮して
詩人は
鎌倉という土地柄へ順応し
各誌紙への発表も
おこたりなく続けていたようにみえますが
次第にストレスを貯めるようになり

たとえば
7月7日付け阿部六郎宛書簡には

「ほとほと肉感に乏しい関東の空の下にはくたびれました。それに去年子供に死なれてからといふものは、もうどんな詩情も湧きません。瀬戸内海の空の下にでもゐたならば、また息を吹返すかも知れないと思ひます。」

など記すようになりました
帰郷の意志を
このころには固めていたのです
小林秀雄に
「在りし日の歌」の原稿を託すのは
9月26日のことです

「夏」には

港の市の秋の日は、
大人しい発狂。
私はその日人生に、
椅子を失くした。
(「港市の秋」昭和4年8月制作)

と遠い昔に歌ったのと似た
疎外感がよみがえり
……

またもや
居場所をなくした詩人の嘆きが
倦怠=けだいの響きにくるまれて
流れているかのようです

 *
 夏日静閑

暑い日が毎日つづいた。
隣りのお嫁入前のお嬢さんの、
ピアノは毎日聞こえてゐた。
友達はみんな避暑地に出掛け、
僕だけが町に残つてゐた。
撒水車が陽に輝いて通るほか、
日中は人通りさへ殆(ほと)んど絶えた。
たまに通る自動車の中には
用務ありげな白服の紳士が乗つてゐた。
みんな僕とは関係がない。
偶々(たまたま)買物に這入(はい)つた店でも
怪訝(けげん)な顔をされるのだつた。
こんな暑さに、おまへはまた
何条買ひに来たものだ?
店々の暖簾(のれん)やビラが、
あるとしもない風に揺れ、
写真屋のショウヰンドーには
いつもながらの女の写真(かほ)。
                 一九三七、八、五

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年12月 4日 (土)

生前発表詩篇を読む続編   <39>初夏の夜に

「初夏の夜に」は
草稿が残っており
詩の末尾に「一九三七、五、一四」とあることから
昭和12年(1937年)5月14日の制作と確定されます
これが第一次形態の作品です

これを元に
同年8月8日に推敲(推定)
「四季」の昭和12年10月号(発行・同年9月20日付け)に発表されたのが
第二次形態の本作品ということになります

第一次形態では
タイトルが「初夏の夜に、おもへらく」となっていましたが
「四季」に送付した段階で改題されました

同じ月に発表された作品に
「正午」(文学界)
「夏日静閑」(文芸汎論)があります

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――

ではじまるこの詩が
蚊の飛ぶ音に
夏の訪れを知らされたことを歌うばかりでないことは
次の行

死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かわら)から、此の世の僕等を看守(みまも)つてるんだ。

で明らかになります

蚊の音に
死んだ子どもらの思い出を誘発され
あの世の河原で
子どもらが
この世の僕らを見守ってくれていることを歌いますが……

ではこの詩は
死んだ子どもらへの追悼歌なのかというと
単にそうではなく
追悼歌にしては
あの世の中への「入り込み」が過度で
中原中也特有です

追悼というのは
死者があり
生者があり
両者の間には
深く大きな隔たりがあったうえで
生者が死者へ悲しみの言葉を贈るものですが
この詩は

行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。

なのです
生者に
あの世は遠くはなさそうに感じられているのです
そして

窓の彼方(かなた)の、
笹藪の此方(こちら)の、
月のない初夏の宵の、
空間……
其処(そこ)に、
死児等は茫然、
佇(たたず)み
僕等を見てる

のです

あの世は
そこにあり
笹薮のこちらに
死んだ子どもらは
たたずんで
僕らを見ているのです

「三歳」として出てくるのは
前年11月に
数え年3歳で亡くなった
詩人の長男・文也のことでありましょう
「十歳」は大正4年(1915年)に亡くなった
すぐ下の弟・亜郎のことでしょうか

この詩を書いたとき
長男・文也の死から
1年もたっていませんが
思い出せば
愛息を失った悲しみは
薄れようになく
子どもと一緒にいたい
子どものそばにいたいと思うあまり
「遠くはなさそうな」「そこ」へ
自ら参じたく思う心は
逸(はや)るのでした

詩人の死が
2か月後と迫っている時に
この詩は作られましたが
詩人は
自らの死を
夢にも思っていないはずでした

 *
 初夏の夜に

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――
死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かわら)から、此の世の僕等を看守(みまも)つてるんだ。
彼の世の磧は何時でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。
行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。
窓の彼方(かなた)の、笹藪の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其処(そこ)に、
死児等は茫然、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。
罪のない奴等が、咎めもせぬから、こつちは尚更、辛いこつた。
いつそほんとは、奴等に棒を与へ、なぐつて貰ひたいくらゐのもんだ。
それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。
奴等の間にも、競走心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、
あるとしたらだ、何(いず)れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、
三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。
なにさま暗い、あの世の磧の、ことであるから小さい奴等は、
大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは想ふけれど、
それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……
――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……
               (一九三七・五・一四)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年12月 2日 (木)

生前発表詩篇を読む続編   <38>夏(僕は卓子の上に)

「夏(僕は卓子の上に)」は
昭和12年8月に創刊された
タブロイド判の月刊新聞「詩報」の第2号に初出し
「文学界」の昭和12年12月号(同年12月1日付け発行)に
没後発表された作品

中原中也が死去後
遺稿を託された小林秀雄が
生前の発表を知らずに
「文学界」の「中原中也追悼号」に
「遺作集四篇」として掲載した作品の一つでもあります

「文学界」に発表されたのは
「無題」とされた本作のほかに
「桑名の駅」
「少女と雨」
「僕が知る」の4篇でした

「詩報」へ初出し
「文学界」へ再出したものの
制作日は
「文学界」再出作品のほうが
「詩報」初出作品よりも
早かったという経緯をもつ詩です

再出作品が第一次形態で
初出作品が第二次形態なのです

第二次形態「夏」の制作は
昭和12年8月下旬~9月4日と推定されていますから
10月22日の死亡日の
およそ2か月前に
歌われた詩ということになります

詩人が
自分の死を

思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、

とある朝、僕は死んでゐた。

と歌うのをなぞっていると
予言というよりも
自分の死を
詩人は
肉眼で
見ていたのではないか、と
疑いたくなるような
リアルなものが感じられます

これは

ホラホラ、これが僕の骨だ、
(1934年4月28日制作の「骨」)

と同じものですが
これを歌って
約2か月して
実際に詩人が亡くなってしまうことを知れば
「これが僕の骨だ」にあった滑稽感はなくなり
詩人の死への畏怖が
否応もなく
重々しく
伝わってきます

ひるがえって
「骨」を読み返せば
この「夏」の3年以上前に作られた「骨」から
滑稽感は消えうせ
リアル感がかぶさってくるのですから
不思議といえば不思議
……

となれば

倦怠(けだい)のうちに死を夢む
(1930年1―2月制作推定の「汚れつちまつた悲しみに……」)

の「死」も
いま
ここに
よみがえってきて
ゾクゾクしてくるものがあります

 *
 夏(僕は卓子の上に)

僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿紙のほかになんにも載せないで、
毎日々々、いつまでもジッとしてゐた。

いや、そのほかにマッチと煙草と、
吸取紙くらゐは載つかつてゐた。
いや、時とするとビールを持つて来て、
飲んでゐることもあつた。

戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いていた
風は岩にあたつて、ひんやりしたのがよく吹込んだ。
思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、

とある朝、僕は死んでゐた。
卓子(テーブル)に載つてゐたわづかの品は、
やがて女中によつて瞬く間に片附けられた。
──さつぱりとした。さつぱりとした。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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2010年12月 1日 (水)

生前発表詩篇を読む続編   <37>道化の臨終(Etude Dadaistique)

「生前発表詩篇」は
残り4篇となり
大作「道化の臨終(Etude Dadaistique)」に
たどりつきました

この作品については
かつて
「ダダのデザイン」のタイトルで
やや長々しい鑑賞を試みました

ここでは
それを引っ張り出して
一挙に再録することにしました
表記上の若干の修正を加えましたが
大意に変わるところはまったくありません

<以下再録>

ダダのデザイン<2>

道化の臨終(1)

中原中也が
「山羊の歌」の編集にかかったのは
1932年(昭和7年)4月
といわれていますから
ほとんどダダ詩が記された
「ノート1924」が
書き出された頃から7、8年
その間
詩人は
様々な経験をしました。

京都に住み
長谷川泰子と同棲
そして上京
詩人富永太郎との邂逅および死別
泰子の離反
小林秀雄と泰子をめぐる三角関係
音楽集団「スルヤ」との親交
「白痴群」創刊と廃刊
東京での孤絶した暮らし……

ダダイズムの詩「春の夕暮」は
詩人が経験したこれらの時代を経て
7、8年後に
詩集「山羊の歌」の編集をはじめた頃に
ふたたび
詩人によって
ピックアップされ

読者へ届けられるための
新たなデザインをほどこされて
「春の日の夕暮」として
再生しました。

「ノート1924」に書かれたこの作品は
この間
詩人によって
読み返されたことがあったのでしょうか
放りっぱなしにされていたのでしょうか
7、8年の間、眠っていたのでしょうか……

この疑問は
ただちに
ダダイズムは
中原中也の中で
どのような状態にあったのか
眠っていただけなのか
絶えず活動を続ける活火山のようではなかったにせよ
休火山のようなものだったのか
というような問いへと繋がっていきます

そこで
しばしば引き合いに出されるのが
1934年(昭和9年)年に作られた
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」です

タイトルを補足するかのように
「ダダイスティックな練習曲」
という意味の副題をつけられた
この作品は
中原中也のダダイズムのその後を探る
手がかりになる
重要な位置にあります。

(つづく)

道化の臨終(2)

大岡昇平が、

「道化の臨終」は、ダダ的なのであって、ダダそのものではない

と言ったからといって
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」が
ダダイズムの詩ではない
ということにはなりません

大岡昇平の考えるダダイズムと
中原中也の考えるダダイズムとは
同じモノであるとは言えないのですし
そもそも
大岡昇平は
なにを「ダダ的」と言い
なにを「ダダイズムそのもの」と言っているのか
あいまいなところがあります

中原中也は
この詩を
Etude Dadaistiqueと副題をつけたのですから
これを
ダダ風の練習曲
と訳すか
ダダの練習曲
と訳すのか
という問題ではなく、
この詩は
ダダの詩と解するのが自然です

中原中也は
この詩を
ダダの詩の練習曲と
「謙遜」して副題をつけたのだ
と積極的に解する方が自然です

「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
もはや
1924年ころのダダイズムの詩とは
かけ離れたものになっていますが
そのことは
1924年当時のダダイズムと
異なるダダイズムの詩であることを示しはするものの
1934年のダダイズムの詩であることを
否定するものではなく
それを
ダダイズムの詩であり、
その練習曲であったと
受け取れる作品と言っても
おかしくありません

とにかく
読んでみましょう

なにやら
物語を期待させる
はじまり……

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に
火を吹く龍がゐるかもしれぬと

火を吹くドラゴンが
海の沖に住んでいる
ということを、
キミ、想像してみたまえ

荒野の果てに
暮らしている姉妹のことを
思ってみたまえ

永遠の夜の海で
繰り返す波
そこで泣く
形のない生き物
そこで見開かれた形のない瞳……を
キミは、思ってみたことがあるか

心を揺する
ときめかす
嗚咽し哄笑し
肝に染みいる
このうえなく清浄な暗闇(くらやみ)、漆黒(しっこく)
暖かい紺碧のそら……を
想像してみたまえ!

これを語っているのは
道化です

(つづく)

道化の臨終(3)

序曲が終わり、
始まるのは、
第1章なのでしょうか

空の下には池があった。
池の周りには花々が咲き
風に揺らいでいた
空には香りがあふれ
遙かな向こうまでかすみがかかったようだ

今年も春がやってきて
土が鮮やかに色づいている
雲雀が空に舞いのぼり
子どもは池に落っこちた

穏やかな春の風景に
ドラマが突如生じます
子どもが池に落ちるのです

菜の花畑で眠つてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?
という
「春と赤ン坊」のモチーフと
どこか似ているのか
似ていないのか……

穏やかなものが
その頂点に達し破裂し……
ここに死のイメージが忍び込む……

子どもは、
池に仰向けになって
空を仰ぐように
池の縁を枕にして
あわあわあわてふためいて
空なんて見ていられなくなって
泣き出したよ

しかし
ここでテーマは
僕です
そして、僕とは
詩人のことでしょう
道化である僕であり
詩人である僕……
その心は、

残酷で
優しい
単に優しいというほどではなく
優婉な優しさで
涙も出さないで泣きました
空につむじを向けて
というのは、
さして意味を追わなくていいのですが
空の方には向かないで
一心に
紫色になるほど
赤黒い顔を作って
泣きました

泣きましたけれど
僕は何も言うことができない
発言できない
言おうとするのだけれど
ギリギリのところでできないのでした
来る日も来る日も
肘をついて
砂に照りつける陽光だの
風に吹かれて揺れる草だのを
じっと眺めているばかりでした

(つづく)

道化の臨終(4)

いよいよ
道化の僕が語り出します
第3章あたり
起承転結の転あたりから結へと進みます

どうぞ皆さん、という語りかけの口調は
これも
ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう
という「春日狂想」の
語り口調と同じものです

どうぞみなさん、僕という
バカやさしい、痴呆症とか
抑揚を知らない、母なし子とか
岬の浜の不死身貝とか……
その他にもいろいろ呼び名はありまして

お得意の地口(じぐち)が
しばらく続きます
あんまり意味はなさそうですが
設定が臨終ですから
人の命のはかなさについて
延々延々と

命題、反対命題の
トコトン、弁証し、止揚した場所とか
天下の「衛生無害」とか
昔ながらのバラの花とか
馬鹿げたものでございますが
どうぞ大目にみていただきたく……

このように申しますわけと言えばですが
泣くも笑うも、朝露の命でありまして
人の命ははかないものでありまして
星の中の、星の星の、その一つ
砂の中の、砂の砂の、その一つ
舌がもつれてしまいますな

浮くも沈むも
波間のヒョウタンみたいなもので
格別になにも必要としませんので
笛の中の、笛の笛の
段々、舌がもつれてきますね

至上至福の、
ご臨終の時、いまわの際を
いやはや、なんと申しましょうか
一番お世話になりながら
一番忘れていられるもの
あの、あれです、とかいっても
これじゃあ、どなたもピンとこないですよね
お分かりにならないですよね

じゃあ、忘恩を後悔する涙、とか?
ええ、まあ、それでもよいのですけれど……

では……、では……
えい、じれったいなあ
これやこれ、行くも帰るも
別れては、消える移り香(うつりが)
追い回して、くたびれて
秋の夜長に、目が覚めて
天井の板の木目に目を凝らし
ああ、と叫び声さえあげて
呆然と……昔のことを思い出し……

ああ、ここにも、
泰子さんが出てきましたねえ!

はっと、我に返りはするものの
野辺の草葉に、盗賊が
疲れて眠っていて、その腰に
インゲン豆の形をした刀が差してあって
こりゃあ、こりゃあ、何者ぞ
切るぞー、と声をあげると
戸の外に、丹下左膳がこちらを向いて

狂った心の仕業だからって
われながら何を言い出すことやら

そうかそうならば
人よ、あなたの永遠の命を
恋することが、もしないのだったら
シネマを見たからといってドッコイショノショ
ダンスをしたからといってドッコイショノショ
などと言ったら、笑われてしまって
ちっとも聞いてもらえない

そうならば僕
どうせ明日は死ぬ身
いまここに、要領を得ないままですが……
とにもかくにも、書き付けましたのは
これはほんとに、心の一部分です
どうぞ不備の点は、お許しお願いしたく
願わくは、僕、おどけおどけて
生き長らえてきた、小者(こもの)ですので
死んだら、冥福も大きいものと
神さまに、祈ってやってくださいませんか

(つづく)

道化の臨終<5>

「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
1934年(昭和9年)に作られ
1937年(昭和12年)「日本歌人」9月号に発表されました

制作された1934年は
中也27歳の年ですが
制作の年よりも
発表された1937年は
詩人が死去する年である
ということには
おやっと
思わずにいられないものがあります

世の中に向けて発表するということは
その作品が遠い過去に作られたものであっても
その作品の現在を示すものである以上
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」は
中原中也という詩人の
最晩年の作品に属するということなのですから……

ダダイズムの詩が
詩人の死去する3年前に作られ
死去するおよそ2か月前に発表された
ということは大変興味深いことです
詩人の死は
1937年10月22日です

大岡昇平は
やや驚愕気味に
この事実をもって
中原中也はダダイストであったか、どうか
という問いを自ら立て
中也評伝では最後になった「中原中也・1」を
1971年から書きはじめましたが
途中でプツンとやめてしまいました

この論考「中原中也・1」を所収している
「中原中也」(1974年初版、角川書店)のあとがきには
この間の経緯が次のように記されています

私は本巻五巻を通して解説を書き、また新しい観点を強いられる結果になりました。例えば『朝の歌』に「日本のダダイスムは中原がそこから出て来たも のとしてしか興味はない」と書きましたが、案外そこに中原の生に対する基本的態度があるのではないか、という疑問が生じました。そこで一九七一年から再出 発したのが「中原中也・1」ですが、ここで私の根気はぷっつり切れた感じになりました。

かくて、結論は出されずじまいになったのですが
「道化の臨終」について
「ダダ的ではあるが、ダダイズムそのものではない」と
書いたのはこの「中原中也・1」の中でのことでした

中也のダダイズムへの関わりについて
例によって
骨までしゃぶるような論究が展開されたのですが
「道化の臨終」については
(Etude Dadaistique)の
傍題があるにもかかわらず
最後まで
「ダダ的」とし
そのほかの「朝の歌」以降の作品についても
「ダダ的」とする以上の断言をしませんでした

(つづく)

道化の臨終<6>

中也が
「山羊の歌」の編集にかかったのは
1932年(昭和7年)4月
それから
丸3年
「白痴群」の盟友、安原喜弘の
献身的なサポートを得ながら
いくつかの出版社に原稿を持ち込みますが
OKの声は容易には聞けませんでした
しかし
1934年(昭和9年)
青山二郎の仲立ちもあり
文圃堂から
「山羊の歌」は出版されました

長男文也が誕生するのも
この頃で
ランボーの翻訳のために帰省し
辞書と首っ引きで
その詩世界と格闘
しばらく
東京の喧噪から遠ざかる生活を送るのも
この年ですし
「道化の臨終」が作られたのも
この年でした

詩人が詩人として世に立つためには
詩集を持つこと
詩集を発行することが大きな証となりますが
その第1詩集が
公刊されたこの年

1934年、昭和9年という年は
中原中也27歳
大きな区切りの年であるようでした

この節目の年に
中也の中で
ダダイズムはどのように生きていたのか
どのような形をとっていたのか……
その答が
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」にあります

「道化の臨終」は
中原中也という詩人の
ダダのデザインの実践の
1934年という時点の現在形ということになり
その核心にあるのは
道化という存在です

 *      
 道化の臨終(Etude Dadaistique)

   序 曲

君ら想はないか、夜毎何処(どこ)かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。
君ら想はないか、曠野(こうや)の果に、
夜毎姉妹の灯ともしてゐると。

君等想はないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処(そこ)に泣く無形(むぎやう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形(むぎやう)の瞳、
かの、かにかくに底の底……

心をゆすり、ときめかし、
嗚咽(おえつ)・哄笑一時(いつとき)に、肝に銘じて到るもの、
清浄こよなき漆黒のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧(こんぺき)を……

     *     *
        *

空の下(もと)には 池があつた。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかほりと はるけくて、
今年も春は 土肥やし、
雲雀(ひばり)は空に 舞ひのぼり、
小児が池に 落つこつた。

小児は池に仰向(あおむ)けに、
池の縁〈ふち〉をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びつくり)し、
空もみないで 泣きだした。

僕の心は 残酷な、
僕の心は 優婉(ゆうえん)な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。

僕には何も 云はれない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘(ひじ)ついて、
僕は砂粒に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジツと瞶(みつ)めて をりました。

どうぞ皆さん僕といふ、
はてなくやさしい 痴呆症、
抑揚の神の 母無(おやな)し子(ご)、
岬の浜の 不死身貝、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能(あた)ふかぎりの 止揚場(しやうぢやう)、
天(あめ)が下なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
ばかげたものでも ござりませうが、
大目にあづかる 為体(ていたらく)。

かく申しまする 所以(ゆえん)のものは、
泣くも笑ふも 朝露の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺(もつ)れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故、
笛のうちなる 笛の笛、
——次第に舌は 縺れてまゐる——
至上至福の 臨終(いまは)の時を、
いやいや なんといはうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れてゐられるもの……
あの あれを……といつて、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩悔ゆる涙とか?
えゝまあ それでもござりまするが……
では——
えイ、じれつたや
これやこの、ゆくもかへるも
別れては、消ゆる移り香、
追ひまはし、くたびれて、
秋の夜更に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然(ぼうぜん)と……
さて われに返りはするものの、
野辺の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳がこつち向き、
——狂つた心としたことが、
何を云ひ出すことぢややら……
さはさりながら さらばとて、
正気の構へを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドツコイシヨのシヨ、
ダンスしたとてドツコイシヨのシヨ。
なぞと云つたら 笑はれて、
ささも聴いては 貰へない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今茲(ここ)に 不得要領……
かにかくに 書付けましたる、
ほんのこれ、心の片端〈はしくれ〉、
不備の点 恕(ゆる)され給ひて、
希(ねが)はくは お道化(どけ)お道化て、
ながらへし 小者にはあれ、
冥福の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給へ。
             (一九三四・六・二)

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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